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安らぎの交差点

線路の上を歩く音が4つ、森の間に響いていた。
太陽を受けた緑の香りが風に乗って届き、マクワは息を吸い、身体全体でその清々しさを受け止めた。
かつては人々の賑わいがあったこの道も、今は自然の静けさに包まれている。
鉄道のレールは錆びつき、土に埋もれた砂利の間から雑草が顔を覗かせている。
マクワがふと後ろを見れば、セキタンザンは少し後ろを歩いていた。彼の重い足音が鉄のレールだけを鳴らしていく。
木漏れ日がセキタンザンの黒い体に柔らかく降り注ぎ、彼の黒い表皮を温かく照らしていた。セキタンザンの背中では赤い炎が静かに燃えており、ぱちぱちと火の粉が上がる。
周囲の空気が温まり、頬を撫でる風が熱を帯びて、暑さが足を重くするものの、汗ばむ感覚が心地いい。
しばらく進んでいくと、緩やかなカーブをなぞるように据えられた、大きなコンクリートが見えてきた。上には錆びた日よけや朽ちた木材のベンチ、標識が残っていて、ここが駅だったことを知らせていた。

「ほとんどそのままですね……。ここは大昔、炭鉱職員用の駅だったそうです。この先に炭鉱町があったのだとか」

マクワはスマホロトムを見、セキタンザンに語りかけながら、足元の雑草や苔を避けて進んだ。コンクリートのホームはマクワの肩くらいの高さがあり、横に立つと重ねられたブロックの間に隙間が出来ていて、野生のポケモンたちの齧った後がよく見える。
ふとホームの向こう側を見ると、マクワの目に小さな影が飛び込んできた。
注意深く進むと、そこには蹲るトロッゴンと、その傍らに寄り添うタンドンの姿があった。
タンドンはマクワの影に驚き、トロッゴンの身体に隠れた後、不安そうな目でマクワを見上げていた。
トロッゴンは苦しそうに身を縮こませていた。

「これは……トロッゴンが怪我をしているのですね」

マクワはトロッゴンに近づき、膝をついた。セキタンザンもその場に立ち止まり、静かに見守っている。
慎重に白い手を伸ばし、蹲るせきたんポケモンの腹部に触れる。セキタンザンに似ているが、手に付着する粉の量が多いことに気づいた。
彼は驚くそぶりを見せたが、静かに耐えていた。よほど傷みがひどいのだとマクワは悟り、前足のほうに触れた。
明らかに通常のトロッゴンの身体にはない深い傷があり、小さな金属片が刺さっていた。歪なその形は、ひとが作って残したものと言うより、野生ポケモンの食べ残しのように見えた。
傷口に手が当たった瞬間、釣り目が思わず顔を顰める。
マクワは小さく謝りながら、怪我の状態を再度確認し、応急処置の準備を始めた。

「……今、手当てをします。動かないでください」

マクワは鞄を降ろし、努めて優しく声をかけ、トロッゴンの怪我した部分にきずぐすりを吹きかけて、小型のメタルリムーバーを取り出すと、二股の中央を、金属片の根本に引っかける。
普段いわポケモンの手入れに使用する道具だった。

「少し痛むと思いますが……我慢できますか」
「ゴオオ」

マクワの言葉を替えるように、セキタンザンがトロッゴンに声を掛ける。すると通じたのか、トロッゴンの目を瞑った頭がこくこくと頷いた。

「ありがとう。……失礼しますね」

こん、ときみの良い音が響き、鉄くずが砂利の上に転がった。トロッゴンが大きく息を吐いたのがわかった。
マクワはその細長い丸足に包帯を巻いた。タンドンは心配そうに見守りながら、マクワの手元に視線を注いでいた。

「セキタンザン、君の炎で温めてください。治癒力を高めます」

マクワはその場を立ち上がって場所を譲った。セキタンザンはその背中から優しい炎を放ち、トロッゴンを温めた。

「トロッゴン、もう少しでよくなりますから。タンドンも安心を……と思いましたが、きみたちはひとに慣れていますね……?」

青年が微笑むと、隠れていたタンドンはその白い手に顔を擦り寄せ、安心したように小さく鳴いた。
苦しげだったトロッゴンの顔がようやく落ち着きを取り戻し、立ち上がる。
前足を片方ずつくるくると回して、動きを試していた。タンドンが素早く回転する足先を、きらきらした目で見つめていた。

「あまり無理をしてはいけませんよ。ゆっくり……帰ってくださいね」

トロッゴンとタンドンは、マクワに頭を下げて、古い線路を横切っていった。ささやかな安らぎの交差点だった。
風が木々を揺らし、葉っぱのささやきが静かに響いた。

「よかった……ですね」

マクワは振り返り、セキタンザンに目を向けた。彼も昔はトロッゴンであり、タンドンであったものだ。懐かしい遭遇に、セキタンザンは嬉しそうに笑っていた。

「セキタンザン、もう少し行きましょう。……彼らのようないわポケモンたちが、共に生活したであろう人たちの暮らした場所……早くこの目で見たくなりました」

セキタンザンは力強く頷き、その炎が一層輝きを増した。
柔らかな日差しが、二人の道筋を照らし続けていた。

スーパーマン

息なんてできなくて当然だった。

今日のテストは満点を取った。大会で優勝をした。ポケモンを進化させることが出来た。
夢を見なかった。貰った本を10周読んだ。街の外周を10周ほど目標タイムで走った。
ひとりで野生のポケモンを捕まえた。予習復習を10周繰り返した。問題集もドリルも10周繰り返した。委員会を務めて賞をもらった。先生に褒められた。レポートを真っ黒に埋め尽くした。
つくって、つくった。零度以下になれるため冷凍庫で寝泊まりした。外から開けることは出来ない扉を自分で閉じた。世界を白く塗りつぶした。
そうして生まれて出てきたときから、歩み続けるぼくがぼくで、ぼくだった。
当然だった。少しでも眠っていたい。冷え切った心房の合間をぬって、切り拓いて真っ赤な雫が夕日のように滲んだ。ちょっとだけ深く手を刺しこんだら、温かさの受け皿になれるような気がした。
氷の茨がするすると伸びていくのを、歯を食いしばって見つめている。ぽたぽたとこぼれる水。
繭になってぼくを守るもの。
きっと明日には■■■■になれる夢を見てまた目を瞑る。温かい風が頬を撫でていく。

「アンタらしく」

ぼくを見つめるのは澄み切った湖のような大きな瞳。そこに映る小さな白いぼく。ぼくはぼくらしくあればいい。それでいい。
そうして進む道は、踏み固められた足跡のうえ。大きさの違う靴のうら、足の形。
たまには白い雪を踏んで、その感触を確かめてみたい。均等に並ぶ足跡を、ばらばらに変えて、どうやって歩いたかわからなくしてみたい。ちょっと面白いリズムを刻んでみたい。好奇心。まばゆさ。
伸ばした足は優しく掴まれてもとの場所に戻された。転ぶといけないからと、誰かが歩いた道の上をゆくのだと。ぼくは、ぼくは。
ぼくはその腕を払いのけようとするが、どうしても離れていかない。離すことが出来ない。
結局大きな足跡の上に、乗るように、飛び越えるように進んでいく。きれいごと。
笑顔。かがやき。なぜだろう。息が苦しい。呼吸が止まりそうだった。
ああ、息の仕方さえわからなくなってきた。同じスピード、同じ回数で、感覚で、同じ寮で、酸素を吸いこんで、息をしなければ、きっとぼくは『転んでしまう』から。
ひとりのぼくは転んでしまう。転んでしまったら、ぼくは。ぼくは? 許されない?
この丸い指はいつかあのつららのようにすらりと白く伸びていくのだろうか。誰も彼もぼくが■■■■になることだけを見ている。嘘と本当の境界線。白。
ぼくはただこの期待を背負っていた。この山を登っていくさきには、きっとうつくしいこおりのすがたがまっている。

でも、もしそれがこなかったら。ぼくがぼくのままだったら。
ぼくは『何者』でもなくなる。『何者』にもなれないままだ。

ふつふつと湧き上がるもの。いらないもの。ゆめのないもの。
それでも。それでも良いのだと、母がぼくを見る。ぼくは映る。蒼く澄み切った美しい眼差しのなかに囚われて、ぼくは自分が溶けていく姿を見た。

「マクワのままでいいんだよ」

誰だって喜ぶ温かい言葉だ。素晴らしい言葉だ。知っている。知っているぼくは感謝と再度肯定を述べるのだ。ああ固まるような重たさだけが確かにある。化石になった母の足音。
わく。■■のオリ。結局ぼくはただ、安堵。
誰かに指示されたわけでもなく、ぼく自身で白い部屋に入ることに決めた。
テストを100点取って当然にしたのも、先生の役に立とうとしたのも、結局ぼく自身がしたかっただけ。でもね、それなのに。
ぼくはね。ただ。ただ。
激しいほのおが燻りさんざめく冬のおわり、さらう波の音。
ときにちょっぴり褒めてほしいだけで。

おわかれ

それは最初、ほんの些細な違和感だった。例えばいつもよりうまく食べられなくて妙に時間がかかるとか、技を出そうとするときの頭の中が、なんとなくぼんやりと霞掛かったようになるとか、トレーニング用の器具がやたらと重く感じたりとか。
そんな小さな変化がつみ重なって、険しい顔をしたマクワにポケモンセンターへと連れていかれ、しばらくそこで過ごした。精密検査、というものが必要で、背中の石炭だけではなく、敢えて身体の一部分を僅かにやすりで削られて、その粉が透明な瓶に入り、どこかへ運ばれていくのを、俺はぼんやりと見つめていた。
その日は一日中マクワと離れて、ひとり病院の中で過ごすことになった。きっと少し前ならば、昼夜を越えて離れ離れになるなんて、考えられなかっただろう。
マクワはそうならぬよう絶対の配慮を払い続けていたし、毎日の訓練や試合は必ずバディでこなさなければならなかった。
1か月ほど前マクワが引退発表を行い、華々しい引退試合を終えたのは、まだほんの数日前の事だった。誰もがみんなマクワの最後の公式試合を目に焼き付けようと、スタジアムの席は応援で、カメラでいっぱいになった。試合に慣れていても、たくさんの心が集まったこんなスタジアムは、おそらくマクワが独立するとメロンさんと勝負をした時以来だろう。
想いの強いファンたちの気持ちが溢れかえってしまい、厄介なことも起きたらしいが、俺には全く知らされず仕舞いであった。
昔、マクワがぼそりとファンは激しいときがあると零しているのを聞いていたから、おそらく変わらないファンたちがいるのだろう。
その良し悪しはともかく、マクワのことを心の底から応援し続けて、大切にしてくれていることくらいは、俺にもなんとなくだが理解することは出来た。
これからこの先も、その気持ちだけは変わらないままであればいいと思う。硬い意志はマクワがよく口にする好きな言葉だから俺もよく覚えていた。
そんな特別な舞台だからだろうか、なんとなく上手く身体が動かないような時もあって、俺自身焦り掛けてしまった。だがこれほど豪奢な舞台で、誰より俺が、引退するマクワのバディである俺が、無様な姿は見せられない。いわの輝きを、見るものすべてに焼き付ける。
その気持ちは見事に磨き上げられて、見事主役の座に相応しい結果を残すことが出来た。
しかし俺の動きの悪さは厳格なマクワの眼にとまり、俺は検査入院することになったのだった。
結果は思わしくないもので、どうやら俺の身体は前から病理に蝕まれていたらしい。それが引退して力が抜けてしまったのか、急速に進行しはじめた。もうそれほど長い命ではないという。
まさか、という気持ちと、少しだけ嬉しいような気持ちがないまぜになった。
俺の、俺たちの頑丈な体はそれほど簡単に崩れてしまうものじゃないはずだった。しかし、まさか、長寿であるはずの俺が、もしかするとマクワより先に終わりが来るかもしれない。
マクワの元で命を終われることと、同時に俺がいない世界を生きることになるマクワという存在に、ほんの少しばかり楽しみを感じたのも事実だった。本来どこまでも行ける男が、俺とばかりいるなんてつまらないだろうから。ここまでずっとバディをしてきたというゆるぎない自負もあった。それはこれからどこへどういっても変わらない事実として、たくさんのひとの眼に、心に、硬いものを残している。十分すぎる程幸福だった。
それからも、マクワは変わることなく、だが確実に、急速に変わっていく俺に合わせて、一生懸命付き合ってくれた。
前がほとんど見えなくなっても、うまく食事がとれなくなっても、いつだって誘導してくれたし、俺の身体に合わせて硬さを調整して、栄養を摂れるようにしてくれた。そう、されていることは何一つ変わっていないのだ。
さらに、手足が動かなくなってきて、うまく空気が吸えなくて、部屋中が黒い煙と煤でいっぱいになった。もうどれぐらい経ったのだろうか、時間の間隔はとうに失ってしまいわからない。それでもきっと短くはない間、俺はずっとここに座り込んでいる。
マクワは酸素が入るようにと、一生懸命崩れた山を鉄の棒で支えてくれる。
ほのおが維持できるように、石炭よりもさらに燃えやすいものをくれている。

「だいじょうぶ……ですよ。だいじょうぶ……」
「ゴ、ゴゴ、ォ」
「……なぜ、きみまで……」

本当に僅かな衝撃とさらさらとしたもの。背中に何かを軽くぶつけたことはわかった。

「……せめて、せめて見せてやりたかった……。もっともっと立派になったきみのすがた……」
「ゴオ……」
「フフ、どこからって? ……どこからでも見てますよ、あのひとは。ファンクラブ会員No1ですよ?」

そうだ。マクワが引退を決めたのは。もう二度と変わらない関係は。
マクワの前にずっと聳え続けたひとりの壁は。時代は。

「くやしい……本当に、くやしいなあ……。セキタンザン、ぼく……どうして……」

マクワはゆるゆると頭を振る。色素の薄い髪が光に揺れて綺麗だった。

「……いえ……。だいじょうぶです。きみにばかり頼っているようでは……トレーナー失格、ですね……」

何を言ってるのだろう。よくわからないけれど、何か言ってほしくないことを言っている気がする。それにしても本当にマクワはきれいだ。俺とは違うやわらかい色をつくる光。でもそれを何倍にも何十倍にも輝かせることができて、ああ、やっぱりずっと見ていたい光。

「セキタンザン……? セキタンザン……!」

ほのかに触れる柔い感覚がとても遠い。揺れている。揺れているのはわかる。ああまだずっと一緒にいたい。遠ざかっていく。いかないで。おいていかないで。
はなれたくない。大好きなひかり。はなれたくないな。
いつもだきしめてもちあげてもらって。ふわふわして、ひんやりして、さりげなく、ぜんぶ。あのひかり。あのひかりのところへ。

「……ぁあ……ッ、せきたんざ、セキタンザン……! ぼくはここ、ここだよ、セキタンザン……! きみにまだ謝りたいことがたくさん——」

ひかりがぼんやりとする。しゅう、というおと。しろいもや。ふわふわのぼっていく。ほんのりとしたつめたさ。
からだがぽかぽかしてあたたかいような、ああ、ここはなんてやさしい。

みちを進んで

目の前が砕け散った。
今でもあの時吹きあがった石炭の香りや降り注ぐ黒い粉の色は、もくもくと昇り続ける煙は、全部身体に焼き付いて僅か数ミリたりとも離せやしない。悪いのはあの時、回避の選択を出来なかったぼく自身だった。
それは不運な事故だ。山道での登山訓練は、基礎的な体力づくりに加え、長期的な計画性や事故判断力を鍛えられることと、いわポケモンであるセキタンザンが喜びやすいことで、時間を見つけては定期的に行っていた。いつも通り緑に包まれた斜面をゆっくりと昇る道、セキタンザンは大きな足と重たい身体を木々の作る細い獣道の中でもうまく進んでいかなくてはならない。
そうして落ちて土を覆う葉をじっと見つめていた時だった。突然激しい地鳴りがして、ぶんぶん、と枝葉が揺れた。木の枝や、木の実、木の葉がばらばらと顔にぶつかり、松脂と土の匂いが一気に強くなる。
ぼくは慌ててセキタンザンの元に戻ろうとしたが、その場に聳える高い木にしがみつくので精いっぱいだった。まだ少し後ろにいたセキタンザンの上に、巨石がどどど、と降り注いだ。
ああ、この時とっさにでも、モンスターボールのほうへと手が回っていれば、きっとこのようなことにはならなかっただろう。ぼくは何度も繰り返し想像していた。
黒い身体は大きな白い巨石に撃ち抜かれ、茶色の土砂が覆いかぶさっていた。土の匂いに、嗅ぎなれた石炭の香りが混ざり、黒い粉が舞う。煙は上がり、暗雲が霧となって森の中に立ち込めた。
慌てて駆けよれば、既に意識はなく、倒れ伏した巨躯がそこにあった。頭と背中の山は、彼の身体と同じぐらいの大きさの白石に潰されているように見えた。
ようやくモンスターボールを思い出し、ぼくは慌てて彼を戻した。支えを失った岩ががしゃんと落ちて、ぼくのほうへと傾いたが、跳躍で木と木の間に逃げ込むことで事なきを得た。
すぐにスマホロトムと連携してふもとのポケモンセンターへと連れて行った。そして緊急的に治療を施し、なんとか一命をとりとめたものの、彼の顔の上部左半分は見事に形を失って、大きな凹みとなってしまった。
それでも、彼の命が繋がったと聞いたとき、吐いたため息の大きさは、おそらくぼくが無事いわジムに入れたときよりも大きく、人生の中で一番と言っても過言ではないだろう。
本当に、本当に安心した。大型ポケモン用の特別な病室で、座り込むようにして眠っていたセキタンザンの、無事に開いた右の眼はぼくの顔を映してくれていた。
だがしかしもうひとつ、ぼくはそうした彼に向き合うことが怖くて仕方がなかった。こんな目に遭わせたのは、他でもないぼく自身だ。ぼく自身の責任だ。
もし彼がぼくを見限ることがあったら――それはぼくのいわジムリーダーとしての威信や沽券に関わるあまりにも重要事項だ。
ようやく手にしたいわ専任タイプとしての自分の席が、作り続けた、そして今後も背負っていきたいキャリアが、彼の不在で揺らいでしまったら。
ぼくが彼に賭けているものは、何よりも大きいものだった。
その次に、ぼくを映した黒曜石の瞳が弧を描き、微笑んでくれた瞬間さえ、まるで天にも昇るような気持ちだった。
まだ彼は、彼の気持ちはぼくから離れていない。ぼくが賭けていたものが証明された瞬間。だがそれも当然のこととしてのみこんで、ぼくはただ静謐に謝った。

「すみませんでした。……ぼくがいたというのに、きみをこんな目にあわせるなんて」
「シュ ポー」

これほどひどい目にあったというのに、彼の眼の色は何一つ変わっていなかった。優しい、けれども猛々しさを秘めた温かくて強い、愛嬌のある眼差し。
戦うことをあきらめていない姿に、あまりにも変わることのないそのほのおに、ぼくの心にその温度が灯されるような、押されるような心地になる。なってしまう。
誰より彼の事を思うのであれば、ぼくが抱いた恐怖心こそを選ぶべきだった。

「……万全ではないきみを前線で戦わせるなんて……トレーナーとしては絶対にあってはならないことです」
「ボオ」
「……でも」

言うつもりのなかった言葉が、感情が、まろびでる。理論で抑えつけたはずの、幼いぼくの心がどうしても言わなければならないと叫んでいる。

「……でも、でも正直……ぼくは……きみだからここまで来れたのです。きみがぼくと一緒にいてくれるから……ぼくはこのガラルでいわタイプ専任のジムリーダーとしてやれている……。……だからこそ、きみに……誰よりも……誰でもないきみにこそ、チャンピオンの座をあげたいと……思って、います」

背筋や指先が冷えて、小さく震える。俯いた視線は、灰色の床の傷を見つめている。

「シュ ポォー」
「……この先は……行ってはいけないと……。ぼくが……ううん、『ぼくの中の母が』冷たく告げています。……でもぼくは……母と同じスタイルは選びたくない……。でも……でもきみを……無理を押してセキタンザンを戦わせるのも……ダメ……です」
「ボオ」
「……それでもきみは……きみは変わらずぼくの背中を押し続けてくれるのですね……」

彼の寄り添いは本当に温かい。いつだってぼくの懐の中に優しく温度を灯してくれる。セキタンザンは、出会ったときから今までずっと、ぼくの『勇気』そのもので在り続けた。
歪になってしまったその顔で、茶目っ気たっぷりに、得意げな笑みを浮かべる。

「シュボオ」
「……ぼくに付き合えるのはきみぐらいだと言いましたか? ……フ、誰に似て……」
「ボオ」
「……そう、ですね……。……ぼくたちは……ずっと誰も通らないような険しい道を……岩壁のような道を行くと……決めていたのはぼく自身です」

当然それとこれが違うということは理解しているつもりだった。だがぼくもセキタンザンも、駆動した蒸気機関の音は、鳴りやんではいなかった。
単純な能力的な問題としても、ぼくたちが掲げるいわタイプのイメージチェンジのことにしても、彼がケガを負った、視界を半分失ったというのは大きなハンデとなる。これまで以上に厳しい道のりになるに違いない。
ジムトレーナーとして師匠の母は同じリーグで競い合う相手だ。ぼくを見てどういうか、どう行動に出るかぼくなら予想が出来てしまう。
さらに見目に対しても、今まで以上に厳しい言葉を浴びせかけられる覚悟は必要だ。
それでも。それでもぼくは、ぼくたちはこのみちを進んでいく。
まだここは終着点なんかじゃない。ぼくたちは未来に向けて、進んでいく。

檻と檻の果て

ぱちん、と弾けて飛沫が上がった。石炭の指の間に挟まれた木の実は形をなくし、今は厚みの残る皮と、中に詰まっていた果汁が手の間から流れて落ちていった。
隣で器用に中身を食べていたマクワは、口に入れたものを飲み込んでから言う。

「力を入れ過ぎです」
「シュポー……」
「こちらに」

テーブルの上のかごの中から同じ種類の木の実を軽く指で触れて硬さを確認し、良さそうなものを見つけ、しゅんと肩を落とすセキタンザンに新しいものを差し出し、ポケットからハンカチを取り出すと濡れた方の黒い手のしずくを拭き取る。
ついでに自分の頬に飛び散った苦い香りのする液も拭い去った。
今日の仕事やイベントも終えて、マクワはふかふかのカーペットの敷き詰められたテーブルの上に木の実やお菓子、カレーシチューなどの食べ物、そして自分用の酒の瓶を広げて、立派な一人用のソファに座るマクワと、その隣に座るセキタンザン。
マクワから渡された木の実を受け取り、セキタンザンはそうっと気を付けながら木の実の様子を見た。
それから大きな口の中にぽいと放り込む。じゅう、と焦げるような音と、小さな湯気が上がったのちに、すり潰すような音が聞こえた。熟した苦みの強い香りが部屋中に広がるのを感じながら、マクワはグラスを煽った。

「ポォ!」
「気に入りました? この甘い酒に……ちょうどよいのです」
「シュポォー」
「きみの手はぼくよりずっと硬いですから……気を付けないと……」

マクワは隣に座るセキタンザンの肩を、こぶしでとんとんと叩く。
トレーナーは満たした腹から込み上げる暖かな息をふうと吐き、ソファの下に閉まっておいた短い棒を取り出した。先が平で厚みのある短剣のようなそれは、方解石で出来ており、マクワが特別に作ったものだった。
重たくなり始めた瞼に力を入れて開き、セキタンザンの肩や胸を見つめる。それから表皮が荒い部分を見つけると、平たい棒でばちんばちんと思い切り叩いた。ふわりと粉が舞って、グラスの中の氷を薄い黒で染めた。
そして大きなあくびをひとつ浮かべると、再び棒は同じ場所にしまい込む。
セキタンザンはふるふると体を震わせ、さらに黒い粉と細かい火の粉を振りまいた。
またひとつあくびをしたマクワの目尻に涙がたまり、肉付きの良い丸い指が拭った。

「……眠……。疲れた、かな……」

そのままソファに沈みこむようにマクワは寝息を立て始めた。セキタンザンはもうひとつきのみを手に取り口にした。苦みが口の中いっぱいになって、背中から煙が流れ出ていった。
黒い石炭の右手をじっと見つめる。それから背凭れの片方から頭をはみ出し意識を手放したマクワの頭に手を伸ばした。そして顔の前に伸ばすと、手を広げてみる。
簡単に頭を包み込めるこの手だ。硬いはずのきのみさえ簡単につぶせるこの手だった。
そうっと、そうっと指を伸ばして赤みの差した白く柔らかい頬に触れてみる。ほんの四角い指先が触れるだけで黒い筋が残った。
その気になればきっと、彼をこのまま眠らせ続け、自分の力で生きることだってできるだろう。
この手は、この両足は、ほんの少しだけズレてしまえば彼との関係を終わらせてしまうことが出来る。
このいわも、このほのおもすべてすべて、なにもかもをマクワから奪える。

「……せき……たんざ……。……きみはえらいなあ……えらい……硬くて……つよくて……かっこ……よくて……クレ……バー……で……ぼく……」

うっすら黒線のついた頬が緩やかな曲線を描いて揺れた。
トレーナーは知っていた。人の手で殴る程度では、硬質な皮膚と感覚を持つセキタンザンにとって、風に靡くティッシュが肌を撫でるようなものだ。くすぐったいだけで、彼の感覚を満足させることは出来ない。あの道具でたたかれるとき、いつもセキタンザンは目を細め、じっと動かぬようにする。しかし自然とマクワのほうに傾く場所がある。
胸の間の溝だったり、肩の後ろだったり、『いつもの場所』を叩くと棒と体の距離が縮まった。ぴったりとパズルがはまるようにつながる箇所を重点的に、よい力加減で刺激していた。
それは言葉よりも雄弁な、マクワの洞察と知識の賜物であり、気持ちだった。
今、マクワはずいぶんと無防備な恰好で眠っている。
気づいていても、気づいていなくても、バディは自分を、セキタンザンを『奪う』ものではないと、心の底から確信が出来ている。信頼していてくれている。
奥底からほのおがぐっと燃えてくる。
きっと今、時間は多少ずれていても同じ気持ちがここにある。

「いっしょ……」

同じもので返したいし、できれば共有してしまいたかった。
この種の檻と檻の果てに、明日の祈りを届けたい。
セキタンザンは一人掛けのソファで眠るいのちにゆっくりと手を伸ばし、岩の檻の中で優しく抱きしめるのだった。

雪合戦

ひゅん、と風を切って細長い氷が星の瞬く夜空を飛んだ。
セキタンザンは、自分に向かって飛翔してきたそれを見て、重心をずらして上手に避けると、また次の氷が飛んできて、今度は身体を傾けて回避する。雪かきして顔を出したはずの道上に再びうっすらと雪が積もっていて、足場は悪かった。
ぱふ、と音がして、氷はどちらも後ろに積もる雪の中に埋もれてしまったようだ。目線を後ろにやっても暗くてよく見えなかった。
ここはキルクスの街の外れに近い公園だった。1日の仕事を終えたマクワは、スタジアムの鍵を閉め、雪の積もった冷たく寒い道を歩く。常に発熱が出来る温かなセキタンザンを連れ立つことにしていた。辺りは、随分と慣れ親しんでしまった、水っぽくて湿った埃の香りでいっぱいだった。
その途中、少し歩いた矢先のことだった。

「流石氷は避けなれてますね。……今日はずっと書類仕事で身体が鈍っています。ぼくと雪合戦しましょう」
「シュ ポォー!」

セキタンザンが頷くのを聞いたマクワはすぐ道横の雪山の表面から雪を集め、ぎゅっと片手で握りしめると小さな雪玉を作る。それを数回繰り返し、ひとつ投げるとすぐにふたつ、みっつと上から高さを変えてセキタンザンに投げつけた。
強い力に乗った白い球は、セキタンザンの頭上や顔、腕に向かって降りることなく真っすぐ飛んで行く。
だが握りこぶしにも満たないサイズの玉は、セキタンザンに届く前に、その熱を浴びせられ、じゅうと音を立てながら湯気となり、姿を消してしまった。

「あっ……! ……そうですね。きみは……そうでないと……おっと!」

大きく、しかもいわの腕で圧縮された雪玉がマクワの腰を目掛けて飛んできた。マクワはいつものように足の筋肉を動かし、跳躍してアクロバットを試みかけたが、溶けかけた雪の水っぽい足場は着地が難しい。さらにもうすぐに凍ってしまうだろうから、そうなれば危険は増すだろう。
身体の向きを変えて完全に横向きにすると、雪玉は大きな腹の前を通り過ぎて行った。
マクワが何も言わずに赤く染まった頬を持ち上げ歯を見せて笑うと、口端から白い息が立ち上っていった。

「ボオ!」
「やりますね。ではこれならっ!」

植木からごっそりと雪をかき集め、思い切り力を込めて雪玉を作る。そして今度は背中の炎からずっと遠く、そしてセキタンザンにとっては避け辛いであろう足元に狙いを定めた。
変則的に動く白球が、弧を描き、予想のつかない動きを見せた。

「ゴオッ」
「あっ」

セキタンザンはなんと自分の足の前で一瞬炎を吐き出すと、身体に触れる前に雪を溶かしてしまう。そして先ほどよりも巨大な雪玉を両手に抱え、まるで砲台のように大きく、高く空に向かって投げられた。高く大きく伸びた軌道は天辺に到着すると、一気に角度を変えてマクワの上に降り注ぐ。わかりやすいとはいえポケモンの力で飛ばされた雪玉だ。
それはあっという間にマクワの頭上までやってくる。
しかしマクワは動くことなく投げる動作をした。小さな何かが空を飛び、ふたつの雪玉に当たったかと思うと、雪玉がぱっくりと真ん中で割れおちた。

「……こおりにはいわですよ。まあこれは雪ですが」
「シュボッ!」
「きみが自由なのですから、ぼくにも道具くらいは使わせて頂かないと!」

マクワのふもとに落ちてきたのは、ふたつの細長い小石だった。植木に落ちていたものを拝借したのだが、おそらくもともとは道の舗装材料だったものが、長く使われることで劣化し破片となったものだ。

「シュポォー!」

さらにセキタンザンは雪玉を投げる。時々不器用なのか、力を入れ過ぎて壊してしまうこともあるが、それでも驚異的なスピードと力で作り、投げ続ける。
先ほどよりはサイズを小さくし、さらに直球でマクワのマフラーを巻いた首元を狙った。

「読みやすいですよ!」

マクワはすぐさましゃがみ込んで頭上を過ぎる雪玉を避け、今の今まで作り続けていた間合いを一気に詰めた。それから近い小型の雪山の上っ面だけをさっと手袋をはめた掌にのせ、セキタンザンの顔に吹っ掛ける。
セキタンザンは突然の目隠しに片目を瞑るが、しかしほとんどが目に届く前に水となって消えてゆく。

「こっちです!」

人の手は不意を突くように、隠していた反対の手の雪の塊をセキタンザンの胸に向け、直接振り下ろす。
だがしかしセキタンザンも同様に新しく作った雪玉をマクワのコートの胸当たりにぶつけた。

「シュボオー!」
「……っ!」

ばさり、雪が崩れる音がして、衝撃を受けた胸からぱらぱら雪が零れ落ちていく。
ふたりの荒くなった息だけが白い公園に響いていた。夜空はたくさんの星が溢れて、まるで勝負を見守る観客のように見下ろしていた。
コートの繊維の上に、セキタンザンの黒い石炭の凹凸の上に、お互い少しだけ雪を残しながら、大部分は身体にぶつかり粉々になって消えていった。

「フフ、確かにこんなに良い勝負になるとは思いませんでした。……しかし息抜きというよりは……トレーニングの延長だったような」

マクワは笑うと、まず両手の雪を払い落とし、さらに今自分が乗せてしまったセキタンザンの身体の雪を払いのけた。それからぽんぽんと自分のコートの雪を払う。

「ボオ」
「ぼくらしい……? ……そうかもしれませんね。ではせめて……部屋に帰ってのんびりするとしましょうか」
「シュポォー」

運動したことでふたりとも少しだけ息が速まって、白い息が口からたくさん漏れていった。
普段白いマクワの頬は一段と赤らんでいた。

「フフ、よく運動したから……はぁ……きみが熱いくらいです。でもすぐに冷えてしまいますから……家までよろしくお願いしますね」
「シュ ポォー!」

セキタンザンの背中の紅い炎が揺らめいた。違う生き物がちょうどよく一緒にいられる温度を探るために。
白い雪は紅い輝きと寄り添う影を受けて、静謐に祝福し続けるのだった。

あこがれ

大皿に山を作るスコッチエッグ、バスケットいっぱいのイングリッシュマフィン、ひとの頭ほどのサイズはあるサラダボウルとシチュー、ボトルに入ったミルク。
テーブルの上に並べられた昼食は湯気に乗せて、香ばしい香りを漂わせている。今日のいわジムの食堂は、入ったばかりの訓練生たちでにぎわっていた。
白いボブカットの少年、マクワもそのひとりとして、窓際の席に座り、まだ進化したばかりのトロッゴンとともに、テーブルにたくさんの食事を並べて昼休憩の時間を過ごしていた。

「たくさん食べてくださいね。今まで以上にエネルギーを使うのはきみの身体なのですから」

マクワは取り分け皿にきっちりと詰めて、バディの顔の高さの台の上に置いた。ちょうど半分ほどだが、マクワの取り分とほとんど変わらない量だ。
トロッゴンはテーブルの上を見上げ、さらに自分の目の前の台の上と見比べて違いのないものに、にっこりと笑ってスコッチエッグを口にした。

「ドゴゴオ」

トロッゴンの記憶では、自分の食事のほうがいつも多かったはずだった。タンドンから進化して、身体が大きくなった分、より量を増やしたと言っていたが、マクワも何か進化したのだろうか。

「……ぼくは進化”する”のです」

まるでバディの疑問に答えるように、だが表情を変えることなくマクワは言った。

「見ましたか? 今日のリーダーの模擬試合。キョダイマックスセキタンザン、本当に大きくて……強かったですよね。きみは必ずああなります。いえ……超えられるようにしてみせます。……でも、ぼくだって」
「ドドド」
「……さいわい、ぼくはもともと小食ではありません。……たくさん食べろと育てられてきましたから。食事量の増加は造作もありません。しっかり食べて、しっかり運動して……きみに負けないぐらいのデカさになってみせます」
「ゴオ」
「フフ、競争……ですね」

少年の手の中のフォークが小気味良い音を立てるのを、石炭の車は柔らかいたまごを咀嚼しながら聞いていた。

大皿いっぱいのカレーライス、まるで桶のような巨大なサラダボウル。
折り畳みのテーブルの上にずらりと並べられているのは、キャンプ用の昼食だった。
この日のワイルドエリアは汗ばむほどの日差しが降り注ぎ、絶好のトレーニング日和だった。
ハーフトーンの髪を立ち上げ、豪奢な首飾りと指輪、ジャケットをいわジムユニフォームの上に着た、立派な胴回りを持つ大柄な青年が、セキタンザンとともに食事を摂る。
あれからそれほど長い時間がかからぬまま、ふたりは揃って『進化』を遂げ、マクワはジムリーダーの座に就任し、トロッゴンはセキタンザンに進化した。
当時よりもさらに増やした量をぺろりと平らげて、マクワはすぐさま立ち上がり、走り込みのために背を向けた。

「時間が来たら呼びますから。それまで休んでいてください」
「シュポー……?」
「ぼくはだいじょうぶ。完璧なパフォーマンスのために……筋肉量をもう少し増やしておきたいだけですので。それに脂肪率もあげないと、きみに負けてしまいます」
「ぼお」

セキタンザンはぱちぱちと瞬きをした。そういえば、身体づくりの勝負をふたりでしていたことを思い出した。

「きみに相応しいひとでありたいのです。……せっかくのいわトレーナーですから」

そういってバディは再び背を向けて、走りだそうとした。だが、右足で地面を蹴った瞬間、ひととしては一段巨躯が傾く。慌ててセキタンザンは彼の元へと走り寄った。

「いっ……!」
「ボオ!!」
「……だ、だいじょうぶ……。少し痛む、だけですから……。……まさか疲労骨折……かな……」

マクワはその場に座り込み、右の足首を抑えていた。特に外傷は見当たらない。
すぐさま立ち上がり、再び駆け出そうとするその腕を、セキタンザンは掴んで引っ張った。

「シュポオー!」
「ちょ、ちょっと。ぼくはまだトレーニングの最中で……」

バディは有無を言わせず大きくなった人の身体を悠々と持ち上げる。

「うわっ……セ、セキタンザン……きみ……」
「シュポー」

それから仰向けのマクワの顔に石炭の頬をすり寄せた。

「……きみがこれほどまでに軽々しくぼくを持ち上げられるなんて……い、いえセキタンザンですから……当然ですけれど。……しかしタンドンのころでは考えられませんでした。……少しくやしいような……体重だって3倍しか違わないのに……」

セキタンザンは昔から知っている。彼は憧れのために、ただひたむきに走り続けてきた。自分と一緒にいるために、理想を叶えるために、邁進し続けるこの柔くて白いひとの足だ。
我慢強い彼が、無理を押し込めては自分の前で涙していた姿さえ、誰より近い場所で見続けてきた。

「い、いや、だ、ダメです。降ろしてください。ぼくはまだやることがあります。勝手にトレーナーを持ち上げるバディなんて……セキタンザン!」

彼が自分の不足を補い、戦い方や体のつくり方を教授してくれるように、ポケモンである自分は、彼よりも強い足になれる。
訓練続きで自分を労われないというのならば、バディであるセキタンザンが、マクワの心身に休息を与える番だった。

「シュポォー!」
「ああ、もう……ぼくの話を……。……本当に……きみには敵わないな……」

バディはくるりと方向を変えて、翼のように広がる城壁を前にした。
モンスターボールを下げたマクワの両手は、まだ石炭の胸の中にあった。
ナックルシティの階段は、もうすぐそこだった。

くだもの

高らかな笛の音が、緑覆う丘の上に響きわたった。セキタンザンは持ち上げた石を砕いて、荒い息を整えながら振り返る。身体が揺れて、火の粉とともに煤が舞う。日は沈みつつあり、最初の星が瞬き始めた。
「お疲れ様でした、これで……長かった訓練メニューは終了です」
「ゴオー」
「……セキタンザン?」
「シュポォー!」
「……さすがのきみも疲れましたか。夜はゆっくり休みましょう」
「ボオ!」
次のシーズンに向けての集中的なトレーニングはようやく終わりを迎えた。休息はもちろんとっていたとはいえ、1週間まるまるキャンプをしながらひたすら体力作りから技の精度向上まで、動き詰めだった。
マクワは、特に技の精度に関しては非常に厳しい。たった数ミリのほんのわずかなブレを見逃さず、的確に指示し、時には叱り飛ばす。ほめられることは滅多にない。
その中心にいたのがセキタンザンだ。疲弊していてもなんらおかしくはない。互いに理解していることだった。
マクワは早速夕飯のカレー用に、鞄の中からきのみを取り出し、並べている
人間の柔らかな手が一つずつ皮を剥き、火の通りやすいサイズに切り分ける。
目の前にころんと転がる一つの大きな赤いきのみから、柔らかな芳香を感じる。色艶はよく、わずかばかりの光の中でも輝いて見える。ぐんと体が引き寄せられる。
まるで惹かれるように手が伸びていって、そのままひとつざくりと頬張った。まな板を見ていたマクワがセキタンザンに頭を向けた。バディははっと気が付く。
これは今から調理用に使うきのみだ。今ここで自分が食べていいものではない。
俯いたサングラスが光を受ける。
「セキタンザン……」
「……しゅぼ!!」
セキタンザンは慌ててきのみを取り落とし、大きな身体を縮こませる。
カラーグラス越しの丸い瞳はじっとセキタンザンを見つめた。そうしてマクワもひとつ桃色の柔らかいきのみをとり、そのまま齧った。しゃくしゃくと音がする。
「……たまにはそのままでも美味しいですね」
「ボボッ?!」
きのみをそのまま食べるマクワなんて、正直ほとんど見たことがない。変な声が漏れた。
「どうしてそんなに驚くのですか。きみが理由なく無作為な行動に出ることはないのは、ぼくが1番理解しているつもりですよ。……これでも」
「シュポォー」
「まだきのみも材料もありますから問題ありません。……お腹空いていたのですね」
「ポオ」
セキタンザンは自分でも行動の原因があまりよくわかっていなかった。ただ目の前にきのみが出てきて、とてもとても魅力的で、食べなくちゃいけないと体が動いたのは確かだった。
ただ、一緒に食べるきのみはおいしかった。ふうと身体の力が一気に抜けて、その場に座り込む。
ぼこぼこと音がして、背中の石がいくつも転がり落ちる。周囲の温度が一気にあがる。
足元の草に炎が点き、メラメラと燃え盛る。
「けほっ……セキタンザン……?!」
「ぽぽお?!」
再び驚愕の表情を浮かべたのは、セキタンザン本人だった。
自身の身体のことなのに、どうにもうまく調整ができない。身体の力が抜けきってしまったのだろうか、立ち上がることもできない。いつもならば当然のごとく行っていたはずのことだ。
空気がかなり高温になっているのか、ただ一緒にいるはずのマクワの顔が赤くなり、だらだらと汗が流れている。ヨロイ島にいるときと、いやそれ以上かもしれない。
「ゴゴオオオ……」
唸るような、地響きのような声が辺りに響く。マクワはモンスターボールをひとつとりだし、中からガメノデスを呼び出した。
「ガメノデス、周囲の消火をお願いします」
多眼の彼は小さくうなずくと、すぐにその両手や顔から水を吐き出し、炎にあてる。じゅうと白い煙が上がり、だんだんと赤い炎が小さくなる。辺りに焦げつくような臭いが一気に広がった。
バディは燃え滾る大地の中を歩きながら、ゆっくりとセキタンザンに近づき、それから後ろに小さな携帯用の台を置くと、トングで背中の石炭の山を探り出す。
「だいじょうぶですよ。きみはいつもやってきていることです。落ち着いて。まずはゆっくりと……息をするのです。そう、よいですよ」
「ボゴゴゴ……」
セキタンザンからは、自分の背中がどうなっているのかはわからない。ただ何かが動く感覚があり、体の中にすっと空気が入り込み、息がしやすくなっている心地はあった。
「……すみません。きみの体調はぼくが誰より気を付けるべきなのに……。体力オーバーのメニューを実行させてしまったようですね。……本当にごめん」
「ゴオー」
それは違うと言いたかった。マクワが厳格な指導者であることも、彼の高い理想からくるものだということもよく知っている。
セキタンザンはそれを理解し、だからこそ一緒に居て、その願いをかなえたいとも思う。
同時により強く猛々しいものでありたくて、ポケモンならだれでも持っている、本能的なものでもある。
それゆえに、心身の箍が外れるまで気づかぬまま無茶をしてしまったのは自分だった。
少しずつ身体の身体がはっきりしてくる。ふわふわのとろとろで崩れ落ちてしまいそうなものが、背中にぴたりとくっついているのがわかり始めた。
今までとは違う温度がふつふつと燃え上がり、そしてそれをセキタンザンはしっかりと掴み取り、握りしめる。
立ち上がると、ガメノデスの掛けていたみずでっぽうが腹に当たりそうになった。互いに訓練してきている者同士、みずでっぽうは横にはずれ、セキタンザンはなんとか避けながら立った。

「シュポっ……ボボォー!」

両手から水を出していた彼はすぐに周辺の鎮火に勤しむ。セキタンザンも岩を作ると、手助けをしようとした。

「あ、まって! 急に動いては……ダメです」

どうやらマクワの持っていたトングがまだ自分の背中に向けられていらしい。ばらばらと石炭がこぼれて落ちていく。

「……それだけ元気があるのなら、もうだいじょうぶでしょう。やはり今日はしっかり休みましょうね」

金具がぶつかる音がして、マクワがはしごのような台――脚立というらしい――を片付けているのがわかる。草を燃やしていた炎は、すべて黒い焦げと煙になって姿を消していた。

「本当に……よかった」

柔らかい息とともにこぼれた言葉に、セキタンザンはぐるりと振り返ると、大きな両腕で返事をした。

サンクスデイ

丁寧にラッピングされたクッキーの小袋がある。よく見れば袋はずいぶんと厚みがあって、人の指では使いにくい。けれど石炭の黒い手はそれを手に取り、横に伸びる赤い紐を軽々と引っ張った。
内側からほんのりと甘く、香ばしい香りが零れてくる。もっとも嗅覚の弱いセキタンザンではあまり感じることのできない感覚だった。

「きみたちもぼくの『ファン』ですから……これはお礼です。そうでなければぼくについてきてくれることなどないでしょう?」

そう言い切りながら、マクワはポケモンたち一人ずつに同じ小袋を手渡していった。
最初に渡されたのは手が器用なガメノデス。その次は主張も力も強く、やや我慢の苦手なバンギラス。さらに小さな体のツボツボの前に置き、イシヘンジンの高い位置の手に持たせ、最後はセキタンザンの大きな手の上に乗せられた。

「今日、お菓子作りを教わってきました。その中でも少しだけ『特別』なものです」

袋をひっくり返せば、掌にちょこんと乗る小麦粉がきらきらした飴の周りをぐるりと巡る綺麗なお菓子。
普段食べることのない分、セキタンザンも身体が食べてみたいと欲するのがわかる。
しかし色のついたガラスのような飴細工の部分は、炎に弱いのか表面が揺らいでいるように見えた。少しだけ炎を弱める。

「……けど……ぼくが……ぼくこそがきみたちの一番の『ファン』……でもありますからね。
これからも……一番隣にいさせてもらいますから」

サングラス越しにマクワが微笑んでいる。
セキタンザンはひとつそのクッキーを口の中に放り込んだ。
甘い香りが口を越えて、あっという間に体の中に広がった。
その時なぜか思い出すのは、彼の母親メロンの笑顔だ。
幾度かメロンさんが手作りしたものを、食べさせてもらったことがあった。似ている。
ああ、彼のこのお菓子作りの腕は、その味覚は、あの温かな親に培われたものに違いない。
彼女から教わったわけではないだろうが。
背中の炎が大きく燃えて、思わずマクワに黒い手を伸ばす。
ふわふわした身体が両腕の間に入る不思議な感覚が、違う生き物と触れ合える刹那が、セキタンザンは好きだった。

「こら、近いです……むぐ」

そして小袋に入ったクッキーを一つだけマクワの口の中にも同じように放り込んでみた。がり、と砕ける音がする。

「ぼっ、ぼくは……べつに……。んぐ……おいし……よかった……。……ああ、いや、当たり前ですけど……」

マクワはもごもごと俯きながら、残りのクッキーを咀嚼して飲み込んだ。

「か、勘違いしないでくださいね。ぼくだって……。……きっといつか」

その『いつか』が何を描いたのか、セキタンザンには知り得ない。
けれど彼の目線の先には光が、温かいものが、きっとある。
ここにいる皆でそこにたどり着きたい。
セキタンザンは願いを込めて汽笛のような声を上げるのだった。

壁を砕くデルバータ

『悪いね、急遽試合後に仕事の予定入っちゃった。今日の訓練は18時からやるよ』

届いた母親からのメールを閉じて、最新式のポケッチをポケットにしまい込む。
窓の外は快晴で、雪の多い街キルクスにしては温かい日差しが頬に沁みていた。今日ならあっという間に足場の悪い山道も登れるだろう。
いつもの道具セットは既に決まった鞄にしまってある。帰ったら中身だけ簡単に確認すればすぐに家を出ることが出来るはずだ。

(さみしくしてないかな)

スクール帰りの子どもたちで溢れるバスの中はひどく賑やかだ。家に荷物を置いてすぐに遊ぶ約束をする同級生や、昨日のリーグのチャンピオンの試合を熱弁する上級生たちの白熱した感想、流行りの音楽を口ずさんではくすくすと笑い合う下級生の声が、そして前の椅子に座る子供の雑談が椅子に座ったマクワの耳にも届く。

「タンドンがさ」

まるでわしづかみにされたような心地がして、重くて冷たく突き刺さるものが喉奥を通っていく。こつん、と額と窓ガラスがぶつかる音を聞いた。

「うちのママのポケモンなんだけど、今朝さあ、じーっとしてると思ったら急に俯くから調子でも悪いのかと思って慌てたんだけど……ただ俺のこと見てただけらしくてさあ」
「ポケモンってよくわかんないときあるよなあ」
「あいつは特にわかんねえ。俺がポケモン連れられるようになったら、もっと動ける奴がいいな」
「次のバス停は――」

降りるバス停の名前のアナウンスの声にかき消される。運転席の横の上のモニターにも高らかと表示されていた。
母から誕生日祝いに貰った腕時計は14時をさしている。スタジアムには夕方向かえば十分間に合うだろう。今日の宿題は既に予習していた部分で既に終わっており、他には母との訓練に時間を使うだけだ。滅多に生まれない『何もない』時間は、必ずその場所で過ごすことを決めていた。

長い坂道を登り、裏山の麓の小さな洞窟に辿り着く。まだ前から数えた方が早い背の順のマクワの背丈でも少し低いくらいの入り口を潜って進むと、大人の背丈ギリギリくらいの高さで、自分の部屋と同じくらいの広さ岩穴が広がった。
その奥でうとうとと昼寝をしているタンドンが居た。足音を小さくしようとしたが、気配にはっと気が付いたのか、ぱちぱちと瞬きをしてマクワを見つめた。

「こんにちは……すみません、起こしちゃいましたね」

彼はごろごろと車輪を転がしてマクワの足元まで近づき、目を赤く染めてふるふると身体を震わせた。
ふわりと浮かぶ炭の粉と、なぜか木が燃えるような穏やかな焦げの香りが漂う。
マクワはしゃがむと、彼の表皮に浮いてしまった粉を手のひらでそっと落としながら目を細めた。
母はきっと眉に皺を寄せるだろう。とても子ども想いで、良くないとされるものを遠ざけようとしてくれているのは、マクワの幼心によくわかっていた。
昔一度行ったおいしんボブでも、焦げ付いたものは身体に良くないからといって、焼き過ぎた真っ黒焦げの部分だけは取り除き、母がそれを食べてくれたりもした。

「……うちで使っている固形のフーズを持ってきました。口に合うかな」

マクワは石壁にもたれるようにして座り込むと、ショルダーバッグから銀色の小袋を取り出す。さらに継ぎ目を引っ張り開けてやれば、タンドンの瞳の放つ紅い光が反射してちかちか瞬いた。

「お母さんはいつもたくさん買い過ぎるので……あまりをひとつ貰ったのです。勉強用ということで」

封を開けた部分に手を当てて、横倒しにして軽く振れば、中からまるで焼き菓子にも、栄養剤にも見える茶色の小粒の丸い固形ポケモン用フードが現れた。タンドンは興味深そうに見つめていて、フードを乗せた白い手が車輪の根元に伸びる。しばらく様子を見たのちに、タンドンは車輪をそっと当てて、巻き込むように体内に取り入れてゆく。マクワはそのタイミングに合わせてそうっと手を放す。
がり、がり、ばりばりばり。
砕かれる音が小さな洞窟の中でよく反響した。タンドンは再び身体を小刻みに震わせる。

「よかった、おいしかったのですね」

顔を上げたマクワは、ティッシュを敷き、その上にポケモンフーズをぱらぱらと地面に置くと、鞄から厚みのある本を取り出した。

「図書室で新しく借りた本を持ってきました。読んでいてもよいですか?」

タンドンの紅い目が本を見つめている。ポケモンフーズの味がよかったのだろうか、それを見たときと同じ目の色に見えた。マクワは本を抱きしめてタンドンから遠ざける。

「これは……食べられないですからね」

再びタンドンは白く光る眼を瞬きさせて、マクワの周りをうろうろしながら本に視線を合わせている。

「葉っぱみたいな香りしたかな……? そういえば紙は木が原料なんだっけ……。これはここに書いてある文字を読むものです」

マクワは表紙を開き、ぱらぱらと中のページをめくって見せる。ほとんどは文字だが、時々ポケモンの挿絵が書かれている。

「気になりますか? これはね……きみたちのことが書かれているのですよ」

1ページにいっぱいのタンドンの絵が描かれた場所を開き、タンドンに説明した。タンドンも自分の姿を理解していたのだろうか、それとも今辺鄙な場所に住む彼も過去に仲間がいたのだろうか。
紅の瞳いっぱいが輝いて、彼そっくりのイラストを照らしている。

「きみの……たぶん、遠い遠いご先祖様が……ぼくら人間や生き物を助けてくれた話も載っています。……一緒に読みましょうか」

タンドンは初めてにっこり笑うと、座るマクワに身体を寄せた。

ひんやりとした風が吹き、頬を拭う冷たさにはっと目を覚ました。マクワが外を見れば、ゆっくりと日が傾き、夜が近づいている。家まではそれほど遠くなくても、やはり凸凹の多い不安定な山道であり、しばらく街灯はない。懐中電灯を持ってはいるが、真っ暗になってしまえば帰るのが大変になるし、遅れてしまえば母に理由を言及されてしまいかねない。
母は自分にこおりジムの跡継ぎになってほしいと願っていて、そのために努力をしていることはマクワ自身が一番身をもって知っているのだ。
こおりとは全く関係ないポケモンと仲良くしているなんて口が裂けても言えなかった。
それにしても、気づかぬまま本を読んでいる途中で居眠りをしてしまったらしい。身を寄せてくれているタンドンはぽかぽかしていて温かいせいだろうか。
マクワが目を覚ましたことに気が付いたタンドンはまばたきをする。

「……すみません、ついつい眠ってしまいました……ぼくとしたことが」

ラプラスの描かれた栞を挟み、本を閉じると再び鞄にしまい込む。そして立ち上がった。

「そろそろ戻らなくては。今日も……場所を貸してくれてありがとうございました」

タンドンは再びマクワをじっと動かず見つめた後、視線を外して地面を見下ろした。赤い光が鈍く岩床を映している。
その時、さっきバスの中で耳に入ってしまったタンドンに纏わる話を思い出した。

『じーっとしてると思ったら急に俯くから調子でも悪いのかと思って』

ほどけるような、あたたかいものが胸に流れ込んでくる。それと同時にちいさな穴のような感情がぽつんぽつんと開いていて、マクワは思わずつばを飲み込んだ。
他の人にはわからないはずのものが、なんとなく理解できてしまうような、少しだけ優越に満ちた感覚。
おそらく彼の親のタンドンも、彼が家の外に行ってしまうのがさみしかったのだろう。
自分との別れを惜しんでくれる目の前の小さな生き物の心がここにあり、それは自分の心の色とほとんど変わらぬ色をしているだろう。透き通った輝きの落ちる音が聞こえてくる。
しゃがみ込み、自分の膝丈くらいの高さのタンドンの頭に手をあてた。

「……また来させてくださいね」

タンドンはしばらく動かなかったが、ゆっくりとマクワを見上げて頷いてみせた。
たったそれだけで、これからマクワを待つ厳しく冷たい夜のトレーニングにも負けない温かな炎が湧いてくる。母親の期待だってきっちり背負ってみせられるだろう。
そうすることで、この胸の奥でうっすらと鳴り続ける音を辿っていきたいと思った。
細石はいつか汽笛を上げて、重たい壁を砕く煌めきに繋がっている。

コールタール問答

突然、目の前が真っ暗になった。
アスファルトを煮詰めたような毒々しい臭いが肺一杯に広がり、頭から上半身までぬるぬるしたものが重たく滴り落ちていく感触があった。
慌てて口を開けたせいか、凝縮された苦々しさが口の中に入ってきて、マクワは反射的に咳き込む。

「ゲェッ……ゲホッゲホッ……!! うええッ…!」
「ボオッ~」
「だ、だいじょうぶです……おえッ……ゴホッ」

べったりとタールを受けたサングラスを外し、サコッシュから付近を取り出し拭き取る。それから顔の黒い油も拭い捨てる。
呼吸器官の周りがすっきりして、少しだけ息がしやすくなった。しかし強いコールタールの臭いはまだ上半身に纏わりついていた。
ここはキルクス郊外の山のふもと、なだらかな砂地にぽつぽつと木が生えた天然の広場だった。人に知られていないこの場所は訓練をするには持ってこいで、今日も朝から屋外のトレーニングに利用していた。
早めにノルマが終了し、トレーニング専用のジャージ姿のマクワは労りついでにセキタンザンの背中の山の手入れをした。
組み替えられて酸素の通りがよくなり、急に火力が増したセキタンザンは、自分の身体に溜まっていた古いタールを溜めきれず、まだ真剣に背中の山へと向き合い、前に立つバディに対して思い切り吐き出してしまった。
マクワは衣服を脱ぐと付着したタールを淡々と拭った。

「……今日は量が多かったですね。タールショット自体は昨日使ったばかりですが……ふむ」
「シュボオ」
「気にしないでください。組み方を間違えて……避けきれなかったぼくが悪いので。十分に慣れているので問題はありません」

スマホロトムを呼び出すと、インカメラにして全身の汚れの位置を確認した。再びロトムを戻し、マクワは言う。

「それよりもタールの量でもきみの身体の状態がわかりますし、せっかくですからきみの身体の話をしましょう。タールは乾留液と言って有機物質の熱分解によって生まれる、粘り気のある黒い油のことです。……これですね。油なので当然水には強く、しかし一定以上の高温には弱いです。」

分厚いグローブをした指先に、今身体から取りはがした液体が引っ付いている。それを反対の手で持った布巾でごしごしと拭った。

「その性質を利用し、相手に対して誰であってもほのおによるダメージを上げることが出来るのですね。ではそのタールはどうやってできるのか。
石炭を高温で蒸し焼きにするとコークスと言って乾燥した固体が出来、同時にコールタールやそのほかの物質に分かれます。コークスは燃焼時の発熱量が元の原料の石炭より高くなり、高温を得ることができる……人間がより燃料として効率を求めた結果発見され、名づけられたものなのですが……きみの身体はこのコークスの生成を天然で行うことが出来ます。キョダイマックス時に火力が上がるのはこれを利用しているためですね。コールタールさえ自分の発熱に利用します。
申し訳ないですがぼくはこの量について、ある程度はきちんとタールが溜まり続けるように、そして火力を維持し続けられるよう、試合に向けて管理させてもらっています。もちろんきみにとって無理のない範囲です」

セキタンザンはぱちぱちとまばたきをした。マクワが饒舌になるのは珍しく、そして自分やポケモンに関することだけだった。

「きみは意識していなくても高温でほのおを燃やすと体内にコールタールが発生する、ということですね。今日はそれほど火力を使うようなトレーニングを行っていませんし、おそらく昨日の試合できみの体温が急激に上がった結果で、ぼくの想定を上回ったのです。粘り気や色からして質も悪くない。
ということで……ぼくから見てきみは健康体です。もちろん専門機関で見てもらったわけではありませんが、ひとまずよかったと言えますね」
「シュポー……」

あちこち黒い油で汚しながら言い切るバディに、セキタンザンは少しだけ不服だと鳴いて見せた。

「……ああいや、もちろんちゃんと後ほど洗剤で洗い流しますよ! でも大分取れているでしょう? きみとトレーニングの時には万が一の予防として特殊なワックスを肌に塗るようにしています。このジャージも特別製ですよ」

確かに、顔の大部分は拭って綺麗に見える。そういえば昔一度、思い切りコールタールを掛けてしまったこともあった。その時は本当に全身真っ黒になってしまって、全く取れない汚れに、マクワが、そしてその原因である自分もひどく焦っていたことを覚えている。

「コールタールは発がん性物質があるともいわれていて、人体には良いものではないことがわかっています。しかし大昔には薬用に使っていた時代もありました。
ぼくたちの部屋まではここから近いです。おそらく他の人にも見られずに済みますから……こんな体験、部屋ではそうそうできませんし、少しぐらいじっくり見ても……ごほ、ゲフッ」
「ボオ」

日差しが強い。揮発するタールの香りが二人の間に充満し、再びマクワが噎せ返った。
上着を脱ぎ、半袖のシャツになったマクワの腕には、よく見ると凹凸があって、日の光に照らされていた。
あれはずっとポケモンと一緒に暮らしてきた証拠。セキタンザンも覚えている。何度も火傷を負わせてしまったり、時にぶつけて擦り傷や痣を作ってしまったこともあった。

「……そもそもこれくらいでないと……きみといる意味なんてないでしょう?」
「ゴゴゴ」

そうなのだ。セキタンザンは思い返す。最初の頃、まだそれほど互いの理解が進んでいなかったから、マクワがくれるものがずっとずっと退屈だったり、何かわからないことがたくさんあった。
セキタンザンにとって一番良い温度が、マクワにとっても良い温度であるわけがなかった。
それでも一緒にいることで、その身体を、道具を使って少しずつ対話を進めてきた積み重ねの中でいま、ようやくここに辿り着いているのだ。

「これからも……一緒にいますから。必ずチャンピオンの椅子に……きみを座らせてあげますからね」
「シュォ」
「……うん。だからどうか……隣に居て……きみの目で……確かめてくださ……」

マクワは空気の揺らぎを見た。急に周囲の温度が上がり、セキタンザンの背中の炎がめらめらと燃え盛っていた。ひのこが上空で弾けてぱちぱち音がした。

「熱……セキタンザン、一体……。あ、ぼくがさっきコールタールは熱に弱いと言ったから!?」
「ゴオオ!」
「いや、待って引火する可能性が……あれ」

じゅ、と音がしてマクワの周辺だけ一瞬強くなったかと思うと、再び温度は元に戻った。見ればグローブや衣服からうっすらと蒸気があがっているものの、汚れが目に見える範囲できれいさっぱり消えている。
スマホロトムを呼び出して顔を見ても、黒かった部分が元に戻っていた。
セキタンザンは疲れたように肩を落としながら息を吐いていた。

「……シュー、シュポォ」
「きみ、どういう温度調整をしたのですか!? いや……すごい……ありがとうございます」
「シュ ポォー!」

黒曜の目がにっこりと笑う。それは明るく優しい、いつものセキタンザンの笑顔だ。しかしマクワには伝わる。
長く生きる命のさみしさだ。共に過ごすために急いでしまうマクワとは反対の気持ち。

「……そうですね。せっかくいわタイプの専任になれたのですから……」

マクワは綺麗になったサングラスを再びつけなおす。それから口角を上げて笑った。

「きみにとってもよいトレーニングになりましたか。……それでは帰りましょう」
「シュ ポォー」

汽笛を上げるように返事をする。まだ彼を乗せた旅路は途中で、見るものすべてが新鮮で愉快なものばかりだった。
これからもこの旅は続いていく。ひとよりもずっと長く生きるセキタンザンはどうか一日でも長く続いてほしいと願う。身体を張って戦うのは、擦り傷を作っても血液を流すこともない、頑丈な身体を持つ自分だけでいい。そのためにマクワと一緒にいるのだから。
いつかの終着駅に届くまで、ともにいるきみに安寧が寄り添い続けてくれるように。

いのちを分け合う

それはほんの少しだけ昔のことだった。まだ俺に手も足もなければ車輪も目もひとつしか無かった頃。
俺はひとり、洞窟の中で密かに生きていた。時間にすればたった瞬き程度の過去のことだが、忘れもしないだろう。それなりにひとりの生活も長く、悪くないと思っていた日々。
天気のいい日には近くの葉を食べ、時に軽い石を食べたり、気に入ったものを集めたりしながら、のんびりと過ごしていた。
しかしある日突然小さな人間がやってきた。この洞窟が気に入ったらしく、何度も通ってくるようになった。
とても忙しいと彼は言うが、その割にはほとんど毎日のように顔を出してくれた。
彼の名前はマクワといった。
最初は驚いたが、俺も前に人間といた生活は長かった。再び誰かといられることに安堵していたのは確かだったし、何より彼と一緒にいるのは、不思議なくらい居心地が良かったのだ。
まだ幼い彼は、ひとが作った本をいくつも持ち込んでは、なにやら熱心に読んだり、書き込んだり、時に横でじっと見ている俺に聞かせてくれたりもした。俺が外で食料を集める手伝いをしてくれる時もあった。
その日も俺とともに、洞窟の中を綺麗に整頓したり、埋もれた部分を掘って広げてくれた。
普段、何をしているのかは正直よくわかっていなかった。どうやら母親とたくさん大変なことをしていて、いろいろ考えていることがあるらしい。彼の一生懸命な気持ちはいっぱい伝わってきた。
もっと一緒にいれたらうれしいの気持ちを込め、マクワが座った時に体を寄せて、自分の体の奥にあるものに力を入れてみた。ぐつ、と何かが動き、熱が生まれるのがわかる。

「……タンドン、熱いですね……? 暑……」

マクワはぱちぱちと瞬きをして、俺を見下ろした。
久しく忘れていた、俺たちの中にある気持ちを体現する温度。これをすると、相手のタンドン――トロッゴンの時もあった――も同じように返してくれて、互いに熱を贈りあうのだ。
俺たちにとって、高い熱はいのちにも等しいもの。いのちを分け合う行為。
相手と長く共に居たいと思ったとき、いつもやる行動だった。
だがしかし、人間であるマクワはもちろんただ俺の熱に戸惑うだけだ。いくら頑張ったとしても、俺の持てる温度には届かない。
寂しいような、なんだか途方もない距離があるような、不思議な感覚になったことは覚えている。
帰ってこないというのは、これほどちっぽけな気持ちになるものなのか。
それでも彼なりに、彼の手で頭をなでてくれたその小さな感触だけでも、その時の俺は満足できたのだった。

『セキタンザン。それでは、いいですね』

スピーカーに乗って、バディの声が聞こえてくる。
今、俺の目の前には、頭をすっぽり覆うヘルメットのついた見たこともない衣服に身を包むマクワがいる。いや、そういえば前の人間の家で少しだけ見たことがあるかもしれない。
宇宙という遠い遠い場所に言った人間が着る服。最初はポケモンだと思ったものだ。思い返してみればそっくりだった。
マクワは分厚い特殊な布に包まれた両方の手で、肩から岩が伸びている方の俺の手を握る。まるではがねポケモンの皮膚のような硬さとつるつるした感覚があるのに、伸縮はしているらしく、皺の凸凹がある。
なんとも言い難い不思議なものだ。人間が作ったのなら、本当にすごい。まるで進化だ。
マクワの頭の上にある空気が揺らぎ始める。彼の背負った四角い物体に、煌々とオレンジ色の明りが灯る。高まった空気の温度に、俺の背中の炎が歓喜して、ぱちぱちと火花を上げた。
呼応するように、火炎が自然と昂っていく。なんだかひどく心地がいい。
いつもならひとりで発熱している分を、マクワが直接手助けをしてくれて、さらに劫火として燃やすようだ。

『ぼくにも……ほのおをください』
「シュボオ」
『きみがいつも……知り合いや友人の方々にやってきたように……。だいじょうぶ、このスーツは実験済みです』

そんなことを言われても、やはり人間相手では躊躇してしまうのは当然のことだった。今の俺はあの頃のタンドンとは全く違う。
常に炎を作り上げ、維持し続けられるほどの火力がある。力を入れれば人間がどうなってしまうのか、予想することが出来る。
けれどマクワの灰簾石の瞳が、赤い光を映した丸い硝子越しに、じっと見つめている。
俺は小さく息を吐くと、体内の炎に意識を向ける。少ししゃがみ、体を傾け、ごうごうと燃えるほのおで、マクワに寄り添う。からりと音を立てて、石炭の1つが落ちていった。

『そうです! いけますね、もう少し!」

返事をするかのように、マクワの背中の明りが瞬く。そしてより一層色が濃くなって、どんどん温度が俺の背の山と近くなっているのがわかる。
どくんどくんと、胸の奥が震えるような、温かいような気持ちが沸いている。
そう、これはうれしい。俺のいのちが、マクワのいのちと重なる瞬間。ほどけあって、互いのいのちのなかに混ざりこむ感覚。
そうやっていのちを分け合い、ともに高い高い『セキタンザン』の温度を喜び合える気持ち。
俺のほのおは、今マクワとともに存在していた。分厚い衣服は灼熱の大火を受けても確かに微動だにしない。背中の光が炎を受け止めているようだ。
マクワは火炎のなかにいて、ほのおとひとつになっている。
俺自身も、彼から分け与えられるほのおに支えられて、こうごうと火を高めている。
今ならどこまででも行けそうだった。

『……ふぅ』

大きな息が機械の音となって聞こえてくる。ため息は衣服の中に閉じ込められたままだ。俺は握られていないもう片方の手でマクワの肩を軽く押すと、ゆっくりと自分の温度を下げていく。

『……え、ま、まだ……だいじょうぶですよ』
「シュポォー!」

俺は笑うと、いつも通りの火力に戻した。『温め合い』のお陰で消耗することなく、普段通りのパフォーマンスを保てている。
マクワは不服そうだったが、俺が満足したのを見て取ったのか、背中の照明を消した。それから部屋のボタン――確か換気扇というものらしい――を押し、ヘルメットを外した。

「うわ、まだあっつい……! さすがきみの火力……です」
「シュ ポォー」
「……むむ、かなり完璧な耐熱率のはずですが、すぐに想定を超えますね。また……改良をお願いしてみます」

守られていても、やはり暑かったのだろうか、マクワは汗だくでヘルメットを見下ろしていた。普段通りの、しかしセットした自慢の髪型は潰れてしまった、マクワがすぐそこにいた。
本当にうれしかった。幼いころ、一度失敗したことだ。それを彼は覚えていたのか、いないのかはわからない。だが今度こそ共有をしてくれて、実際に温度を分け合うことが出来た。
ひととポケモンの垣根を超えて、ポケモンのしたいことを出来るようにしてくれた。

「ちょっと! ……お礼なら後にしてくださいね」

けれど。こうしていつものマクワのふわふわの顔を見ることが出来て、直接触れられた瞬間、背中の炎はぱちぱちぱちんと、ひときわ大きくはじけたのだった。