こおり使いになると宣言した子供時代のマの所に、人間(子供)になったたんどんがやって来る話

祝福するような酷い雷と嵐は、頭上を過ぎていった。木の根っこをベッド代わりにして寝ると、身体がこんなにも痛くなるし、あちこちぐちゃぐちゃになってしまうなんて知る由もなかっただろう。
それでも、俺にとってはきらきらの木漏れ日が迎える朝だった。
俺は、遮る影に気が付いて、すぐさま目を開く。灰簾石の眼を捉え、身体を起こした。
間違いない。品のいい少年は、まさか広い庭の端っこで寝ている人間がいたなんて夢にも思わないだろう。おっかなびっくりしながら俺を見下ろして、思わず母親を呼ぼうとしているに違いない。

「俺は、タンドンだ。お前と一緒にいるために来たんだ、マクワ!」

長く共に暮らしていた人間が完全に世界に留まってしまい、命が終わりを迎えてしまってから、どれほど経っただろうか。特別行く宛てのなかった俺は、山の隅っこに小さな横穴を見つけて、そこを新しい宿にした。久しぶりのひとの居ない生活は不便な事も多かったけれど、静かで自然の多いのんびりした暮らしはやっぱり俺に馴染んだ。
しかし当然ながら、タンドンが望んで住むような場所ではない。気温は低く、雪だって降る。
常に自分で熱を作る事が出来るとはいえ、何かあればすぐに命が止まる危険は隣りあわせだった。
近くに炭素の多い鉱物は少なくて、常に備蓄しておかなくてはいけない場所。
そんな辺鄙なところに、なぜか時折やってくる人間のこどもがいたのだ。
初めはもちろん偶然だっただろう。マクワも俺を探していたわけじゃない。けれど俺を、俺の洞窟を見つけて、彼は目を輝かせた。俺も、久しぶりに見つけてもらえた事が嬉しかったのだ。
それから時折会う事になったのだけれど、マクワは何やら事情があるらしく、内緒で会っているのだという。いつも通りのある日のことだった。

「いいですか。……今日できみと会うのはおしまいです。きみはいわのポケモンだからです」

無色の髪の少年は表情一つ変えずにそう言った。

「ぼくは……こおりポケモンの専門になり、ジムチャレンジを越え……ジムリーダーになりますから……きみと一緒にいる事は出来ません。それでは」

普段の俺だったら、きっとそれならしかたがないとあきらめただろう。
けれど哀しくて、辛くて仕方がなかった。ここで手放したら、もう二度と進めなくなるような気がした。一緒に居られるのであれば、何を捨ててしまっても構わない。
そうして慌ててマクワの背を追っているうちに――

ガラルの人間には、願いをかなえてくれる星があるという。俺にも光ったのだろうか。
何故か人間のこどもの姿になって、彼の立派な家の庭先に居たのだった。

マクワの家はものすごく大きい。窓やふわふわした布(確かカーテンと言った気がする)もたくさんあって、よっぽどお金がもらえるすごい仕事をしているのだろう。
彼に案内してもらいながら、前の家がすっぽり入るのではないかと思うほどの庭を通った。ぴかぴかに磨かれたガラス窓が反射して、俺の髪や衣服が泥や草だらけの姿を映す。マクワが慌てて大きなタオルを持って来ると、そのまま俺を包み込んだ。その瞬間、なんだかじょうひんでつよくてやさしい不思議なものがぶわぶわっと纏わりついてびっくりする。炎が燃えるのとはまた違う、奇妙で繊細なもの。思わず数歩後ろに下がる。それからタオルの端っこを掴むと、鼻にあてた。強いのがより強くなる。

「だ、大丈夫……ですか?」

マクワがタオルを押さえていいのか、様子を伺いながら聞いてくれているのがわかった。

「驚いた。これが、ええと……なんていうか、初めての感覚だ」
「感覚? なんだろう、触った?」
「触ったと言えば、中を触ったみたいな……なにもないけど、入ってくるような感じで……」
「ああ、そ、そうか……きみ、本当にタンドンなんですね」

俺が手を顔の前で動かしていると、マクワがううんと頭を傾げた。

「それは……もしかすると……タオルを洗った洗剤や柔軟剤の香り、匂い……でしょうか」
「匂い……そうか」

これが嗅覚か。初めての香りの感覚が、ぐるりと周囲を閉じ込めたかと思うと今度は中に溜まっていく。今度はタオルから手を離し、呼吸をしてみる。俺に初めてついたひとの口や鼻という器官を通って、体内に入って来るのが分かる。

「あっはは、面白いね! 言語には出来るのに、感覚がわからないんだね」

メロンはマクワの手ごと俺の頭をむんずとつかみ、撫でてくれている。正直痛いが、どうやら水気や泥を落としてくれているようだ。

「あんた、シャワーは大丈夫かい?」
「雨も平気だったからな、問題ないぞ」
「怖いとかも……ないのですか?」

俺は黙ってうなずいた。何故かマクワの方が不服そうな顔をしている。
宣言通りシャワーを浴びて、人間の道具の使い方まで丁寧にレクチャーを受けて、ドライヤーまで使い方を教わった。
このドライヤーというのは温かくて気持ちがいいのだが、ちょっと間違えると一気に冷たい風が出るから気を付けなければいけない。
いつの間にか着ていた服はメロンが全部洗濯機に放り込んでくれたらしく、マクワの御下がりのトレーナーとズボンを借りた。少し大きいぐらいで意外と快適だった。
そうして親子二人は俺の身支度を整えてくれると、改めてリビングの立派なソファに座って、お茶を用意してくれる。
メロンは俺の話を聞きたくて仕方がないようだ。

「マクワと一緒にいるために、この姿になって会いにきた。こおりポケモンと居るマクワでも、これなら……一緒に居られると思って」
「まあ、随分懐かれているじゃない! へえ、どこで出会ったの? いつから?」
「お、お母さん! きみも……! それは……言わないでくださいっ」
「隠す事でもないじゃない。それで、本当にあの……タンドンだったの?」

手で丸いものを作るような動作をしてみせる。確かに、今に比べればだいぶ小さな生き物だ。
もっとも今だってマクワより目の位置は低いし、手足も細くて小枝に見える。
せっかくなら、セキタンザンまでとは言わないが、もう少しがっしりした身体が欲しかった。
だがそれでも前よりも変わって、良い事もたくさんある。

「ああ。目線が高くなって、近くなったのは嬉しいな」

相変わらずメロンは派手に相槌を打ってくれていた。おかげですらすらと言葉が出てくる。

「マクワと知り合ったのは偶然だけど。たまに会いに来てくれたことがとても嬉しかった。マクワは俺の知らないことをたくさん知っている。一緒にいてとても楽しい。もっともっと教えてほしくて……」
「……ぼくは、もうすぐ旅に出るのですよ。きみとは……」
「俺もついていく。ポケモンとして行けないなら……人間として、ついて行く。ダメだろうか」
「……ジムチャレンジの推薦はあたしが出せるけど……あたしの名前で出すんだから、当然うちのメンツもある。そんな簡単にホイホイ出すわけにはいかないし、そもそもあんたポケモン育てられるのかい? ……って、ああそうじゃなくて、今度のジムチャレンジより今日の寝床よ!」

そう、俺はまだ見かけ上人間の子供なのだ。ポケモンであれば野生で生きるのは当たり前だが、人間の子どもはそうはいかない。メロンは母親として、大人として心配をしてくれていた。

「……行く当てはないが、なんとかする」
「あんた……元々は野生のタンドンだったのが、今は人間になっているってのはあってる?」
「ああ。理由は言えないが、間違いない」
「それはいつか戻ったりするの?」
「多分……しないとおもう」
「多分ってのは」
「俺が戻りたくならない限り戻らない」

俺が人間の姿になったことと同じように、確信として心の中に聳えていることだった。

「なるほどね。うんうん、それなら、うちにいるのが一番だね!なあに、子供がひとり増えるぐらいなんてことないさ。まだまだ欲しいと思って、この家にしたところだったしね!」
「本当か?」
「もちろん。でもちゃあんと人間として扱うから、頑張りなさいね」
「うん……うん! ありがとうメロン! 俺、いっぱい頑張る! マクワとジムチャレンジに出られるように、頑張るから」
「マクワも……それでいいかい?」
「うん……まさか……ぼくが……タンドンと一緒にいられるなんて……」
「マクワ! ……すごいな、この姿だと……すぐ届くんだ。嬉しいな」

マクワも喜んでくれている。俺にとって一番うれしいことだ。思わず俺は隣に座っていたマクワの手を取って笑った。
それからしばらく談笑を交えて、周辺の事を教えてもらう。覚える事はたくさんあるが、タンドンの頃に覚えた人間の基礎知識は消えていない。だからすぐに新しい知識も記憶できるだろう。
一通り話が済んで、メロンは唐突に言うと、立ち上がって伸びをする。

「じゃあ早速……あたしとポケモン勝負してみない?」
「ええ!?」

悪戯っぽい笑みを浮かべていると、2児の母親とは思えない。それにしても、余りにいきなりだった。
俺が誰かと勝負をしたのはいつ頃だろう。記憶も定かではない。ずっと洞窟で静かに暮らしていたのだ。

「ジムチャレンジするんでしょう? ならあんたもポケモン勝負できるようにならなくっちゃ。何事も実践あるのみだよ。あたしのラプラス貸してあげるから……そうだ、マクワガイドしてあげな」
「ガイド?」
「技の名前とか、指示とかわからないでしょ? それを教えてあげて欲しいの」
「わかりました、じゃあタンドン……良いですか」
「緊張するな……」

会話をしているうちにさっさとメロンもマクワも庭の石畳でスタンバイを済ませてしまう。やはり慣れている人間は根本から違うんだな。俺も恐々、メロンの前に立つ。

「おいでラプラス、あの子の力になってあたしと勝負してほしいの!」

メロンがボールを投げると、俺の前にラプラスは背を向けて現れる。マクワが簡単に説明を続けた。

「彼の言葉をぼくがきみに伝えます」
「ららら」
「慣れていないが……よろしく頼む」

ラプラスは優しく返事をした。なんだかメロンよりも落ち着いている雰囲気だ。

「おいで、ヒヒダルマ!」

もう一つ投げたボールから現れたのは、白くて大きなポケモン、ヒヒダルマだ。ラプラスとヒヒダルマは顔を合わせる事に慣れているのだろう、お互い励まし合っている。
メロンは小型の機械を椅子に乗せ、俺たちの方に向けていた。

「簡易の審判よ。合図とか判定をしてくれるの」

元の位置にメロンが立つと、改めて叫ぶ。

「準備OK!」
「用意初め!」

機械が始まりの合図を喋ると、早速メロンが指示を出す。俺も慌てて対応を考える。

「ヒヒダルマ、つららおとし!」
「え、ええと! 避けるのは無理だろ、何か出して当たらないように出来るか……!?」
「れいとうビームで凍らせてください」

ヒヒダルマが出した大きな氷柱を、ラプラスは容易くその場で凍らせて全て氷の壁にしてまとめてしまう。こんな使い方もあるのか。だが感心している暇はない。

「押してきたわね! ならこっちも押し返す、ずつきよ!」

メロンのまさかの選択だった。氷の壁を壊すつもりだ。だがお陰で体勢を立て直せそうだ。マクワに方法を尋ねる。

「ず……! 避けられるか? えっと、あっちに!」
「ラプラス、三時方向へ避けて」
「大き目のわざ、出来るか?」
「ではなみのりで! 水タイプの技ですから、ヒヒダルマの弱点を突くこともできます」
「2人ともいい選択だねあんたたち! ちょうはつ!」
「あれは……!」
「怒らせて短気にし、相手を攻撃的な気にさせます。トレーナーの指示でも攻撃以外の指示は通りません」
「でもそれってチャンスだろ、なら……なみのりだ!」
「ラプラス、なみのりです」

庭の石畳の上、ラプラスは水を呼ぶと波を起こし、ヒヒダルマを呑み込んだ。ようやく大きな技を当てられた。だいぶダメージも大きいようだ、倒れてくれるかもしれない。

「やった!!」

転んだヒヒダルマが体勢を立て直すと、ぐるんとその場で回転し、雪の間から炎が上がる。

「よく乗ってくれたね。ここからが本番だよ!」
「ヒヒダルマの特性、ダルマモードです。体力が減ると姿が変わり、攻撃の威力と、速度が上がります」
「嘘だろ!?」
「おっと、驚かせたかな。悪かった!」
「ぼくが付いています、さっさと終わらせてしまいましょう」
「あ、ああ。でも、どうやって」

マクワが俺に耳打ちをする。

「早い速度と、攻撃力を利用してしまえばいい。幸い水が苦手で、物理技を得意としています。ラプラスの氷技で誘い込み、一気になみのりの中に沈ませます。……いいですね。とにかくきみは「こごえるかぜ」か「れいとうビーム」で左右に動かしてください。必ずずつきを使ってくる時が来ます。ぼくが合図した瞬間、なみのりを指示するように」
「わ、わかった」
「作戦会議は終わったかい!? それじゃあこっちからいくよ! ヒヒダルマ、ほのおのキバ!」

さっきとは全く違うスピードのヒヒダルマが、ラプラスの懐に飛び込み牙を立てる。ラプラスは慌てて燃える口から逃げ出した。俺はその速さに全く対応できず、心の中で謝り、次の指示を出した。

「こごえるかぜ!」
「ラプラス、三時方向です!」

ラプラスは俺とマクワの指示に従い、氷の風を起こす。しかしあの素早いヒヒダルマはあっという間にラプラスの動きに追いついて、再び氷柱を投げつけた。
さっきと同じ方法で止めさせてもらう。

「つららおとし!」
「れいとうビーム!」
「同じ手はきかないよ! ほのおのキバ!」

氷の壁を飛び越えて、ヒヒダルマの深い牙がラプラスに刺さる。だがラプラスもまだ負けていない。平然とした顔のまま次の技を放つ。

「こごえるかぜ!」
「ずつき」

きた! マクワの指示通り、ここで違う選択をするのだ。

「今だ、なみのり!」
「2時方向」

石畳を水が掻っ攫う。ヒヒダルマは見事に大波に呑み込まれて、倒れた。

「まあ あんたたち、綺麗に決めたね! うん、いいコンビネーションだったよ、ヒヒダルマ、ありがとね!」

濡れた石畳の上、メロンはヒヒダルマに駆け寄って頭を撫でると、ボールに戻す。
俺は初めての勝利の喜びを分かち合いたくて、マクワの方に向いた。

「マクワ、……やった、ありがとな!」
「……いえ、ポケモン勝負で負けたくないだけですから」

ラプラスが機嫌良く鳴いている。どうやらまだ戦いたいらしい。

「おやおや、ラプラス、まだやる気だね? マクワ、付き合ってくれないかい?」
「いいですよ。せっかくだからきみは見ていてください、手本になります」
「見学か……順番が逆だったね、まあいいか!」

豪快にメロンが笑い、改めて互いに準備をする。今度はラプラスの元にメロンが立ち、マクワが向かい合う。そしてボールを投げると、ユキハミが現れた。
彼の切り札、小さな氷虫のポケモンだ。とても頼りなく見えるが、今の試合でラプラスは疲れているのだ。可能性は大いにあるだろう。

「ユキハミ! むしのていこう!」
「れいとうビームだ!」
「早い……」

技を放った後、ラプラスの攻撃を予想して、ユキハミは俊敏に動いた。俺が山で見ていたユキハミでは考えられない程の速さだ。訓練されているだけある。

「じゃあこれはどう? なみのり!」

さっき、俺たちの勝利を呼んでくれたラプラスの大技・なみのりがユキハミの小さな体を襲う。たっぷりの水は逃げ場を許さない。あの圧力を受けたらひとたまりもないだろう。
俺は息をのんで見守った。だがマクワは波がぶつかる前、冷静に指示を出す。

「ユキハミ、こなゆきです!」

ユキハミはマクワの指示通り、雪の風を起こす。だがその範囲は小さく定められており、ユキハミの周辺だけだ。つまり周りの水だけを凍らせて、氷の盾を作ったのだ。
普段からユキハミを見ている発想と、そしてよくよくラプラスを相手にするからこそできる技だろう。

「すごい……」
「こごえるかぜ!」
「こなゆき!」

凍える風の冷気を利用して、上手く相殺し合う。庭が真っ白な風に包まれて、見えなくなる。
けれど、これは勝てるかもしれない。指示する声が飛び交う。

「むしのていこう!」
「こごえるかぜ!」
「もう一度 むしのていこうで押し切って!」
「いいタイミング! れいとうビーム!」

だが、最後の攻戦の連発でユキハミも流石に疲れがたまっていたらしい。一瞬の隙を突かれて、れいとうビームが炸裂する。ユキハミの身体が石畳の上に転がった。

「ユキハミ!」

マクワがボールを向けると、ユキハミが帰っていく。

「うんうん、あんたたちも本当によかったよ、ありがとうね!」
「……こちらこそ。ありがとうございました」

丸い頭を下げた少年は、なんだか少しつっかえたような礼を述べるとさっさと家の中へと戻っていってしまう。メロンが困ったように自分の髪に触れた。

「すぐ怒っちゃうんだから……練習なのにね。でもあの子のああいう所、本当リーグに向いているはずだから……タンドン、一緒に居てあげてくれる?」
「もちろんだ」

マクワの負けず嫌いは筋金入りだ。よく知っている。後を追って辿り着いたマクワの部屋の扉には、看板が掛かっていた。しかし俺は文字が読めない。
どうしようかと思いながら、軽くトントンとノックする。返事はなかった。その代わりに、しっかり締まり切っていなかったのか、ノックした衝撃で小さく扉が開く。
こっそり覗いてみると、マクワのベッドで、手当てされたユキハミが眠っているのが見える。それから机にじっと向かい合って、ノートや冊子を開いているマクワがいた。
小さく聞こえてくるのは、さっきの試合の内容の振り返りだったり、ユキハミやラプラスに関する技や生態のことだったり、とにかく今は反省を洗い出している事が分かる。
流石にこんなマクワの隣に居るわけにはいかない、邪魔をしてはいけないと思い、俺は部屋を後にした。

【改ページ】

空いている部屋を一つ俺の為に開けてくれて、ソファを使ってベッドまで用意してくれた。正直、至れり尽くせりというのはこの事だと思う。
俺は明日から、しっかり勉強して2人の力になれるように頑張るのだ。
その日の夜、マクワと共に自室に戻る時、ふと零すようにマクワは言った。

「……今日はびっくり、しました。……きみってそんなに積極的でしたか……?」

何のことかと思ったが、おそらくマクワを追いかけてきたことだろう。マクワは賢くていつも考え事をしているから、突然頭の中のものを取り出す事があるのは俺も知っている癖だった。

「……そうじゃないと、ダメだと思った」

マクワが瞬きをする。

「あ、いや、マクワじゃないぞ。俺が……多分、あの山から出られなくなるような、そんな気がしたんだ。おしまいまでのんびりひとりで過ごすのもきっと……悪くはない。俺たちはみんなそうだからな。……でも、どうしてだろうか……手放しちゃいけないような……」
「……きみは……」
「とにかく、寂しくなったんだ俺は。でももう大丈夫。これからはなんだって出来るし、やってみせる……いつも会いに来ていてくれていた分を返すぞ……マクワ?」
「……ううん。なんでもありません。ただ少し……疲れたんだと思います。余りに突然の事で」
「……そう、か……」

俺はなんとなく手を伸ばしかけて、すぐにひっこめてしまった。

「おやすみなさい、良い夢を」
「……ああ、おやすみ、マクワ!」

「タンドン! よかった、今日も居てくれますね……ふう、外は寒いけどここは温かいな……」

夕方頃、雪の積もる森を抜けて、山を登ってマクワはやってくる。学校というものだったり、トレーナーになる訓練が終わった後に来ているのだそうだ。
身体を冷やしたマクワの懐に飛び込んでじっとする。俺の体温は人間よりもずっとずっと高いから、人の身体を温める事が出来るのだ。するとマクワはほっとしたように撫でてくれて、紙鑢を取り出して、あちこち見てくれる。

「あれ、ぶつけました? ちょっと欠けていますね」

そんなことを言いながら、でこぼこを綺麗に整えて、磨いてくれる時間がいっとう好きだった。俺の事を俺よりも知ってくれている。見てくれている。そんなマクワの眼は誰より輝いている。誰も知らない俺の誇りだった。

「これでよし。じゃあぼくは今から本を読んでいますから……横で見ていてくださいね」

大体マクワの来る時間は決まっているが、絶対ではないから俺が出てしまって、会えない時もあったのだと言う。
だからこそ何より貴重で大切な時。静かで穏やかな時間が、大好きだった。

俺がマクワと同じ学校へ通えるようになったのは、すぐの事だった。同じ学校と行っても、学年は違うし、コースというものも違うから、同じ部屋では勉強が出来ないそうだ。それでも一緒に居られる時間が多くなったことは嬉しい。
俺には詳しいことはわからないが、特別な学校でポケモンの勝負に関する特別なコースを持った専門校であり、ガラルの中でも殆どないと言う。
メロンは、最近できた学校で、自分もあれば行きたかったの、なんて楽しそうに話してくれた。俺の特別な編入が可能になったのは、彼女の現在のガラルリーグでの実績と、マクワが優秀な成績で居てくれた特別待遇だということも、よくよく理解している。
リーグという場所で働くメロンは多忙な為、シッター(お手伝いで雇っている人がいるという。後から聞いたが、シッターというのは名前ではないそうだ)が送迎をしてくれるというのだが、当然突然増えた子供に驚いていた。

「あたしの親戚だから唐突でね」

けれど、メロンがそう言って笑うと何故か納得してくれる。メロンの大らかさというのは、山の懐よりも大きい力があるのだろう。
マクワと待っていると、大きな車がやってきた。バスというものだ。中には俺たちと同じ服を着たこどもたちがたくさんいる。緊張しながら乗り込んで、ヘルパーと別れた。

「みんな……同じ学校なのか?」
「そうですよ」
「こんなにもたくさんのひとが勉強しているんだ。すごいな」

俺は鞄の紐を握りしめる。マクワが鞄から小さな本を取り出していて、俺も真似をして中から一冊大きな本を出す。隣でさらっと表紙を捲るマクワのようには、まだ上手くページを開けず、ぎこちない。それでも昨日一生懸命練習をしたのだ。だいぶ慣れたと思う。

「……よし」

ざわざわと賑やかなバスの真ん中で、俺とマクワは手摺に捕まっている。マクワは既にじっと小さな本の世界に吸い込まれていた。同年代の子どもたちが忙しなく動き続ける中、なんだかそこだけゆっくりと進んでいる時間があって、不思議な安心がある。俺は俺のまま、授業が始まる前に、なるべく自然な本の捲り方をマスターできるよう練習し続けることにした。
やっぱり俺はマクワの隣に居る事が好きだったのだ。
感心していられたのは、そこまでだった。正直、学校の勉強という物は、こんなに難しい物なのだろうか。突然放り込まれたからというのもあるからかもしれない。
何を言っているのかちんぷんかんぷんで、俺は初日から特別補講を受けることになった。
学校が終わればすぐに訓練をしなければいけないマクワとは一緒に帰る事は出来ない。だが俺は俺で頑張らなければ、これから先長く居られなくなってしまうのだ。
その後、俺はどっさりと宿題を持ち帰り、家でも勉強をすることになった。家事を終わらせたシッターに頼んで宿題は全て見てもらう。あとは、まだまだぎこちない言葉の練習をしたかった。
せっかく話せるようになったのだ、もっとスムーズにマクワと話がしてみたい。そう思い、音読の宿題を、もう一度自分でも繰り返す。
すると、部屋の扉をノックする控え目な音が聞こえた。

「マクワ、帰ってきていたのか!」
「はい。……大変、そうですね」
「これでもシッターが見てくれたおかげで終わったんだ。勉強は……少し難しいが、でもマクワと一緒にいるためだからな、頑張るぞ」
「……ちょっと違っていましたよ」

何のことかわからなくて、俺は少し瞬きをしてしまった。教科書をもう一度見返して、同じ場所を見つめる。

「聞こえていたか? どれだろうか」
「『やがて行手にあかりが一つ見え始めました。それを子供のゾロアが見つけて、
「母ちゃん、お星さまはあんな低いところにも落ちてるんだね」とききます。
「あれはお星さまじゃないよ」と言った時、母さんの足はすくんでしまいました。
「あれは……町の灯なんだよ」
その町の灯を見た時、母さんゾロアークはまだ自分がゾロアだった頃、ある時町へお友達と出かけて行って、酷い目にあったことをおもいだしました。
やめなさいというのもきかず、お友達のゾロアが、ある家のウッウを盗もうとしました。それが人間に見つかって、さんざん追いかけられ、命からがらなんとか逃げた日のことでした。
「母ちゃん何してんの、早く行こうよ」と子供のゾロアがお腹の下から言うのでしたが、母さんゾロアークはどうしても足が進みません。そこで、しかたがなく、坊やだけを一人で町まで行かせることにしました。
「お手々を片方だけお出し」とお母さんゾロアークがいいました。出したその手を、母さんゾロアークはしばらく握っている間に、可愛い人間の子供の手にしてしまいました。
坊やのゾロアはくるくるとその場で回りながら、その手をひろげたり握ったり、抓って見たり、嗅いでみたり擦ってみたりしました。毛がなくつるつるしていて、なんとも不思議な5本指です。
「それは人間の手だよ、いいかい。町へいくとたくさん人間の家があるからね、大きな通りで、まず丸い帽子の看板を探すんだよ。
見つかったら軽くトントンと戸を叩いて、こんばんはって言うの。そうするとね、今日みたいな雪の多い日には、中から人間が少おしだけ戸を開けてくれるからね、その戸の隙間からこっちの手、こっちの手だよ。人間の手を差し入れてね、この手にちょうどいい手袋ちょうだいって言うんだよ。いいかい、わかったね。決してこっちのお手手を出しちゃダメだからね」と母さんゾロアークは言い聞かせます。
「どうして?」
『人間はね、相手がゾロアだとわかると……手袋を売ってくれなくなっちゃうんだ。それどころか恐ろしい形相で追い出されたり、捕まえられたりするんだよ。人間ってほんとに恐いものなんだよ』」
「はい、そうです。綺麗に聞こえました。……さすが……ですね」
「ありがとう! ……でもこの話、好きだな」
「だから読んでいたのですか?」
「それもあるかもしれない……」

なんとなく、メロンの顔が浮かぶ。この話に出てくるのが、お母さんだからだろうか。子供を大事にするお母さんの姿は、確かにメロンにぴったりだった。
ちょっぴりヤンチャなゾロアのマクワを想像してしまい、心でこっそり笑った。

「あと、うん。褒められるのは……嬉しいな」
「上手く読んだり……問題を解けるより?」
「ああ。マクワに褒めてもらった方が嬉しいな、俺は」
「……そうですか。でも……毎回一緒にいるわけにはいきません」
「いいんだ。一緒にいるために頑張るんだ、忙しいのに、ありがとうマクワ」

マクワは小さく頭を下げて、部屋を出ていった。しばらく片付けをしていると外から声が聞こえてくる。
部屋の窓から覗いてみれば、マクワがあの時のユキハミと、庭で特訓しているのが見えた。
さっきまで訓練していたのに、まだ続きをしているのだ。休まなくて大丈夫だろうか。だがなんとなく近くで見ていたくなって、階段を降りて、近くの大きな硝子の窓を開けた。
マクワはこちらに気付くこともなくユキハミに指示を出し続けて、ユキハミも寸分狂いなく(ように見える)答え続けている。初めて見る凛々しい姿だった。
だがこのまま練習し続けるのも身体に悪いだろう。俺も食事をしていないことをすっかりわすれていたので、マクワを誘う事に決めた。鍋のものを温めて、それから皿に取り分けていく。
シチューにサラダとパン、シッターが作ったものに、メロンが負けじと作ったものがたくさんだ。そうして準備が終わってから、もう一度窓の外に出て、声を掛けた。

「ご飯食べたか?」
「タンドン……」

汗をぬぐいながら、マクワが振り返り、首を振った。月明かりに照らされている。

「いえ……」
「じゃあ、一緒に食べよう」
「……そうですね。彼もいいですか?」
「もちろん。初めましてだな、俺はタンドンだ」

ユキハミはマクワよろしくクールに挨拶を返してくれた。ガラルのリーグで要求される振る舞いを分かっているらしく、所作はとても優雅だ。このかわいらしい外見と短い手足では、かなりわからない辛いかもしれないけれど。
もっとも、この前までタンドンだった俺も他のポケモンのことは言えない。

「マクワに似ているな」
「……そ、そうなのですか」

同時に照れるところまでそっくりで、俺はちょっと笑ってしまった。

「はは、双子みたいだ」
「……ユキハミの分の食事はぼくが用意します」
「自分で作るのか?」
「そういう時もありますが……今のところは専門家に頼んでいます」

マクワは言って、専用のフードを皿に入れて、ユキハミに出していた。そういえば昔、似たものをひとかけらマクワに貰って食べたような記憶があった。
俺もスプーンですくい、シチューを口にする。いろんな具材が混ざっているらしく、色とりどりだ。初めて食べる味で、不思議な感覚だが全く悪くない。

「これが……やわらかい? 人間っていうのは……すごく繊細だな」
「タンドンに比べたら鼻や口の中は細かいかもしれないですね」
「口の中にも熱いとか冷たいとかすごくある……面白いな。これは……マクワはどうおもう?」
「え、ぼく?」

まさか自分の意見を求められるとは思っていなかったらしいマクワが驚いている。

「おいしいとか……ええと、甘いとか?」
「……美味しいですよ」
「そうか。じゃあきっと、俺も美味しいな」
「なんですか、それ」
「ちょっとずつ感覚って育ったり教えてもらうものだろ? でも俺は急に出来ちゃったから……上手く言えないんだ。だからマクワの感性に頼らせてくれ」
「そういう……ものですか」

マクワがテレビを付けた。それからリモコンを操作して、画面を変えた。これは俺も知っている。テレビ番組という奴だ。箱の中にひとはいないが、
それにしても薄っぺらくなったんだな。そして移り変わり、見知った顔が映る。スタジアムに立ち、ラプラスに指示を出す凛々しい女性の姿。

「メロンだ!」
「今日の試合の速報です」
「え、マクワとの訓練の後に試合?」
「基本的には。お客さんは学校や仕事の後、平日夜にしか入れませんからね。ただキルクススタジアム以外の試合はぼくも観る事が出来ませんので、1人でトレーニングします」

テレビの説明を聞く。結果としては、メロンの勝ち。これでメロンは今4連勝中。勝率としてもかなり高く、来期もメジャーリーグキープは安定だろう、今、とても勢いに乗っている注目選手だ、と話しているのが分かった。マクワも小さく肩を降ろしていた。

「メジャーリーグってなんだ?」
「リーグにはメジャー、マイナーと別れていまして……リーグは実力主義で、結果を残さなければマイナーリーグという格下に降ろされます」
「マイナーになるとどうなるんだ……?」
「……いろいろ大変だと聞きます。スポンサー……つまり応援してくれる、お金を出してくれる企業がほとんど居なくなってしまい……当然稼ぎも僅かになってしまいますから……生活が厳しくなる。……扱いもメジャーとは全然違っていて、ケータリングの食事も減るし、移動の手段も安価な方法でしか出来なくなって、休む間もなくなり、とてもキツイらしいとか……」
「メロンはマイナーに行った事、あるのか」
「……昔はマイナーだった頃もあるそうです。でもぼくが知っている限りでは、既にメジャーリーグに居て、殆どマイナーにいる姿を見た事がありません」
「努力してるんだな……」
「当然です……。……今ではリーグに女の人も多いですが、昔は女の人が少なくて、大変だった、とか……それでより……」

俺にはなかった感覚に、何度も瞬きをする。人間は男女での違いが大きくて、どうやら難しいことがあるみたいだ。確かに、雄と雌のタンドンでは殆ど変わりはない。だから何か変わったことがあるかといえば、あまり思い当たらないのだ。だが人間は身体の形が全然違う。他にもあるのかもしれない。心の底から感嘆が出てくる。

「……メロンもマクワもすごいな。……いつもこんなことして……。こんな勉強して、訓練までして……」
「すごくは……ありません」
「……本当に俺、此処に居て良かったのかな、なんて。……ううん、いや、それでも俺はマクワと一緒に……」
「……母さんが」
「うん」
「……言っていました。……ぼくの意見も聞かず、きみを先に引き留めてしまって悪かったって……きみがいれば、ぼくが……」

【改ページ】

がたんがたんと賑やかな音と共に、メロンは夜更けに家へと帰って来たようだ。食事の片づけをしていたマクワと俺は、慌てて玄関口に向かう。仕事上がりのメロンが扉を押さえている所に、仰向けの男を抱いたヒヒダルマが入ってきた。

「おかえり!?」
「お、お帰りなさい……、え、カブさん……!? 大丈夫ですか!?」
「あはは、ただいまふたりとも。大丈夫よ。帰り道に無茶ばっかり男を拾っただけ。……リビングのソファ空いてるよね?」
「今クッションどける!」
「ありがと! あーもうびっくりしちゃった……ここに寝かせてくれる?」
「まっし!」
「この間も怪我してて病院に連れていったばっかりなのに……」

この時間じゃ流石にねえ、とぼやくメロン。しかしすぐにカブと呼ばれた男のモンスターボールを取り出すと、ポケモンを呼びだした。

「マルヤクデ! さっき倒れてた場所にいたのはあんただけど……理由わかるかい?」
「やく……」
「脱水じゃないかって。一緒に長く居すぎだと忠告もしたそうだぞ」
「そうか、あんたタンドンだから言葉がわかるのね」

メロンの澄んだ青石の瞳が俺を見た。ほのおのポケモンは人間よりうんと体温が高いため、長く一緒に居ると人間の体温を同じように上げてしまう危険があることは、俺も良く知っている。
しかし、今の俺がポケモンの鳴き声から人の言葉に通訳できるとは思いもよらなかった。

「そうみたいだな」
「はは、今自覚したのかい。わかったスポーツドリンク薄めて……いろいろ準備して来るから……申し訳ないけど見ててあげてくれないかな」
「もちろん! タンドン、これでカブさんの身体を仰いでいてください。ぼくもタオルを濡らしてきますから」
「ああ」

マクワはカブの体温を冷やす事が先決だと理解したのだろう。言われた通りに、下敷きを使ってぱたぱたと仰いでいると、濡らしたタオルをいくつも持ってきて、頭や脇に置いた。

「……苦しそうだ。……リーグって人が倒れるのか」
「……滅多にありません。でも、他の地方から来たカブさんは今……すごく大変な時だと聞いています。さっき説明したマイナーリーグ……カブさんは今、そこで辛く苦しい中、頑張っていると……」
「……マクワも、こんなところに行くのか」
「ぼくも、……なによりお母さんはここで戦う人です。カブさんだって、今も……戦っています。……ぼくは、……それでもこうして戦うカブさんのこと、カッコイイと思ってます。尊敬しています……。ぼくも、そうなれたらいいなと思う気持ちも……」
「……マクワ?」
「だけど……。わからない……」
「……んん、メロン……?」
「お寝坊さん、今頃気付いたのかい?」

ちょうどメロンがドリンクや薬、氷を準備して持って来る頃、カブの眼が開く。周囲を見渡して、頭痛がしたのだろうか、頭を抱えていた。

「……ここ、は……あれ、ぼくはスタジアムに居たはず……? いたた」
「スポーツドリンク飲んで大人しく寝てなさい。食事は最後何食べた? 大方睡眠不足と栄養不足でしょうよ。……どれだけ訓練してたかしらないけど……」
「……きみもわかるだろう。いまぼくがどれだけ練習をしなくてはいけないか。勝てたはずの試合で勝てない。勝てない。つまり計算がまちがっていた。練習が足りなかった。両方だ。とにかく今は少しでも時間が惜しい。……惜しいんだよ、メロン……」
「あったり前じゃない! そんなに訓練すればしただけ強くなって、勝つことが出来るんだったら……チャンピオンを打ち負かす事が出来るんだったら、あたしだって今もあんたを放って特訓に行ってるさ。可愛いポケモン達を痛めつけてでもね。……今のあんたに必要なのは……確実に休養だよ。もちろん、あたしもそうさ。罰として今日は大人しく泊まっていきなさい」
「……ああ! 言葉に、甘えさせてもらうよ……!! くやしい、くやしいなあ……!」

俺は、俺たちは今も戦いの中で生きる大人たちの激情を垣間見た。最後の方は多分、違う地方の言葉というものが混じっていたのだろう、俺には上手く聞き取れず、なんとか聞こえた単語が「悔しい」だった。カブは酷く食いしばっている。
正直、俺にとっては初めての経験だ。
メジャーとマイナー。今、実績的にメロンの方が、カブよりも「上」なのじゃないだろうか。
そんなメロンに助けられるということは、カブにとって屈辱以外の何物でもない。だがここで食わなければ明日がない。まざまざと伝わってくる。
それでもカブはふうと大きく息を吸うと、俺たちに気が付いた。マクワとは付き合いが長いのだろう、すぐに目線を向けると、ぎこちない笑顔を見せた。ほんの僅かだが、ちいさな笑みだ。

「……やあ、マクワ。それと……初めて見る顔だ。……ポケモンくんに似ているような」
「タンドンだ。……タンドンが好きだから、タンドンみたいにしている。名前も……タンドンって呼ばれるのが嬉しい」

これはメロンと一緒に考えた俺の自己紹介だ。しっくりこないのに無理に名前をつけてもおかしいことになる。ならそのまま名前にしてしまえ、と力強く背中を押してくれた。

「へえ、それは素敵だね。わかったよ、タンドン。それに、マクワ……。夜も遅いのに騒がせてしまってすまないね。ぼくが言うのも何だが……早く寝るんだよ」
「ありがとうございます、カブさん。……ぼくは……ずっとカブさんのこと、応援しています」

マクワは、俺の前でそっと耳打ちする。俺の耳にはしっかり届いてしまう、不器用な声の大きさだ。

「……ひょっとしたら、お母さんよりも」
「フフ、それは心強いな! ……まったく、キミたちにまで気を遣わせることになるなんて、本当にぼくはバカだ! もうすぐジムチャレンジだろう? 準備は進んでいるかい?」
「……はい」
「あれ、元気のない返事だな。……もっとも、ぼくもきみの前に、立派なジムリーダーとして姿を見せられるか、自身がない所なんだけれどね」

少年が、懸命に首を振る。

「カブさんは、いつだってすごいジムリーダーです! だって、遠い所からひとりでやってきて……自分の力だけで戦って……本当に立派です。トロッゴンたちのこともたくさん教えてくれた」
「ありがとう、きみにいわれると照れるな」
「……ぼくも、そうありたい」
「俺も、カブの近くはなんとなく安心するから好きだ」
「それは……ぼくの……今は燻るほのおが……きみの中のほのおと呼応でもしているのだろうか。……だったらとても嬉しいことだね」
「……ぼ、ぼく、にも……!」
「マクワも?」
「そうか。そうだったね。……うん。ありがとう。ぼくも……立派なほのおをもう一度! 燃やしてみせるよ。当然きみたちさえ燃やし尽くすほどのね」

カブは改めて笑顔を見せてくれた。少しは元気になってくれたのだろうか。見ていたメロンが口をはさんだ。

「ほら、ふたりとも、早く寝ないと明日起きれなくなっちゃうよ」
「おやすみなさい!」

俺とマクワはリビングを出て、ぱたぱたと階段を駆け上った。だが話をしたせいだろうか、少し咽喉が乾いてしまって、もう一度静かに降りて扉に手を掛けようとすると、カブとメロンの話が聞こえてきた。
どうやらメロンは片手に何かグラスを持っているのが見える。

「……マクワはすごい子だね。なんだか元気が無さそうだと思ったから応援しようと思ったのに……気付いたらぼくの方が元気づけられちゃった」
「でしょう? 本当によくできたいい子なのよ。あたしにはもったいないくらいにね。……そんないい子を、あたしは……あたしのエゴで、わざわざ研いだ剣を持たせてまで、リーグの泥沼……ううん、リーグの真空に連れ込もうとしてるんだな……」
「また変わった例えだね」
「あたしたちはガラルの輝けるスター選手なわけでしょ?」
「まあきみはそうだろうね」
「あんたもだよ!」

一気にメロンの声が低くなったが、カブは平然と聞いている。

「……見る分には美しい星かもしれない。でも実際は……空気のない場所に生きてるんだよ。ここは真空……宇宙空間の箱庭みたいなもんじゃない?」
「うーん、それは言い得て妙だね。でもマクワはそう感じてないみたいだったよ」
「……これを言うと卑怯かもしれないけど言っていい?」
「もちろん。これは一晩のお返しってことにしておいてくれ」
「それもそうね、んじゃ遠慮なく甘えさせてもらおうかな。単独単身リーグのトレーナー生活の苦労は全部カブで見てたから、子供を絶対そんな目に逢わせたくないんだよ、あたし」
「それは……確かに」
「ちょっとは否定しなさいよ。もちろん……あたし自身の苦労もあるけどさ……あたしとは違うわけだし……ガラルリーグは世襲さえすればこんなに強い味方はないしね。その為だったらなんだってするし、今までもしてきたつもり。今日のあんたをみて改めて強く思ったよ」
「……そうだね。それにしても……ぼくは不思議だ。どうしてそれだけの実力と成績を持つきみが、誰よりこのリーグに立つことを愛してるように見えたきみが……そんなにも後継にこだわっているんだい? 正直このまま勝ち逃げされるのは困るからね」

メロンのグラスがからん、と音を立てた。

「……あんたって……強いよね本当……」
「宣戦布告ととっていいかな! いいよね?」

なにやらごそごそと音がする。どうやらカブが懐からモンスターボールを出そうとしているらしい。こんな所でバトルをするつもりなのか。リーグの選手というのは面白い。

「いい……と言いたいところだけど、ダメに決まってんでしょ、病人、もう! ……はは、なんであんたに元気にされてるんだろうね、あたしは! ……やっぱりあたしの……親が与えられる特権だからかな。次の世代に譲るタイミングって、あるじゃない」
「ぼくには……まだまだ早いように思うけどな! きみの凍てつく炎はまだ消えてはいない! もちろんぼくもだ。この道はひたすら険しいばかりで……正直もう必要とされていないと考える時は少なくない。故郷に戻るという道もあるが……それでもぼくはまだここにいたい。ピオニーくんが見せてくれたように、新しい風が吹いて……ぼくらの追い風に出来るはず」

カブがメロンの作ったスポーツドリンクを一気に飲み干す。

「ぼくは……ポケモンくんたちが好きだ。彼らと共にずっとずっと燃え続けていきたい。そう思って遥か高みを目指せるこのガラルのリーグトレーナーになる事を選んだ。正直今は無茶ばかり、辛い思いばかりさせていて申し訳ないが……いつか必ず、彼らにも素晴らしい景色を見せてあげたいと考えているよ。……メロン、きみはどうだった?」
「あたしは……あたしも、そうだよ。一緒に戦ってくれるポケモンたちみんなが、ううん……あたしたちにはない物を持ってるみんなが……大好きで……。教えることも戦うことも、喜んでくれるひとがいることも……強くなればなるほど広がっていく世界が全部好きで……」
「マクワは、どうだろうか」

ふと、2人の話を聞き入ってしまっている自分に気が付いた。ここで邪魔してしまうのも惜しい。忘れ物は明日の朝でもいいだろう。
その日は部屋に戻り、ソファを使って作られたベッドに入る。

――マクワは、どうだろうか

しばらくその言葉と、ポケモンが好きだというカブの強い心がリフレインして、寝付けなかった。

【改ページ】

『ようやく帽子屋がみつかりました。お母さんが何度も念を押してくれていた、黒い大きなシルクハットの帽子の看板が、電燈に照されてかかっているのが分かります。
ゾロアは教えられた通り、トントンと音を立てて戸を叩きました。
「こんばんは」
やがて、戸が一寸ほどゴロリとあいて、光の帯が道の白い雪の上に伸びていきます。
ゾロアはその光のまばゆさに、おもわず面食らい、まちがった方の手を、
――お母さんが出しちゃいけないと言ってよく聞かせた方の手を出してしまいました。
「このお手々にちょうどいい手袋下さい」
帽子屋さんは、おやおやと思います。どうみてもゾロアの手です。ゾロアの手が手袋をくれと言っています。これは葉っぱで買いに来たんだな、と思いました。
なので「先にお金を下さい」と言います。
ゾロアはすなおに、握って来たコインをばらりと帽子屋さんに渡しました。帽子屋さんは指と指の間にカチ合せて見ると、チンチンとよい音がしましたので、これは葉っぱじゃない、ほんとのお金だとわかりました。
棚から子供用の毛糸の手袋をとり出して来て、ゾロアの手に持たせてやりました。
ゾロアは、お礼を言ってまた、もと来た道を帰り始めます。
「お母さんは、人間は恐ろしいものだっていってたけれど、ちっともこわくない。だって僕の手を見てもどうもしなかった」と思いました。
ゾロアは人間なんてどんなものだろうか、見たくなってきました。
ある窓の下を通りかかると、人間の声が聞こえてきました。優しくて、美しい、うっとりとした声がゾロアの耳にも届きます。
「ねむれ ねむれ 母の胸に、ねむれ ねむれ 母の手に――」』

音読した話の続きを、学校でさらに読んだ。俺もこのゾロアのように人間に興味を持っているから、気持ちが重なるところがあるのかもしれない。つい自分の柔らかい手を握ったり開いたりして確かめる。俺は手だけではなく、姿そのものを『変化』してしまい、解けそうにない。このままずっといられるのだろうか。
同じクラスになる子供たちは俺の事を普通の人間として扱ってくれて、接してくれる。頼りない所はたくさんあるが、それでも面倒を見てくれていた。
俺は今までマクワぐらいの子どもの事を、マクワしか知らなかったけれど、これくらい無邪気で、これくらいいろんなことに興味を持つものなのだ。
たくさん勉強するマクワも偉いが、そうでない彼らも今、いろんな事を吸収している最中だ。十分偉い。
下校の時間、この日は珍しくマクワも訓練が無いらしく、同じバス停で会うことができた。思わず手を伸ばして、ぽんと丸い肩を叩く。

「マクワ! ……やっぱり手があるってすごいな」
「タンドンはありませんからね……」
「ああ。そうだ、マクワ。俺行ってみたいところがあるんだ。いいだろうか?」

昨日の夜、トロッゴンの名前を聞いて思い出した、俺の本当の故郷のこと。ちょうど社会科の時間にもその名前は出てきた。なんと大きな洞窟は二か所にものぼるそうだ。幾つか写真を見せてもらって、より興味が沸いた。ガラルの近代化を助けた偉大なる功績が、そこにあるらしい。
今でも野生ポケモンの住処として、入り口付近であればこどもでも自由に出入りが出来ると言う。

「ガラル鉱山っていうんだけれど……」
「……ええ!?」
「遠いのか?」
「ええ、少なくともぼくたちの徒歩で、今日中には到着できない距離です。……バス出てるかな……個人タクシー、捕まえられるでしょうか……」

マクワが何やら看板を見て調べ物をしだす。

「でもどうして突然鉱山へ?」
「トロッゴンの話を聞いて、仲間の姿をみてみたくなったんだ。学校でも話を聞いたしな」
「カブさんの……ですか?」
「ああ、元々俺は鉱山に居て……それからこの街で人間と過ごしてたからな」

俺にとってはそんなに昔ではないけれど、多分人間にとっては随分遠い過去の話。マクワが生まれる前の、ひょっとしたらメロン達もまだまだ生まれていない頃、俺は炭鉱に居た事がある。
まだ変わらずに居る奴もきっといるだろうし、もうわからなくなっていたり、居なくなっている奴もいるだろう。
なんだかむしょうに会いたくなってしまった。

「きみにも……トレーナーがいたの?」
「随分前に別れたけどな。……動かなくなったというのが、正しいのかな。人間の事はそのひとに教えてもらったんだ」
「……そっか……」
「でも今はマクワがいるから、いいんだ」
「……ありがとう」
「なんだ、それ。変なマクワだな」

マクワは看板から番号を見つけると、電話でタクシーを呼びだした。それから30分程してから、アーマーアガアと若い男性が現れた。

「きみたちだね、ガラルの鉱山へ行きたいって言うのは」
「そうです。その、どうしてもポケモンを見たくて」
「勉強するのはいいことだけど……大丈夫かい?」
「ぼくは既にポケモンを育てていますから」

マクワがモンスターボールを3つ程取り出すと、ようやく男性は納得したのか、座席を開けてくれる。俺がわくわくしながら乗ると、マクワも乗り込んだ。

「わかった。けど料金は2人分、まけないからね」
「ありがとうございます、もちろんです」
「ありがとう! それじゃ行くよ」
「うわ」

アーマーガアが大きな羽根を羽ばたかせるとあっという間に窓の外は上空に連れ去られた。雲と同じ場所に浮いていて、地面があんなにも遠い。
人間たちが作った大きな家々も、全てがどんどん砂粒のように小さくなっていく。代わりに迎えてくれるのは広くていっぱいの色を蓄えた空そのもの。
下を見てしまうと、落ちる事を想像してちょっとだけ怖さがぎゅっと内臓を掴んでくる。
それと同時に身体の中身の何かが一緒に運ばれている感覚は、なんとなくきもちわるいようなところもある。
それでも押し寄せてくるのは、見た事のないものを見ることが出来た、わくわくする心ばかり。

「きみは初めてですか?」
「ああ、すごいな!」
「アーマーガア・タクシーが事業を始めて話題になったのも、最近の事です。だからまだまだ本数も少ないと聞いていました。ぼくたちは本当に運が良かった」
「なあに、これから頑張ってもっと増やすからね! きみたちがたくさん利用してくれればもっと宣伝にもなる! これからはジムチャレンジとも提携したりしてね」
「ジムチャレンジでアーマーガアタクシーが使えるようになるのですか!」
「するとどうなるんだ?」
「今までは徒歩だったり、ポケモンの力を借りていた所が、ぐっと便利になります。……きっと事故も少なくなる……自分の力を鍛える場所は少し減るかもしれませんが……」
「それでも試合やチャレンジに集中できる方が絶対に良いよ!」
「そうか……それは楽しみだ」
「……はい」

空のドライブはあっという間に終わり、次第にごつごつした山肌が近づいてきた。あれがガラル鉱山だろう。入り口には警備なのか人がいて、テントを張っていた。
俺とマクワは地上に降りると、舗装された穴を潜り、鉱山へと入る。それにしても大きい。タンドンの頃には気が付かなかったが、人間用に作られたものだ。
一歩進む度に、外とは違う鉱山の湿った空気が肌に触れて、なんだか貼り付くようだ。重たい水のような香りもするし、別の身体で触れる久しぶりの故郷が、新しく来たものを歓迎してくれているようにも思えた。
それもそうだ、なんといっても人間単位で言えば一世紀くらい前から俺は来ていなかった。あの時はポケモンがたくさん闊歩しており、道なんてものはなかったけれど、既に人の手が入ってあちこち舗装されて、もはや記憶とは完全に別の場所になっていた。
高い視界は当たり前に広く、曲がりくねった坑道の遠い奥まで見渡すことができる。

「……本当に、あっという間に変わるものだな。人間はすごいな」
「そうかな」
「そうだ……うわ、あっちは……トロッゴンか!」

レールの上を急に走っていくのは、トロッゴンだった。猛スピードで駆け抜けていくトロッゴンは、炭鉱にいるとしょっちゅう出会うものだ。彼らはタンドンから進化して増えた自慢の車輪を転がしたくてしょうがないらしい。もし俺も進化していたら、そうなっていたのだろうか。

「早いですよね、ぼくも最初はびっくりしました」
「なんだか……いつもに増して迫力を感じる」
「そうなんです! 車輪の地響きと、元気で楽しそうな声が聞こえて……」
「鉱山に来た事あるのか?」
「実はカブさんのトレーニングに連れてきてもらった事がありまして。あとキルクスにもトロッゴンはたくさんいます。彼らは野生ではないですが、よくキルクスの街を駆け回っています。ぼくは彼らを追いかけるのが大好きで、付いていってました」
「……そうか。なんか……嬉しいな」
「……そうですか?」
「そうだ! 俺の誇りにしたい」
「きみには関係ないと思いますが」
「トロッゴンは俺の仲間みたいなものだからな」
「それは……そうかもしれません」
「あ」

視界の端に、タンドン達が歩いていくのが見える。マクワにも分かったのだろう。随分と壮年で、長生きのタンドン達だ。俺よりもうんと年上の彼女たちは、この洞窟で一番の美しい石を集めるのが好きなタンドンで、よくコレクションを見せてもらっては自慢話を聞いていたっけ。

「知り合いですか?」
「……うん、多分そんなところだ。でも今の俺の事はわからないだろうけど……そうだ、マルヤクデと話が出来たんだ。出来るかもしれない」
「確かに……」
「してみてもいいか? タンドンと、話」

マクワはおずおずと頷いた。予想とは違う反応だったが、俺は気にせず背を向けて去っていくタンドンを追いかける。タンドン達の中ではもちろん固有の名前のようなものはあるが、人のもつ言葉では表せない。だから壁を叩く音で表現する。
理解したのだろう、彼女は動きをとめて俺を見上げた。

「久しぶりだ、覚えているか?」

彼女の驚きようといえば、表現できたものじゃなかった。タンドンという生き物は、他に比べて表情に乏しくて、なかなか感情が分かりにくいらしいのは、マクワからよく聞いていて、俺もこうして人間になったからよくわかる。それでも車輪をぐるりと回して後ろに下がり、目を大きく開く様は、きっと誰でもびっくりしているとわかるだろう。

「これは……俺もよくわからないんだ。気がついたらこうなっていた。あ、あれは今世話になっているマクワという人間だ。俺が人間じゃなかった頃に世話になったんだ」
「メスのタンドンですね。この鉱山にもこれほど長命のタンドンがいるとは」
「さすが、わかるのか」
「これくらいは」
「彼女は俺が小さい頃からずっといて、よく世話をしてもらっていた」
「母親のようなものでしょうか?」
「なんだろうな、先生、みたいな感じかもしれないな……ああ、せっかくだからいつもの奴、見せてもらいたかったんだが……この身体だと入れないから」

すると彼女は身体を振った。どうやらもう集めていないという。これには俺がショックだった。

「ええ、どうして?」

ちょうど俺が居なくなった頃、出入りする人間の数が増えて、大幅に地形が変わってしまった。最初は持って逃げ回っていたが、とうとう切り崩されて、この山の中に埋もれてなくなってしまったのだと言う。

「そんな……」
「どうしましたか」
「……いや、彼女は素敵な石を集めるのが趣味だったんだけど……開発されて全部埋もれて失くしたらしくて……でもちっともきにしてないんだ。今は違う石を集めているって……え、あれ?」

タンドンの紅い眼の先に、確かに変わった色を放つ石が見える。俺は彼女の言うとおり、近くの壁のくぼみに手を伸ばすと、よじ登る。こんなこと、タンドンでは絶対に出来なかったことだ。
ちょっとだけ誇らしくて、手を伸ばす速度が速くなる。

「タンドン!?」
「あれ! あの石が気になるんだって、俺とってくるから、待っててくれ」
「え、ええ……」

マクワが狼狽えているのが視線の端っこに見えた。マクワは「タンドン」という生き物のことが好きだ。ひょっとしたらこれは、マクワがタンドンと仲良くなれるチャンスでもあるかもしれない。
だがそんな他の人の事を考えている余裕はあっという間になくなった。
岩の壁を移動することは、ものすごく難しい。
しっかりくっついているように見える石が、予想より脆くてすぐに欠けてしまったり、外の問題もあるが、俺がこの人間の体の動かし方にまだ慣れていないこともあるだろう。
手を使って身体を動かすというやり方がこんなにもきつい物だとは。

「タンドン、落ち着いてください。普段の君の動き方なら、それくらいの傾斜は問題なく動けると思います。まず左手をすぐ左の凹みに引っ掛けて……そうです」

マクワの誘導を聞いて、一つずつしっかり応えていく。彼の丁寧な誘導に従っていれば、間違いない。そんな気がしてくる。右手、左手、右足、左足。
こんなに複雑な人間のパーツも、車輪と同じぐらい簡単な動作で働かせている感覚。
そして俺は、目標のふしぎな色の石に手を伸ばし、掴むことが出来た。

「よし、とれた!」
「降りる時の方が、昇る時よりも難しいです、気を付けて」
「ああ、でも、大丈夫だ」

大丈夫だ。マクワが居る。また同じようにガイドを聞いて、ゆっくり、ゆっくり降りていく。
最後の足場からぴょんと、飛び降りてマクワ達の前に立った。そして石をマクワに手渡す。

「……流石だな、未来のトレーナー! いや、チャンピオン? おかげで安心して動く事が出来た。助かったよ、ありがとう」
「あ、ああ、……いえ、ぼくは……ただ。……これは……ねがいぼしと同じ石かもしれませんね。鉱山に、ねがいぼし……」

マクワはぐるぐると石を観察した後に、彼女に見せる。だがタンドンは受け取らなかった。

「お礼言ってるぞ。これは、よかったらとっといてくれって」
「そんな、こちらこそ。……貴重な石では」
「それじゃあ、またいつか」

小さなタンドンはすっと頭を下げて、洞窟の奥へと姿を隠した。

「……きみたちの言うまたいつかは……ぼくたちとは全然ちがうのでしょうね」
「そうか……いや、あんまり変わらないかもしれない。人間だって、次本当に会えるかなんてわからないだろう。それとおんなじだ」

マクワは小さな石を鞄にしまい、考え込むように俯いてしまった。
なんとなく感傷に浸りながら歩いていると、敷かれた線路の向こうで、タンドンたちの群れが通り過ぎていく。両手の指では数えきれないほどのタンドンたちが一斉に移動している姿は、俺が言うのも何だが、ちょっと壮観だ。俺が胸を張っているのが伝わったのだろうか、俯いていたマクワの灰簾石がじっと赤い光を見つめている。

「……マクワ? ……ひょっとして、あっちに行きたいのか?」
「えっ」
「……今向こうのタンドンを見ていただろう?」
「そう、でしたか?」
「ああ、目で追ってたぞ。見に行きたいなら、行けばいい。行くぞ!」
「わっ」

俺はマクワの手を取って、小走りでタンドン達を追った。みんなで食事にでも行くのだろう。だったら小高い丘から見下ろすのがきっと分かりやすい。
死角になりそうな高い場所を探して、そこからタンドン達を観察することにした。

「……俺ってあんなにちいさいのか。でもいっぱいいるとすごいな」
「小さいかもしれませんが……硬くて、しっかりしていて重量もありますよ」
「……そうか」
「ぼく……あの目が好きです。真っ赤で、あの中に炎がある証拠。どこに居ても良く見えます。記のようで……群れで見ると……またとても綺麗ですね……」

マクワの眼がきらきらしている。ひさしぶりに見た目だ。そう、随分とひさしぶりに見た輝き。

「……そろそろ行きましょうか。昏くなってしまいます」
「そうだな」

夜の山は真っ暗で、何も見えなくなる。タンドンの眼と人間の目は全く違い、人間の目では本当に何も出来なくなってしまうのだ。

「覚えていた頃とは変わっていたけど……やっぱり人間の姿になっても鉱山はいいな。落ち着く」
「きみが嬉しいなら……来てよかった」
「マクワは?」
「え」
「マクワも嬉しいだろうか?」
「え、ああ、……うん、もちろん。ぼくも鉱山好きです」
「……そうか。それなら、よかった」

外を出れば、すっかり空は夕暮れだった。こんなにも空気が違うのか。外の岩にも住んでいるのか、タンドンたちがふらふらと草陰を歩いているのが見えた。
再びマクワはアーマーガアタクシーを呼ぶ為に、先に外へと駆けていく。マクワのポケットから零れたモンスターボールがひとつ、草の上に転がっていた。

久しぶりのメロンのオフの日。一家と共にショッピングに来ていた。
キルクスは観光を中心とした遺跡の街だから、店の位置は入り口に近くに纏められていて、とてもコンパクトだ(というのは比較対象がないので、ほとんどマクワからの受け売りだ)。
もうすぐマクワがジムチャレンジのため、衣服や鞄をまとめて、そしてメロンが直接買うのだと言う。休みの少ないメロンが取った貴重な休暇だ。もちろん妹も一緒。
ちょっと静かなブティックは、人が少なくて、なんだか上品で緊張する。俺と妹は店の隅のソファに座って、ジュースを飲みながら鞄を選ぶマクワとメロンの背中を見ていた。

「気になったのがあったらすぐに言ってちょうだいね」

いくつか形状や種類の違う鞄を見せてもらっている。サンプルなのだろうか。そのうちの一つを取り上げて、いつも上機嫌なメロンが、いつにも増して嬉しそうだ。それもそのはず、マクワは次のジムチャレンジ出場を決めたということは、メロンの長く厳しい訓練を乗り越えて、免許皆伝なのだ。
俺はというと、勉強についていくことばかりでトレーナーとしての訓練まで辿り着かない。
それにこの間タンドンに触れて理解した。俺はやっぱりマクワといることが好きで、特にポケモン達に何かしたいとかが思い当たらなかった。
大変だけど、勉強はできる。このままメロンの家に置いてもらうことはできるのだろうか。難しければ、何か新しい方法を考えなければいけない。

「しかめっ面」

マクワの妹が、俺を見てくすくす笑った。マクワとはさほど歳は離れていない、母親に似たのか、朗らかで優しい子だ。忙しい母や兄のことをよく理解していて、シッターに世話をしてもらっている。

「変な顔をしていたか? 悪い」
「吊り目だから、ちょっとこわく見えるだけだったかも。……お兄ちゃんまだかなあ。終わったらわたしもおようふく、おかあさんに買ってもらうの。タンドンも?」
「え、俺はいいよ」
「今日のお母さんは機嫌がいいから、きっと買ってくれるよ」
「そうか」
「うん! わたし、ひらひらのタンドン見たいなあ」
「動きにくいのは嫌だぞ」
「じゃあ動きやすいのにしよう」
「お待たせ! 2人がお利口にしてたおかげで、いいのが買えたよ、ありがとうね!」

メロンとマクワが戻ってきた。だが肝心の新しい荷物を持っていないように見える。

「セミオーダーって言ってね、ピッタリサイズのものを作ってもらって、後日届けてもらうのさ。鞄は旅の要だからね。しっかりしたものにしないとね」
「次お洋服?」
「そうだね」
「わあい、楽しみ!」
「いいの見つかるといいねえ」

洋服屋も、ほとんど隣接していると言ってもかわらないぐらい近くにあった。ここがメロンの贔屓にしている店らしい。メロンはマクワと一緒に服を探していたので、俺は妹と一緒に眺めることにした。

「お兄ちゃん、好きなお洋服あるみたいなのに、お母さんの前だとやめちゃうんだよ」

言われてみると確かに、マクワを見ていると棚をじっと見つめている時がある。だが、その眼線は、母親に呼ばれた瞬間に消えてしまう。

「これなんてどう? 似合いそうだけど……サイズ合うかどうか見せてちょうだい」

そう言うメロンに頷いてぴしっとしたニットの上着の肩幅を合わせている。確かにマクワがいつも着ている服だ。せっかくなのでマクワが今見ていた棚の服を見る。
ちょっとだけ毛色の違うカジュアルで大きめなパーカーやパンツが並んでいた。動きやすそうだし、これはこれできっとマクワにも似合うだろう。

「マクワ、俺、これ一緒の奴を着たい」
「あはは、いいんじゃない。せっかくだから3人着れない? サイズあるかしら」
「見てみる!」
「た、タンドン……!」
「わあ、わたしこの色!」
「わかった、サイズ探すから待ってて」

マクワは、まだメロンの持ってきた服の試着をしており、顔を真っ赤にしていた。多分今までずっと言えなかったのだろう。お揃いのパーカーを3着揃えて、メロンに手渡した。
そうしているうちに、気づけば店の周りがざわざわと話し声が大きくなり出して、見れば人だかりができている。どうやらメロンの事を知っている人たちが集まっているらしい。じろじろ見られていることに居心地の悪くなった少女が、服を選んでいた母の上着の裾を引っ張る。

「お母さん……」
「あらま……みんな欲しいものは選べた?」

全員が頷くと、メロンはさっさと会計を済ます。慣れているのか、マクワは俺の手と、妹の手をしっかりと握りしめてくれる。

「それじゃあ出るから、しっかりついてきなよ」

硝子の扉を開ければ、すぐにきゃあきゃあと歓声が凄い。皆そこかしこでメロンの名前を叫んでいた。ばらばらと出てくる手にはさっさと握手をしながら手を振る。ペンとノートにもサクサクとサインを書き記していった。目を見張る程の美しい作業。
時折マクワの名前も呼ばれていて、俺たちの手を握りながらぺこぺこと頭を下げている。
ふと俺が手を放すと、マクワは驚いた顔をしたが、すぐに意図に気が付いてくれた。ぎこちないながらも手を振って、メロンの真似をしながらファンサービスを返している。
やっぱり、この方が似合う気がした俺の眼は、間違いなかった。すぐに妹の空いている方の手をとる。

「みんな、応援ありがとうございます! まだまだあたしも頑張りますから、これからも、そしてもうすぐジムチャレンジ出場予定のマクワも、よろしくお願いしますね!」

メロンは自分も、そして息子までも宣伝してその場を去った。すごい。
俺は人間の中で、メロンとそしてマクワも既に人気があることを知るのだった。
そしてしばらくぐるりと移動し、誰も跡をついてきていない事を確認すると、小さなカフェに入り、窓際の席に座る。帰る前に、少し一服したいということだ。メロンは大きなパフェをつつき、マクワは紅茶を飲み、俺と妹は揃ってそれぞれチョコレートといちごのミニパフェを食べる。
ふう、と大きくため息をついてメロンがぼやく。

「……シュートシティだとこういうことはないんだけど、キルクスだと流石にこうなるよね……たまには家族のんびり買い物、してみたいものよね……ま、あたしが自分で選んだ道なんだけどさ」
「でも楽しかったよ!」
「ああほんといい子! お母さん嬉しい!」

隣に座っていた少女の頭を、メロンが撫でる。

「マクワも、もう今のあんたの実力なら……ジムチャレンジも必ずクリアできるでしょう。あたしが推薦状を持って保証する。そうすれば当然ジムリーダーも譲れる。いつも通り、あんたの力を出し切りなさい。次の模擬試験、期待してるからね」
「そのことなんだけど……」

横からそっと俺が手を上げる。

「あー、あんたもジムチャレンジ行きたいって言ってたね」
「俺、メロンの家を出ようかなって」
「そっか……それもいいかもしれないわね。でも次の家が見つかるまではうちで面倒見るから、安心してちょうだい!」
「ありがとう」

ふと見上げると、でかでかと看板が飾ってある。まだマクワと殆ど年齢も変わらなさそうな幼い少年が派手なマントを着てポーズを決めていた。

「あれが……リーグのチャンピオン?」
「そうなの。ちょっと前に現れた新星・天才少年ダンデ。才能って本当にあるのよね」
「メロンより強いのか……???」

しまった。メロンが露骨に怖い顔をした。

「絶対的に強い人っていつの時代もいるもんだけど……彼はまた特別かもしれないわね」
「ちょっと前ってことはその前のチャンピオンがいたのか」
「長い間マスタードさんがチャンピオンとして君臨していましたが、ピオニーさん、そして……今のダンデさんがいます」
「……18年。18年ずっとチャンピオンだったのよ、マスタードさん。……ようやくあたしたちの時代がきたかと思ったんだけどなあ」
「リーグって……年齢関係ないんだな」
「そう、年齢も、性別も越えて……誰でもどんな人でも実力さえあればスターになれる! それがこのガラルリーグの良い所ね。厳しい所でもあるんだけれど」

紅茶を口にする。

「ダンデは……底知れなさがあるというか、チャンピオンになるべくしてなった少年って感じがするのよ。けれどまだまだ経験は浅い。だから今のうちにチャンスはあるはず!」
「お母さん、頑張って! 絶対チャンピオンなれるよ」
「ありがとね! あんたたちが応援してくれているんだもの、負けないんだから!」

帰り道。ショーウィンドウのガラスケースに映る自分の姿が一瞬、元に戻って見えた。
誰にも見えていなかったから、もしかしたらただの錯覚だったかもしれない。
しかし、なんだか自分の存在が不安定な気がする。まだ選択の余地があるということだろうか。
それとも、時限式だということだろうか。マクワには、気付かれていない。

家に帰ってすぐ、メロンはラプラスを出すと、庭のホースで水を掛けていた。ラプラスは嬉しそうに水浴びをしている。

「らんらら♪」
「手入か?」
「そうよ。コミュニケーションでもあるね。やってみる?」
「……水はまだちょっと苦手だから、他の……」

人間の身体だ、特別痛いわけではない。それでもまだなんとなく苦手意識が取れずにいる。

「はは、あんたにも弱点があったのね。後ろの方で甲羅を磨くならどう? 頑丈だから力入れても大丈夫 ほら」

メロンはホースの向きをラプラスの頭や手足に集中させて、甲羅から離してくれた。ラプラスも直接当たるのが嬉しいのか、気持ちよさそうにしている。
俺はブラシを使って甲羅の棘の周りをごしごしと磨いていく。確かにびくともしない。

「ありがとう。……ラプラスとメロンは最初から一緒だったのか?」
「ううん、全然違うの。この子が幼かった頃に怪我しているのを助けてから懐かれたのが始まりだったかな。でもおかげでこおりタイプの良さも知れた」
「てっきり……受け継いだのかと思っていた」
「……少ないんじゃないかな、最初のポケモンとずっと一緒にいるのって」

となると、やはりマクワは特別という事になるのだろうか。

「あのユキハミもあたしがしっかり選んだ子だからね。あの子をパートナーにするなら、絶対最高のはず……あとはマクワの腕しだいなんだけど、もちろん悪くないしね」

パートナー。最高。なんだかじくじくした気持ちになる。メロンはラプラスの細かい動作で水を当てて欲しい場所を理解し、的確に当てていた。

「はいはい、こっちよね。……でも結局いつ出会うか、じゃなくてどれだけ一緒にいられるか、シビアに言えばどれだけ一緒に結果を出せるか、でしょ? あたしはラプラスと、このリーグの酸いも甘いも……自分で言うのも何だけど、まあまあ噛み分けてきたからね。
大変なことに付き合わせちゃった分、これからも付き合ってもらう分は……しっかりケアしないとね」
「ららら♪」
「ふふ、いつもありがとね!」

言葉は通じていないのに、確かに通じているものがある。

「なんか……うん、いいな、やっぱり」
「でしょー?」

ごしごしとテンポよく甲羅を磨く音が庭に木魂した。俺は完全に無意識だったのだが、自分が磨かれていた時のことを思い出していたような気がする。
メロンはマクワに対してとても熱心に面倒を見ているが、自分が出来なかった・されていなかったことをマクワにやってあげようとしているのか。なんだか意外に思えた。
ラプラスに負けないぐらい、メロンの顔も穏やかで、家族に見せる時ともまた違う優しさを帯びていた。年齢も性別も何もかも感じさせない、純粋なメロンそのひとの姿。
言葉ではない、2人だけの対話がここにある。心の底から安らぎを互いに分け合う時間だ。
きゅう、と甘えて鳴くラプラスの声が愛らしいのは、2人で作ってきたものが、ここにあるからだろう。
だがそこで気が付く。俺は、ラプラスの言葉が分からなくなっている。多分これが本当の人間の耳。ただの鳴き声という音ばかりが耳に届く。彼らが伝える繊細な情報が、ぼんやりとしか見えてこなかった。
もうすぐ、時間が迫っているのかもしれない。俺はタンドンだった時間を忘れて、マクワとともにひととして生きていく。生きていくのだ。
ただ、「揺らぎ」もまだある。様子を見なければならない。
俺は背中を綺麗に磨いて、彼女たちと挨拶をすると、その場を離れることにした。
沈む夕日の中、水に濡れながら笑いあう2人の姿を、名残惜しみながら家の中へ戻る。
それから揃って夕飯を食べて、それぞれが自由に過ごす夜。俺は復習として、国語の教科書を開いていた。ゾロアが手袋を買う話の続き、とうとう物語のおしまいの部分だ。

『ゾロアークは、ゾロアが帰って来るのを、今か今かとふるえながら待っていました。坊やが来ると、泣きそうになりながら温かい胸に抱きしめました。
「母ちゃん、人間ちっとも恐くないよ」
「どうして?」
「ぼく、間違えてほんとうのお手々出しちゃった。でもちゃんとこんないい暖い手袋くれたもの」
と言って手袋のはまった両手をパンパン叩いて見せました。お母さんゾロアークは、
「まあ!」と呆れましたが、同時に「ほんとうに人間はいいものかしら」と呟くのでした。』

「優しいお母さんも心配で人間を怖がるお母さんもおんなじで……このお母さんは昔、怖い目にあって、だから心配して……」

俺はやっぱりメロンとマクワのことを思い浮かべていた。落ち着かなくなって廊下を歩く。1日中動き回ったメロンは既に休んでいるようだ。階段を降りて庭に出ると、マクワがちょうど家の中に戻るところだった。

「マクワ……!?」
「……おやすみなさい」

追いかけるが、そのまま自分の部屋へと戻っていく。泣きそうな顔が、瞼の裏にぴったりと焼き付いて、はなれなかった。

マクワが帰ってこない。こんなことは初めてだ。今免許皆伝とはいえど、厳しいメロンは引き続きマクワに特訓を行っているし、マクワ自身受け入れているように見えた。
昨日の事があったから、朝、顔を合わせられないかと思ったが、既に朝の訓練に出てしまっていて、そのまま学校へ行ったという。
訓練後、いつもなら家に戻る時間をとうに過ぎても、マクワは帰ってきていない。メロンは今日も夜は遅い。シッターは既に帰っていて、妹は寝る支度を済ませている。
キルクススタジアムに電話を入れる事にした。受付のひとに俺の事を話したが、やはりメロンは今も仕事が忙しく、取り次いでもらう事は出来ない。
だがやはり、既にマクワとの訓練は終わっていて、いつも通りの時間にスタジアムを出ている事を確認した。
俺は書置きだけ残し、メロンの家を出ようとした。しかし、困った。マクワがこういう時、どこへ行くのか見当がつかない。
買い物するにも店は閉まっているだろうし、アーマーガアタクシーだって営業時間は終わっているだろう。
俺がいる時、いつも真っ直ぐに帰っていた。なら、俺がいない時はどうだったのだろうか。
思い出せ。彼には、よく寄り道する場所が、あったじゃないか。
俺がいた、裏山の洞窟だ。

この家からさほど遠くない場所だと言う事はわかる。だが、既に暗い森の中だ。正直、夜目の利かないひとの眼ではかなり怖い。なのにマクワは一人で行ったというのか。
運べるライトや杖になるもの、コートを倉庫から拝借しようとした。だが、確かに懐中電灯が一つなくなっている。これで少し確信が出来た。マクワはやはり裏山へと一人で登っている可能性が高い。

この山を下りていたときはただがむしゃらにマクワを追うばかりだった。まだタンドンだった頃の感覚が残っているのだろうか、方向もわかる。

ここだ。こうしてみると小さな洞穴だけれど、やっぱり今でも変わらない横穴だ。マクワは俺がいない時でも良く中を使っていたらしい。しっかりと踏み固めた跡が残っている。ひょっとすると、毎回訓練後、帰っていたわけではなくて、ここに寄ってから家に戻っていたのではないだろうか。
いるだろうかと考えて、中に入って呼んでみる。

「マクワ!」

しかし中は真っ暗で、人がいる気配もなかった。どうやらここでもなかったらしい。
妙に小石の数が増えている。石炭や炭素質の石ばかり。俺が昔好んで食べていたものばかりだ。
なんだかマクワの気持ちが宿っているような気がして、早く見つけなければいけないと焦燥が募った。
ふと雪の残る場所に、足跡が見える。間違いない、これは俺がひとではなかった頃から使っている、マクワのブーツだ。

追って坂道を登っていくと、マクワが雪の上に座り込んで、崖の下を見下ろしている。

「マクワ! 大丈夫か!?」
「……タンドン」

俺の事を呼ぶ声に覇気はなく、フードを被ったままじっと前を見ている。

「大丈夫です……来ないでください。ぼくは……もう少しここに居たいので」
「でももう遅い。明日はまた学校が……」
「学校が来て……訓練があって……それで……ジムチャレンジがあって、ぼくは母の後を継いだジムリーダーになる」
「マクワ?」
「母の後を継いで、人気も受け継いで……それでぼくは……ぼく自身の力はどこに……? きみは一生懸命勉強していたけれど、ぼくはなんの挑戦も出来ないじゃないか、こんなの……!」
「待ってくれ、それはマクワもメロンも、人一倍努力しているからだろう? 人より頑張った分、挑戦は出来ないかもしれないが……」
「……ちがう……ちがうのです……。そうじゃない、そうじゃなくて……」

俺はただ頷いた。マクワが今、やっと自分の中の、本当の言葉を吐き出そうとしている。
上面の言葉だけに囚われてはいけない。もちろんそれもマクワの一部かもしれないが、もっと奥深くに沈めていたものを、聞いてやらなければ。

「……前は訓練が辛くても……きみの所へ行けばちょっとだけ元気になれた。でも今は……「きみ」もいません。諦めて鉱山のタンドンを捕まえようとしましたが、ダメでした。
ねえ、どうして『来て』しまったの。どうして、ぼくをひとりぼっちにしてしまったんだ。
さむいんだよ……「きみ」がいないから。ここは……なにも……呼吸を、禁じたままのぼくは……どこに……辿り着ける……?」

マクワの両手が、俺の肩を掴む。一度箍が外れた弾みだろうか、マクワから痛苦を伴う言葉がぼろぼろと、とりとめなく溢れていた。
マクワが忍耐強いのはわかっていた。我慢して、我慢して、内側にたくさん溜め込んでしまったものが、大きくなりすぎてしまい、マクワ自身も上手くコントロールできず暴れているのだろう。
呼吸を禁じているという言葉に、酔ったメロンがリーグを息の出来ない宇宙空間に喩えていたことを思い出して、さらにつらい気持ちになった。
俺が、俺がこうして人間になったことで、そんな場所にマクワを放り飛ばしてしまっていたのだとしたら、こんなにも哀しいことはない。
少年の傷みが、俺の上にも重く固まって圧し掛かった。

「うう……ちがう、ちがうのに……きみのせいにしたくない……傷つけたくないのに、ああ……!」
「マクワ、大丈夫、大丈夫だから」

ふと我に返った彼が頭を振った衝撃が地面に伝わってしまったのだろうか。
どん、と音がして、マクワが座っていた雪庇が崩れた。マクワの身体が雪崩に呑み込まれる。慌てて俺は手を伸ばすが、一瞬その姿が消えた所を見てしまった。
頼む。なんとか届いてくれ。次にはしっかり彼の片腕を掴んだ感触がこの手の中にあり、大きく息を吐いた。しかし、大きく傾いて、足元が傾く。
身体が重力に囚われる感覚。いわの体とは違う、中の何かまでもを引っ張られて、地面がぐんと近づく、柔い頭がぶつけて拉げ、思わず『死』を想像する、その瞬間。

「うわあっ!?」

俺たちの身体はぶらんと宙に浮いていて、硬い地面にぶつからずに済んだ。俺の身体にくっついた、冷たい糸に引っ張られている。

「ユキハミ!?」

マクワのモンスターボールから出てきていたユキハミが、崖の上から一生懸命俺たちを支えてくれている。だがこのままでは彼も危ない、どうするべきかと悩ませた瞬間。
ユキハミの身体が青い光に包まれる。そして次に現れたのは、羽根を羽ばたかせたモスノウの姿だった。

「きれいだ……」
「モス、ノウ……」

なんとか俺を引っ張り上げてくれた。感謝を述べると、次は俺がマクワを足場のしっかりした安全な場所まで連れてくる。マクワは、まだぼんやりとした目で見つめながら、モスノウをボールに戻す。しばらく互いに呼吸を整えてから、こう言った。

「……わかった。俺、もう逃げない。俺の方が間違えていたんだ」

まだうつむきがちなマクワを見据える。

「本当は……ただマクワがよくて、ただマクワの隣に居られればいいわけじゃなかったことを、鉱山で思い出していたのに。……つい居心地が良くて甘えてしまった。
ちゃんとマクワの事を信じて待っている。次は必ず、未来の石炭の手でマクワのこと握りしめる。それならいいだろう?」

今にも消えそうな俺の手を見て、マクワが泣きそうな顔をする。マクワが言葉を呑み込んできたのは、それが正しくて、周囲を傷つけずに済むと思いこんできたからだ。
マクワは、俺の選択を誤りにしてしまった事に対して謝る。

「タンドン……タンドン、ぼく……! こんな……ごめん、ごめんなさい……」
「謝らないでくれ、大丈夫だ。マクワがいわポケモンを好きだと言う事は、ずっとずっと知っている。誰よりもこの俺が保証する。……けれどその俺がそれを捨ててしまっていたんだな」
「違う……。ぼくが……ぼくが意地を張って、こおり使いになるなんて言ってしまった……。でも間違いだった。だってぼくは……そう、いわポケモンと一緒に居たい。きみたちのトレーナーになって、すごい所を誰よりぼくが見たい。その為にきみを……必ず迎えに行きたいんだ……!」
「それって……」

メロンは厳格な人だ。マクワが育てるポケモンも、おそらく今後ジムリーダーとして背負うタイプも、既に道筋を決めていたはずだ。積年の夢と努力の全てが水の泡になってもおかしくない。
それに対して、反旗を翻すと言う。きっと生半可な覚悟では務まらないだろう。
だがそれこそが、マクワの目指したい挑戦だというのなら。彼自身の証明になるというのなら。
こんなにも嬉しいことはないと思った。

「……うん。お母さんのことは、心配しないで。あの人はやさしいひとだから……きっと、分かってくれる……いや……わかってくれなくてもいい。もう決めたんだ……きみのお陰です。これが……ぼくなりの挑戦。ぼくは、わがままだらけだけど……でも、きっと、いつか……」
「そんなことはない!」
「え」
「そんなことはないぞ。やりたいことがあるのにそれをしないなんて、へんだ。……それだけは言わせてくれ」
「……ありがとうございます。……無理を承知で尋ねますが……きみは元に戻る事は出来ますか。さっき……消えかかっていたのは……」
「ああ、戻る。もうすぐ。その時が来たら……すぐに。でも……もう少しだけ、『息』を待ってくれるか」

もう少し。もう少しだけ俺にはまだ視ておかなくちゃいけないものがある。
まだそんな「確信」がある間はひとの姿で居られるような気がした。
頑張っているマクワの為にも早く戻ってあげたいし、俺だって戻った方が気持ちが楽だ。
それでも、まだ。もう少しだけ。もう少しだけ彼らと家族で居たかった。

「……もちろん。大丈夫、きみは『居』ますから。……それが分かって楽になりました。
それにぼくも……今のきみに見ていてもらいたい事があります」

【改ページ】

模擬試験。これに受かればマクワは正式にジムチャレンジの資格を与えられる。いや、逆に言えば、ジムチャレンジを全て合格できるだろうというメロンのお墨付きがもらえるのが、この試験だった。擬似的なジムに挑戦し、その後ジムリーダーに挑むという、いわば本格的な実地テストだ。
おそらく、ジムチャレンジを行う子供の中で、こんなことを出来るのはマクワだけだろう。
同時に、他の子どもたちは違う事を知っている。他の選択を知っている。その良し悪しまでは俺には判断がつかない。
少年は氷一面を張られた床を、器用に滑りながら移動し進んでいた。これも余程バランス感覚がないと難しいのではないだろうか。
迷路のように複雑な場所を潜り抜け、難なくチャレンジをこなしていた。
俺はマクワに言われ、キルクススタジアムの客席のモニターという特等席で見せてもらっている。
だがマクワは難なく潜り抜け、スタジアムに出てきた。メロンも反対側の入り口から出てくる。

「やあ。……すごい気合の入りようだね。一応ジムチャレンジ用に加減するみたいだけど……」
「カブ? なぜここに」
「……メロンとマクワのジムチャレンジ模擬試験だろ? せめて試合の大舞台は見ておきたくてね」

今、相当に余裕がないはずのカブが、俺の横に座って、一緒に2人の試合を観戦してくれる。心強いと思った。

「とりあえず、昨日ようやく勝利を掴み取る事が出来たよ」
「それはよかった、本当によかった。おめでとう!」
「ああ、ありがとう……もうすぐチャンピオン・ダンデとの試合が待っている。……ぼくが思うに……これがぼくの今後を決めると言っても過言ではないはずだ」
「……そうか」
「だからこそ……気持ちを高めておきたくてね! 未来のライバルたちの姿、しっかり見ておこうじゃないか」
「俺からも……頼みたい」
「なんだか不思議な子だね、きみは! 守り神のようだ。 フレーフレー! メロン! フレーフレー! マクワ!」

なるほど、精神的な訓練の一つでもあるようだ。リーグ選手たちは常に鍛錬を行っている。見学もまた立派な修練なのだ。
それぞれマクワはカチコール、メロンはコオリッポを呼びだした。コオリッポに比べると、カチコールはトレーナーの経験の薄さが現れているのか、やや頼りなさそうに見える。
始まりの合図を聞いた瞬間、マクワはすぐに指示を出した。ほぼ同時にメロンの声も響く。

「こうそくスピン!」
「あられだよ!」

カチコールはくるくる回転しながら雲を呼び寄せるコオリッポに体当たりをぶつける。コオリッポの身体は高く飛び上がり、地面に落ちたかと思うと氷で出来た顔がぱっくりと砕けた。
中から出てきたのはコオリッポの小さな顔だが、痛みを感じていないのか、まるでとぼけたような表情をしている。俺がひとつひとつに驚いている間にも、ぱらぱらと降り出したあられを他所に、マクワは追撃を呼びかける。

「4時方向、かみついて!」
「フリーズドライ!」

真正面から高圧縮の凄まじい冷気が、真っ直ぐ突進するカチコールの身体を貫こうとした。
あれは俺でもわかる。もともと凍っているカチコールであっても、直撃すれば、ただではすまない。鍛錬に鍛錬を重ねたポケモンの技だ。

「まもる!」

カチコールはぐるりとその場で回転し体勢を変えると、見事に冷気を受け流す。
これも凄い。この距離だ。よほどタイミングが良く無ければ、そして訓練してなければ、これほど綺麗に守り切れないだろう。

「流石、しっかり読んでいるね!」

カブの感嘆の声が聞こえる。俺はつばを飲み込んで、ただ頷くことしかできなかった。いつの間にか周囲の氷の粒がコオリッポの頭にくっついて、元の四角い氷の顔に戻っている。
さっき与えた筈のダメージは、ちっともきいていないようだ。なんだか悔しいような気持ちにもなるが、マクワも、そしてメロンも感情を一切出す事なく、ただ冷静に局面を見つめている。
しかし高度な技の応酬に、ポケモン達には少し疲弊の色が浮かんでいた。

「どわすれだよ!」
「とっしん! さらにかみつく!」

コオリッポがぼんやりととぼけた仕草をし始めた瞬間、カチコールの全身がぶつかり、頭の氷を割る。反動を受け止めながら目標を定めると飛び掛かり、その牙がコオリッポの身体に突き刺さる。物凄い速さだ。どんどんと勢いが増しているように見えた。

「高速スピンがきいてる」
「こなゆき」

まるであられさえ巻き込んで、吹雪ではないかと思うほどの大雪と風がスタジアムを包み込み、中心にいるカチコール目掛けて襲いかかる。

「これが粉雪!?」
「ドわすれの効果だね。箍を外して特殊な攻撃の力をあげるんだ!」
「カチコール、まもるを……!」
「フリーズドライ」

コオリッポは冷えたスタジアムを利用して、カチコールに再び高圧縮の冷気を当てた。防御の強いカチコールも、流石に耐えきれなかったのか、その場に倒れ込む。
マクワがボールを向けて、次のモンスターボールを投げた。現れたのはあの夜進化したばかりのモスノウだ。

「カチコールありがとう、戻って。 モスノウ、オーロラベール!」
「モスノウに進化していたんだね。……一気に決めるよ フリーズドライ!」
「見事だ、メロンのあられを利用したね」

オーロラベールは、霰が無ければ使えない特別な防御の壁を作るワザだ。あのコオリッポのフリーズドライも見事に受け止めて、更に風を受けて美しく舞う。

「ちょうのまい!」
「こなゆき!」
「むしのさざめき!」

再び吹雪ほどの暴風が吹き荒れて、雪がモスノウの身体に向かう。だがモスノウはその羽を震わせ、強い音波を呼び起こし、迎え撃った。激しい衝撃がスタジアムを響かせ、噴煙が覆い隠す。
スタジアムが見えた時には、コオリッポが倒れていた。メロンが労わる様に声を掛け、ボールを向けると、次のポケモンを呼びだした。

「コオリッポありがとうね、ラプラス、おいで!」

高らかな鳴き声は、歌のようにも聞こえる。メロンの大切な切り札が姿を現した。

「なみのりだよ!」

庭でも見た光景だが、あれが随分と手加減されていたことが分かる。たっぷりの大水を呼び寄せて、溢れんばかりの波に乗り、ラプラスは空飛ぶモスノウへとぶつけた。モスノウは体勢を立て直し、再び高く飛び上がる。

「モスノウ! 上からむしのさざめき!」
「ふぶき!」
「風に乗って、7時方向! そこからもう一度!」
「いけるねラプラス! 今だよ!」

雪風と音波の激しい攻戦が繰り広げられている。ひらりと宙を飛ぶモスノウは、ラプラスの動きをよく見ており、躱すのが上手い。きっとこれまでに何度も戦ってきている証でもあるだろう。
だがメロンとラプラスは更にその技を発動する前の僅かな隙をついて、いっそう強めた吹雪を向けた。

「一瞬を見極めた……!?」

すごいすごいすごい! メロンとラプラスの息はぴったりで、ただタイミングを言っただけですべてが伝わっている。力のこもった一際強い風が、モスノウの身体を捉えて、思いきり押し流した。
氷蛾ポケモンの体躯は、空中に投げ出され、力を失っている。これで決まってしまったのか。

「……ぼくとモスノウだって、……負けません」

モスノウは羽を少し動かすと、吹雪の起こした風の力を利用して、くるりとその場で回転した。
随分と汚れてしまってはいるが、確かに力強く、そして優雅な蝶の舞が俺たちの目を虜にする。
一瞬だけ、あの大きな水晶のような瞳と視線が合ったような気がした。

「風を利用して、ちょうのまいを使っている……!」

舞にのせて、モスノウは一気にラプラスとの距離を縮める。至近距離で、威力を研ぎ澄ませた虫の声がラプラスの身体に直撃した。

「むしのさざめき!」

どん、とものすごい音がして、ラプラスが力なくくたりと身体を倒していた。メロンが駆け寄ると、ラプラスはすぐにその頭を動かして、メロンの方を見て、それから擦り寄った。
自分は大丈夫だと、言葉なんか聞こえなくても雄弁に語っている。

「ラプラス戦闘不能 試験終了 勝者マクワ」
「ラプラス……良かったよ、ありがとうね! おつかれさま。マクワ、よくやったね」

マクワもモスノウを労わると、ボールへと戻した。
ラプラスも、ジムで働くポケモンの一体だ、自分の役割をちゃんとわかっている。
手加減をして、負けることもまた、大切な自分の仕事のうち。
負けてもいい。マクワにとっては、もしかするとかなり重大な問題になるかもしれないが、俺には少しばかり嬉しいことだと思う。彼女たちのお陰で、またひとつ楽しみが出来た。
俺にとっては多分、こっちの方が性に合っているような気がするのだ。マクワとは上手く補い合えるだろう。
俺とマクワの間にあるものと同じように、メロンとラプラスの間にも大切なものがある。
いや、既に一緒に居る時間の分、もっともっと深くて、俺には視る事が出来ないだろう。
ただただ羨ましいと思った。俺も、俺たちもきっと、ああなるのだ。

【改ページ】

スタジアムを片付けて着替えた後に、メロンとマクワはスタジアムの受付に揃っていた。
おそらく、マクワはマクワ自身の話をするのだろう。
正直、ここから先は俺もいていいのか迷ったが、マクワに居て欲しいと言われたのだ。
きちんと最後まで付き合うべきだとしっかり覚悟を決めて、少しだけ離れた椅子に座り、2人を見守る事にした。

「模擬試験も良い結果。本当にモスノウ、良くそこまで育てたね。もちろん反省点はあるけど、それは今は置いといて。……ほら、これがジムチャレンジの推薦状だよ」

メロンは受付の棚から封筒を取り出すと、マクワへと差し出した。しかしその顔は浮かない。

「……でもさっきの戦い方で伝わったよ。……マクワ……やりたいことをするんだろう?」

わざわざメロンがあられを使う事だけを読んで使った戦法。もともと得意だった防御戦法をさらに強調するような戦い方。その辺りのことだろうか。
そうだ、防御の戦法は、こおりタイプよりも。

「……母さんとタンドンのお陰で……やっとわかりました。……ぼくはもっと自分の力で……ポケモンの知識を深めたい。いわポケモンを極めて、いわタイプ専門の方に師事しながら、いつか自分のジムを持てるよう修行します。その為に……母さんから独立します」
「そうかい。あの子がいなければ……いや、うちで一緒に居れば気が紛れるかな、なんて思ってたのは……あたしの驕りだったか」
「タンドンに教えてもらったのです。母さんは……いつかポケモンリーグを宇宙の星を切り取った箱庭だと言いました。ぼくがもしそのジオラマで輝くなら……鉱石そのものでありたい。鉱石の輝きの下でこそ……ぼくは呼吸を取り戻せるはずだから……」
「それなら……リーグで戦うことになるね」
「……もちろんです。こおりタイプを凌ぐいわタイプですから。……簡単に負けません。あなたから教わったもの、全部利用して……あなたに挑戦して……いつかチャンピオンになってみせたい」
「何を……!? どれほど大変か、あんたはみてるでしょう?」

メロンが狼狽えている。跡継ぎにするという事は、メロンの居る場所にマクワが座ると言う事だ。当然メロンは違う場所にいることになる。
つまり、メロン自身は、マクワと戦う事を、想定しきれていなかったのではないだろうか。

「ダンデは特別。マスタードさんと同じものを持っているのがわかる。あたしじゃあのチャンピオンに勝てない。でも、あんたなら勝てるんだよ、マクワ。きちんとした環境と基盤もある。努力も出来る。人気も期待だってある。
あのチャンピオンに近い、新しい世代のあなたは彼に勝ち続けられるダークホースになれる。
お願い。お願いだから……! このまま……このまま、キルクスタウンのジムリーダーとしてこおりタイプを選任していきなさい……!!」

はじめて聞くメロンの声音だった。息子に剣の切っ先を向けられたことで、溢れ出した絶望に満ちた大らかさのみじんもない切なる高い声。

「なん……で、なんで、……なんで諦めているのですか……。ぼくに『自分は誰より強い』と言ってぼくに教え続けた母さんが……!! だいたい、ぼくに任せて自分はいなくなる、なんてそんなの……!」
「マクワ……!」
「……いままで、ありがとうございました。ジムチャレンジ出場の権利は……修行の後に、改めて勝ち取ります。ですから次は、ジムチャレンジの時に。必ず……いわタイプを、見せ付けますから……!!」
「……ああ、そうかい。そうだね。……盛大に親子喧嘩をしようじゃないか! ジムチャレンジを見るのは当然。さらにあんたがジムチャレンジを終えた、その時にもう一度ね! ジムチャレンジの権利はもうあたしは与えた。使うかどうかはあんたの自由だ。好きにしな!」

改めてメロンはマクワの手を取ると、その封筒を手の中にぽんと叩いて渡す。
マクワは、メロンの言葉に頷くと、目元を擦りながら背を向けて離れていった。俺もその後を追おうと思ったが、気付けばカブがメロンに声を掛けてくれている。

「……メロン、お疲れ様」
「……見ていたのかい。いつの間にかあたしの方がずっと追って……縋っていたんだね。……覚悟が足りてなかったのは、あたしだったか……」
「でも……これからもきみに、戦って欲しいよ、ぼくは! マクワも……そうなんだろう、いや、ぼくよりも……」
「……ほんと……ポケモン勝負はやめられないんだよね。
……戦うよ。あの子と、何よりあたし自身と。それからマクワに、このあたしから離れていったこと、思い知らせてやるんだから……! ……うう……! カブ、今日は一杯付き合いなさい!」
「もちろんだよ! とことん付き合わせてもらうよ。そうだ、ピオニーも呼んでいいかな」
「当然!」

お互い労わるように、背を叩きながら廊下を歩いていく。ポケモンも、ひとも、勝負を通じてたくさん繋がっていくのだ。メロンはこの繋がりを誰より愛する人だった。
繋がりを持って、メロンもいつか、メロンの中にある気持ちに乗って何処かへ行くのだろうか。
それともマクワ達に繋がれて、ここに居続けてくれるのだろうか。
どんな道だって、必ずラプラスは、ポケモンたちは皆一緒に居る。とても温かい。
彼らに背を向けて、スタジアムの外に出た。そしてとうとう、その時間が来てしまったらしい。
ふわふわと身体の感覚が抜けるような、覚束なさが足を踏み出すたびに増えていく。
マクワに、何とか一言だけでも伝えてからにしておかないと。慌ててスタジアムの周りを探すと、裏の方に少年の気配を見つけた。さっき戦っていたモスノウが何か手荷物を持って空に浮かんでいて、彼を見上げている。手荷物に入っているのは、きのみだろうか。
俺が近づくと、マクワも探していたようで、駆け寄って来た。

「……タンドン! 顔色が悪いですが……大丈夫ですか」
「……そろそろ、元に戻る時間みたいなんだ」
「そう、ですか……。きみはこのまま、ここでタンドンに戻る?」
「俺にもわからない。こうなった時も、気が付いたらマクワのもとに居たんだ。別の場所に居る可能性だってある」
「……そうですよね。わかりました。大丈夫です。……ぼくがきみを間違える事なんて……絶対あり得ませんから」

マクワの手が、俺の手を握ってくれる。

「最後に……もし間に合えばでよいのですが、ひとつだけ……モスノウに……訪ねてもらえませんか。ぼくはここできみとお別れをしたいが、モスノウはどうしたいかと」
「ああ、けど……」

既に聞こえなくなり始めている身だ。上手く伝えられるだろうか。
俺が返事をマクワに伝える前に、彼はモスノウに向き合い、言葉を続けていった。

「これからぼくがいわタイプ専任になれば、きみは必ず他の人の元に行くことになるでしょう。
ぼくが費やしたものを活かしたいと考える人は多いですから。
でも……きみは……母さんが選んでくれた……初めてのパートナーです。ぼくの恣意ですが……出来ればほかのひとに渡したくありません。……それでももし、きみがこの自由な土地の上で、誰か好きな人やポケモンが見つかったら、きみの好きにして良いですから。
……ぼくはこのガラルで有名なトレーナーであり続けます。きみが……いつでも会いに来られるよう」

モスノウはマクワの言葉に頷くと、優雅に飛んで行く。マクワの真っ直ぐな言葉はしっかり伝わっているだろう。彼はマクワの為に、マクワらしさを一生懸命学んでいたポケモンだった。
マクワは否定するだろうが、この別れすら精神の糧にしようと思っているのだろう。彼は根っからの挑戦者だ。

「俺なんて必要なかったよ」
「……ぼくに……必要だったのかもしれません」

その言葉には、握りしめた手の強さで返す。それからそっと放した。

「……じゃあまた……マクワ。必ず、また」

どんどん目の前が霞にぼやけて見えなくなる。重いはずの身体がふわりと風に乗って、何処かへ流れていく。境界がどんどんと曖昧になる世界の中に、最後に力強い返事が届いて、嬉しくなった。

「……ええ、また!」

それから無限に連なる空間を跨ぎ、世界の誕生からの途方もない圧縮と膨張の時間をぐるぐると過ごすような心地の中で、空を彷徨った。
湖畔の研究所があり、温暖な海があり、緑豊かな森があり、技術革新の続く街があった。
望むなら、もっともっと遠い地方を覗く事も出来るだろう。

俺はこれからどこへ行くのだろうか。今なら選べる。
何処へでも、選んだ場所が俺のあるべきところだ。

――決まっている。マクワの居る所へ。マクワと共に進んでいける場所だ。

目を覚ますと、そこは小さな洞窟だった。周囲にはポケモンの気配すらもなく、しんと静まり返っている。
人間の目では見えなかっただろう闇ばかりの暗がりも、この小さな眼であれば、見通す事が出来た。
ころころと転がるたくさんの石炭のかけら。だけどそれだけじゃない。
もっと前から2人で見つけた小さな石を集めて置いていたのだ。俺にしかわからない、俺だけの宝物だ。
あれはマクワが転んだ時につけた洞窟の傷跡。他にも、他にも。久しぶりに見た光景は、何もかもが輝いて見えた。これなら、幾らだって待てるだろう。何十年先になったとしてもかまわない。
忍耐強いのが取り柄だと、マクワも教えてくれたのだ。俺自身、証明してみせよう。
ふと岩の陰にいくつかの本やノートが置いてあった。いわポケモンに関する資料と、それをまとめたマクワ自身の文字だ。彼は自覚ないまま既に俺たちの事を独学で勉強をしており、ここにひっそりと隠していたようだ。
ポケモンに戻ってしまったからか、人間だった時に比べて、はっきりと読めない部分やわからない部分もたくさんある。
これから少しずつ、人間としての情報を忘れてしまうのかもしれない。それでもいい。
全部、この場所に繋がっている。

俺の時間に比べれば、メロンもマクワもまだまだずっと短い。
この先には何度だって繋がる機会があるだろう。その度に2人にしかない形に変わって、2人にしかない方向に転がっていく。
出来ることなら、ずっとその変化を、可能性を見ていたい。全部を、肯定していたい。
願わくば、いつまでも優しい時間がながれ、寄り添い続けていられるように。

いつのまにか深い深い夜も終わり、薄青のベールを纏った残雪がきらきらと朝日を受けた。洞穴の入り口も薄ぼんやりと明るくなり始めている。
薄明の空の下、がさがさと小さな足音が聞こえてきた。俺はこの軽快なステップをよく知っている。わくわくした気持ちが鳴らしてくれる、岩を踏む明るい音。
凍った雪と砂が混じって揺れる声。伸びた木の枝が歓迎して震えると、喜んで歌うのだ。
靴とコートを泥だらけにしながら、大好きな灰簾石の眼が、俺を見つけてきらりと輝いた。

「タンドン! ……きみと……共にいるために来ました。ぼくのこれからをもう一度……手伝ってくれませんか」

宇宙の星のジオラマに向かって、進む汽車の汽笛の音が遠くで鳴った。
メロンがずっと見続けた通り、煌びやかで酸素のない苦しい場所かもしれない。
カブがそうだったように、全ての努力さえ報われるとは限らないかもしれない。
マクワがそうだったように、自分の声を出すこともはばかられるような世界なのかもしれない。
だがきっと、行きつく果てには、俺たちにしか見えない景色が、未来が、くるりと背中を向けて待つだろう。途中限りだってかまわない。そして振り向けば、あっという間に過去へ色彩が混ざる。
どんな色になるのだとしても、特別で素晴らしいものにちがいないのだから。
ポケットサイズのボールに約束は紡がれて、俺たちの新しい旅が今、光に照らされている。

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※新美南吉/手袋を買いに
https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/637_13341.html
一部アレンジしつつ引用させていただいております

2022年8月17日 pixiv投稿

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