◆心臓のストーリーライン
静閑な部屋の中央で、机からサングラスが転がり落ちて音を立てた。テーブルに当たった自分の足には目もくれぬまま、立ち上がって睨むマクワの眉間には、深い皺が寄っている。おおよそスタジアム以外では見られないであろう、激しい怒りの感情がはっきりと刻まれていた。向かいのソファにはネズが座り、体格の良いマクワの憤怒の迫力とは対照的なほど静かにコーヒーを啜る。
「どうしてあんな試合をしたのですか。」
「あんな、とは?」
一呼吸おいて、マクワは言った。
「……ネズさん、あなた、ぼくに、わざと負けましたね?」
今日は、マクロコスモス主催の新サービス発表イベントが開催された。余興として、ガラル鉱産が協賛している事から広告塔であるマクワと、ゲストとしてネズが招待される形でのエキシビジョンマッチ。結果は、辛酸を舐めながらマクワの勝利。その後のイベントフィナーレ中、ネズは、対戦相手の彼がサングラス越しに笑顔を振りまく隙間から、時折自分に向けるひりつく様な視線を感じていた。
「……おれはダメなやつだけどさ。一応トレーナーとしてのプライドってやつはあるつもりなんだよな。これでも。」
「知っています、だから言っているのです。」
ネズはもう一度カップに口を付けた。
「……何故ですか? なぜあの時、あのタイミングで避けさせた?」
両者一歩も譲らぬ戦いで雌雄を決したのは、倒れる前にばら撒かれたイシヘンジンのステルスロックだった。宙に浮いた岩石を躱そうとしたタチフサグマを、セキタンザンの重たいヒートスタンプが襲い、ものの見事に決まった。誰から見ても完璧な戦いだっただろう。だが、対戦相手であるマクワにとって、それは納得いくものではなかったのだ。
「おれだって、超能力があるわけじゃないんで。技が来る方向までは予知出来なかっただけですよ。」
丸い碧眼が、逡巡するように伏せられる。
「……自惚れが過ぎんですよ。勝者は勝者らしく堂々としてもらわないと屈辱以外の何物でもねえです。」
ネズは空になったコーヒーカップを置いて、立ち上がる。扉に手をかけて、言い捨てた。
「それともおまえは、おれにわざと負けさせたいのか?」
締まる扉が重々しく、マクワを一人、控室に閉じ込めるのだった。
[newpage]
「絶対、おかしい……!」
マクワは苛立ちを隠せぬまま、廊下を大股で歩く。彼は確かに自尊心が低く、自虐的な性格であるが、誇り高いポケモントレーナーだ。まず絶対に大衆の場で自ら負けるなんてことはしないだろう。だが、余りにも頑なで、拒絶を超えて煽るような態度は気になった。本当に些細な違和感。頭に血が上っている自分を肯定する理由が欲しいだけかもしれない。それでもこのまま終わらせてしまうつもりはなかった。今日はマクロコスモス主催という事で、ローズもイベント登壇の為に別室に来ている。このイベントの管理責任者だ。マクワはシュートスタジアムに用意されたローズ用の控室の扉を叩く。
「失礼します。」
「おやマクワくん、今日の試合、とてもよかったよ。わたくし感動しちゃいました。」
控室には似つかわしくないようなガラス張りで解放感に溢れた部屋だった。隅には植物が丁寧に飾られている。控室でも仕事が進行できるよう、しっかりしたデスクが備えられ、革製のソファに座ったローズが入り口の方を見て笑った。手前のソファでは、秘書のオリーヴが書類越しにマクワを強く睨む。
「委員長は忙しい身です。アポイントはきいておりませんが?」
「まあまあオリーヴくん。今日のヒーローにそんな不躾な扱いは出来ないよ。」
オリーヴはそれを聞くと、立ち上がってマクワをソファへ座るよう促した。そしてコーヒーマシンの音を立てる。ローズは立ち上がると、デスク手前に備えられたソファの、マクワの向かいに座った。
「……そのことですが、委員長としては今日の試合、どう見えましたか?」
「君のイシヘンジン、本当によく考えられているよね。本人の動きも良くて、素晴らしい試合だった。」
淹れたてのコーヒーをそれぞれの前の机の上に置いて、オリーヴは元の席に戻った。
「ありがとうございます。……いえ、ぼくのことではなくて、ネズさんのことなのですが。」
「ネズくん?」
「……委員長から見て、彼の試合運びはいかがでしたか?」
目の前に座るポケモンリーグ委員長の表情を伺うように見るが、彼はきょとんとした顔をするだけだった。
「ふむ、いつも通り惚れ惚れするような指示に見えたけれど。」
「そうでしたか。」
マクワが逡巡し、続ける言葉を選んでいると、すぐにローズはマクワに目線を合わせて口を開く。
「大丈夫、心配ないよ。」
ローズは人の好い笑みを浮かべた。優しい笑顔だ。だが、何故だろう。マクワの不安は取り除かれることがない。
「君はまだまだ上を目指せる。もっと君の信じる「岩タイプ」のちから、魅せてほしいな。」
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結局のところ、マクワの苛立ちは収まるどころか、大きくなるばかりで終わった。あの目を良く知っている。メロンの息子という肩書を背負ったマクワに、ストーリーを求める人間の視線と同じ物だった。母親と道を違えようとした時、嫌になるほど見られた目だし、だからこそそれを利用してやろうという気概だって十分にある。人間は誰だってわかりやすいシナリオを欲しがり金を出す。自分は出来ると信じている。
マクワの元にこの仕事の依頼が来たのは、半月ほど前だった。マクロコスモス主催かつ、ガラル鉱産共同の、新事業発表会。その一環としてエキシビジョンマッチをするというもの。確かに今回、ゲストとはいえ主催側に位置する人間で、絶対負けられない試合ではあった。
「今回の仕事、マクワくんには演出として一つお願いがあるんだ。」
ガラル鉱産の広報担当が、全く飾り気のないオフィスの椅子に座って言う。
「説明の通り、調整上ネズくんが相手になるわけだけれど、君から、ネズくんを希望したという事にしてほしい。」
「……問題ありませんが。なるほど、その分、負けられませんね。」
「少しプレッシャーにはなるけれど、マクワくんにはピッタリかなと思ってね。……今回のイベントは、マクロコスモスが主催でシュートシティ開催だ。観客も多いし、”君自身の魅力”を大勢の人に見てもらえるチャンスなんだ。僕たちもそれを応援していきたい。」
マクワが母親と共にキルクスタウンを騒がせた記憶は、まだ新しい。ガラルの地方ニュースにもなった。けして円満ではなく、蟠りも残っている。だが現在の勢いを殺さず、活かして貰いたいというのが、鉱産側の要望だ。対戦相手であるネズは既にジムリーダーとしてのキャリアも長く、一般的に見てもかなり格上であると言える。それに盾突くという事は、反感を買うリスクを負うことになるだろう。だが、既にネズよりもさらに長いキャリアを持つ母親メロンに反旗を翻した身。新進気鋭で、革命的な存在として人々に自分自身の印象を植え付ける事は、今のマクワにとっても魅力的な提案だった。
「ありがとうございます。必ずぼくの強さを見せ付けますから。」
「こちらこそいつもありがとう。君の精力的な活動のお陰で、最近若い子たちのアクセスが増えてるんだ。」
「それは嬉しいです。」
言われた通り、SNSでの発信は、”戦いたかったネズとの試合”という記載で周囲に広めた。だからこそマクワはいつも以上にトレーニングに勤しんだ。ポケモン達とも厳しく接してきた。
それら全て脚本として定められている事だったとしたら、酷い不信だ。いまマクワにとって必要なのは、ネズへの猜疑心の払拭であり、背中を押されることではなかったのだ。いったん気持ちを落ち着けようと、自販機からサイコソーダを選んで購入する。がこん、と音がして落ちてきた瓶を取り出した。ふと、横を見れば黒いツインテールでワンピースの少女がモルペコと共にミックスオレを飲んでいた。マクワも何度かネズとの試合で見た事がある。ネズの妹のマリィだった。彼女はマクワの姿を見つけると、少し落ち込んだ様子を見せる。
「……今日のアニキとの試合、お疲れさまでした。」
「あなたは、ネズさんの妹の……。」
「はい、あたし、マリィと言います。」
マリィはぺこりと頭を下げた。つられるようにして、マクワも頭を下げる。
「……マクワさんは、ホントにすごかった。全体的に見ても、いい勝負でした。」
「ありがとうございます。」
少女は興奮を隠さずに言う。だが、それは試合の良さで感動したというわけではなく、何か別の感情が隠れているようにマクワには見えた。
「……ネズさんに、何か意見があるのですか?」
「あたし、マクワさんに文句があるわけじゃないんです。だけど……。」
「聞かせてください。」
口ごもる少女にマクワが促せば、俯いて首肯した。
「最後、あそこであんな動きさせるなんて、アニキらしくないなって。さっき、あたし、怒ったんです。けどアニキ、大丈夫だ、の一点張りで……。」
「マリィさんも、そう思われますか?」
マクワはサイコソーダの瓶のふたを外し、炭酸水を直接ラッパ飲みした。期待した通りの言葉を聞いたマリィが少しだけ目を輝かせて見つめる。
「ぼくも、ネズさんらしくなかったと思っています。いつものネズさんなら、躱すよりも向かい打つ方を選ぶでしょう。あのタチフサグマは本当に強い。あのサイズの岩石くらい、悔しいですが、すぐに破壊できます。ぼくはそれを見越して次の手を打とうと思っていたのですから。」
「やっぱり!? あたし、ずっとアニキの試合を見てきたからわかるもん。アニキが全力出して負けてたならそれもわかる。でも、手を抜いて負けるなんて、あたし、絶対許せん!」
大人しそうな見た目に反して、少女は立ち上がって情熱をあらわにする。
「……ってごめんなさい、勝ったの、マクワさんなのに……。」
頭を下げる少女に、マクワは優しく首を振った。
「心配せずともよいですよ。ぼくも今、もやもやしていたところでした。……何か、理由があるかもしれません。」
「理由?」
考えるそぶりを見せた後に、青年は言う。
「怪我をしていた、とか。」
「うーん、それはないと思うなあ。タチフサグマも、アニキも、ずっと元気そうでしたし。」
「本人に問題がないとすると、あるいは……。」
「ほかに思い当たるところ、ある?」
少し逡巡し、周りに人がいない事を伺ってから、二人以外には聞こえない声量でそっと告げる。
「……この試合に、圧力が掛かっていた可能性です。」
「ええ!?」
思わず大きな声を出しかけたところで、マリィは自分の口を塞いだ。
「でも……マクワさんは、何も知らないんです、よね?」
マクワは頷いた。
「ぼくは……対戦相手に自分でネズさんを選んだように見せてほしいと言われただけ。」
「……そんなのすぐばれるのに、面倒くさいね。」
「これはぼくなりの矜持表明のつもりでもありましたので……ただ、ローズさんも何も言わないでしょうね。」
「マクワさん、ローズ委員長とも話してきたん!?」
「納得いきませんでしたからね、全く取り合ってもらえませんでしたが。」
碧い瓶を傾けて、のどを潤す。
「てことはアニキとも……。あたし、ちょっとアニキの周り探ってみるけん。」
「いや、マリィさんは……。」
「部外者って言う? あたしだって立派なアニキの妹です! あれでアニキ、ちょっと抜けてるところあるから、そういう時はいつもあたしの出番になるけん。」
大人しげに見えた少女は、立ち上がるとモルペコとうなずき合う。
「ローズ委員長が怪しいんよね……大丈夫、何か見つけたらすぐにマクワさんに知らせるから。」
「……そうですね、ぼくもこれ以上一人で探るのは難しそうです……。わかりました、協力をお願いします。ただ必ずぼくに連絡をください。何かする時も、相談をすること。よろしいですね?」
「もちろん!」
[newpage]
翌日、マリィからマクワへの連絡はすぐに届いた。見せたいものがあるという事で、早速キルクスジムで約束を取り付けると、マリィはやって来た。マクワは客用の部屋へと案内をする。
「アニキ、全く吐き出しやがりませんでした……。」
上着を脱いで席に付きながら、不貞腐れたように膨れて見せる少女。
「マリィさん、ネズさんみたいになっていますよ……。」
「うう~! 絶対何かあると思ってんよ……。 しょうがないから、今回のイベントの資料だけ拝借しちゃった。」
マリィは自分の鞄から、書類を纏めた封筒を取り出した。台本や、関係者専用の資料を一つ一つ机の上に並べて見せる。
「マリィさん、ダイタンですね……。」
「それぐらいしんと! アニキ、けっこーあれで頑固だから。」
マクワも目の前に広げられた資料を手に取ってみる。目の前にあったのはイベントの流れを演者様に説明するためのイベント台本だった。ネズの文字だろうか、ところどころに書き込みがある。どれもネズらしく生真面目だった。
「ネズさんは真面目な方ですからね。……あれ。」
ふと、マクワはぱらぱらと眺めていた台本に違和感を感じた。ほとんど書き込みがある以外は同じに見えるその冊子。
「マクワさん、何か見つけた!?」
「……いや……。」
マクワは思わず言い淀んだ。果たして目の前の少女をこれ以上巻き込んでよい物かと考える。だが、有無を言わせずマリィは顔を覗き込んだ。
「見つけたんですね。」
「……はい、ぼくの台本にはない記載を見つけました。」
もはやここまで来て言い逃れはできない。ここではぐらかしたとして、しっかり者の彼女のことだ、すぐに情報を知る別の手段を取るに違いない。
「どこ!?」
「ぼくたちの違和感は正しかったようです……。」
マクワは、たった数行追加されている文章を指差す。そこにはほんの少しだけ、ネズのポケモンの最後になるであろう動作が指定されている。それはつまり、試合の流れをこの台本の製作者、あるいはこの記入をしたものはある程度予想をしていたということだ。トレーナーとしてもかなり経験値が高いのだろう。試合の当事者として、マクワの背筋にぞっとしたものが走る。
「なに、これ。」
「少しこちらでお待ちください。」
青年は一度立ち上がると、自分の部屋に戻った。そしてまだ整理途中の書類から、先日のイベントの自分の台本を引っ張り出す。試合をする、という簡素な記載しかされていないページを開けた。明らかに違うものである。マクワはそれを持ってマリィの待つ部屋に戻ると、改めて同じページを開いて並べた。やはりネズの台本にだけ数行の指示があり、マクワの台本にはそれがない。
「ぼくがこのイベントで勝たされていた証拠ですね。」
「そんなの絶対いかん!!」
「マリィさん、ありがとうございます。これでもう一度ローズさんと話をしてきます。」
証拠という名前の武器は手に入れた。改めて直談判をするなら今だろう。
「なら、あたしはアニキと話しつけてくる!」
「だめで……といっても聞きそうにないですね。わかりました。」
マクワは少しだけため息を付きながら、台本を並べて、証拠の写真を撮る少女を見ていた。
「マクワさんのバトル、本当によかったけん。」
ぽつりと少女が呟いた。
「だから、あたし、そんな試合をダメにしたアニキが許せんの。……どんな理由があっても、叱るから!」
「……ありがとうございます。」
「だから、その、……マリィ、応援してるとよ!」
ちょっと照れたように笑うマリィに、マクワも釣られて少し笑顔になる。そして実家の妹を思い出していた。
[newpage]
数日後、多忙究めるローズに対し、マクワは少し無理を言ってアポイントを取り、ローズタワーを訪れた。最上階の部屋に案内されると、部屋の主はぼんやりと窓の外を見つめている。来訪者に気づいたローズはふと笑顔を浮かべた。挨拶もほどほどに、マクワは彼の立派なデスクへ2冊の台本を置いた。しおりを挟んでおいたページを開いてみせる。
「ローズさん。」
「マクワくん。お待ちしておりましたよ。」
「これは、ネズさんの台本です。こちらはぼくが頂いたもの。差異があるように思われますが。」
「おやおや、どうしてこれを。」
ローズの顔から少しばかり笑顔が消えた。
「納得できなかったので、ネズさんの妹さんに相談させていただきました。今回のイベント内容の管理は、ローズさんが行っていますね?」
流石に以前のような言い逃れが出来ないと理解したのか、ローズは端的に答えた。
「ええ、これもエキシビジョンイベント上の演出ですよ。」
「ならばなぜぼくに話がなかったのですか。ぼくは騙されて参加した事になります。」
「これはガラル鉱産側との約束でね。君自体を極力活かさなければいけなかったんだよ。本当ならわたくしもこういうやり方はしたくないのですが……。」
ローズは言葉尻を濁し、視線をよそに流す。
「今君は非常にシビアなところにいる。少しでも間違えれば市場価値が下がってしまうんですよ。」
マクワは広報担当と話をしたことを思い出す。だが、あの話の中で試合自体を操作する約束はなかった。今回のイベント自体はマクロコスモスが主催し、開催も全て自社で行っている。マクワはすぐに疑問を口にした。
「商工会側はそれを許したのですか!?」
「おっと、本イベント自体にスパイク商工会は全く絡んでいませんよ。わたくしが全てネズくんのバックアップをしております。」
「スポンサーが、絡んでいない……?」
マクワは愕然とした。では、完全にネズの一存だけで行動を起こしているという事になる。スパイク商工会自体はガラルから設立された、スパイクタウンの企業や興行を支える公的な機関だ。ネズが大きなイベントに参加するとなれば、当然力を入れて支援するだろう。スパイクタウンの経済状況が芳しくない事は、隣町のマクワも理解をしている。それを蹴ってまで、この試合でネズは負けを選んだ。ただ、自分をテコ入れで勝たせるために。ローズは笑顔を浮かべている。
「ネズくん直々にお願いしていますので。」
「そんなこと……あるのですか?」
「マクワくんは知っているはずです。ネズくんは見た目こそ派手ですが、非常に慈悲深い方だと。」
何かがおかしい、間違っているとマクワの脳内が警鐘を鳴らしているのに、その輪郭すら掴むことが出来ずにいる。目の前に広がっているのは、ひたすら大きな慈愛と名付けられた海だった。それこそ、溺れてしまいそうなほど。
「ぼくだけ、特別扱いを……?」
マクワが混乱の中、呟くように言葉を落とすと、この場に似つかわしくない程清閑なトーンでローズが祈る。
「……ガラルの、安寧の為だよ。」
「えっ?」
「何でもありません。ただ今回の協賛に当たっての特別な協定がありましたので。もちろんこんなことは今回限りです。今後は絶対にしないよう、約束させていただきますよ。後日、鉱産側も詫びるとおっしゃっていました。」
愛に満ちた世界は、たった一人の青年を置き去りにして全てを流し去っていく。
「今後ともよろしくお願いしますね。マクワ君。」
マクワが話をできたのは、そこまでだった。案内係に誘導され、長い長いエレベーターでローズタワーの入り口まで戻る。すると、今の話題の中心になっていた人物の姿があった。
「ネズさん?」
「おや、マクワ。委員長さまにごあいさつの帰りで?」
全く変わらぬ様子で飄々と、だが薄らぼんやりと怒りを纏わせながらネズは言う。マクワは先ほどのローズとの会話を思い出していた。
「……ええ。」
「あの試合のこと、マリィに強く叱られました。」
「……ぼくも怒っています。なぜぼくにわざと負けたと教えてくれなかったのですか。」
「いいえ、おまえにはわかるようにしましたよ。」
マクワは少しはっとした。やはり、解るように仕向けていたのか。ただ、憤りの矛先はそこではなかった。
「そうではなくて……ぼくは、何も知らなかったがために、ネズさんに不用意な怒りをぶつけてしまいました。あんな暴言を吐いてまで、黙る必要があったのでしょうか……?」
「……おれも台本がおれ専用のものだと知りませんでしたし。それに、おまえがあの委員長に貸しを作るところがみたかったんですよ。」
「なんですか、それ。」
「一人じゃ寂しいからさ、仲間が欲しかったんだろうね。あれは悪かったと思っています。」
口端で笑う。
「ネズさん。」
マクワはたっぷり間をおいて、慎重に言葉を選んだ。
「今回、商工会はネズさんに全く出資をしていないのですか?」
すると、ネズは一瞬だけ歪な笑顔を浮かべる。
「おや、あの委員長はそんなとこまでおまえに教えましたか。甘やかしたいのだと思っていましたが。」
「ネズさん! ぼくは怒っているのですよ。」
「誰かさんのお陰でスパイクタウンがピンチでね。おれは商工会の為、試合に出たのですよ。」
「それは、……委員長のせいですか。それとも、ぼくのせいですか?」
「おまえのせいならとっくに殴り込みに行ってます。」
「……そう、ですか。」
マクワが少し俯くと、サングラスが周囲の光を全て反射する。
「大人同士の機嫌取りは面倒臭いよ、本当に。」
「……ネズさんは、あの時、ぼくを信頼してくれた。ぼくは……。」
ネズは目を細めて、自立したての青年を見た。大きな彼の身体の中心で、正しい事象を求める気持ちと、自分自身を責めたい気持ちがぐるぐると渦を巻いている事が、隠した目の色から伝わる。トップトレーナーとなれば、ガラルの興行の中心で、発信する事にも価値を見出される人間だ。それを見た人々はメディアを通して、自分たちを自我の強い人間だと指をさす。だが、実際は違う。簡単に他人の掌の上で転がされる上に、誰かの言葉を自分の形にして話すことの方が遥かに多い。だからこそ、他人の介入のないポケモンバトルで、対話が出来る。呼吸が出来る。
「考えすぎです。おまえはこれからどうするつもりです?」
「……マリィさんの所へ、説明に行きますよ。」
「……マクワ、おまえはびっくりするぐらい……いや、”エゴイスト”ですね。」
本来ならネガティブな意味を孕む単語が、冷たく沁みるような慈愛を持って生まれてくる。ネズは言葉とは裏腹に、優し気に微笑んだ。どこまでも誠実だった。
「あまり自分を苛めるものじゃないですよ。」
「ならネズさんは……“卑怯者”です。なぜなら、その言葉、まるまるお返ししますから。」
「否定できないですね。……おれは、選択を誤りました。」
「……ネズさん、今度は絶対、筋書なしで、勝ちます。……絶対!」
ネズはローズタワーの入り口に足を進め、振り返ることなく返事の代わりに片手だけを振った。それが、この負けず嫌いの青年に対して、今最大限尽くせる礼儀とマナーだろうと思ったからだ。
[newpage]
「おやおやおやおや、今日は訪問者が多いですね。」
ローズタワーの最上階は、いつも通りシュートシティを一望している。デスクに座って書類に籾井合うローズの言葉がマクワの事だろうと思ったネズは、そのまま話を続けることにした。
「おれもこんなお高い場所にふさわしいとは思ってないですが、妹にバレちまいましたのでね。今一度確認をと思ってさ。」
「大丈夫ですよ。商工会へはわたくしからあなた分の人件費を支払いさせていただきました。それと、スタジアム清掃用具をスパイクタウンの企業から契約いたしましたよ。」
このイベントには、ローズとネズの間にも事前に交わされた密約があった。それはただ一つ、台本の通りに負ける事。これが成功すれば、マイクロコスモス直々にガラル鉱産の共同サービス分、スパイクタウンの小中企業との新契約を結ぶ約束だった。おまけに、乗らなければ逆にスパイクタウンの企業との取引をいったん取りやめにするという脅迫付きだ。脅迫さえ無視してしまえば、正直、商業力不足に喘いでいる故郷にとって、酷く魅力的な提案である。ネズのいる場所は、常に綱渡りのような瀬戸際に立たされていた。
「それならいいです。ただ、こういう要望は今後受けません。」
「もちろんです。しかし、本当にお優しいですね。マクワくん怒っていましたよ。」
「誰のせいだと思ってんですかね。」
「きみは心配だったんでしょう、先輩として。何かの為に自ら戦う苦悩は、一番きみが知っていますものね。」
「いちいち癇に障りますね。」
ネズは人一倍愛情が深かった。自分が生まれた街も、一緒に育った人たちも、彼にとっては全て家族同然。だが、スパイクタウンには現在ポケモンバトル興行の目玉である、ダイマックス可能なパワースポットがない。それでもスパイクタウンを活気付けるため、ダイマックス無しでもポケモンバトルを盛り上げようと厳しい環境下で努力をしてきた男だった。ローズは曲がってもなお聳え立つ背中を長く見ている。そんな彼が故郷の街を分割して戦い、大切な「岩タイプ」を盛り上げる為印象操作への注力する男に、何も思わないはずがない。だからこそ、ローズは今回マクワが主役のこのイベントの敵役として相応しいと思ったのだ。
「ガラル中が今、彼に躓かれてほしくないと思って行動している。素晴らしい愛ですね。」
心の底から嬉しそうに表情を綻ばせて両手を合わせるローズに、ネズは思わず顔をしかめた。
「本人が聞いたら死ぬほど嫌な顔するでしょうよ。」
「今のネズくんのように?」
「ああ。おれ、ここにいても神経逆撫でしかされないようなんで、帰ります。」
「ふふふ、あんなにわかりやすいSOSを出されたお礼ですよ。 わたくしの記載はもう少し簡素でしたからね。」
「当然でしょう。必ず一定のレベルのトレーナーなら気づきますよ。とくにあのマクワなら。」
彼がリーグに上がる様になってきて、何度も戦っている。マクワはかなり緻密に計算して戦う用意周到なタイプだ。岩タイプのパフォーマンスを兼ねた独特なスタイルを最大限生かすために、相手の手の内も極力予習する。どちらかというとネズは対称的で、ひたすら自分たちの自力を上げていく訓練の方向性が強めだ。フットワークが軽く、”メンバー”との連携が取りやすい。だから、もし、彼にわかるように負けるならば、少し普段の自分の動きを読み返せばいい。察しの早いマクワならばすぐに気が付くだろう。
「ふむ、なるほど。本当にみんな、素晴らしいトレーナーだ。嬉しいですね。」
「当然ですよ。誰もがあなたの作り上げた玉座を、今も食い破らんと爪を研いでいるんだから。それでは。」
静かに歩いていくネズが、扉を強く閉めた音だけが残響した。ふと様子を見守っていたオリーブが心配そうに声を掛ける。
「委員長。」
「ふふ、大丈夫ですよ。」
懐から、丸い突起のついた石片を取り出し、机の上に転がした。
「これは届いたもののほんの一部ですが。きちんとガラル鉱産からねがいぼしを頂きました。」
ガラル鉱産からローズの元に連絡が入ったのは半年より少し前の、穏やかな昼下がりの頃だった。業務中、社員の一人が見慣れぬ巨大な鉱物を発掘した。エネルギー資源としては非常に価値が高いことはわかり、おそらくねがいぼしの一種であるが、詳細がわからない。元炭鉱夫であり、伝手も多いローズなら調査が早く出来るだろう、お願いしたいとのこと。調べた結果、正体はローズが欲しているねがいぼしの巨大な塊であった。それも一つではなく、複数ある。所有権は当然ガラル鉱産にある為、ローズはとにかく取引の交渉をした。するとガラル鉱産は金銭より、広告の価値向上を欲した。何より今広告塔として立てている「マクワ」というポケモントレーナーの、ストーリー性の担保を求めた。ガラル鉱産広報担当が言う。
「非常に今広告価値の高い選手ではあるが、何しろリスキーなんです。彼の個性を活かしつつ、今だけ、少しでいいので、安定性を確保したい。」
「その選手を選んだのは、あなた方でしょう?」
「……上層部は元々キルクスジムのメロンの息子である彼を求めていたらしく。まさかあそこまで派手なことになるとは。」
担当は盛大にため息を零した。どうやら、ここでも世代派閥や身内争いは苛烈になるものらしい。裸一貫で会社を興したローズにはさっぱり理解し難いものだった。
「一度だけでいい。早いタイミングで勝ちを確定させて評価の安定を齎したい。」
マクワという選手には、アマチュア時代の早い頃からスポンサーとしてガラル鉱産がついていた。それはメロンという有名選手の息子であるという特権で、それにより既にファンも多くいたのだ。広告塔としてまさに適役だっただろう。だが、誰も彼が向かう先を予想出来ていなかった。ローズはやや悩むようなそぶりをみせたが、すぐに返事をした。
「まあ、良いでしょう。我々はよりよい環境を求めます。……彼自身や周囲にも顧客の視点の理解は必要ですしね。」
それに、と小さく続けた。
「ガラルの未来を救う大切な布石です。」
「そんなに、選手を買っているんですか。」
広報担当が感動交じりで驚愕している。聞こえてしまっていたらしい。ローズは微笑んだ。
「いえいえ、こちらの話ですよ。」
そんなやり取りを思い返しながら、ローズはローズタワー社長室の窓ガラスから人々が生活する世界を見下ろした。伸びたビル、走るモノレール、色とりどりに立ち並ぶ住宅。その全てに、たくさんの命が詰まっていて、美しきガラルという生命を繋いでゆく。だが、目先の解像度に囚われてしまえば、神の視点は失われてしまう。濶大な視野こそが、世界に真の豊潤を齎すだろう。自分は、自分だけはこの使命と、夢と希望を決して忘れてはならない。だから描く。美麗なシナリオを。宝物のような脚本を。現実は映画や小説よりも輝かしい物語となる。紡ぐ遥か未来の気高さを守り慈しめるのは、きっと選ばれようとしたものだけだ。
全て、ガラルを生かす道筋になります。
うっとり笑う委員長の瞳に、夕暮れに沈むシュートシティに灯った窓の明かりが星々となりさんざめいて。
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2020年7月16日pixiv投稿
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