◆夜のはしくれに乗る
急げ、急げよ。スクールは終わった。マクワは自分を叱咤する。家に荷物を置いたマクワは、必要な物を持って再び部屋を出る。シッターには近所の友達に返すものがあると言って家を飛び出した。
彼女はスクールからの送り迎えを行い、また母に代わって家の管理を行ってくれているひとだ。
友人の家の赤い屋根を通り過ぎ、駆け足で大通りへと辿り着く。昨日電話帳に保存しておいたアーマーガアタクシーの電話番号にPHSから電話を掛ける。
アーマーガアタクシー代は高いけれど、短い時間で「鉱山」へ行って帰って来られる乗り物は、これしか思い浮かばなかった。
「はい、アーマーガアタクシーです」
「あの、一台タクシーをお願いしたいのですが」
「……お時間はいつ頃ですか?」
子供の声を聴いた電話の向こうの低い声が一段と低くなり、心音がバクバクと耳元で騒がしい。
ここはぐっと心臓ごと腹の奥に呑み込んで、言葉を続けていく。
「今すぐです、場所はキルクスの――」
「了解しました。すぐ向かいますのでお待ちください」
なんとか居場所を伝え、呼び出しをする事が叶った。呑み込んでいた空気を思いきり肺から吐き出して、持ってきた水筒で水を飲んで口を潤す。
アーマーガアタクシーを使う子供なんて、一人前とされるジムチャレンジ後であってもほとんどいないのだ。まだポケモンさえ連れていない子供が簡単に使うものじゃない。
だがチャンスは今日この今の時間しかなく、もう二度と訪れないかもしれない。ここは絶対に妥協できない。
とにかく、一人前なのだと自分に言い聞かせて立派に、どうどうと大人の仲間入りしてタクシーに乗るしかない。それくらいできなければ、きっとこの後の自分は道がない物と思え。人生がないと言っていいだろう。
数分後、時間通りやって来たタクシーの運転手は、明らかに学校帰りのマクワに行先を尋ねる。
「ガラル第一炭鉱へ」
「ガラル炭鉱? 何しに?」
「ポケモンを育てに。ぼくはメロンの息子です。代金は払います」
「へえ、あのメロンさんの。……わかった、行こうか」
マクワがタクシーの後部座席に乗り込み、しっかりと座れば、アーマーアガアが大きな翼を広げる。ひとつ羽ばたかせると風に乗り、あっという間に雲の近くまで飛び立った。
今の今まですぐ真後ろにあったはずの自宅が、爪の先よりも小さくなって、キルクスの街も遠ざかった。随分と小さいけれど、特徴的なナックルシティの城壁が目に飛び込んできて、マクワは思わずためいきを零した。いつも母親に連れられて下から見上げてばかりいたけれど、上から見るとこんなにも面白い形をしていたなんて。
少年がたったひとりでここまで遠くへ来ることは初めてで、胸の奥がどきどきと震えていたが、なんという名前なのかまでははっきりしなかった。
「メロンさんはあちこち大会に出て忙しそうだね」
揺れがだいぶ落ち着いてきたころ、運転手が声を掛けた。
「そうですね……今日もリーグから呼び出しを受けていました」
「リーグから? 何か事件でもあったんだ。……きみはええと」
「マクワといいます」
「そうだ、マクワくんだ。マクワくんはもうジムチャレンジなんだっけ」
「今年の予定です……母からの推薦で」
「そうか、それはまた仰々しいというか、プレッシャーもあるだろう?」
「そんなことは……ぼくの特権ですから」
「特権、かあ。お、そろそろ着陸態勢に入るよ、しっかり捕まっていてね」
「は、はい」
アーマーガアは目標地点を定めると、ゆっくりと地上へと高度を下げていく。ぐんぐんと地面が大きくなり、身体の中身ごと重力に引っ張られる。気持ちは悪いが、新しい乗り物に乗っている心地はとても楽しい。窓から視ているとすぐ目の前に岩山があり、まるでこの崖の中に落っこちていくのが目的のように思えて、マクワはぎゅっとシートを握った。
しかしアーマーガアは、山中に着地出来る木と木と合間の広間を見つけると華麗に旋回しながら極力座席が揺れないようにゆっくりゆっくりと降ろしてくれる。運転手が後部座席の扉を開ければ、すぐそこはもうぽかりと大きな口を開けた、鉱山の洞窟の入口のすぐ前だった。
「はい、到着だよ」
「ここが、ガラル鉱山……」
「それじゃあ気を付けてね」
「ありがとうございました!」
マクワは料金を支払い、頭を下げると、すぐに背を向け鉱山の中へと駆けていく。鉱山は初心者のトレーナーが入れるようにも整備されていて明るく、足場も安定している。
それでも最初は薄暗く、目が慣れるまでは時間がかかる。何度も瞬きをしながら、目標を探して身回す。ちらちらと輝く灯り、昏い岩壁、特有の湿っぽい香り、トロッコ用のレール、鉱山内で働く人たち。
どれもマクワが探しているものではなく、他に神経を研ぎ澄ます。
がらがら。土を蹴り、何かが回る音が聞こえた。マクワはさっとそちらに身体を向ける。
大きな頭にくっついた車輪、アンバランスな身体で歩くタンドンだった。
マクワは思わず生唾を呑み込んだ。そして鞄の中を確認する。水筒、けむりだま、モンスターボールは今日みたいな日が来る時の為にお小遣いをつぎ込んでたくさん用意しておいたものだ。
大丈夫、絶対に摑まえるのだ。必ずうまくいく。うまくいかせる。勉強もしたし、ボールを投げる練習もした。なんといってもあの母の――。
緊張をほぐすため、水筒から水を飲んでのどを潤した。蓋を閉じて、鞄にしまう。がたん、と大きな音が響いた。
ボールを一つ取り出して、まだこちらに気が付いていないタンドンに向けて投げつけた。
タンドンの身体はモンスターボールに吸い込まれて、かたかたとゆりかごの様にボールと共に揺れていた。
捕まれ、捕まれ。マクワは念を掛けるように祈った。どうか、早く、すぐにでも、お願いします。
だがしかし、その祈りは通じることなく、すぐにボールから飛び出してしまい、タンドンはマクワの姿を見つけると、近くにいた別のタンドンと共に慌てて逃げ去っていった。
「ま、待て!」
マクワも彼らに負けじと追いすがったが、あっという間に見失った。しん、と静まり返った洞窟の中を、小さな溜息が大きく支配した。
「……ダメだ、タンドンがいいんだから。……急がないと」
しばらくぐねぐねと婉曲する岩窟の道を彷徨っていると、再び違うタンドンと出会った。次のタンドンは血気盛んで、マクワを見るなり突然たいあたりをけしかけてきた。
手持ちのポケモンがいないマクワでは応戦が出来ず、このタンドンからはひたすら逃げて隠れ、なんとか大きな岩のくぼみで身体を隠し、タンドンが過ぎ去るのを待った。
ぱちぱち、とマクワの近くで何かが弾ける音がした。なんと弾ける炎を乗せたトロッゴンがびゅんと背中の上の岩の向こう側のレールに乗って遠ざかっていったのだ。
「うわあ……! ……いや、いやいや。いくらなんでも高望みが過ぎる。まずはタンドンじゃないと」
最終目標は、セキタンザンだ。母を倒せるポケモンを手に入れたい。
ずっとずっと考え続けてきた。母の専任タイプである、こおりを穿つ力を持つポケモン。
ポケモンにもいろんなタイプがあり、種類だって無数にいる。
今日この日の為に、たくさんの本を読んだり、インターネットで調べた。このガラルで、こおりタイプに勝つポケモンは一体何が良いか。
ダイオウドウ、カイリキー、オトスパス、イシヘンジン、リザードン、マルヤクデ。
スクールやネットでアンケートをとってみた事もある。
「はがねタイプはダイオウドウがかわいいよね! この間チャンピオンになったピオニーも連れてた!」
「ほのおタイプならリザードンもいる! チャンピオンのポケモンだぜ!」
「かくとうタイプだって! 前チャンピオンのポケモンだったんだぞ!」
「いわタイプってパっとしないよなあ、無骨っていうか」
有象無象の意見が集まったが、ほのおといわタイプを持つセキタンザンであれば、母を倒すにあたってこれ以上の適任はいないと結論付けた。ほのおといわはどちらもこおりを砕き、溶かす絶対の力だ。
だがしかし、まだマクワはこおりタイプでさえポケモンを持っていない。
トレーナー単独では、強くて逃げ足の速いトロッゴンを捕まえることは至難の業である。
既にトレーナーのいろはをみっちり母に仕込まれて理解している。
どぐあん!!
激しい音を立てて近くの壁が震え、ばらばらと小石が降る。
「わ!?」
さっきの好戦的なタンドンに再び見つかってしまったらしい。何度も何度も壁が震えている。
野生のポケモンが別の生き物に戦いを挑むのは、ごく自然なことだ。そうして彼らは経験を積み、より強い個体となって進化をすることが出来る。
だから身を守るために、特別な力を持たない人間はポケモンの力を借りる必要がある。ポケモンを連れずにポケモンの住処の中へ足を運ぶのは自殺行為。
母から徹底的に教わったひととポケモンの関係の基礎中の基礎だ。理解している。
(え、ええっと、けむりだま、けむりだま……!)
後ろを振り向き、ちらちらと眼線だけを追いながら荷物の中身を探っていると、きちんと仕分けしていても欲しい物を出せない。
そして足元を見ておらず、足に何かが引っ掛かった。
「……ッ!」
マクワの身体がずしゃりと地面に叩きつけられた。
タンドンも絶好のチャンスを逃しはしないだろう。全身全霊を掛けてぐるんぐるんと車輪を転がす。マクワも一か八か、手元のモンスターボールをタンドンに投げつけた。
ガシャン!
もこもこと黒煙が渦を巻き、壁と壁の間を煙の大きな身体が埋め尽くして何も見えなくなってゆく。気管に入ったのか、喉奥が気持ち悪くて、けほけほと咽せてしまい、涙がでる。
偶然、数個しかないけむりだまを投げることが出来ていたのだろうか。とにかく再度逃げるには絶好の機会が訪れたことには間違いない。転んで擦りむいた膝が少し痛むが、これくらいなら訓練での怪我の方が数倍痛い目にあっている。
マクワは立ち上がって、姿勢を低くしたまま先ほどのタンドンに見つからぬよう、そっとその場を後にする。
タンドンの気配が消え去って、小さくため息をつく。洞窟もだいぶ深い所まで入ってきてしまった。町と町を繋ぐ通路の役割も果たしているので、迷う事はないが、それでも家から遠ざかっていることに変わりはない。
遅いとシッターにも怪しまれてしまうのだ、一秒でも早くタンドンを捕まえて、帰らなければいけない。その機会は今日、今この時間しかない。
そうでなければ、マクワの最初のポケモンが、今メロンが連れている切り札のラプラスになってしまうのだ。
それだけは絶対に、なんとしてでも阻止しなければいけないと考える。
今日、失敗してしまったら、マクワは一生メロンの後を辿り続ける人生を約束されてしまうだろう。それは、つまり自分だけでなく……。
「……急ごう」
◆
『ポケモンを捕まえる時にはね、そのままでは捕まえるのは難しいことも多いの。
だから必ずこちらもポケモンを連れて行って、なるべくこちらが強いことをアピールしたり、状態異常にすることでようやくボールを投げる。
ちょっと手荒だけど……ポケモンってそれぐらいシビアな生き物なの。わかるでしょう?』
マクワの脳内でいつかの母親の声が反復する。
出会ったタンドンに向かい、幾度もボールを投げるがやはりなかなか捕まらない。そういえばボールの投げ方はあまり母にも教わらなかったような気がする。
それもそうだ。ポケモンを最初から贈呈してくれるつもりだったのだから。それを考えると、少しだけタンドンを追いかける足が早まった。
コロコロと車輪を転がして歩くタンドンに、そっと近づいてモンスターボールを投げた。
ボールはぱくりと開いてタンドンを挟み込み、光で呑み込むとその場に落ちて、ゆらゆら揺れる。
(入れ……入れ……頼む頼むから……!)
幾度目かの揺れが収まって、ボールが止まった。
ようやく捕まえられたと思い、マクワは走って駆け寄るが、ぽん、と警戒な音を立ててボールが開いた。
「……ああっ」
タンドンはすぐに走り去ってしまい、またひとつモンスターボールを失った。
モンスターボールは残りあと1つだ。
やはりこのまま母の後を継ぐことが、一番よい選択肢なのだろうか。
マクワは知っている。母親が準備してくれた環境の全ては、ガラルに住む人間であれば、だれもが汗水たらして作り上げようとするものだ。
優秀なトレーナーたる母が育てたラプラスを譲ってくれるという恩恵も、常人では有り余るほど素晴らしく、他のトレーナーとは圧倒的な差がつくと理解していた。
それでも、どうしても母親のやり方をなぞり続けることが、自分に対して許せなかった。
「ハカーッ!」
「トロッゴン!?」
大声を上げてタンドンを追うトロッゴンがマクワの目の前を通っていく。トロッゴンはタンドンの進化後の姿であり、その力量差ははっきりとしている。タンドンは逃げるしかないのだろう。
だがしかし、マクワはタンドンが持っているものに気が付いた。
「あれは、ぼくの水筒……!?」
とにかく、一旦トロッゴンの気を引いて時間を稼ごう。マクワはそう考え、近くにある拳大の石を複数集めて膝の上に抱えると、岩陰に隠れてトロッゴンに投げつける。
一投目は外したが、次の石を背中の炎の山の中にぶち込まれたトロッゴンは痛みのあまり急ブレーキをかけて、再び自分の近くに墜ちたものが何かを探る。その隙に三投目、四投目とトロッゴンの横に石が降り注ぐ。何処から投石されているのかが分からず困惑し、吼える。
タンドンも何が起きているのか理解が出来ず、不思議がっている。逃げる機会を捨てるわけにはいかずそのまま凹凸の激しい道を転がるように駆けていく。
だがトロッゴンは賢い。すぐにマクワの居場所を突き止めて、猛スピードで突っ込んで来た。投石を続けて機動を逸らしながら、なんとか近くの岩壁によじ登って、くぼんだ足場に両足を掛けて立って壁にしがみ付いたまま高さで場所を稼ぎ、その場を凌ぐ。トロッゴンは地上の移動スピードは車に負けない程早いが、上下には移動が出来ない。
同時に、マクワは自分の逃げ場も失う事になり、トロッゴンが諦めるか、自分がこのまま力を失ってトロッゴンの餌食になるか、嫌な想像が脳裏に過る。
窪みに引っ掛けた手足はがたがたと震えていて、少しずつ力を失っているのが分かる。長い間ここで耐え続けるのも難しいだろう。
トロッゴンは、がつん、がつんとその身で今も獲物に攻撃をけし掛け、追い打ちを掛ける。
だがん!
とうとう左足を乗せていた石が崩れ落ち、マクワは慌てて両足を同じ石で支えなければならなくなった。そうなれば負担は2倍かかる。同じように崩されるのは時間の問題だった。
(どうしよう……!)
ずっとずっと急いでポケモンを捕まえることばかりを考えて、躍起になっていた。ただタンドンさえ摑まえる事が出来ればそれでいいと思っていた。けれど現実は簡単にはいかなかった。
ここで死んでしまったら。必ず母は哀しむだろう。
長い時間手塩にかけて育ててきた、才能あるという大切な大切な跡継ぎを失うのだ。
それはそれは辛く苦しく哀しいに決まっている。そうしたら次は、妹が。
そこまで考えて、頭を振った。ちがう。そうじゃない。
母親はガラル地方でも有数なジムリーダーで、本当に卓抜たるトレーナーなのだ。家にトロフィや盾がたくさん飾ってあり、シッターはいつもピカピカに磨いていて、テレビ番組でも難しそうな顔をしたおじさん達にしょっちゅう褒め称えられているのを聞いている。彼女のやり方が素晴らしいことは当然だと子供の自分にだって理解が出来る。
だからどれだけ母がシビアな特訓や課題を出してもこなしてきたし、母のスタイルのこだわりにもついていくことは言うまでもなかった。
でも。自分が人生で初めてパートナーとなる予定のポケモンを、今母親の切り札から譲ると言われたとき。自分の為に育ててきたんだよ、と優しい笑顔で微笑まれたとき。
どうしても、心の底から”違う”と叫びたくなってしまったのだ。
母の専任タイプを打ち破り、自分自身の道を切り拓くことで、母に伝えなければならない。死んでしまっては出来ない事だ。
凹凸だらけの濡れた壁に指をひっかけ、擦りむけた掌に血が滲む。痛みはなんとか食いしばり、もう一度その手を上へと握り直した。
思えばいわタイプのポケモンに対して知識がほとんどなかった。ただこおりタイプに滅法強いポケモンだったら誰でも良かったから。
でも待てよ、トロッゴンはいわとほのおのタイプを持っている。水と地面に弱い。
つまり、あの水筒の中身があれば、打破できるのではないか。最初に飲んだきりならば、ほとんど家で汲み直したまま残っているはずだ。さっきのタンドンは何処へ行ったのだろうか。
戦い方を変えたトロッゴンがちろちろとハブネークの舌のように火炎を這わしている。マクワは壁にしっかりと手足を伸ばしたまま、頭だけを動かして辺りを見る。
少し離れた場所で、さっきの水筒を持ったタンドンがきょろきょろと周囲を見渡している。
「……ま、まさか、ぼくを探してる……? た、タンドンー!」
マクワは片手を離し、大きく手を振った。タンドンは自分が呼ばれている事に気が付かない。
「タンドンー!」
「!」
何度か大声を出して、ようやく理解したのだろう、タンドンの赤い目とかち合う。
そして一目散にマクワの方へと真っ直ぐ走って来る。真下にはさっきのトロッゴンがいるというのに。
「たッ……タンドン、待って……下に、トロッゴンが……!!」
焦るマクワを尻目に、タンドンはただただ無防備に近づいてくる。
もはや一刻の猶予もない。マクワはとにかく一か八かでタンドンに声を掛ける。必要なのはあの水筒。それさえ手に入れば、この状況を覆せるかもしれない。
「ぼくにその水筒、投げてくれますか?」
「ハッカ!」
足元近くにタンドンが止まった瞬間、とうとうトロッゴンがタンドンの方に気が付いた。
トロッゴンは炎を上げてタンドンを歓迎した。口からぷぷっと小さなひのこを吐き出して、タンドンの小さな体にぶつけた。
タンドンの赤い瞳はそれより上の、ずっとマクワの方を視続けたまま、彼の言葉を全て聞き取り、正確に指示を再現してみせた。
水筒を、マクワが受け取れるように、投げる。
くるくると回転する水筒は、見事にマクワの目の前まで届き、金属製のボトルは柔い人の手の中に吸い込まれる。マクワはボトルの上部の口を全て外すと、まだ自分の真下でタンドンを睨みつけているトロッゴンの頭に向けて思いきり中身をぶちまけた。
じゅううう!
焼けた石をたっぷりの水が冷やし、白い蒸気が吹き上がる。
「ハガガガー!!」
相当痛かったのだろう、トロッゴンは大きな声を上げてその場で蹲る。それを見たタンドンが、今の今まで自分を追いかけ回していたトロッゴンに近づいて、そっと身体を寄せる。どうやら自分の体温を上げて温めてあげているようだ。
「ハガ……」
(かつて大寒波に襲われたとき 巨大なストーブとなって 多くの命を救ったといわれている)
少し前に見たキョダイセキタンザンの図鑑の言葉がリフレインした。マクワは壁から降りて、そっとふたりの様子を伺った。壁に触れて擦りむけた掌が熱を持ったので、息を吹き付けて冷ました。
今なら、トロッゴンにモンスターボールを投げて摑まえる事が出来るかもしれない。トロッゴンであればすぐにセキタンザンに出来る。だがなぜかマクワには、全くその考えが頭に浮かぶこともなく、少しだけ元気を取り戻したトロッゴンが、その場から逃げるように去っていくのを見送った。
あれだけ切迫していた気持ちが嘘のようにすっきりしている。
マクワは大きく息を吐くと、思わずタンドンの横へと腰を下ろした。
「助かった……。どうもありがとうございました。きみは……優しいのですね」
にこにことタンドンは笑っている。彼にとってはこれが当たり前のようだ。そして次はマクワの足と手の怪我を、じっと見つめている。
「……心配してくれている……? ひょっとしてきみは、ずっとこれをぼくに届けようとしてくれていたのですか……あの煙も……」
マクワは好戦的なタンドンに追われていた時、突然現れた謎の黒煙を思い出す。
あれはこのタンドンの放った『えんまく』で、知らぬうちから彼に助けられていたのだ。
タンドンは首肯する。マクワは、自分の胸の内も温かい炎が移ったような心地を得る。
彼はなんだかとても不思議な雰囲気だったが、つい隣に居てしまう。あんなに強く心に刻んでいた筈の事を忘れてしまっていたが、ここはポケモンの生息地。またいつ野生のタンドンやトロッゴンに襲われてもおかしくないのだ。
そうしてタンドンが与えてくれる温かさが、少しばかりのゆとりになり、ふとマクワは今日の自分の心の中にランプを灯して顧みる。
あれは逃げて行ったタンドンのひとり。もうひとりのタンドンと寄り添うように逃げていく。
違うタンドンは何処かへと急いで向かっていく最中だったように見える。
(……そうかぼくは……今日、タンドンたちの事をなにも見てなかった……自分の事ばかりで……。むしろ襲ってくるタンドンが少なかったのは幸運だった……)
マクワはポケモンを捕まえ、育てることがトレーナーの役割だと考えていた。
ポケモンに教えるのが人の役目であり、ポケモンは追随するものだと。このタンドンは自分の知らない事も、たくさん知っている。
自分の描く道筋が深い宵闇の中に入ってしまっても、道を見失うことなくどこまでも走ってくれるだろう。
鞄の中から最後のモンスターボールを取り出して、横に置くと言う。
「あ、あの……! ぼく、タンドンを探していて……ぼくの力になって欲しい。……ぼくを……助けてくれませんか」
なぜそんな言葉がすらすらと出てきたのか、マクワは自分でもわからない。険しい訓練を繰り返す母親にさえ言ったことはあっただろうか。早速彼の炎に照らし出されて、自分の心のうちに深い夜の色を知る。
赤い目がぱちくりと、マクワの顔を見上げる。紅白のボールと灰簾石の瞳を何度か行き来して、にっと笑う。こつんと頭でスイッチを押し、蓋が開いて光を放ちながら自ら吸い込まれてゆく。
今日マクワの前で何度も何度も揺れていたモンスターボールが、とうとうぱちんと収まった。
あまりにも不格好な、マクワとバディの約束の始まりだった。
ここはよるのはしくれ。ともに見る黎明が、寒々しくも優しい色をしてふたりの姿を待っている。
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