セキタンザンが死んだ。
あれほどの巨体でさえ、あっけなく終わらせてしまえる。
命という物は、なんて脆く残酷なのだろう。
◆
自然豊かなヨロイ島は、たくさんのトレーナー達がオフやトレーニングに選ぶ、知る人ぞ知る所だ。
雨の日も、霧の日も、曇天の日も、日差しの強い日も。
誰かが好きなポケモンやパートナーと共に、彼らだけの時間を過ごしている。
森でも、浜辺でも、洞窟でも、砂漠でも。思い思いのポケモン達と、より近くで同じ夢を感じられる場所。好きな時に訪れて、好きな時に人里に戻る事が出来る。
ほとんど人間のいない、ポケモンと向き合うための雄大な空間。
だからこそ自分の目標に向けて集中するには持って来いの場所だった。
そう、たとえそれが誰かからの頼まれごとであっても。
◆
「タマゴォ?!」
すっきり晴天の空の下。ガラル東の大きな孤島にある小さな道場で、クララの声が壁にぶつかって転がる。門下生たちは外での訓練を言い渡され、全員自然豊かなヨロイ島でポケモンたちと鬼ごっこをしていて誰もいない。クララの隣で、セイボリーが耳を塞ぎ、ぱちぱち瞬きをした。師匠マスタードは背戸に通ずる扉の前で、事もなげに短いを霜鬚を扱いている。
「そう! いやいやごめんね、ジム忙しいのに呼びだして」
「いえ! シショーの頼み事ならいつ何時でも!」
不服そうなクララの代わりにセイボリーが胸を張った。
「ふふ、ありがとね。クララちんのそれは、ポケモンのタマゴだよん。誰が出てくるかはお楽しみ! というわけで、これからしばらく、この子を育てて欲しいんだけど~」
「えええ……可愛くない子が出てきたらどーしよォ……」
「大丈夫、クララちんなら問題なく育てられると思うよん。よろぴくね!」
「……あの、シショー? 頼み事、というのはこれだけでしょうか?」
大きな卵を抱えるクララを横目に、セイボリーは尋ねた。クララもセイボリーも、この道場での修行から既に卒業し、それぞれジムを持つ身だった。
もちろんマスタードが知らないはずはない。ジムリーダーというものは、たとえマイナーリーグであっても、多忙になり、時間制約が大きいのだ。
何か理由があることはわかるが、少し説明が足りないように思えた。
ときおり行動が予測から逸脱することはあるものの、セイボリーにとっては大恩ある師に違いない。
「もうひとつ! 最近、どーもうちの山が荒らされてるのよん。立て続けに土砂崩れが起きていてねえ。調査をセイボリー、きみにお願いしたい」
「わかりましたシショー! セイボリーにおまかせを!」
「チミたちは優秀な卒業生だからね~。頼らせてもらっちゃうよん」
優秀、と聞いたセイボリーがぐっと胸を張った。
「エスパーパワー・エレガントで! クリアしてみせますよ!」
「……なんか乗せられてね? まァいっか! わたしも期待されてるってことだしィ」
クララはタマゴを撫でる。返事はなく、ずっしりとした確かな質量は、大きな石のようにも感じる。生まれるまでにはまだまだ時間が掛かりそうだ。
「山荒らしって、あの怪しい男とかじゃないのォ?」
ヨロイ島の山間に、穴掘りを名乗る男たちがいる。大きな荷物を背負い、重装備の男は島で掘削を生業としている。
以前いた弟子のひとりも、彼らに対価を渡し、発掘を頼むことで、穴の中で見つかった品物を貰っていた。彼らの正体は誰も知らないが、ほとんどの時間を島の中で寝食を足していると言っても過言ではないだろう。
「そういうわけでもないんだよねん。あの人はプロ。必要以上に掘らないし、掘り過ぎたものはきちんと返してくれる。もちろん許諾も取ってるよん。ほら、ミツバちんにね」
クララには思い当たる節があった。そういえば師匠の妻、ミツバは、発掘品を欲しがっていたらしい。もっとも、例の弟子のおかげで十分量集まったらしいが。
強かだなと思っていると、隣のセイボリーが既に話を進めている。
「ポケモンの可能性もありますか?」
「多分ね。むしろポケモンの方が可能性高いと思っているよ。あ、ちなみにこの辺とこの辺ね」
初老の男は、鎧島の地図を取り出すと、ペンでくるりとマークを付ける。きゅっきゅと小気味良い音が山の絵柄の上で踊った。
「原因不明の土砂崩れかぁ、それならタマゴ育てる方が何倍もラクかも~」
「あの! ……シショーは他にどうお考えで?」
マスタードは、升目上に仕切られた格天井を見上げる。
「うーん。それ以外は見当つかないんだよねー。特に雨が降ってないし、立派な草木も多かったから、原因がわからない。ワシちゃんも手伝いたいんだけど、これからしばらくダンデちんと仲良く泊まり込みの修行三昧でねぇ」
「修行三昧?」
「そそ、タワーオーナーのダンデちんに招待されちゃってー! ミツバちんにはもう伝えてあるんだけど、しばらく留守にしちゃうよん」
思えば、大きい旅行用のトランクが、マスタードのわきに据えられている。ことバトルの話となると、老人の目は、まるで少年の日のような輝きを宿した。
「ひィ……元チャンピオン同士のバトルタワー……? め、眩暈がしそう……」
「というわけで、この2つ よろぴくね!」
「……おまかせください!」
マスタードはひらひらと手を振って、トランクを転がし道場を後にした。
ぴしっとセイボリーが長い帽子ごと下げた頭を、クララは卵を抱いたまま横目に見下ろした。
「……そっちの方が大変そう、頑張ってねェ」
セイボリーは一瞬面食らったが、それもそうだと思い直した。別に協力しないといけないわけではない。地盤調査なんて、自分の分野外で大任だ。その上性格の良くないクララのお守りまでするとなれば絶対自分の手に余る。
「え、ええ! もちろんこのセイボリー! でんこうせっかの如く! 即・解決してみせますとも! どうせならスピード勝負でもしませんかァ?」
「あはっ、それいいかもォ! クララ負けないぞ~!」
セイボリーは即刻道場を飛び出そうとした。クララはタマゴを置くと、やにわにペンドラーを召喚し、卵を抱えさせた。
「ベノムショック準備!」
「……ちょちょちょ待ちたまえ!? あなた、大切な道場で、一体何をしておられるので!?」
もくもくと紫苑色の煙が道場から立ち上る。悪臭が酷い。扉を開け放したまま、セイボリーが慌てて室内に戻ると、クララは元の位置で、不思議そうに頸を傾げていた。
「うーん? どくポケモンだったら 珪素濃度を上げるとすぐに反応する筈だけど、この子どくポケモンじゃないわけェ!? ちっとも反応しないよォ! ……まさか死んでないよねェ」
「いやいやいや普通は温めるところですよ!? あなたのせいで死ぬところです!」
桃色の髪の女性は、ぱちくりと目を瞬かせる。ペンドラーが不思議そうな顔をして自分の主を見た。セイボリーがでんこうせっかのように移動をし、道場中の窓という窓を開く。場裡のもやが消え、窓から吐き出される瘴気に驚いたらしいとりポケモンの、慌ただしく飛び立ってゆく羽音が一斉に起こった。
「……マジ!?」
「大マジです! 基礎中の基礎ですよッ!? こんなの「よいこのトレーナードリル」4ページ目には記載されている情報ですッ!」
曖昧に笑いながら、クララの指が桃色の髪の毛をくるくるといじる。
「実は……うちタマゴからポケモン育てた事ないんだよねェ……ポケモンに興味持ったの最近だしィ……」
「まったくこのジムリーダーたるもの……ああなんと彷徨えるウールーのごとし!」
セイボリーの視線が険しく刺さった。だが、一向に動じないクララは小首をかしげてからの上目遣い、ついでに頬に食指を添えて、媚びるように上体を左右に揺らした。
「……ね、ねーぇセイボリーくぅん、ちょっとお願いがあるんだけどォ」
「……なぜでしょう。ワタクシ、テレパシーはサッパリのはずなのですが、なにやら既に声が届いているような……ええい、なんでしょう!」
「さっすがセイボリーちゃん! フフ、ここは一時休戦ってことでェ、仲良くやらない? うちも土砂崩れの犯人探すの手伝うからさァ」
「……いいでしょう。 シショーから預かった、まだ生まれてもいないポケモンをポンッ!とされるより断然マシです!」
「ほんとォ? やったー! んで? これどうすればいいの?」
「ここはヤドンのごとく! のんびりとお待ちくだされ」
「えー」
途端にクララが頭を落とす。セイボリーは軽く咳払いをした。
「体温で温めていればそのうちパッと孵化します。運動しながら温めれば、からだの熱がじかに伝わりますので、さらに効率アップ! まさしくほのおのからだ! まあ、体温の高いほのおタイプのポケモンがいれば孵化の助けになるかもしれませんが」
「……育ててない……」
「ダメですね。道場にタマゴを背負って運ぶ為の道具があったはずです。ここは心をあくタイプにして! 少しばかりどろぼうすることにいたしましょう。伊達にポケモン世話係してませんでしたからねワタクシ!」
セイボリーは休憩室の棚の扉を探った。中には食材や、皿など調理器具ばかりが入っている。一番奥の扉を開けると、ポケモンの世話に必要な道具が籠の中にたくさん詰められている、籠の中から背負い紐を取り出した。クララは道場の真ん中で座り込んでいる。
「シショー! こちらお借りいたします!」
「えーん! ずっと背負ってたら重いじゃァん?? セイボリーセンセーの方がよくない!?」
「ワタクシは別に孵化しなくても良いんですよォ!」
「うちだって別に孵化しなくていいもん~」
「シショーからのお願いを無下にするつもりで!? あなたも恩があるのではなくて!?」
「……ぐすん、わかりましたァ、持てばいいんでしょ!持てば!」
下から来るんで、布の両端を腰に惹きつけ、タマゴが体重を預けてくるよう、クララはせぐくまった。後ろからセイボリーが紐をきつく結んだ。隙間があるので少し動くが、紐はしっかり安定しているようだ。クララが少し跳ねても浮かばない。
「それではシショーのお印の場所まで、レッツ・セイボリー・テレポート!」
◆
まるで草木を泳ぐように、好天の下を歩いていく。深い草むらは見通しが悪く、ポケモンが潜んでいる可能性もある。セイボリーは周囲を警戒しながら、一歩一歩進んだ。土砂崩れの現場は、ヨロイ島山の中腹にある。時折木から落ちてくる木の葉をよけて、クララは頭を振っていた。
「うげェ……めちゃくちゃ山じゃん……協力するって言ったの失敗したァ! 下で待ってればよかった~!」
「クーリングオフはもうタイムオーバーですので。動いていた方が熱が届いて孵化しやすくなりますよ」
「その前にうちが死んだら意味なくねェ~?」
タマゴを背負い、後ろを歩く女性が一度背負った荷物を降ろすと上着を脱ぎ、汗をぬぐいながらぶつぶつ文句を言っている。
片手には途中で拾った樹の大枝があり、杖として使っていた。
大型のポケモンが移動に使う獣道をひたすらたどり続けて、だんだんと木の間が間遠に、頭上を覆う緑が薄れてきた。空の青さが久しぶりのようだ。山の斜面をなぞって、はるかに海を見遣ると、水天の間際に師匠が管理する塔の屋根が輝いている。
大岩がいくつも転がっており、クララは一番小さなものの上に腰を下ろす。野生のポケモン達が賑やかに鳴いていた。
「これはこれはげに美しい眺めぞかし! セイボリー感激!」
「もう足疲れたんだけどォ~」
「……しかし、こちらはまぁ酷い」
セイボリーはクララを無視して、崖になっている足元を見下ろす。見事にぽっかりと抉れ、盆のような形になった茶色の地盤が露出していた。木々の根っこが帳のように降りて辛うじて残っている。半分ほど色が変わり、埋まっていたであろう大岩までもが土の上に転がり、崩落した礫塊はかなりの量だ。
崖崩れが起きてなければ、この先には緑の延長が続いていたのだろう。
「アリジゴクみたい……こわァ」
「スマホロトム、撮影を」
スマホロトムは持ち主の指示を聞き、土砂崩れの現場上空をふわふわと飛んでいく。時折パシャパシャという機械音が聞こえた。
ふと、下の茂みの中からがさがさと草を掻き分ける音がする。ポケモンかと思い、2人は顔を見合わせ、見つからないよう身体を低くして、崩れた地面を見下ろす。
ボトルをメッシュポケットに入れた、大きなカバンを背負った男だ。その手には喋るを携えて、崩れたあとにあらわれた露岩をすいすい伝わって、急な斜面を登ってゆく。大きな体躯に生き物のようにうねった金髪、表情を読ませない尖鋭的なサングラス。いわジムのジムリーダー、マクワだった。ひたすら地面を見つめては、時折小石を拾っている。
「あっれェマクワさん? どうしてここに」
「……珍しいいわポケモンでもいるのでしょうか?」
その時だった。がちん、と上方の崖の端から金属のぶつかる音が聞こえる。ごおお、とポケモンが吠えている。見ればコドラが2頭、にらみ合っていた。地面を蹴って頭と頭でとっしんし合う。足元の土が抉れ、がらがらと下にいるマクワの方へと土が落ちていく。
土塊だけではなく、少し間違えばコドラさえ転がっていきそうだ。
「マクワさん危なくないィ!?」
「助けられます!?」
「無理!」
「大丈夫ですね! ワタクシあちらを止めてまいりますので。お先にごめん!」
「会話しろやァ!!」
「あれがこの土砂崩れの原因かもシレ・マ・セーヌ!」
「えぇええ~」
座り込んだままのクララを放置し、セイボリーは颯爽と走る。なるべく崖際には踏み込まず、大きな樹が生えている場所を選んでいく。しかしポケモン達は、いっそうはげしく押し合い圧し合い、遠い地方のポケモン、ハリテヤマのように投げて落そうとしあっている。そのたびに土塊が削れ、転がる土と砂の量が増えていた。
「ヤドラン! サイコキネシス!」
セイボリーはコドラたちとの間合いをはかると、その場で深く一揖して、シルクハットのめぐりを土星の環よろしくめぐっていたボールの一つを熕(おおづつ)のように飛ばした。現れたヤドランは2匹のコドラを軽く浮かせると、別々の方に投げ飛ばし、距離を作った。コドラ達は受け身を取って着地をする。新たな敵の登場に、2匹ともセイボリーとヤドランを睨みつけた。
一斉に地面を蹴ってヤドランへと向かう。
「そのままねっとう!」
コドラは予想通りの動き方だ。内心ほっと安心しながら、セイボリーは指示を続けた。ヤドランの貝の尖端から出た熱い湯は横に一線放たれ、見事水の苦手なコドラ達を怯ませる。
悲鳴を上げながら、2匹は森の茂みの中に逃げていった。
「よく出来ましたエレガント・ムーブ! ……レディクララ? まだメキョっとされてません?」
「元気ですゥ!」
ヤドランをボールに戻すと、セイボリーは気づけば崖の天辺にいた。既に足場の悪い土砂の上に人の姿はない。崖の脇からクララが手を振っていた。隣にはマクワがいて、視線が合うと、むこうから軽く会釈してきた。セイボリーも彼らの元へと戻ることにした。
「ご無事そうで何より!」
「誰かさんのおかげでねェ」
「お2人とも、ありがとうございました」
「なんであんな危ない所にいたんですかァ こっちはもう、死ぬかと思って大変でしたからね!?」
「……この当たりには、埋まっていますから」
ややあって、マクワが口を開く。酷く落ち着いたトーンだった。セイボリーは喧しい人間と一緒にいると、尋常なトーンでさえこうも落ち着いて聞こえるものか、と密かに感じ入った。
「……鉱石が。鉄鉱石もわずかではありますが存在しています。あのコドラ達は食料を取り合っていたのでしょうね」
「見ておられたと!」
「ええ。おみごとでした」
「……綺麗な石とか、持ってっちゃうんですゥ? いいなァ分けてもらえないかなァ」
マクワの大きなシャベルが地面に突き立てられていた。クララが杖代わりの枝で、柄の部分をつんつん突っつく。
「レディクララ! シショーが何故ワタクシたちを派遣したのか存じないと!?」
「……ああ、いえ。ぼくの趣味で……この辺りにどんな石があるか、探すだけです。もちろんここは私有地ですから、自分の物でない限りすべてお返ししますよ」
マクワがにっこり笑った。その時、クララがふと自分の背中にある者を顧みた。
「お?」
「ん? タマゴですか?」
「いや……タマゴが動いたかと思ったんだけど、なんでもないっぽい」
「ああ……ぼくのセキタンザンかもしれませんね……。ではぼくは……もう少し周りますから」
再びサングラスの男は立ち上がると、頭を下げて、木々の間に姿を隠す。大きい草を搔き分ける音が、次第に遠ざかっていった。とりポケモン達の囀りが辺りを支配する。
「……不思議な感じですね。怪しいと言うか、なんというか」
「怪しい?」
「うーむこれはセイボリー・テレパシー? いえ第六感?? 私怨?」
「恨みあんの? てかさっきテレパシー出来ない言ってたじゃん」
セイボリーが一人で首をかしげている横で、クララは意気揚々と立ちあがった。
「だけどこれで解決じゃない? やーんうちってば大手柄ァ! 早速報告!」
「いや念のためもう一件の方も行っておきましょう」
「えー、もう下で降りて待ってるゥ! でもそういえば……」
空はどこまでも高く、山は青々としており、くっきりと輪郭が浮かんでいた。遠くでペリッパ―たちが飛んで行く影がある。海では今日もサメハダーが獲物を探して泳ぎ回っていた。
クララは杖を地面の上に突いて立てる。
「うち、マクワさんにお礼言われるの初めてかも」
◇ ◇
スタートーナメント、というガラル有数のトレーナーのみが参加出来る大会から招待を受けた。
立派な封蝋付きの手紙の重さに、飛び上がるほどに喜んだ。報われぬまま頑張り続けて、とうとう自分の価値を認めてくれた人間がいるのだ。
ならばこそ、一緒に努力してきたポケモン達と、とにかく人気に投じたいとクララは画策をする。
第一に、トーナメントに出て勝つ事こそが最短距離。
この大会は特別で、二人一組でペアを作らねばいけないが、誰と組むか。
ジムリーダーになったばかりの自分が組めるのは、おおよそ同じぐらいの実力か、よほど気のいい人間でないと難しく、選択肢が限られているというのは先刻承知である。
他の人たちは既にリーグの中で人脈を構築しているため、自分が入る隙はないだろう。
ヤローなら、二つ返事で許可が出ると見込み、声を掛けた。しかし既にペアを作ってしまった後だという。
次に声を掛けるべきは誰か。悩むクララの前で、マクワがじっと座っていた。
部屋の隅に坐った大柄の男から発せられる威圧感に、クララは唾をのむ。どうやらずっと何か考えているようだ。
クララにとって、マクワが同じチームになるのであれば、非常にありがたい。
実力は上位。いわポケモンは、毒に耐性があるので敵対しない方が嬉しい。そしてなんといっても、彼には、既に彼を応援するファン、という存在がたくさんついている。
人気にあやかれれば、自分に対する注目度も格段に上がるだろう。むしろうちの事知っちゃったらファンもクラクラ、奪えちゃうんじゃね!? 勢いのまま、クララは男に声を掛けた。
「マクワさァん! ねぇ、どう? わたしと組んでみませんかァ!?」
サングラス越しにぐるりと見上げる目と目が合う。クララはひぃ、と息を呑んで、声を掛けた事を少しだけ後悔した。独特のオーラに気圧される。熟練のトレーナー達にある、選手特有の強い気迫が苦手だった。自信を持ち、堂々と世界の向こうを張る人だけが持ちうる気配というやつか。しかし、これもまた味方にしてしまえば心強いのだが。
他に誰に声を掛けようかと頭をフル回転させ始めたころ、マクワの返答が届いた。
「いいですよ、よろしくお願いします。ぼくはぼくのポケモン達をアピールしますから、しっかりついてきてください」
口端が弧を描く。伸ばされた手は大きい。クララは両手で握りしめると、ぶんぶん振った。
◆
見た目の闊達さに比べて、実際隣にいる時のマクワは、口数も少なく、何を考えているかわからない、と言うのがクララの率直な感想だった。
喋らないと思えば、口をついて出てくるのは、自信過剰で上からの物言いばかりで、ついカチンとくることも多い。
1勝出来た事を喜べば、自分がいるから当然だと言い放つ。
かと思えばフォローする、なんて言い放った。
かわいいクララは、わぁ嬉しい、ありがとうと答える。
だが心の内は違う。バカにするな、うちだってトレーナーとして立っている。おんぶに抱っこにされに来たわけじゃない。まあ少しぐらい楽させてもらえたらラッキーではあるが。
マクワは、勝った後でさえ気持ちを分かちあおうとはせず、椅子に座って考え込んでばかりだ。
次の戦いの準備をしているのだろうが、なんだか自分がただ浮かれているだけのように感じて、腹立たしい。一人で戦えばいいとさえ思えてしまう。
これではまるで、クララが生半可な気持ちで試合に挑んでいるみたいではないか。そんなことはあるまい。
自分なりにポケモンとは正面から向き合うようにしている。だから今、ここにいるのだ。
きちんと結果だって出ている。見てくれている人もいる。
クララも対抗するように、マクワの隣の椅子に座り、スマホロトムの画面を見ることにした。
そんな凸凹コンビだったが、気が付けば表彰台に上がっていた。準優勝だった。決勝では惜しくも敗れたけれど、、それでもクララは十分な結果が残せて嬉しくてうれしくて仕方がない。控室でも、貰った賞状の写真を撮ってSNSにあげた。
ところが、マクワは相も変わらずひとりで塞いでいる。そういえば、負けたら控室から出てこない人間だと言われていた。
「もー、一回負けたぐらいで。次勝てばいいじゃないですか、マクワさんなら出来るでしょ?」
嫌味のつもりで言ったが、マクワは目を白黒させる。
「……そのための、反省で……いえ、トレーニング、してきます」
クララは、控室から飛び出していく後ろ姿を見送った。
追うように外に出て、クララもポケモン達とちょっとだけ走り込む。その後は頑張った自分へのご褒美として、おいしんボブで好きな物を注文し、ポケモンみんなと食べた。
メッセージにはたくさん感嘆とお祝いが届いている。きっとマクワは、もっとたくさん着信しているはずだ。
自分のもとに到着する、ひとの気持ちの全てを、マクワはどう受け取るのだろうか。ほんの少しだけ気になってしまった。最後に注文したチーズケーキの甘さが、身体に沁みる。
◆
「犯人は、ずばり・コドラ! フィナーレ・エレガントです!」
道場にはぽつぽつと修行を終えた弟子たちが戻り始めていた。みな休憩のため、シャワーを浴びたり、食事の準備をしている。
カレーの香りが部屋いっぱいに立ち込めて、ぐうとお腹を鳴らす門下生が照れたように笑っていた。
2人は彼らを余所目に、道場の真ん中で師匠マスタードへとスマホロトムから電話を掛ける。どちらも話が出来るようスピーカーモードだ。あれから結局、クララはその場に座り込んだまま動かず、セイボリーが1人で別の現場まで移動し、確認するだけに終わった。
同一の峰の中であり、崩れ方もほとんど同じであることから、原因も同一であると結論付ける。
『ほほう』
「セイボリー・チェックによりますと! 食料を取り合うコドラ達が暴れてしまい、土砂が流れているとの見解です!」
『なるほど』
「……なっ、何か不審な点でも……」
自分と師匠のテンションの落差に、セイボリーは一気に自信を失い、つい聞き返してしまった。
『いやねえ、そもそもヨロイ島にコドラはいなかったはずなんだよねー。なんで急に住みだしたのかなって』
「ハッ」
『せっかくいい感じだし、是非是非そこも調査してほしいよん! 問題解決出来たらすごいねー!』
「ミスターマクワは鉄鉱石が埋まっていたと言っておられましたね。食糧難でどこかから移動してきたとか?」
クララは唇を曲げた。
「雪原には確か住んでたはずだけどォ……まさかぁ、島だよ? 泳げないでしょ」
「ボスゴドラは……泳げますね」
「マジ?」
「なみのり出来ますので。ボスゴドラが海を渡り、子供を作り、進化させたのなら……ありえるかと」
スマホロトムの画面を切り替え、インターネットにつなぐ。『ボスゴドラ なみのり』と検索すると、動画や写真で水の中を泳ぐはがねといわのポケモンの姿が現れた。クララがおげぇ、すごぉと変な声を出す。
「いやでもォ誰かが連れてきて放したとかじゃ」
『チミたち、マクワちんに会ったのか』
「じ、実はお恥ずかしながら、コドラのことを教えてくださったのは彼です」
「そういえば、なんかおっきいシャベル持ってたよねェ」
「あなをほるしていたかもしれない……?」
『ふむ。とりあえず引き続き詳しい人に聞いてみるのはどうだろ?』
「わかりました! シショー、ありがとうございました! 調査をしてまいります!」
『大変なことお願いしちゃってごめんね、よろぴくー!』
画面に映っていたマスタードの顔が消えて、スマホロトムが戻って来る。ふたたびセイボリーは首を傾げた。
「コドラといえばいわ・はがねタイプのポケモン。元・委員長には会いに行くことが難しいとなれば、ミスターピオニーですかね……」
「……あ、マクワさんのセキタンザンの近くに居れば、タマゴ孵化しちゃうかも!? もう一度聞きなおしてみるのアリじゃね!」
「……鉱物採集と仰ってましたが、もうすこし詳しく聞いてみる必要はあるかもしれませんな」
クララが、未だに括り付けたままのタマゴを揺らす。
「では、効率を考えまして……二手に分かれますか! ダブルバトルでもエレガントに!」
「えー、キミひとりで大丈夫ぅ!?」
「それはワタクシのせりふなのですけど!?」
「任せとけって! クララの魅力でクラクラァ!にしちゃえば、情報ぜーんぶゲロるから♡」
セイボリーは盛大にため息を吐く。
なぜ先ほど使わなかったのかという言葉は喉の奥にしまい込んだ。
◇
ヨロイ島は熱帯気候で、早の日がつづくが、かたやカンムリ雪原は氷に鎖されており、年中雪が降り積もっている。鮮やかな青緑から、辺り一面真っ白な雪景色へと大地の表情が変わり、はたして本当に同じ地方にいるのかと錯覚をしてしまいそうだ。
ついヨロイ島にいた時の名残で、薄着で来てしまったセイボリーは、目の前を白い物がちらつきはじめ、肌を刺すような空気の冷たさに触れてから、しこたま後悔した。。
「さ、寒い……! ここ、こここれぞ、こごえるせかい……!」
ピオニーの連絡先を知らなかったセイボリーは、トレーナー協会に連絡し、連絡先を聞いた。そしてスマホロトムから電話を掛けたが、しばらく忙しく、手が離せないので直接話をしたいとのことだった。
はるばる雪原へと移動し、雪を掻き分け、なんとか目的の洞窟へと辿り着く。
ピオニーが指定した洞窟は暖房が付いており、非常に温かい。もう外へは出られなくなりそうだ、とセイボリーは密かに思った。中では研究員たちが数人、資料やモニターを広げている。洞窟にはおよそ似つかわしくない機会のモーター音が、反響して聞こえてくる。
端から大柄の男が駆け寄ってきた。
「いやいやすまねぇ! シャクちゃんがド・大物見っけたらしくってよ! 帰ってきたらすぐ撮影できるようにしておきたくてさ」
今ピオニーの娘が、この先で珍しいポケモンを捕まえるべく深く潜行しているらしい。娘はともかく、珍しいポケモンについては、トレーナーであるセイボリーも興味はあった。
「だから途中で止めるかもしれないが許してくれよな……シャクちゃんの為なんだ……」
誰が見ているでもない洞窟で、顔の角度をばっちり決めた父親にセイボリーはつい高い声で言う。
「それは結構! ワタクシもその珍しいポケモンとやらに関しましては、レディシャクヤに後ほど詳しいお話を聞かせて頂きたいので」
「お、じゃあ交換ってことでいこう! シャクちゃんも自慢話したいだろうからよ」
何の許諾も確認もなく娘を交換条件に出す男に、セイボリーはひとつ咳払いをする。
「ごほん。えー、それでは本題へと参ります! いざエスパーパワー・ダイマックス!」
「ハハハ! お前さんのそういうノリ、かなり気持ちいいぜ!」
セイボリーは手帳とペンを取り出し、すらすらと記入していく。洞窟の隅に置かれたファイヤープレイスからぱちりと弾ける音がした。
「コドラが……本来生息しないはずのヨロイ島で発見されたのですが、原因について思い当たります?」
「コドラが? うーん、まあ、移動してもおかしくはねぇとは思うが……しかし雪原からわざわざ動く理由ってのも思いつかねえな。となると、運ばれたってことになるのかもしれねえ」
ほお、と感嘆の声を上げながら、再びペンを走らせる。
「ヨロイ島では食料難を理由に縄張り争いしていたらしいのです。彼らの食料が不足する原因については? それで土砂崩れが起きているようでして」
「ボスゴドラやコドラはいわポケモンの系譜で気が長い。そうそう暴れ出すことはないはずだがな、それこそわざわざ縄張りを壊してまで。ボスゴドラなんて自分たちで管理するんだからよ。すげーよな! ド・最高だよな!」
「でもバンギラスとかいません!? あくは禁止です!」
セイボリーはバンギラスを思い出す。エスパータイプキラーとして、試合の相手になる確率が高かった。彼らは常に獰猛で、有り余る力に任せ、真っ直ぐ敵を倒しに来る。そこにあるのは、純粋無垢な闘争本能と、自分自身の野生の力の証明だ。
正直なところ、エレガントさのかけらもなく、自分がレフェリーならば出禁にしたいとセイボリーは思っている。
「ダッハッハ! あれはまた特別気性が荒いからよ。だから、バンギラスが山を荒らすってんならわかるぜ。そういう宿命に生まれてるポケモンだ。ボスゴドラ達とは対極にいるってか?」
「なるほど」
「……けど食糧難で縄張り争いしてんなら、急に個体数が増えすぎて資源の鉄が枯渇したって予想するよな」
「……個体数ですか。観測した所ものすごーく多そうには見えませんでしたが。2匹以外は見当たりませんでしたし……詳細を調べるべきか……」
「ヨロイ島で……自然災害ではねえんだろ? あとはー、人間が鉱物を確保しすぎて人的災害ってやつ? ……あー、ただ」
男は小さく頭を掻く。それから腕を組んだ。
「元々食えるものがない場所に捨て置かれたんなら、話は別かもしれんけどな」
「後者はどちらにしろ人間か……縄張り争いに関してはあまり重点ではなさそうですね」
「そうかもな! マクワはヨロイ島にコドラが生息してないこと、知ってたのか?」
「……うーむむ、その辺のことは聞きそびれましたね……セイボリー・サイコショック!」
「ダーッハッハッハ! 探偵さんかよ、楽しそうじゃねぇか」
大きく笑う男は、勢いそのままにセイボリーの細い肩を叩く。
「……しかし、彼とは現場で会いましてね……ワタクシのエスパーパワーがぐるぐると溜まってみらいよち……」
「ほー、なんだ、ミステリーの予感か?! しかし現場を見てる人間の情報を疑うってのは、かなり大変そうだな!」
「セイボリー第六感!という奴です!」
ピオニーが吐いた息が白く染まった。
「それにしてもいわポケモンかー、あーそういや……」
洞窟の外は、しんしんと雪が降っていた。また今夜も雪原に積もるのだろう。
「最近雪原でタンドン見かけなくなってきてるんだよな」
「なんと! よくお分かりですね。もしやあなたもエスパーに?」
「そりゃ俺だって数匹ぐれえだったら誰かに捕まったとか捕食されたんじゃって思うぜ。けど明らかに減ってんだよ。こないだもシャクちゃんが全然帰ってこねーから暇で暇で。タンドン数えて遊んでたんだよ 何日も」
「そんなことしてるから帰ってこないのでは……?」
あけすけに言うセイボリーに対して、ピオニーは楽しげに笑み返した。
「辛辣ぅ。んでまあ、なんとなく個体差もわかるようになってきてさ、お前さんもヤドンとかであるだろ? 同じ個体は数えないようにしてたら、あら不思議。前と数が明らかに違うの」
ピオニーとは、対戦相手として大会で会う以外、接点はほぼないが、セイボリーの中では、非常に豪胆な男、という印象が強い。自分とは対極で、細かいことは気にせず、大胆不敵に、自由に立ち回る姿は腹立たしくも、羨慕さえ感じていた。しかし、万事鷹揚な男の目に留まったという世界のごく小さな変化にも、ちょっと興味がある。
「……念のためお聞きしますが、いつ頃気付きました?」
「今月の頭ぐらいだったと思うぜ」
「土砂崩れの前ですか……コドラと関係があるのでしょうか」
「さあな……」
「ちょうどいいです。ミスター・マクワにも話を聞いてみるつもりでしたので。ここはSNSでポンッと……」
「おーっ! シャクちゃーん! おっつかれー!」
今にも鼓膜が破れそうな大声が、狭い洞窟内で反響する。細い通路の奥、人影が見えるが、セイボリーからは誰であるか判別できない。眼鏡も曇っているわけではなかった。
駆け寄ろうとする大変な親ばかを、解析スタッフが止めている。
ややあって、シャクヤがおそるおそる姿を現すと、じき父の逞しい腕に抱きすくめられた。
リーグ選手の親と子供の姿。今は自分がジムリーダーを承継したが、似たような時期も、確かに存在していた。もっともセイボリーは、あんな愛情など受けた事もない。
◆
マクワとは、子どもの頃から、顔を合わせる関係だった。
由緒正しいエスパージムリーダー一家、その末子として生まれ育てられたセイボリーは、家庭の関係で時折リーグに顔を出す。
基本的には兄姉が優先され、どうしても親と上兄弟の都合がつかない時だけ預けられる。
この日は兄姉も合宿で不在であり、エスパージム出身の子どもはセイボリーだけだった。
リーグに来られたことは、末子とはいえ、ジムリーダーの家系に流れを汲んでいる自身の特権が、はじめてものを言ったようで、とても嬉しかった。何かと頭を押さえつけてくる兄弟達が不在であることも手伝って、セイボリーのよろこびには限りがなかった。
「いいですか! ここでスタッフのいう事をよく聞いて、静かにしているように」
「はい!」
両親への返事は必ずはっきり「Yes」。それ以外だと食事が減らされるリスクがある。
セイボリーは賢いので間違えない。
この日の眼玉は、親であるジムリーダー同士のエキシビジョンマッチだ。
スタジアムに設置された、スタッフ見学用の部屋にセイボリーは案内された。親は一言述べて急いで試合の準備に向かう。大きなガラス張りで、2階の端から様子が見える。数人のスタッフが芝の最終調整のために、トンボを引いて歩いていた。
ふと部屋の奥を見ると、先客がいた。スタジアムを見下ろして、母親が小さな少年に説明をしている。こおりタイプジムリーダーと、隣にいる息子はセイボリーと年恰好が近い。こちらに気が付くと、ジムリーダーが優し気に笑う。
「おやセイボリーちゃん。久しぶりだねえ」
「はい、レディ。ごきげんうるわしゅう!」
「あはは、相変わらず面白いね! 今日はマクワも一緒だからよろしく頼むよ」
彼女の息子は、おずおずと真ん丸な頭を下げる。
ジムリーダーには跡継ぎを選ぶ権利があり、身内から算出される世襲制であることが多い。
そうしてみると、リーグの存在は、跡継ぎ候補の子どもたちに、ジムリーダーの何たるかを授ける、教育的な意味合いが強い。
マクワはそのうちの一人。お互い話すことはほとんどないまま、顔を合わせていた。
ジムリーダーは、ガラルの中でも限られた人間だけが就ける、有数の職業だとセイボリーは自負している。
選ばれし人間から産まれ、選ばれし環境で育った自分は、間違いなく、周囲とは違う優れモノのエリートだ。
だが、親のセイボリーを見る目は、エリートへの期待でも、ごく普通にかけられる物でもない、いつだって失望の色ばかりが濃く、自尊心との強いコントラストがセイボリーの首を絞め続ける。
「今日の試合もレポートが宿題だからね。ヒヒダルマを起点にするつもりだから、しっかりみてるんだよ」
すぐ傍では、こおりタイプのジムリーダーが、息子の肩を軽くぽんと押し、待っててね、と声を掛けている。
軽快な足音を立てて部屋から出ていった。
仕方なく預けられていたセイボリーとは違い、マクワは母親から次期ジムリーダーとして期待を掛けられているのが手に取るようにわかる。兄姉に対する態度に似ているから、余計に。
セイボリーにとって、喉から手が出るほど羨ましい環境だ。
兄弟の末子であり、ちっぽけで無意味なエスパー技しか使えないおちこぼれの自分。
言いつけを守り、マクワはじっと硝子越しのスタジアムを見下ろしている。
いいな、羨ましい。どうして自分にはないのだろう。
よいこのトレーナードリルを読む振りをして、離れた場所に座る少年の背を見つめた。
「うわ!?」
ぐるぐると廻る感情が、どうやら無意識にエスパーパワーを発動させてしまったらしい。
マクワの持ち物がふわりと浮いて、モンスターボールが6つ回転する。そのうちの1つが床に落ちて、中から驚いたポケモンが姿を現した。タンドンだった。マクワは慌てふためいている。ふとセイボリーを見た。
自分のコントロールミスに、セイボリーもすっかり狼狽してしまった。
ええと、と部屋を見渡してから言う。
「……あなた! もう6匹もポケモン連れてるのですか」
「あ、いやその……これはひみつに、してくれませんか……」
セイボリーは長いまつげの瞼を開いて閉じてを繰り返す。タンドンはいわのポケモンだという事に気が付く。
「……ああ、レディはこおりタイプの使い手ですものね」
マクワはタンドンの頭を撫でて、小さく頷いた。
「でも、なんでボールが浮かんだのかな……わかりますか?」
「……わたくし、エレガント・エスパーパワーの使い手ですから、物体を宙にうかせるぐらいはゾウサもないのです」
「エスパーパワー……」
「ただ、いまのにつきましては……セイボリー・うっかり、です」
「……うっかり、ですか……」
ややあってから口を開く。横でタンドンが、トレーナーを嬉しそうに見上げていた。
「ええと、ぼくにも使えますか?」
「サイキッカーは血すじですからね。ごせんぞ様にサイキッカーがいるかお調べになるのが良いかと」
「うーん、いないとおもいます。……うらやましい……ですね」
「はい?」
マクワはもう一度優しく触れた後、タンドンをボールに戻す。ボールはポケットにしまった。セイボリーは瞬間的ににらみつける。この力のせいでみじめな思いばかりしているのだ。それを知らぬまま、身勝手な憧憬を持たれるのは心外だった。
「お母さんは、トレーナーには強さと美しさがいると言ってます。……つよくなるのはちっとも難しくないけど、うつくしさってわからない。
……これ美しさになりそうです。面白いし」
「……そうですか」
セイボリーは再びトレーナードリルに視線を落とす。いつも家族には落ちこぼれの力だと揶揄われてきた。愚鈍で無能な失敗作。いくら頑張っても、みんなに見下される。
まさか「美しさ」なんて形容されるとは思わない。
それもトレーナーの大事な要素の一つとして。頬がかあと熱くなるのを感じた。
同時にもやもやした、形容しがたい何かが生まれて、胸の内でぐるぐる暴れている。セイボリーは自分の能力を行使して、このもやもやを晴らそうとした。状態異常のページを読みながら、念能力を発動させる。横に座っていたマクワがぎこちなく宙に浮かんだ。
「うわっ!?」
マクワはバランスを崩したが、ぐるりと空中で身体を捻り、何とか脚から地面に降り立った。
が、年能力の効果が切れると、ふたたびバランスを乱して、冷たい床に尻餅をついてしまった。
セイボリーが、自分のボールをふわふわと浮かせ始めた。
「……いたい……」
「ま、まさかわたくしの力を自分でしのぐとは……ヒキョウすぎてサイコショック……! メキョっと転ばせ、へこませるつもりでしたのに……」
「残念だけど、ぼくが相手ではかないませんよ」
膝をはたき、立ち上がると、口端は自然に上向きの弧を描いた。
「んあぁ! 兄姉みたいで腹が立ちますね」
「……でもそうか、ぼくも頑張ったら……うつくしいを作れるかもしれない。今のヒントにします」
閃いた少年が、今の動きを一人で再現しようとばたばた飛び跳ねる。
「ああ、さわぐを使わないで! エレガントに!」
セイボリーが再び念動力でマクワの足をとると、ばたんと背中から転がった。その途端、扉が開き、リーグのスタッフが顔を出す。
硝子の向こうでは、開会のあいさつが始まるところだった。
「こら、おふたりとも静かにしてください!」
マクワがふと我に返って、恥ずかしそうに頭を下げている。セイボリーも続く。
この事は優秀なサイキックである親に全て知られ、帰宅後は長い長い説教が待っていた。
◆
「ええ、マクワさん行方不明ィ?」
スマホロトムに何度も何度も電話やメールを発信させたが、返事が全くなかった。痺れを切らしたクララは、タマゴを背負ったままいわジムへと直接乗り込んだ。今はオフシーズンで、一般の人はおらず、トレーナーはめいめい自分のトレーニングに集中している所だった。。
受付で整理をしていたジムトレーナーの女性も、同じくジムリーダーと連絡が取れず、困惑していた。
「そうなんです……。もう2週間くらい連絡が届かなくて。でもちゃんとジムは回るようにスケジューリングだけはしてあって……用意周到って言うか……」
元々タレント業務も多いガラルのジムリーダーの仕事である。
ジムリーダーが不在で、トレーナーのみで行う業務体制は整えられていた。
「だーからうちの電話にもぜんっぜん出なかったのか!
あのお母さんが黙ってないんじゃ?」
「さすがにメロンさんもそこまでは口出ししないよ。既に独立してるしね……」
「……このあいだ本人にはヨロイ島で会ったんだけどなァ……」
「ええーっ、嘘!? マクワさんに!? えっ元気そうでしたか!?」
「元気と言えば元気なのかなァ? そこまで付き合いあったワケじゃないし……」
クララはあの時の様子を思い出す。いつもと変わりがないように見えたが、しかし少しばかりぼんやりしていたような気もする。だが口に出せる程の確証はなかった。
「ここにいても埒が明かないってことはわかったよォ。それじゃまたねェ」
ジムの外は空気が冷えている。ヨロイ島よりも何倍も柔らかい陽射しがクララを照らしていた。背負ったタマゴはまだまだ重たい。紐を持ち上げ背負い直すと、この紐が、道場の物だったことに気が付いた。
紐の裏側をひっくり返すと、しっかりとマスター道場と刺繍してある。
師匠は何も言わないだろうが、不始末にうるさいのはミツバの方だった。いつも明るい女将さんだが、ひとたび怒らせると恐ろしいことになるのは体験済みである。
「あーホームセンター行こう」
近くのホームセンターまでスマホロトムで道筋を検索し、歩いていく。大きな店舗は看板も目立つように設置されており、迷うことなく到着できた。
広い店内にはポケモンの世話に関する用具や、工具など、あらゆる分野の道具がそろっている。休日の日中は家族連れもおおく、さらにポケモンを直接連れてきている人たちで賑やかだった。当然ポケモンベビー用品の棚もあるが、非常に広い店内だ。
一度地図を見て確かめることにした。
入り口から、左のずっと奥の方に目的の棚がある。余りの遠さにげっそりしながら、クララは歩いていく。金属トラスがむきだしになっている高い天井から、蛍光灯が水平に吊ってあって、さらに案内板が下がっていた。入口から左に進めば進む程、案内板の数字は小さくなっていく。
日用品、家具、照明、工具、資材……順番に辿っていくと、ポケモンに宛がう細かい鉄材や石材が、大きな箱に詰められて、量り売りされているコーナーがある。ふと先日のことを思い出した。これが鉱石、資材そのもの。どくポケモンを中心に扱う以上、気化や融化されていない固形物はクララにとってはあまり縁のない代物だった。
「鉱物といえば、毒性物質は近いのかもしれないけど……こんな硬いのそのまま食べるんだもんなぁ……うえー歯が割れそう……」
奥には石炭が何種類も箱に並んでいる。全部真っ黒でわからないが、細かい違いがあるらしい。ラベルには種類ごとに名前が書かれていた。
その箱の前で、頭を捻っている大柄の男性が立っている。額際からグワっとかきあげたようないつもの奇抜な髪型は影を潜めており、すぐにはわからないが、マクワその人だ。何やら光の入った小瓶を持ち上げている。
「あー……石炭……? となんだあれ」
マクワは小瓶の火陰に石炭をかざして、悩んだ結果、各箱に入った石炭を、全種類袋詰めして籠に入れた。
「セキタンザンにでも食べさせるのかなァ……てかこれチャンスじゃね!?」
両肩に掛かった紐を握りしめ、クララは声を掛ける。この機を逃せば、いつまた話を聴けるか、知れたものではない。
「火、キレイですねェ」
「……クララさん!」
面食らったようにマクワは言った。まさかここで顔を合わせようとは思っていなかったのだろう。小さな炎の小瓶を背中で隠すようにした。
「……どうしてここに?」
「この紐借り物だから、自分の分を買ってから返そうと思って」
「クララさんにしては真っ当ですね」
「ヒドッ! わたしのことなんだと思ってるんですかァ? そだ! ねェ、ついでに話を聞きたいんだけどォ、時間ありません?」
クララの猫なで声に、マクワは腕時計を見る。少し考えて、口を開いた。
「……構いませんが、何でしょう」
「コドラのことですゥ」
「……わかりました。場所を移しましょう」
互いに必要な物をレジに通して購入し、すぐ近くの喫茶店に入った。
扉を開けた瞬間から、香ばしいコーヒーの匂いが、肺を満たしていく。入ってすぐの場所にはケーキが並んでいて、黒板が今日のおすすめを知らせてくれる。雰囲気の落ち着いた店だ。
店内はマホガニーの木がふんだんに使われ、座席は全てふかふかのソファで出来ている。
ちょうど昼過ぎで、ティータイムだが中は数人の客しかおらず、閑散としていた。クララは紅茶といちごパフェ、マクワはコーヒーを注文する。休みだからだろうか、クララにとって彼がサングラスをしていない私服の姿を見るのは新鮮だった。
「よくここ来るんですかァ?」
「いえ、初めてです」
「アハ、そうですよねェ! わたしも初めて」
クララは机に頬杖をつくと、ちらりと隣の客を見た。奥様方が3人、ポケモンとの生活の悩み相談をしている。クララのスマホロトムが連絡の到着を知らせた。セイボリーからだった。
「ねェねェ、もう一度コドラについて話を聞かせて欲しいんですけど」
「ひとつだけ伺いたいのですが。あなた方はなぜ、土砂崩れを調べているのですか?」
「師匠の頼みじゃなきゃこんなことしませんよォ」
「なるほど。マスタードさんの島でしたね、納得しました」
「なんかまた失礼なこと考えられてる気がするけど……優しいクララちゃんはこんな事ではグロっとしませェん! あ、録音はさせて!」
マクワが音もなく首肯した。
スマホロトムでアプリを探し、赤いボタンを押す。画面に表示された数字が一つずつあがってゆく。
「なんでコドラが暴れているのは食糧難だと思ったんです?」
「周囲を調べまして、鉄鉱石が急に減ったとわかったからです。地表に出ている岩の年代から見て……かなりの量です。そしてまだ新しい採掘の痕がある。おそらく……誰かが掘り起したのでしょう」
「それって、いつ頃からか分かるんですか?」
「ううん、詳細は難しいのですが……ぼくが見た所、1,2か月前でしょうか」
「……土砂崩れの前じゃん。これが原因!?」
「ええ。おそらく……それが直接的な原因だと考えています。急に減った鉄鉱石にバランスを欠いて、土砂崩れが起きたのだと」
「コドラが暴れてたから、じゃないのォ……がっくり」
「ただ、コドラが暴れる原因のひとつにはなったのだと思います」
「ほかにもあるってことォ?」
「……予測ですけどね」
「……そうだ、ヨロイ島ってコドラ住んでないんだって……知ってましたァ?」
碧い目が少し揺れる。
「……い、いえ、……初めて知りました。たしかにヨロイ島はいわポケモンは少なかったですが……であれば、コドラは外部から移動してきたことになりますね……」
「そう、だから師匠も不思議に思ったらしくて」
「……つまり、あのコドラは捨てられた……? 暴れるように、指示をされて……」
「コドラは、鉄材窃盗犯のカモフラージュに使われたっていうの?」
「……まだ、わかりませんが、その可能性は高いかと……」
注文したコーヒーと紅茶、パフェが運ばれてきた。クララはティーカップに砂糖を入れ、一口付ける。温まった息を小さく吐いた。
「……そうそう、最近雪原でタンドンが減っているらしいですよ」
「タンドンが……?」
「ピオニーさんが第一発見者だとか。なんかいわポケモンばっかり……」
「……それはぼくも知りませんでした。調べてみます」
クララは上目遣いで言う。
「これは余計なお世話かもしれませんがァ……ジムには戻らなくていいんです?
トレーナーの子、心配してましたよォ?」
「伝えてあったのですが……もう一度連絡入れます」
「……忙しそうですねェ」
「……いえ……ぼくもこの土砂崩れについて、知りたくて。……ぼくはいわタイプの専任です。ぼくの観点から手伝えることもあるかと」
「そうか……わたしもどくタイプの専任なんだよなァ……キャハ!」
「ふふ、有事の際はクララさんも呼ばれるかもしれませんね」
イチゴを一つ摘まんで咀嚼する。咽喉に通してから、クララが言った。
「あ! そういえばさっきの瓶が見たいですゥ!」
「あ、ああ、……これのことでしょうか」
鞄から硝子の小瓶を取り出した。中で小さな炎が揺らめいている。上にフタはついているが、網になっていて中に空気が入るようになっていた。消えずに済む仕掛けだろう。
「……ずっと燃えてる、これ?」
「……ポケモンの力を借りた特殊な、種火です。……探知機というか」
「宝石とか見つけちゃう感じ!? ああ、だから土砂崩れ現場にいた時も提げてたんですねェ」
「気づかれていましたか」
クララは思い出す。あの日大きなリュックサックの後ろに引っ掛けられてた。ペットボトルだろうと思っていたが、あれはガラス瓶だった。
「……炭素濃度の高い物だけですよ。質の良いものに反応するのです……でも、ある意味では……宝石と言えるかもしれません」
「手品かよォ!? ……意外だなァ、マクワさん、こういうの信じないタイプだと思ってた」
空になったカップを皿の上に置いた。
「ねえ、今度もスタートーナメント、わたしと組みません?」
「……考えて、おきます」
「あそこまで行ったんだし、次は絶対優勝出来る! いや優勝する! うちらならぜってー勝ってやんよォ! ねェ?」
マクワはぱちぱちと瞬きをしている。何故か、違う空間にいて、言葉が届いていないような、漠然とした違和感をクララは感じ取った。しかし、目の前のきらきらしたパフェグラスの艶めきについ目を奪われると、気持ちは言葉にまとまらずにしまった。
パフェを突いた瞬間、隣の席に置いたタマゴが動き出す。みるみるうちにひびが入り、大きな音を立てて殻が割れていく。中から出てきたのは石炭の塊。赤い眼を瞬きさせている。
「……タンドン?」
「まさか、いわポケモンとは」
「えーん、グスングスン、どくポケモンがよかった! でも元気に生まれてきてくれて嬉しい! あは、マクワさんの近くにいれば早く生まれてくるって見込み、大正解!」
クララが抱き上げると、タンドンは嬉しそうに擦り寄る。椅子から立ちあがって、マクワも手を伸ばした。机に置かれた小瓶の炎が、揺らめきを強める。
「うーん、タマゴから育てるの結構アリかもォ……。エレズンのタマゴ探してみようかな」
「……良い個体の、タンドンですね。……温かい……種火も燃えてる」
「さすが、分かるゥ! セキタンザンもこんなだったんですか?」
マクワの青い目は、ただじっとタンドンを見つめている。澄み切った碧が、赤い輝きを吸って、鈍い紫苑の光を放つ。再びクララは言いようのない空気を感じた。
「……この子、ぼくに譲っていただけませんか?」
「……マクワさん? どしたの?」
返事はない。揺らめく陽炎のような高い湿度だけが肌の上を滑る。さきほど感じた違和感が、無視できない確度をを帯びてくる。
一見そうは見えないが、ひかりのかべよりも、はるかに大きな隔たりが、彼我のあいだにはあった。。
「……残念だけどォ、わたしが師匠に叱られちゃうからダメですゥ!」
クララは早速スマホロトムで写真を撮ると、立ち上がる。
「そうですか……分かりました」
「それじゃ、ありがとうございましたァ! 考えといてくださいね、トーナメント!」
◆
とうとうみらいよちが目覚めたのかもしれない。
再び山へ登る日もあるだろうと考え、セイボリーは大きいホームセンターでリュックや杖、飲み水などを買った。軽装で昇って疲れ果ててしまった反省からだ。
歩くラウドスピーカーのようなクララと一緒だったこともあって、山路の苦労はひとしおだった。考えなしに登るクララの文も、セイボリーは今から準備を怠らなかった。
かえるさ、ホームセンターを出てすぐ隣のカフェに、見知った大男が座っている。
マクワだった。
正直セイボリーはマクワに対して、良い感情を抱いていない。
しかしクララがきちんと自分の意図を汲んでくれたか、いささか不安であったし、硝子越しにぼんやりしている姿が気になった。扉を開くと、小気味良くからんからんと音を立てる。カフェのキッチンの奥の方では、キレイに片づけられた台が、水拭きされているのが見えた。夜は客が来ない為、店じまいも早いのだろう。
セイボリーはひとつ深呼吸してから、マクワの座る席の向かいに座った。
「……今日はやけに人に会いますね」
「レディクララと会いましたか」
マクワは曖昧に笑う。ぴしっと手を挙げウェイターを呼ぶと、セイボリーは紅茶を注文した。マクワもコーヒーの追加を頼む。
「ということは既に聞かれておりますね、コドラの話」
「はい。ヨロイ島にはコドラが住んでいない、という話ですよね」
「ご存じでしたか?」
「いえ、知りませんでした。カモフラージュに使われた可能性についてお話ししました」
「……なるほど、鉄の掘削を人間が行ったと。つじつまは合いますね」
すぐに紅茶が届き、マクワのカップもコーヒーでたっぷり満たされた。
セイボリーは熱いと言いながら、紅茶に口を付ける。
「……正直、ミスターマクワが行ったのではないかと疑っています」
「まさか。ぼくはいわポケモンの使い手です。鉄があった所でメリットはありません」
「メリットなんて、金に換えるなり、使い道はいくらでも考え付きます。ただ、副産物的ななにかがあって、掘り出したんじゃ……」
「副産物?」
「ワタクシたちが知らない、他のものです。たとえば……宝石とか、石炭とか」
「たしかにあそこには手を付けられていない赤鉄鉱があります。同グループのコランダムであるルビーやサファイアも見つかります。しかしお話した通り、ぼくが持ち帰る事はありません」
「……しかし、黒い破片を拾っていませんでしたか?」
「見られていましたか……お2人とも、鋭いですね」
窓の外では太陽が傾きはじめている。
スクール帰りの子どもたちがしゃべりながら歩いていった。
マクワの顔にも少し影が掛かる。
「あれは……ぼくが落とした石炭です。……セキタンザンとの訓練に使用していました。ちょうど土石流の日に。ですからぼくの物以外は持ち帰る事はありませんと」
「なるほど。あなたのものであるかはさて置いて……筋は通りますね。あの日も石炭を探していた」
「土砂崩れの原因を調べながら、あの時落とした石炭を拾い集めています。黙っていた事は謝ります」
コーヒーカップは再び空になった。
「……今まであまり話をしたことがありませんでしたね」
「……ええ、そうですね」
「あなたが母とスタートーナメントに出ている姿を見て……母はぼくとああいうことがしたかったのかなと考えました」
子どもの頃からの付き合いだった。だがしかし、セイボリーの苦手意識から、余り声を掛ける事はなかった。マクワ自身も、見かけとは裏腹に、あまり積極的に話したたがらない人間だ。
ぽつぽつと話される言葉は、要領を得ず、少し拙い。
いつだって明るく自分を引っ張り、跳ね返す彼の母とは正反対だった。
「おそらく違います。でも……楽しそうでした、すごく」
セイボリーはおずおずと紅茶に角砂糖を追加し、くるりとティースプーンを回した。
「あの」
マクワにつられるように、頭の中の記憶を並べながら、セイボリーも話しかける。
「ミスターマクワ、どうして……タイプスワップなされたのですか」
「ぼくがいわポケモンを好きだったというだけです……あなたのいうところの捨てた、かもしれませんが」
丸眼鏡の青年は思い出す。現フェアリージムリーダー、ビートとのやり取りを。マクワは自分の至らなさをしっかりと拾い上げてくる。
硬い生真面目さが、柔いセイボリーの心には引っ搔き傷のように残る。
ジムリーダーとして嘱望され、あまつさえ、好きだと言う理由でタイプスワップも許されてしまう立場は、まさにセイボリーが垂涎するところで、当たり前のように言ってのける目の前の男は、端的に憎らしかった。
「……やはり、気が合いませぬな」
「そうかもしれません。けれどぼくは……今でもあなたの持っている力も、そして立場も……羨ましかったです」
「それは……どういう」
俯くと同時に眼鏡が白く反射した。わからない。この先輩が何を言っているのか。セイボリーにとっては劣等生の烙印であり、それゆえに罰を受け続けてきたのだ。
それに羨望を抱かれようとは、吐き気の種にしかならない。
「……もっと早く……家を出る決心が、できたかもしれない。そうすれば……いわポケモンとの時間を、作れたでしょうから……」
艶やかな青の瞳が、セイボリーを映している。そこには一切の忖度などない。
どこまでも彼は、自身に課せられた試練を甘んじて受け入れてしまえる人間だった。
まっすぐな純心は光を放つが、時にその光は自らを焼いて、眩しさの中にも彼は黒々とした火傷を負った影のように立ちすくんでいた。
◇ ◇
モンスターボールにタンドンを仕舞い、クララは自分の分の会計を済ませ喫茶店を出た。アーマーガアタクシーに乗って、孤島の道場を目指した。
夕方、日暮れのヨロイ島は夜の準備をするポケモン達があちこちで歩いている。
クララは真っ直ぐ道場に戻ったが、セイボリーはまだ用事を済ませている最中らしい。
ずっと動き続けた疲労感がどっと訪れる。壁にもたれてひと眠りした。
しばらくするとセイボリーも戻ってきた。セイボリーに叩かれて目を醒ます。いつの間にか足元にタオルケットが掛かっていた。門下生の誰かが掛けてくれたのだろう。
2人の用意が済むと、すぐに師匠へと連絡を入れた。スマホロトムには変わらぬ明るい老人の笑顔が映る。
「じゃん!見てみて師匠~! 生まれたよォ!」
『わあお、いえーい! タンドンだったんだ! さっすがクララちん、偉いね~!』
「もっと褒めて褒めて♡」
『ところでこのタンドンに興味を持った人いなかった?』
「この……? マクワさんが譲って欲しいって言ってたけど。セキタンザンの近くならタマゴ早く孵ると思って、マクワさんの所にいたんだァ! クララ天才ィ!」
『そうか、承知! うんうん、よかった』
セイボリーが負けじとスマホロトムを自分の方へ引っ張る。
「シ、シショー! ワタクシも調査進みましたよ! シショー、最近野生のタンドンが減っているという噂はご存じでしたか!?」
『ああ、そうなんだよー! それどころかひとのタンドンが盗まれてるって言うんだよー』
「な、な、なんと先回り?! セイボリー・サイコショック!」
『もう困っちゃうよねー。とりあえず、しばらくその子預かっててちょーだい! また進捗あったら聞かせてちょ! もうすぐ帰るから、よろぴく!』
通話はそこで切れた。2人は顔を見合わせる。
「どうなんでしょう。せっかくですから、ここでお互い情報を共有しませんか」
「いいけどお腹すいたァ! 食べながらにしよォ」
クララはダイニングまで小股に駆けていって、そこに例の大鍋に、スープがたんまり入っているのを見つけた。慣れた手つきでパンを焼き、スープを皿に、それから水をグラスに一杯注ぐと、またもとのテーブルに戻って来た。
「懐かしいですねェ……ていうか勝手に食べても!? ワタクシたち、もう卒業生でしょう!?」
「いいっていいって。ミツバさんがお腹すいたら一緒に食べていいよって言ってくれてたァ……だいぶ前の話だけど」
「おぉ、ミセスおかみ……いずれこの謝礼は必ず!」
セイボリーも、クララと同じようにスープを皿に注いで頭を下げる。
「食べる気満々じゃん」
そして二人は手を合わせて、空いた腹を満たした。
食べ終えると、セイボリーは懐から小さな手帳とペンを取り出した。ぺらぺらとめくり、使ったばかりのページを開き、テーブルの上に置いた。
「……てかエスパー使いなのにアナログゥ?」
「い、いけませんか!? ワタクシ再生紙をこする黒鉛の感触が大好物でして!」
「せっかくラクできるのにねェ」
クララがコップに口を付けて、水を喉に流す。冷たさがすっと身体に沁みていく。
「マクワさん、キルクスのホームセンターにいたよ。でもずっとジムに戻ってないんだってェ。2週間ぐらい」
「なんと、ますます怪しい」
クララは自分のスマホロトムの録音を再生しながら、少しずつ思い出すように答えていく。
音が重なって喧しいと思いながら、セイボリーは辛抱強く付き合う事にした。もちろん心の中で、自分を褒める事を忘れない。
「おっと、ちなみにワタクシも先ほどお会いしました」
「えげェ!? どのタイミングで!?」
「アナタがそらをとぶの後。なんとワタクシのみらいよちの如く! カフェに、一人でいらしたのでご挨拶をば」
「何話したのォ?」
「あの土砂崩れの現場で、彼が石炭を拾い集めていたという話です」
「いつの間に……コドラの話はァ? わたししなくても良いィ?」
「念のため、リポートどーぞ!」
「コドラの食料難は、誰かが鉄を持ち去ったせいだから、その犯人を捜す調査してるんだって」
「ほほう。それは聞きましたな。調査をしつつ、石炭を拾っていたとのこと」
「石炭?」
「土砂崩れの時に、訓練用の石炭を落としてしまったそうです」
「あ、種火は見た? 瓶に火入れて大事そうに持ってたの。それをホームセンターの石炭にあててたのを見たんだァ。覚えてる? 一緒に土砂崩れ見に行った時にも鞄に入れてたやつ」
「ふぅーむ、それは思い出せませんな……。ワタクシ、彼が拾い物をしてるのはこのくろいまなざしで! ばっちり映しておりましたが」
「あとは、タンドン生まれたら、すぐに譲ってくれって言われたよォ」
「いわ好きとしては……おかしくないのかもしれませんが」
「……ただ、なんとなく元気がないように見えたかな! そっちは?」
「ああ、あなた方、スタートーナメントで組んだことがあるのでしたね」
ごほん、とセイボリーが咳払いをした。そして水を飲む。
「ミスター・ピオニーはタンドンの話と、コドラについて詳しい推測をくれましたよ。食糧難だとしても暴れることはあまりないだろうと」
「つまり、コドラを孤島に置き去りにした奴、鉄を盗んだ奴がいるってことになるのかな」
「……コドラが鉄を食べ過ぎて、なくなって暴れてるってことはないですよね」
「マクワさんの調査結果が間違ってなければないと思うけどねェ」
クララは髪の毛を指でもてあそんでいる。
「2つとも、これ1人だけで行うことも可能だよね」
「ポケモンの力を借りれば、でしょうか?」
「ああ、もう少しマクワさんが目星付けてる人間についてきいときゃよかったー!」
「だーから大丈夫かと申しましたのに」
「自分だって会ったんでしょォ? とりあえず今日はここまでかな! んじゃ帰るんで!」
クララは立ち上がると、道場の扉を開けて外に出た。空にはすでに星の瞬きがつどいつつある。
アーマーガアタクシーを呼ぼうとしたその瞬間だった。突然、建物の陰から、
獰猛な鉤爪が伸びて、クララに襲いかかる。現れたのは、ガメノデス。
この辺りに生息しているという観測情報はない。脅すように、鋭いつめをあわい星明りに光らせて、クララに詰めよって来た。
反射的にクララはペンドラーを召喚しようと、腰に手を伸ばしたが、肝心のボールが見当たらない。いつのまに、と思って面を上げると、ガメノデスはすでにむこうむきになって、奥の湿地へと駆けてゆく。光る三つの鉤爪にはさまれた紅白のモンスターボールが、辛うじて瞥見された。
「ちょッ、それうちの!! 返せっつのォ!! ようかいえき!」
クララはヤドランを出し、貝の尖端から毒液を放つ。ガメノデスの背中をギリギリ掠めたが、あっという間に姿を消した。
「くっそ、やられた……目にもの見せたらァ……!」
「いかがされました!?」
騒ぎを聞きつけたのか、セイボリーが扉を開き、追って来た。
「タンドン盗まれたーッ! ガメノデスに!!」
「な、なんですとッ!?」
「……タイミング的にはマクワさんしか、疑わしい人いないんだけど」
「ワタクシの推理が更に信憑性を増しました! ……しかし、デキすぎのようにも思えますね」
2人は、彼の手持ちにガメノデスがいる事を思い出す。試合では、先鋒として戦う事も多い。
切れ味抜群の爪に苦しまされた記憶は、既に懐かしさを帯びていた。
「誰が犯人だろうとぜってェ取り返したらァ!!」
「……ステイステイ、いったん落ち着きましょう。こおりタイプのごとくクールに奴らの居場所を暴かねば」
「それなら既にゲロってますゥ」
セイボリーがおお、と溜息を零した。
「……まさか、あのようかいえきに何か」
「そう、ヤドランの毒液はちゃんと洗い落としても、しっかり臭気……フェロモンってやつが残るんだよねェ! というわけでそれを追えば犯人の元に行けるってワケ」
「ほほう珍しくやりますなァ」
「もっと褒めろォ」
「アナタについていくというのは癪ですが。それでもワタクシ、行かせていただきますよ! このガラル紳士セイボリーの名に懸けてましても! あくタイプ!ハイハイ!グッバイ!です」
◆
ヤドランがくんくんと臭いの元を辿っていく。平原を越えて、森の中に入った。夜行性のポケモン達が騒立っている。広い平原よりも、障害の多い森の中は、視界も悪く、臭いの元を辿るのも一苦労だ。ヤドランは必死で臭いを探っているが、鬱蒼とした茂みを抜けて、池のほとりに辿り着いてしまった。
ガメノデスは水中を進めるポケモンだが、この池の中にモンスターボールごと身を隠すことは難しいだろう。
「……ここは明らかにロング・プレイス!」
「さすがにヤドランの嗅覚じゃ難しかったかァ……」
「やああん」
ヤドランはのんびりと首を傾げている。思わずクララが軽く頭を撫でた。
「この島では、ヤドランの毒液もたくさんありますからね……」
「あ゛ー! もうちょっと休憩ィ」
クララは、近くに倒れている幹の上を手で払うと、座る。正直セイボリーも調査の為に働き詰めで、疲労が募りに募っていた。素直なクララの申し出はありがたい。
「なんでマクワさんはあのタンドン欲しいんだろォ……」
クララは両手で頬を支えると、ふうとため息を付く。森の暗がりで、妙に様になっているのが、セイボリーには少し腹立たしく思える。
眉で八の字を描き、数えきれないほどの星が飾る空を見上げた。木々の飾り窓が美しい。
「あげちゃおうかな……」
「いまの話の流れでそこへ行きます!?」
「こんなん絶対お肌荒れるわァ……」
「しかしシショーのおひざ元、このまま放置するわけにもいきますまい!」
荷物からおいしいみずのボトルを取り出すと、セイボリーはのどを潤した。タマゴ以外一切の荷物を置いてきたクララが羨ましそうに見ている。セイボリーは知らないふりを決めた。
「……ねぇ、ずっとマクワさんのこと疑ってたよねェ?」
「聞いてどうなさる?」
「クララちゃんの元気に変換されますゥ」
「最低な返答ですが、まあ良いでしょう……」
セイボリーはもう一度水を飲み、地面に置く。最近思い出した幼いマクワとのある日を語り始めた。
メロンとのこと、モンスターボールを浮かせたこと、マクワ自身を浮かせたこと。
「ああ、いまだドわすれできぬ……! ワタクシの強烈ないかり! ゼンリョク虫唾がランニング! なんでもかんでも自分の物にしようとする底なしの向上心! そしてなぜワタクシまで叱られなければいけなかったのか! バレたワタクシは、その日帰ってから3時間も反省会させられたのですよ!」
「それ家庭環境が悪いんじゃね? そんだけェ?」
「いいえ、他にもありますよ! こおりタイプのジムリーダーの家系に生まれて、継承順位筆頭で、おまけにいわタイプが好きだからと、身勝手なタイプスワップまで許されてしまうお坊ちゃん育ち! 彼がジムリーダー就任の時の挨拶なんて、まァ生意気ではらわたが煮えくり返りましたな!」
感情のまま勢いよく話すセイボリーが立ちあがったことをよそに、クララはセイボリーの持ってきたおいしいみずを飲み干した。
「あーまぁ、キミらが全然合わないのはわかったよォ」
「しかも! この間ワタクシあんまり腹立ったので、コッソリ物陰に隠れまして、廊下でスイート・アンド・エレガントに浮かせて転ばせようとしたのです」
「エレガントってなんだっけェ?」
「なのにあのふてぶてしい男! 勝手にバク宙の浮力に変えて一人で見事エレガント着地決めたのです!」
「……そうやってちょこちょこ浮かせたから慣れたんじゃない……? 以外に仲いいのか」
「キーッ! その言い方禁止です! レッドカード!」
まるで演劇のように大きな身振り手振りで話すセイボリーが元の場所に戻る。地面に置いてあったはずのボトルの中身が、きれいさっぱりからっぽになっていた。
「しかもあなた! ひとのお水全部飲みましたね!? 帰りのコト考えてます!?」
「お、ヤドラン分かりそう!? よっしゃ行くかァ!」
「やァん」
「その態度! もしワタクシに何かあったら、必ずやみちづれいたしますからね!?」
ひくひくと鼻を利かせていたヤドランが立ちあがる。再び森の中を進んでいくと、すぐに開かれた場所に辿り着いた。
ポケモンすらすら進むのをためらう草深い獣道の奥に小さな小屋が立てられていた。ただ一つ部屋があるだけの、作業場のようだ。中から光が漏れている。
唯一の窓からマクワの背中が見えた。
「これも建てたわけェ?! いつの間に……」
「いや、流石にこの年季の入り方は、ずっと昔に建てられたまま放置されていたのでは……」
「じゃあ師匠のせいかよォ」
「それは……! そうかもしれませんな」
セイボリーは、敬愛する師に責任を負わせることに反発を感じたが、かと言って、弁護も出来なかった。長年住んでいながら、この小屋しかり、土砂崩れが頻発するまで、水面下で起きていた変化に気付かなかったマスタードもマスタードではないか。
木製の小屋の扉は、硬く鍵が掛かっている。小さく金属音がした。
「どうする? グチャっと行く?」
クララが小声でしゅっしゅと、蛇の威嚇のような音を口にしながらシャドーボクシングの真似をする。
セイボリーは頭を抱えてため息を付く。
「そんな野蛮なことはいたしません。エレガントに行きますとも。フーディン、サイコキネシスでオープン・ザ・ドア!」
「きゃッ! 流石ァ!」
フーディンを呼びだすと、フーディンはスプーンを突き出す。超能力は、いともたやすく精密な金属の鍵を開けた。そのまま周囲の気配を探らせているが、外に人はいない。
クララがヤドランの影に隠れながら、そっと中に進むと薄い壁の向こうに、机に向かい、作業をしているマクワの頭が見えた。
本棚や機材棚があるだけの、本当に簡素な小屋だ。中の柱も殆どが木製で古い作りになっている。半分は物置として使われているようだ。柱の角にはプラスチック箱がいくつも積まれており、たくさんのモンスタボールが中に詰められているのが見えた。
マクワが向かっている作業台の上にタンドンが転がっており、勢いよくハンマーが振り下ろされている。クララが慌てて叫んだ。
「コラー! やめろやァ!!」
がつん。石材用のハンマーは木材で出来た机の上に落ち、大きな穴を開けていた。木製の作業机はへこみだらけだ。作業用なのか、サングラスをしたままのマクワが振り返った。
「やはり、あなたが犯人だったのですね! ワタクシにはすべておみとおしでしたよ!」
セイボリーが高々と言う。マクワはサングラスの縁を押さえた。部屋の中には両手の指の数ほどのタンドン達がいる。皆興味深そうにクララとセイボリーを見上げていた。何が起きているかはわかっていないようだ。
「……まさか、あなたたちに見つかってしまうとは」
「タンドンに、何を……!?」
「……この身体から、出て行ってもらいます」
マクワは、ぱちぱちと瞬きをするタンドンを抱き上げる。眠っていたが、どうやら騒ぎで目が覚めたらしい。クララに気が付いて嬉しそうに笑った。
「そのタンドンは師匠から借りてるからダメだってのォ!」
「……ぼくには、彼以外考えられません」
「他のタンドンではいけない理由があるのですか」
「そうです」
かたんと棚の影から音がして、ヤドランが即座に貝を向ける。身を潜めていたガメノデスが飛び掛かった。クララ達は小屋の中で慌てて避ける。
部屋の外へ出ようとしたマクワを、セイボリーがフーディンと共に道を塞いだ。
「ガメノデス!」
「おっと、まずは、ワタクシの話相手になっていただきましょうか。奇襲はルール違反・あくタイプですからね?」
「……ぐ……! 話す事、なんて……」
「とは申してしまいましたが。ミスター・マクワ、あなた……ガメノデスを連れていませんね」
セイボリーは、マクワが普段身に付けているボールホルダーを探すが、周囲に見当たらない。それどころかモンスターボールさえひとつも持っていない。
タンドン達がざわざわと鳴きだした。ガメノデスはヤドランに爪で切りかかると、そのまま外へと転がり出る。余勢を駆って爪で切り裂くが、ヤドランは貝を盾にし器用に受け流した。
「ヤドラン、シェルアームズで殴り返すッ!」
主人の指示を聞き、ヤドランは盾にした貝を振りかざして攻勢に転じた。
「さいみんじゅつ!」
「ガメノデス、目を見てはダメです……!」
マクワが反射的に言う。しかし覇気のない声がどこまで届いたかはわからない。
ヤドランの目があやしく輝く。ガメノデスは両の眼と、それから手先にそれぞれある目をとっさに隠し、超能力をやり過ごしていた。
「ダメか、ねっとう!」
貝の先から噴射される熱湯が、ガメノデスの細い身体をむこうへ押しやる。ガメノデスは受け身を取ると、周囲から細い岩の波を打った。ヤドランは岩刃を腹に喰らって、数メートルを横さまに転がる。
「いっけェーッ! きあいだま!」
ヤドランはその場で力を溜めると、巨大な光の玉を作り、ガメノデスにぶつけた。
至近距離のパワーゆえ避けきれず、弾き飛ばされたガメノデスは、立木にごつんと頭を打ち付けて、ぐたりと気を失った。
マクワは抱えていたタンドンを下に降ろすと、ガメノデスに駆け寄ろうとする。
今度はセイボリーも道を塞ぐのをやめた。
「……少々手荒ですが、管理外のポケモンの危険性を考慮してのことです」
「っしゃー! さすがヤドラン! よくぶん殴った!!」
「ガメノデス……!」
走り出したマクワのポケットから光る破片が見える。
ヤドランの足元の土ががらりと小さな音を立てた。クララは急いで指示を出す。
「ヤドラン、避けてェ!」
急なことで、ヤドランは何のことだか、わからない風だった。地面から伸びた長い岩が、ヤドランの柔い肌に突き刺さる。
高く宙を舞ったヤドランは、そのまま地に臥せった。
地響きが辺りを支配する。地面も、空気も、そしてその場に居合わせた生きとし生けるものの胸宇を震撼させた。彼を前にしては、何物も、餌食たる運命をまぬかれない。あらゆる生き物が被食者の恐怖に震え、彼の前にひれ伏す。
大きな足音と、凶暴な遠吠え。バンギラスだ。クララはヤドランをモンスターボールに戻す。
「……くっ」
「……バンギラス、止めてください」
バンギラスはマクワの声を聴き、瞬きをする。マクワが駆け寄ろうとした矢先、大きく吠えると、巨大な尻尾を振り回し、暴れ出した。
「バンギラス!! どうして」
「ふわあ、これどういう事かなあ」
「……まだ上にいらっしゃったのですか」
小屋の扉から、顔を出した一人の小柄な男があくびをしながら言う。マクワの表情がサングラスで隠れる。だが口端が結ばれて、酷く険しいものであることはわかる。
「あんたひとりじゃ留守番大変でしょう? せっかくボディガードにもしておいたのに」
男はベルトに付けた4つのモンスターボールをちらつかせている。背中からカラマネロが姿を見せた。光る触手の先、バンギラスは自分の意思を持たず、混乱しているようだ。
「これなら別にいいよね?」
「……ミスター・マクワはスケープ・ウールーに使われていた……? 真犯人?」
「ちぇー、バラす気なかったんだけどなあ」
「……セイボリー・ミスッ! この小さな小屋に他の人がいるとは……! ええい、ギャロップ! でんこうせっか!」
モンスターボールを投げると、淡く美しい毛並みのギャロップが飛び出した。バンギラスに一気に詰め寄る。バンギラスはギャロップを引き裂こうと、鋭利に磨かれた尻尾や爪を振り下ろす。ギャロップは軽快なステップで跳ねると全て躱していった。
「指示のないポケモンなど、敵ではアリ・エーヌ!」
「はぁ? カラマネロ」
カラマネロが触手を揺らすと、バンギラスは再び吼えた。ギャロップを尻尾で打ち付けると、一瞬ひるんだ隙をついて、爪が捕捉する。白い首筋に、鋭い牙が噛み付いた。痛みでギャロップが悲鳴を上げる。
「ギャロップ、サイコキネシス!」
「こらァ正々堂々と勝負しんかい! ペンドラー! ドクっちゃって!」
「アナタが言います!?」
クララのペンドラーが、小屋の玄関にいる男に突進していく。男は小さく悲鳴を上げると小屋の中に入り、カラマネロを蹴りだした。転んだカラマネロに、ペンドラーのどくづきがクリーンヒットする。
「なんて奴ッ!」
ギャロップがサイコキネシスでバンギラスの動きを制限し、連続でマジカルシャインの光を放った。妖精の光に、バンギラスの巨体が飛び、草の間に落下する。思わずマクワが目を伏せた。
クララが玄関の扉を再び開けようとしたが、またしても鍵を掛けられている。
「バンギラス……。……裏口があります、そちらへ……」
マクワが言いかけたが、ばき、と酷い音がして、扉が砕ける。ペンドラーの角が突き刺さり、貫通している。クララが穴に引っかかった取っ手を捨てていた。男の悲鳴が上がる。
「ひ、ひぃい!!」
「大人しくしろォ!」
「あ、あー! クララさん!? お待ちくださいここは一度ワタクシがー!!」
結局男はギャロップに催眠術を掛けられて、眠った所をクララに小屋のロープで縛られた。
ペンドラーやフーディンもモンスターボールに戻る。
一同は小屋の中で落ち着いて話を使用と、男を引きずって、歩き始めた。
「……ミスター・マクワ、あなたのポケモンは……」
「……すべて、ぼくの管轄にありません。……多分彼がボールを持っていると……」
マクワが男の懐をかいがぐると、モンスターボールが五つ出てきた。彼が愛用している白、黒、黄のハイパーボール以外にも、見慣れた端異色のボールがあった。
ボールを翳すと、バンギラスも、ガメノデスも、中に戻っていく。確認すると、クララが小屋の中に入り、マクワも続いた。タンドン達のせいか、作業室は少し蒸し暑い。
「……こいつが真犯人で良いの!?」
「……彼らは3人で動いてます。そのうちの1人です」
「えぇー、あと2人どこにいんだよォ」
「……おそらく”商売”です。彼らはタンドンから採った”できたて”の石炭を売っています。……先日地すべりのあった場所で会いましたね。あそこから掘り起こした鉄も、彼らが売っているのです……深夜帰って来るでしょう」
「盗品の売人かァ、最悪ゥ……いや、結局土砂崩れの犯人、こいつらってこと!? クララ探偵、クラッと解決??」
クララがはしゃぐ横で、セイボリーが見つめた。
「……ミスター・マクワ、一通りの話は聞いたはずです。しかし、あなたはどうしてここで……一体何をしていたのですか」
「……ぼく、は……」
マクワは何かに耐えるように目を瞑った。それから長い時間をかけて、ゆっくり息をするように、続きの言葉を述べていく。
「……ぼくは、あの先日の土石流でセキタンザンを……失いました」
クララも、セイボリーも、マクワの言葉を聞いた瞬間、すっと世界が変わったように思った。
同じ場所で、同じ空気を吸っているはずなのに、何かが違うのだ。
そしてクララは先日感じた違和感の正体を端無くもつかんだ気がした。生と死が隔てる、大きな世界の壁が確かに存在していたのだ。タンドンの存在から、緩やかに広がっていたのだろう。
それでも、ジムリーダーたる彼の象徴的な存在だったセキタンザン——彼の片割れが、もうこの世にいないなどとは、俄かに信じがたい。
「……土砂崩れの時、失った石炭は……ぼくのセキタンザンの身体そのものでした。彼の身体は土に押しつぶされて、ほとんどなくなってしまいましたが……ここに最後のひとかけらがあります」
マクワは棚の隅に置かれた小瓶を取り出す。まるで部屋の照明のようだ。中には黒い石炭の欠片がいくつか入っており、その先端に小さな炎が灯っている。
「……ああ……これ……セキタンザン、だったの……」
「……聞こえますか」
マクワが差し出すと、瓶の中からか細い鳴き声のようなものが聞こえていた。彼の切り札が登場する時の、あの汽笛のように高らかな雄たけびに、わずかだが似ている。クララがセイボリーを見つめるが、セイボリーもどうやら同じ感想のようだ。
「……鳴い、てる……?」
「はい。……この炎を移す事が出来れば、セキタンザンはもう一度戻れるはずです。何度も実験しました。最初はただの石炭。それから野生のタンドン。……人の持つタンドン。
どうやら人の持つタンドンの方が適合しやすく……しかし意識のある状態では、セキタンザンの方が取り込まれそうになりました」
「……そして一番適合したのが師匠から預かったタンドンだったってわけかァ」
マクワは静かに頷いた。慈しむような手が、瓶を撫でる。
「……彼のお陰で再び、さっき一瞬でしたがセキタンザンに会う事が出来ました。……ですから、セキタンザンは、まだ、死んでいない……。……もう、これしか方法が……」
「……でも、あの子を殺されるとうちが困るよォ……」
「いやその前に殺す選択は ノーサンキュー!です! もちろんどろぼうも! ……他の方法サーチしませんか!?」
「……時間は無いのです。この灯火も、随分弱ってきている。そのうち、消えて……」
セイボリーが息を呑んだ。ぱちぱちと、炭が弾ける音がする。
「……ほんとうに、情けない。……ぼくは実験の為、他人のタンドンに手を出そうとしました。
しかし同時に盗もうとしていた彼らと鉢合わせをして、見つかった。……そこからは共犯することで、ぼくは自分の身を、セキタンザンの身を守ろうとしました」
「……その時から、脅されていたってワケか……」
サングラス越しに、じっと自分の握った手を見ている。
「ポケモンも人質として取られていた……?」
「彼らのいう事を聞くように、命令しました」
「……そっか、人のポケモン使えば自分達に足が付かないってわけ? 何かあった時、身代わりにするってか。最悪ゥ」
「……その条件で、彼らが連れてくるタンドンの面倒を見ていました。盗って来たポケモンも含めて……そうすればぼくは手を汚さずに、あらゆるタンドンの適合を確認出来る……利害は一致していたのです。彼らはタンドン自体に興味はありませんでしたから」
「不届きものは誰か……わからないのですよね」
「この男含めた、男3人組だということだけです。……この小屋は階段が隠されていて鍵も掛かってはいますが、2階があります。彼らはそこで生活しています」
マクワは再び眠る男の懐に手をやると、タグのついた鍵を取り出した。
「……お陰で決心がつきました。ぼくのポケモンたちも、これ以上彼らの好きにさせるのは嫌だ。今日は絶好のチャンスに違いない。……もう、終わりにします……」
穴だらけの机と、置かれたハンマーが、長い時間を物語っている。空き瓶の中の炎は、ゆらゆら揺れ続けていた。
◆
真夜中、日付を跨ぐ時間に男たちの声が森に響く。ヨロイ島は個人所有の地であることを知りながら、日中身を潜めるための隠れ家として個の空き家が選ばれ、草木が寝静まる頃になると、盗人猛々しい盗掘作業を展開した。
おそらく元々は、誰かが見張り小屋か、物置か何かとして建てておいたのだろう。何十年も使われていないのか、埃は溜まり、建材の傷みもはげしかった。
持ち主も存在を忘れているのかもしれない。だから改造した。ちょうど掘削地の山にも近い。一階は捕まえたポケモンと資材を保管する場所だ。
共犯としてポケモンの面倒を見る男を見張り代わりに立てている。
いつも通り、彼はタンドンを寝かしつけていた。出ていった時よりも1匹増えている。戻って来た男たちに気が付くと軽く頭を下げた。
「ガメノデスもきちんと仕事してたな」
「ええ、タンドン一匹連れてきました。かなり個体としては上質です。……適合はしませんでしたが」
「そうか、じゃあ引き続きよろしく」
鍵を開けて、急な勾配を昇る。2階に昇る。上は狭く、部屋がある事を悟られぬよう、カモフラージュの為に窓も小さいが、ただ寝て食べるだけであれば十分なスペースだ。
「いやー今日は良く売れたな。数えていい??」
「明日にしろよ。疲れた。いつもこうだといいのに」
「つーかこいつずっと寝てんな」
「出る時も寝てたな。ちゃんと見張りの仕事してんのか?」
「まー大丈夫だろ、俺らも良い夢見るとしますか」
男たちは着替えると、さっさと床に就く。室内の灯りを消した。
上の窓が暗くなる。外の森の中から隠れて見ていたセイボリーはヤドキングと共に、一階に合図を送った。そして移動すると、上の窓の真下で待機をする。しばらくしてから、だんだんだん、と扉を叩く音が聞こえてきた。
「……2階にはあの四角窓しか出口がない。捕らえた一人は、眠らせたまま階上に戻しておいた。鍵を持つミスター・マクワが下を塞ぎ、バンギラスに襲わせる。そこから逃げ出した男たちを浮かせたのち、かなしばりのごとく! 縛り付ける作戦! ……理にかなってますね」
「……でもさあ、タンドン達連れ出す必要なくないィ?」
マクワに、最後まで連れていた見せかけのタンドンが逃されて、2人の方へと走って来る。必死になって走ったのか、クララを見ると飛びついた。
周りにはタンドンの入ったモンスターボールがたくさん転がっている。
「……よし、おかえりィ、これで叱られずに済む! ……ん? タンドン、ナニコレ……モンスタボールが4つ?」
「……モンスターボール……まさか、ミスター・マクワが持たせて逃がした……? 待ってください。何か……なにか見落としている……」
セイボリーが頭を抱える。中からは、相変わらず扉を叩く音と、マクワと男たちの喧騒が聞こえていた。その合間で、何かが割れた高い音が響いた。
「この男たちが、鉄を掘削して起きた土砂崩れの犯人ならば、つまりセキタンザンは彼らに殺されたも同然……! ミスター・マクワ、まさか……!!」
爆発音が聞こえて、一階の窓が割れた。中から黒い煙が上がる。辺りに一気に煤臭さが立ち込める。驚いたポケモン達が、ざわざわと逃げていく。
「ミスター・マクワ!?」
「ヤドラン! 中の様子を見に行ける!?」
クララがヤドランに指示を出す。ヤドランは戸惑いながら、貝の尖端から自分に水を浴びせて、扉から入ろうとするが、爆風が行く手を塞いだ。
「無理はしないで! 離れてねっとうをお願い! 火を消すの!」
みるみるうちに炎が立ち上る。黒い煙を背に、噎せ返る男たちが、大慌てで上の小窓から身を乗り出していた。何とか一人通れるか否かの大きさの窓で、パニックになった男たちが押し合い状態だ。セイボリーは急いで男を一人浮かせて引っ張り出した。状況を把握しきれない男は悲鳴を上げ、目を白黒させている。
「じっとしていてください! スーパーエスパーパワーで今、安全に降ろしますッ!」
「た、助けて!! 助けてぇええ!!」
「あづいあづいあづい! 焼けちゃう焼けちゃうーーーー!!」
「じゅ、順番ですッ! ステイステイ! ワタクシ重量オーバー!」
暴れる男を何とかゆっくり降ろす。宙に浮いている間に、クララが駆け寄って拘束した。
しかしその間も背中の炎から逃れようと、他の男が身を乗り出している。
「ちょ、ちょっとォ、中で何があったんですかァ!?」
「クソまさか、お前ら、マクワとグルか……!?」
クララは縛り付けた男の襟首を掴んで揺さぶる。
「早く答えろやァ!」
「……ま、マクワが……火を付けた……!!」
―― シュ ポォー
揺れる劫火の中、セキタンザンの声が聞こえた。
焔は燃焼に必要な酸素を求めて上に昇る。当然不完全燃焼の黒煙も上がるだろう。
人間にとって有毒ガスの塊だ。
男たちを2階に籠城させず、絶対に追い出す為の最後の秘策だった。火炎の特徴は、マクワが全てセキタンザンから教わったことだ。
「……きみの炎は……人を救い、守るための炎です。……それなのにぼくは……最期までこんな扱い方しかできなかった。本当に、ごめん……」
誰にもバレないよう、タンドンから少しずつ集めたコールタールを密かに隠していた。真っ黒で粘りのある乾留液を部屋中に撒く。自分にも頭から振りかけると、懐かしい香りがする。
上で眠っていた男たちを壁越しに起こし、瓶を落として炎を付けた。
小屋を燃やすことは、ここに来た直後からの計画。
本来、彼らを目覚めさせるつもりはなかったのだ。
しばらく燻っていた弱い火は、タールを燃料にして一気に燃え上がる。白い煙がふわふわと昇っていく。焔は室内の古い材質を食べる度に成長し、煙を黄色に変え、そして真っ黒なものへと濃さを増す。巨大な炉のように。あるいは石炭の山のように。
「だけど……どうしても、見たかった。最期に……きみが燃え盛る姿……」
マクワは二階へ上がる階段が隠された壁の前に座り込んでいる。男から奪った鍵で外側から施錠した。自分を重石にし、両手は鎖を使って、しっかりと柱に括り付けた。
元々セキタンザンの3分の1の立派な重さだ。簡単には動かせない。
咽喉が焼け付くように熱く苦しい。目も痛くて開けていられない。視界が歪んで、黒い煙ばかりだ。近くの天井の柱が木炭となって崩れ落ちた。
すぐ横の壁は燃えていて、タールに濡れた身体に、灼熱が鋭利な牙を剥いている。
かしゃん、という音から、身体を低くし、ハンカチで顔を抑えた男が現れた。
いつの間にか、マクワの手が自由になっている。
「……すまん……すべて、ワシの把握不足だ……おぬしの硬い意志も選択もわかっている。だが、どうかこのワシの為に……この手を取ってもらえないか。同じ、相棒を失った者として……」
ややあって、マクワは伸ばされたしわがれた手に、自分の手を重ねる。
「これを……」
囁く様な声は、届いたかはわからない。古い木製の小屋は、絶好の餌となり、火を大きく大きく育てて行く。燃え盛る炎が、まるで炉のように、巨大な山の形を成して聳えていた。
遠くで、サイレンの叫び声が轟いている。
◆
ヨロイ島を澄み切った青空が、どこまでも温かく包んでいる。
セイボリーの通報後、すぐに警察や消防が到着した。燃えた小屋の消火活動は終わり、男たちは無事連行されていった。警察には勝手に荒事を行うなと叱られてしまった。
タンドン達も元の持ち主に戻されて、そのうちの一匹はクララの元にも戻った。
小屋から押収された石炭はおよそ3tにも上り、遠赤外線効果などのうたい文句を付け、ひとかけらを高値で年配女性などに売りつけていたという。前委員長のエネルギー事業の空きを狙ったらしいが、失敗し、結局違う路線で販売するしかなかったというのが調書の記録だ。
森の奥深くに建てられていた古い小屋は、マスタードですら把握出来ていなかったらしい。伸びる蔦や草木が覆い隠していたようだ。
全焼し、残るのは真っ黒に崩れた壁や柱の跡ばかり。
消防の事後調査の後も、とうとうマクワだけは姿を現さず、遺体や遺品も出てこなかった。
裏口に炭のついた足跡が残っていたが、これはマスタードの物という事で決着はついている。
事情聴取を終え、セイボリーもクララも道場に集まった。
「おつかれちゃん! 本当に大変だったね、ごくろうさま」
「大変だったんだよォ師匠! 警察には怒られちゃうしィ! 頑張ったのにクララ悲しいー!」
「チミたちだけで捕まえようとするとはワシちゃんも思ってなかったからねー」
「あーん、もう! それはわたしのせいじゃないのォ!」
クララは抱きしめたままのタンドンを師匠に差し出す。
随分なついたようで、腕の中が嬉しそうだ。思わずマスタードは微笑んだ。
「うんうん、しっかり面倒見てくれたんだねー。うれしいよん! ありがとちゃん!」
「結局この子何だったのォ?」
「マクワちんを見てた時、あの森の中で拾ったタマゴだったんだー! あんな小屋がすぐ近くにあったなんて気づかなかったけど……この子をきっかけに、きみたちがマクワちんに近づいてくれることを期待してたんだよん。バッチリだったからうれぴー!」
マスタードの言葉に、クララとセイボリーは、マクワのことを思い出した。
いつから狙っていたかはわからない。犯人との心中という選択肢が、確実に頭の片隅にあったのだ。セキタンザンの敵討ちなのか、復讐心なのか、知るすべはない。
「はー、もうマクワさんにはやられたァ! 警察に叱られたのもマクワさんのせいなのに、文句も言えねぇ! 火を使うつもりだったなんて……ああもう、ほんと酷いよねェ……!」
「……境遇や距離の近いきみたちならと思ったんだけど、想像以上に意志が強かったかなー」
クララは道場内で転がっていたが、がくりと肩を落とす。天井は高く、いつも通り凛々しく整然と柱が組まれている。
「……どうなったのかなァ」
「……生きているのか死んでいるのか、まるでマジック……」
「……ほんと、せっかく人が、誘ったのにさァ……最低だよ……」
「あぁ、そういえば! チミたち、メールが届いてたよん。読む?」
マスタードがスマホロトムを呼び寄せた。アプリを起動して、2人に画面を向ける。
クララは体を起こしてマスタードを見た。
「え、誰から?」
「さあ?」
小首をかしげる仕草に、負けじとクララは頬を膨らます。
「惚けないで下さいよォ」
「読み起こしてちょ!」
「わかったロト~!
メール 昨日到着 差出人不明
『セイボリーさん・クララさん そしてマスタードさん
先日は助けていただきありがとうございました。
結論を言いますと、マクワは小屋の火災で死亡しました。
直接ではないにしろ相棒を殺した犯人との相打ちを望んだ、愚かな男です。
しかし、あなた方がぼくの元へ来てくれたことで、ぼくはもう少しだけ世界を信じてみようと考え改めました。結果、犯人を生きたまま捕縛という選択が生まれたのです。
それはセキタンザンに、他者を殺させずに済んだということでもありました。
ぼくは司法の結論を聞くことはできません。正直どうでも良いとさえ思っています。
それでも、社会に委ねます。次の不幸が起きないように。
本当にありがとうございました。
この罰が終わったら、いつかまたどこかで。』以上ロト!」
スマホロトムがくるりとマスタードの周りをまわる。持ち主はお礼を告げた。
セイボリーは組んだ右腕を顎にあて、ふむ、と息を吐いた。
「”マクワ”は死んで、違う誰かとして生きてゆくおつもりでしょうか」
「ずっるいなァ……! うちらがマクワさんの言うとおりにしてなかったらどーするつもり!? ちゃんと見てろってのォ……」
リボンを揺らしながら、クララは感情をあらわにする。
「それは……どういう憤りでしょう?」
「監督責任不在の義務放棄ってヤツ!!」
「……ミスター・マクワは、ワタクシたちを信じてくれた、というわけでしょうか」
悔しそうにハンカチを噛んだ。
「師匠ー!?」
「……メールの通りだ。マクワちんはここにはもういない。……ワシも耄碌かなぁ」
窓の外を見ながらつぶやく師匠の前に、透明なカーテンが揺れているのが見えた。経験故に生まれる、目に見えない隔たり。いつか掴めなかったものを見つけて、クララは曲がった背中を軽く叩く。
「……この手紙を信じるなら師匠のお陰で、あんのマクワさんも……ちょっとくらいは前向きにはなれたんじゃないですゥ?」
「ええ、ええ! しかもワタクシたちはミスター・マクワの事、ドわすれしませんからねェ。罰であり……それこそが縁かもしれませんよ? そう、みちづれェ……!」
頭のボールの回転スピードが速まり、風を切る音がする。
「……そうだな。巻き込んですまなかった……いや、助かったよ。本当にありがとう……」
「まァ、シショーの頼みでしたら、ワタクシいつでも大・大・大歓迎ですので! キョダイヤドキングに乗った気持ちで頼ってくださいませ!」
セイボリーはいつも張った胸をさらに反らせて、ぽんと叩く。
「船でもなんでもないんだけどォ? でもま、クララちゃんに掛かればどんな難問もかるーくクラクラっと解決しちゃうから! またよろしくね、師匠ォ!」
クララが片目を瞑ってウィンクをする。
しっかり輪郭は両こぶしで飾った。クララの必殺技だ。
「うむうむ、2人がちゃーんと仲良くできるような問題を、用意しとくねん!」
「ええ、また2人なんですかァ!?」
「ぐぬぬ、次は絶対うちが先にクリアァ!」
それぞれトレーニングをしていた道場門下生たちの笑い声が響く。
自然豊かなヨロイ島は、たくさんのトレーナー達がオフやトレーニングに選ぶ、人知れぬ場所だ。
雨の日も、霧の日も、曇天の日も、日差しの強い日も。
誰かが好きなポケモンやパートナーと共に、彼らだけの時間を過ごしている。
観測すると消えてしまうような、淡くてうつくしい物語が生まれる空間。
違う種族の生き物同士の遠すぎる距離が、たった一瞬だけ重なるような夢幻。
森でも、浜辺でも、洞窟でも、砂漠でも。思い思いのポケモン達と、より近くで同じ夢を感じられる場所。好きな時に訪れて、好きな時に人里に戻る事が出来る。
ガラルの身分や名声も忘れて、人から遠く離れられる異世界でもあった。
いつか再び、彼らがトレーニングを行う姿にも出会えるだろう。
広大な星の輪廻と時空の片隅で、ちがう想いを同じ場所に置くように。
ひとの罪と罰が導き続けるように。誰かのささやかな縁に紡がれるように。
わるいウールーの話
セキタンザンが死んだ。あれほどの巨体でさえ、あっけなく終わらせてしまえる。
命という物は、なんて脆く残酷なのだろう。
本当に不幸な事故だった。訓練中、突然発生した土砂に呑み込まれた。ただそれだけ。
すぐ上で野生のポケモン達が縄張り争いで暴れていたらしい。
いわポケモンに精通しているはずのぼくは検知する事が出来なかった。
ただ、ルーティンをクリアすることしか考えていなかった。
ヨロイ島は人も少なく、トレーニングに打ってつけの場所だ。ぼくにとって、得意としない温暖な環境であることも、効率を上げてくれる。
オフの日が生まれる度に、相棒のセキタンザンと訓練をした。雨の日も、霧の日も、曇天の日も、日差しの強い日も。森でも、浜辺でも、洞窟でも、砂漠でも。少しでも一緒に居る刻限を作るため。
さらにさらに強くなり、ガラル全土にいわの輝きを印象付けるために、僅かな一秒さえ惜しかった。
あまり足場の良くない、山中での走り込みの最中だった。ぼくより少し後ろで走っていたセキタンザン。
はるかにセキタンザンの体積を上回る量の土が、山を削る牙のように、セキタンザンの身体を掻っ攫っていく瞬間を、音を、悲鳴を、ぼくは鮮烈に覚えている。
信じてきた全てが、目の前で消えてしまったのだ。伸ばされた手に突き飛ばされて、見ていることしかできなかった無力なぼく。
セキタンザンに押し飛ばされて、ちょうど木と木の間に入ったぼくは、ギリギリ土砂の移動範囲から逃れていた。
強烈な力を持った地面はいともたやすくセキタンザンを粉々に砕いて、砂の中にぺろりと平らげる。
しばらく動くことが出来ずにいたぼくの元に聞こえてきたのは、さざめきのような微かな呼び声だった。
「ゴォ……」
「セキタンザン……!?」
滑り落ちた土砂の上面に、黒い塊がある。ぼくは慌てて近寄ると、か細く聞こえる鳴き声を追った。石炭の間に、弱弱しい炎がひとつあった。声は間違いなくここから耳に届く。
最後の、ほんのわずかな奇跡に違いなかった。ぼくは急いで拾い上げると、掌に入れて山を下り、空いたガラス瓶に入れた。
「……よかった……きみはまだ……生きてる……」
相変わらず返事は細いが、確かに聞こえている。小さな灯火は砂金のように美しい。
その日からぼくは、とにかくシャベルで土の中から彼の残る身体を掬い上げた。連日天気が悪く、雨の中であっても、傘をさしている暇はない。
「……あった……」
土と土の間に埋まる、塵のような石炭の破片であっても、ぼくは見逃さない。見逃してはいけない。この辺りは黒雲母の少ない地盤だ。真っ黒の石炭は主張が強く、すぐに見つかる。
水分をしっかり払い、袋に入れた。帰ってからもう一度水を飛ばして、瓶に入れるつもりだった。
「まだ……しんだらだめだよ……まだ……」
そうしてなんとか拾い集めた破片さえ掘り起こして組み合わせたが、もうセキタンザンの形が戻る事はなかった。
彼の命が消えてしまうのには早すぎるというのに。きみと紡いだ約束を、何一つ果たせていない。
ぼくはそんな退屈な男になりたくはないのだ。いなくなるには早すぎる。
他のセキタンザン個体を使うべきだと誰もが言うに違いない。ぼく自身もそのうちの一人だ。既に立派なセキタンザンを育て上げた経験と知識がある。後継を育てるのは難しくないだろう。
愚かな恣意に違いないが、ぼくは最初の相棒になってくれた彼とでなければ意味がないと考えている。大衆心理を説き伏せようとするぼくをぶん殴る、ぼくの出した結論だ。
ガラルでは人の物語を消費することに大きな価値を置かれている。ぼくの物語の価値は、違うタイプを目指さなければいけなかったぼくを見出してくれた、あのセキタンザン以外には足り得ないのだ。最高を提供できないぼくの物語は、ここで閉じるべきだろう。
ぼくはホームセンターで購入した石炭からひとかけらを掬うと、硝子の小瓶に入れる。いのちの器の中、灯る僅かな炎は、朧気だが黒い炭に手を伸ばした。じわじわと炎が移り、まるで喰らっていく様子に安堵する。儚い灯火だけが、今のぼくの安らぎ。瓶の中に閉じ込められた微かな火だけが保証する、いのちの救済。
バラバラに崩れて埋もれた石炭の山の上っ面から、ぼくが唯一拾い上げられた、小さな小さな炎の破片。
時折聞こえる脆くて華奢な鳴き声は、彼の魂がまだここに残っている証左だった。
ぼくたちが一緒に描き続けてきたはずの夢も、未来も、瓶に収まる種火に変わってしまった。
けれど終わってはいない。炎をもう一度大きな石炭の中で燃やす事さえ出来れば、元に戻れる可能性がある。ぼくは一縷の望みに掛けるしかなかった。
あちこちで石炭を購入し、彼に与える。一度にあげすぎてしまうと、火種が負けてしまう。量に注意が必要。石炭の種類にも向き不向きがある。無煙炭が一番好きらしい。まだ身体があった頃と変わらなくて少しうれしい。
褐炭は水っぽさで、火を弱める可能性があるのでNGだった。何日も何日も調達しては試すが、火を残すことで精いっぱいだ。ちっとも大きくならない。
油や着火剤を使って無理矢理火起こしをしても、変わらなかった。一時的に火力は上がるのだが、定着は熾らない。
まだ「声」は聞こえている。セキタンザンがいなくなったわけではなさそうだ。実はジムトレーナー達にも小瓶を隠しながら聞かせてみた事がある。ぼくだけの幻聴であっては困るからだ。
それぞれ感知し、遠くでどこかのセキタンザンが鳴いているのだろうかと首をかしげていた。
ちがう。誰も信じないが、目の前にセキタンザンがいる。伝わるようにしなければいけない。安心するよりも、覚悟の方が強まった。
次はよりセキタンザンやタンドン達に近い、彼らが落とす炭を集めてみた。過去購入した物の中には、彼らが作ったものも混じっている。だから今度は、生成してすぐの石炭を与えた。ワイルドエリアや鉱山でセキタンザン達の群れの中に混じり、彼らから分けてもらうのだ。身体の炎のぬくもりが残る石炭なら、ぼくのセキタンザンも安定しやすいはずだと思った。落としてすぐのもの、寝ている間に直接拝借させてもらったもの。
ぼくの推測は当たったようで、セキタンザンの火が安定して残るようになった。とはいえ過去と比較し、滞留時間が長くなっただけで、元のサイズに戻ってしまうことに変わりはない。
だが、少し光明が見えた気がした。
野生のタンドン達をいくつか捕まえた。彼らの近くだと、ぼくのセキタンザンも安心するのか、火力の揺らぎが減る。タンドン達は、焔だけになってしまったセキタンザンのことを不思議そうに見ていた。仲間である事を理解しているのかはわからない。
会わせていく中で、判明した事がある。
タンドンの個体の中でも、力のある強い方がセキタンザンの安定力が高い事。そして、意識のないタンドンであれば、セキタンザンの炎が灯るという事。
これは少し危険で、セキタンザンの炎を移したままタンドンが目覚めると、セキタンザンの炎が異物として扱われ、排除される可能性がある。
危うく取り込まれそうになったセキタンザンをいつもの小瓶に収めて、ぼくは大きく息を吐いた。怖かったのか、鳴いている相棒に、ぼくは大丈夫だと声を掛ける。
そう、大丈夫だ。ここにある希望は、ぼくらを未来に繋ぐ物だ。
ブリーダーたちが育てているタンドンやトロッゴンを買い取った。まずは生成される石炭を使用し、その後身体を利用した。いつも通りの成果しか現れない。セキタンザンが一時的に移る事は出来ても、定着まではいたらなかった。
だがこれは個体差によって変わってくることが判明する。何度も研究し実験した成果。
まだ詳細な条件はわかっていないけれど、セキタンザンに「合う」身体であれば、長い時間移っていられるようなのだ。
より定着しやすい個体を探さなければ。
街中にいるタンドンを捕まえた。どうも人に近いポケモンは定着しやすいのかもしれない。以前に比べるとセキタンザンの定着が良くなっていることは時間との長さがしっかりと物語っている。
つまり、誰かのポケモンとなっているタンドンやトロッゴンが必要だ。
タンドンを連れたトレーナーを見かける度、声を掛ける事にした。一時的に貸してもらうためだ。
おおよその人は何も疑うことなく許諾をくれている。当然、嫌がるトレーナーもいた。
借りたタンドン達は残念ながら皆不適正だ。となると他のトレーナーから借りる必要がある。
適合確認自体はそこまで時間を必要とするものではない。ぼくは少し強引に拝借することにした。褒められたものではない。
キルクスは温泉で有名な街だ。入浴中、更衣室の荷物として置かれた、タンドンのモンスターボールに手を出そうとした。さっきまでこの服の持ち主が外で遊んでいた姿を見ている。タンドンに間違いない。
ボールに触れる瞬間、慣れない無理はしない方が良いのだと、母の言葉が頭に過る。
その時、信じられない事だが、その時偶然にも同じことを考え、同じ行動を起こした男がいたのだ。男はぼくを同業者だと見なすと、すぐに殴りかかってきた。すかさず躱して、ボールを奪取しようとした時、覆面からのぞいている無精髭のある唇が、なれなれしくぼくの名を呼んだので、瞬間、冷や水を浴びせられたように、ぼくは立ちすくんでしまった。
3人組だった男は、タンドンのモンスターボールと共に、ぼくを人気のない路地へと連れ出す。
「いわジムリーダー、マクワさんでしょう? なんでこんなことしてんの?」
「……トレーナーたるもの、優秀なポケモンを手に入れて育てるのは当然のことでしょう」
こういう時、サングラスは役に立つ。室内では目立つが、外であれば問題ないだろうと思い、着けることにした。威圧的な仮面が、心を落ち着かせてくれる。はったりは得意だ。トレーナー同士のブラフの読み合いも、試合でさんざん磨いてきた。
「ハハ、それもそうだな!」
「俺さあ、良い事思い付いちゃった。ねえ、仲間にならない? タンドンが欲しいんだろ? やるよ」
「……なんで」
「俺たちはタンドンの作る若い資材が欲しいだけだ。ポケモンとして欲しいわけじゃない。でも精通してるオマエが育てれば、もっといいように価値を上げられるだろ?」
「なるほど~」
「ちなみに俺たちには何でもないけど、マクワさんには大事なものがいっぱいある。そのジムリーダーの名声とか、ご立派なお母さんとか……警察に行って、俺たちとおんなじお縄にかかりたいかい? すべて水の泡だぜ」
思わずぼくは歯噛みした。言われた通りだ。やっとジムリーダーになれたばかり。まだセキタンザンだって死んでいない。
ぼくには戻りたい場所がある。迷惑を掛けてはいけないものがある。
「それもそうですが……ぼくにはぼくで、タンドンが必要な理由があるので石炭はくれてやりますが、あとのことには口出し無用です。約束ですよ。ぼくたちは共犯関係です」
「オーケーオーケー。あとこいつは人質として頂いておく。共犯はバランスが大事だからな」
早速搾取ではないか。対等といいつつ、明らかに主導権を握ろうとしている。ぼくは逃げようとしたが、後ろから思いきり蹴り飛ばされて硬い石畳に転がった。ホルダーを抜かれて、モンスターボールを一つずつ持ちだされる。
「あれ?……ひとつ足りないんじゃない? 出しなよ」
「……それは」
言い淀んだ。セキタンザンは今はいない。理由はある。だが、どうしても口に出したくない。
「おら、早く。切り札持ってられちゃ困んだよね」
今度は横に蹴り飛ばされた。口の中に血なまぐさい鉄の味が広がる。何度も蹴り回されているうちに、血を吐き、吐いた地面がぐらついて、あげく世界の方がまわり出した。”いない”相棒を差し出すより、その方がましだ。
だが、暴力の雨は終わらない。
脚を踏みにじられて、ぐわんぐわんと揺れる脳が警鐘を鳴らしていた。
ぼくが死んでしまえば、セキタンザンだって戻らなくなる。悔しさに唇をかんだ。目頭が熱くなる。
「……セキタン、ザンは……い、いない……」
「はぁ? んなわけないでしょ」
「嘘言うとこの子たちが危ないよ」
「……し、……死ん……だ、から……」
言葉には力が宿るという。たったこの一言を口にするだけで、ぼくの心はひどく抉られた。
「あ? どうして」
「ど、土砂に……のま、れて……」
「……ヨロイ島か?」
「な、んで、それを……」
「だから強いタンドンが欲しいってわけか。既に育ってるセキタンザンだと癖ついてるかもしれないもんな」
ぼくはなにも言い返せない。あの種火がセキタンザンだとは誰も思わないだろう。なら、そう思われていた方が都合がいい。それよりもヨロイ島の土砂崩れを知っている事の方が気になった。
あそこはほとんど人の入らない場所のはずだ。
「……土砂……なんで、知って……!」
「ああ、あれはな。コドラに鉄探させてたらやり過ぎた」
「あんときマジ面白かったよなー」
「まだいんのかな、使い捨てコドラ」
もうそれ以上の言葉は何も耳に入ってこなかった。ただただ自分の無力さに打ちひしがれて、感情が雫となって零れていくだけだ。
そうして始まったのが、くだらない男たちとのくだらない共犯生活だった。
男たちがタンドン達を盗む。ぼくがセキタンザンの定着実験をしながら、面倒を見て、石炭を抽出する。
作業の傍ら、コールタールも少しずつ集めた。トロッゴンやセキタンザン程の量はないが、少しずつ集める事で数本のボトルが満たされた。もちろん男たちにはバレないよう、本棚の奥に隠して置いた。いつか必ず役に立つ日が来る。自分の心を守るための最後の切り札だ。
あの時、もっと早く気付くべきだった。野生のポケモンの正体を。
緑豊かで、木々が豊潤な地面をしっかり繋ぎ止めているはずのヨロイ島で、土砂崩れが起きたという異常を。掘り下げるべきだった。
バレないようひっそり何度も通った。セキタンザンの欠片がまだ残っている可能性に期待し、周囲を調査した。コドラが食べた跡ではなく、人為的に鉄鉱石を掘削した痕が見つかった。
彼らが鉄を盗み、売っぱらったに違いない。しかし掘削作業の道具は発見できない。何処か違う場所に捨ててしまったのだろう。強引な採掘でバランスを欠いた地盤が、残されたコドラ達の影響で崩れ、セキタンザンを喰った。セキタンザンを殺したのは、彼らに違いなかった。
今、ぼくは誰かに見つかるわけにはいかないが、歩みを止めるわけにもいかない。
クララさんのタマゴの孵化を促進させたことで、さらにセキタンザンの存在を確信する。
最近よくセキタンザンが鳴いているが、大丈夫だ。もうすぐ、もうすぐぼくたちは元に戻れるはずだ。
◆
実験を繰り返し続けたせいだろうか。大元の種火が弱くなってきた。親指程はあったものが、今は爪ほどのサイズしかない。急がなければ。
◆
やっと。やっとだ。どれだけこの日を待ちわびたことだろう。どれだけ費やしただろうか。
とうとう安定してセキタンザンが定着できそうなタンドンの個体を発見することが出来た。奇跡かもしれない。
タンドンの意識がなければ、セキタンザンは移っている事が出来るのだ。
わずかな間だけの再会を、ぼくがどれほど喜んだのか、きっとセキタンザンもわからないだろう。種火になっている間の記憶はほとんどないようだった。もちろん知らなくてよいことだ。
大丈夫。セキタンザンは死ななくて済む。あの事故だってなかったことになる。
大丈夫。大丈夫だ。ぼくは、このタンドンを眠らせるだけだ。永遠に。
◆
どうしてぼくは、出来ないのだろう。まだぼくには覚悟が足りないのだろうか。
たくさんのものを捨ててきた。後戻りなど出来る筈がない。いや、後ろの道は元からない。あるのは、輝く未来に進むための道だ。ぼくと、セキタンザンの栄光だ。
弱いぼくでは、チャンピオンになるという夢だって叶えられるはずもない。障壁はすべて壊さなければならない。それが当然で、ぼくという人間が背負った宿命だ。
努力は挙げて惜しまないと決めたはずだ。母と袂を分かったあの日から、いや、タンドンと出会った瞬間から。
ぼくのセキタンザンは、ガラルに必要とされる物語を描けるポケモンに違いない。
彼の存在の前に、誰も彼も霞んでしまうだろう。誰より僕が保証する。そのために頑張って来た。実際に評価されてきたことも知っている。彼がいなくてはダメなのだ。
なのに、タンドンへ石工用のハンマーを振り上げる度に思い出してしまう。
タンドンに出会って救われたあの日の自分を。同様に救われたかもしれない誰かと、誰かに愛されるタンドンを。他でもない、ぼく自身の脳裏から離れない幻影。
美しい思い出はまるで悪夢のようにちらちらと瞼の裏に居座っている。優劣さえ軽く飛び超えて。
ぼくは過去の自分ごと、破壊しなければいけないというのか。ぼくは。それを。いつか。明日に。今日と昨日に。望まなければいけないのだ。矛盾をはらんでいる。
このために犠牲を忍んで研究してきたはずなのだ。報われなくてはいけないのだ。
だから、全てを捨てよう。
燃えている。小瓶の檻から飛び出したセキタンザンは、焔になって全てを食べていく。
ぼくの犯した愚かしい弱さのすべてを、喰らい尽くす。なんて優しく逞しいのだろう。
きみと同じ場所に行けるとは思っていない。でもここは寒くて、昏くてしかたがないのだ。
哀れなスケープ・ウールーが放った、最後の燎火は、今、命を灯して希望の号火となった。
今ならわかる。きみを殺させてしまった瞬間から、ぼくはもうとっくに死んでいたのだ。
ずっとこの炎に触れたくて仕方なかったように思う。ゴーストポケモンでもないのにあべこべだ。
それなのに生き続けて居たら、きっと世界の歯車を狂わせてしまうだろう。
もし、きみの復活が遂げられない場合。きみを殺した男たちと共にすべて燃やしてしまおうと思っていた。もちろん窓はぼくが塞ぐ。
けれど、彼らの存在は、窓の外への道を悠々と切り拓いた。
不思議なほど眩しい2人だった。以前のぼくなら、きっと気付けなかったかもしれない。
そして、もうひとつ。こんなぼくを、ずっと前から助けようとしてくれた手があった。
でも今のぼくは、きみの炎に触れる事しか考えられない。だから一つだけ願いを託した。
誰かに観測されれば消えてしまうような、淡くうつくしい物語がぼくらには間違いなくあった。
違う種族の生き物同士の遠すぎる距離が、たった一瞬だけ重なるような夢幻。
広大な星の輪廻と時空の片隅で、ちがう想いを同じ場所に置いていたのだ。
罪と罰が繋がり続けるように。ささやかな縁に紡がれるように。
ぼくはまだ、信じていたい。ぼくらで結んだ最高の物語の続きというものを。
ぼくが何度もきみに救われたからこそ、ぼくの物語があった。
そして最後もきみに救われるなんて、本当にぼくは幸福だ。
いつか贖罪を終えて、再びきみに会いに行ける時を待ち望んでいる。
血潮の末端で
託された最後の約束を果たしたい。
アーマーガアタクシーで島を越え、はるばるキルクスにやって来た。マスタードの硬い頬に触れるひんやり冷たい空気も、丁寧に築かれた石造りの街も、ヨロイ島とは全く違う光景。
人里の賑やかさに、白雪の舞うキルクス独特の清閑さ。どれも腰の曲がった隠居老人は気に入っていた。
住宅街の奥、一際目立つ白い大きな邸宅は、マクワの実家であり、今もジムリーダーを務めるメロンのものだ。呼び鈴を鳴らすと、モニター越しに少女の声が聞こえた。メロンの娘だろう。マスタードは挨拶をすると、少女は承諾した。
無人の門はがたんと音を立てて鍵を外し、ふわりと開放される。小さく頭を下げて、メロンの英の敷地に足を入れた。
大きな塀に囲われているため分かりづらいが、中の庭はたくさんの子供たちが十分遊べるだろう広さだ。
敷き詰められたレンガの小径が玄関へとつづき、あとは広闊な芝の海だ。
艶の良い芝生の上に、真っ白なアンティーク調の椅子とテーブルが置かれている。
足元には汚れたピンクのボールが落ちていた。
たくさん使い込まれているのが分かる。
よく手入された庭と、誰かのおもちゃが転がるアンバランスさに目を細めた。
長い年月をかけて、この庭園ですくすく育っただろう青年を思い返す。
既に家を飛び出して数年たつと聞いていた。最後にここで過ごしたのはいつ頃だろうか。
「あら、ごめんなさいね、マスタードさん!」
伴侶ミツバに似た、闊達な明るい声が響く。
メロンは家の扉を開け、幼い子供を抱き手を振っていた。
マスタードも小さく手を振って返す。
「こちらこそ、急に来ちゃって めんご、めんご!」
「いいえ、この子たちがぐずっちゃったせいだよ。さ、上がってください!」
玄関を抜け、廊下を歩いていると、さっきメロンが抱いていた子と目が合う。
丸い頭の男の子が片指をくわえて、もじもじしながら声を掛けてきた。マスタードは笑って、しゃがみ込んで目を合わせた。
「おじちゃんおともだち?」
「コラッ、マスタードさんです!」
「うんうん、ワシちんはみんなのともだちちゃんだよん」
「わしちんともだちちゃん? あはは!」
言い方が聞きなれなくて面白かったのか、幼い少年が廊下の向こうへ走っていくのを、姉らしき少女がついと出て、取り押さえた。
「こら、おりこうさんでしょう?」
「ともだちちゃんだもん!」
「もう! お母さん忙しいんだから、こっちにおいで!」
にこにこ様子を見ていると、マスタードをうながして、メロンが客室に請じ入れた。
マスタードは、大きなテレビの前に置かれている、ふかふかのソファの上に座った。
「すみませんねえ、もう少しだけ、ここで座って待っていてください」
「いいよん! 気にしないでちょ!」
高さは低いがクッション性が高く、深く凭れるとお尻が沈んで、そのまま底なしに吸い込まれてしまいそうな心地だ。紅茶を出すと、メロンは再びばたばたと違う部屋へと向かっていった。
子供たちを長女に預けるべく、悪戦苦闘をしているさまが壁越しに伝わってくる。
一人息子のハイドは早熟で、ちっとも手が掛からない事を思い返した。
生まれたばかりの赤ん坊の頃は、ミツバの姿が見えなくなるとすぐ大泣きしていたのも既に遠い思い出になり始めている。
それと比べて、この賑やかさは少し寂しいような気にもなるが、ミツバと共に育てた、とてもとても愛らしい。今も愛おしい宝物だ。
どたばたと騒がしい音が遠くの方へと収まったころ、扉が開き、メロンが戻って来る。
自分の文の紅茶を用意して、マスタードの横に、やや離れて腰かけた。。
「うふふ、賑やかで楽しいねー!」
「アハハ、もう、今がやんちゃ盛りで」
「お姉ちゃんが見てくれているんだ」
「そうなんです。ほんと助けられっぱなしなんですよ……マクワにもよく面倒見てもらいました」
マスタードは紅茶に口を付ける。
「いいお兄ちゃんそうだね、彼」
「ほんとに。家を出ていってからも、なんだかんだでちゃんと見てくれてさ……あたしのせいかな」
ぽつりと零した言葉は、しつもの彼女らしい覇気が感じられない。
小さいソファに座った家の主は、深く腰かけて、顔を両手で覆っていた。
余りにやりきれない。小悪党なんかに振り回され片棒を担がされ、焔の中、一人で消息を絶った息子。
マクワは生まれた時から、人の目を意識し、見られても平気な自分自身を演じなければならない環境だった。
周囲からの見られ方を誰より意識し、そこから作り上げた彼のスタイルさえあった。
けれど同時に、束縛され続けたことも確かだ。ガラルのジムリーダー・メロンの息子として、小市民の与り知れぬ贅沢な環境が用意されている代わりに、名に恥じぬ振る舞いも求められていた。
悪党に加担した理由の中に、たった数ミクロンでも、自分の存在や名前があったのなら。
『マクワ』を殺したのは、他でもない自分ではないか。
飛躍している自覚はある。だが考えずにはいられない。
メロンにとって、自分の地位や名誉よりも、命の方が何倍も重いのだ。
部屋の湿度がふわりと上がる。
「……あたしの名前の重さが、あの子の命を奪ったんじゃないかって……ずっと考えるんだ」
「その件は、本当に……本当に、ワシの力不足だ。すまなかった」
マスタードは立ち上がると、深々と頭を下げる。
「……ほんと、ごめんなさいね……。こうならないよう、ダンデくんと共に何度も何度も打ち合わせを続けていたんだ……」
メロンは少しだけ口端を上げる。
「……マスタードさんのせいじゃありません。……あたしだって、あの子の様子がおかしいことには気付いていたのに、結局ほとんどマスタードさんに頼りきりだった……」
「……あのね、今日見せたかったのは、これなんだけどね……。いいかな」
マスタードはカップを置き、スマホロトムを取り出した。
マスタードがちらとメロンを顧みると、一瞬、その口許がきつく結ばれた。が、たちまち緩められ、彼女は強いて上向きに弧を描くと、静かに頷いた。
「しんどかったら……やめようね。2通あるよ。読み上げてちょーだい」
「了解ロト!
『メロン様
いつもぼくの選択の前に、あなたが立ちふさがりました。
いわポケモンの道を窮める時、そして今回、命の選択をする時。
何度も何度も、あなたの事を考えていました。
ぼくが誇りある行動をすることがそのままあなたの価値になる。
裏返せばぼくの裏切りは、あなたの世間への裏切りとなる。
そうやって、ひとえにあなたの利潤をおもんぱかって、正しい道を歩んできたと、しんじております。
いわタイプへの選択さえ、あなたの息子が有能であること――ひいては、あなたが有能であることの宣伝になるだろうと、踏んでおりました。
ぼくは、そうしたぼくという世間向きの体面を、マクワという商品の価値を、すべて火にくべてしまおうと決意しました。
愚かなぼくは、人の道に悖り、母親であるあなたの体面をぐちゃぐちゃに踏み躙ってでも、このマクワという男の生涯に幕を下ろしたいのです。
ごめんなさい、お母さん。あなたを引き合いに出してしまって。
セキタンザンが逝ってしまったあの日から、ぼくは歩く屍なのです。
相談せず、一人で決めてしまって。
こんな不孝な息子を、どうかゆるしてください。』」
メロンは眉をひそめて、目頭を押さえた。言葉が見つからない様子だ。ばたばたと走り回る子供の足音が近づいては遠ざかる。
「ごめんよ……大丈夫?」
「……うん……ハハ、謝るのか……」
「続きがあるんだ、ロトム続けて!」
「次のファイルロト!
『母さん
いつもぼくの前に、母さんがいました。
親であり、師である母さんが、常にぼくとの距離で悩み続けていたことは
世界で誰より知っているつもりです。
母さんがぼくの癖を知り尽くしているように
ぼくだって母さんのことをずっと見続けてきました。
いつか必ず越えるために、背中を追い続けていました。それがぼくの物語でした。
母さんが常に母さんなりの最善を選び、ぼくに尽くしてくれたこと。
ぼくに道をつくるために払ってくれた莫大な努力のこと。
その先に今のぼくがいられること。大好きなポケモンがいること。
本当に感謝しています。ありがとうございました。
哀しまないで欲しい、というのはぼくの勝手な祈りにすぎないかもしれません。
ひょっとしたら母さんは怒っているかもしれません。
母さんの情動を、ぼくが選ぶことはできないから。
それでもどうか、母さんがぼくに与えてくれたものの全てを飛びこえて
ぼくが気が狂いそうになるほど欲し、ようやく手に入れ、ある日あっけなく失ったもの
そのものの後を追う事が
当然の帰結でなしに、誰かのせいでなしに
ぼく自身の選択であったことを
いつか母さんにわかってもらえる日が来ることを願っています。
いつか母さんとぼくの物語が完結するその時まで
ありがとう
マクワ』
あの火災の中、大きなマクワの手の中にあったのは、防炎・耐熱素材に包まれた一枚の金属製のカードだった。刻印されているアドレスを確認すると、1通のメールが届き、2通のメールはアプリに保存されていた。
遺体とともに発見される手筈になっていたようだが、紅蓮の重囲を衝いて、駆けつけたマスタードが伸ばした手は、彼の手ではなく、このカードを握らされていた。防炎・耐熱・加工は、彼の杞憂におわった訳だ。
保存記録を確認すると、アプリの2通はだいぶ前に用意されていたものらしい。
この2通のメッセージを宛てた人に直接届ける事。
マスタードに託された願いだった。
「ああ、もう……、なんでこんなものをわざわざマスタードさんにお願いするんだい……」
「直接送ればよかったのかもしれないよねん。でもマクワちんがワシちゃんに託すことで、メロンちんの心のクッションにしようとしたんじゃないかなー」
メロンはふかふかのタオルハンカチを目に当てている。マスタードはティーカップの中身を全て呑み干した。
「……変なところで気が利くんだから」
「おかげで、ワシが伸ばした手も、無駄にならずに、彼のバトンをつなげることが出来たよ」
「……そうかい……。なら、よかったよ……」
初老の男が、再びスマホロトムの画面を動かす。これ、送っておくねと言って、コピーをメロン宛てに作成し、送信する。画面が変わって、1枚目のメールのデータが開かれた。
「謝らざるを得なかったんだろうね。ワシちゃんは誠実さだと思う。……だから2通両方とも見せることにさせてもらったんだ」
「……こんなところでもエンターテイメントするんじゃないよ、全く……。格好つけてばっかりで、そのくせ頑固で、素直じゃなくて……」
窓の外から入る陽ざしが、少しずつ赤みを帯び始め、白いカーテンを夕暮れ色に染めている。
「……帰ってこないんだよね」
「……ああ」
「……苦しかったかな……。せめて……せめて、楽だったら……」
「……彼は、自分自身で最後を選びとることができたんだ。大変だったかもしれないが、それだけは、幸福だと信じたい……」
業火が降り注いだあの夜。手と手が触れ合った瞬間、まるで彼を慈しむように伸びた火柱は、マスタードとマクワを完全に隔てた。がらがらと崩れて、高温と毒ガスが踊り、天井が落ちた拍子に煤と灰が、カゲロウの群れのようにばっと舞い上がった光景は、マスタードの夢寐に何度でも蘇った。
部屋の中は追憶で溢れていた。一つの記憶が繋がってさらにたくさんの想い出が溢れかえる。
メロンも思い返していた。最後に顔を合わせた時に見た険しい表情。セキタンザンに見せる楽しそうな顔。トレーナーとして同じ土俵に立てた時の昂揚感。初めてポケモンを連れた時の嬉しそうな顔。入学した時の緊張した顔。おねしょしてしまい号泣する顔。時は巻き戻っていく。
本当はまだ見ぬ、生まれ行くはずの想い出が、断ち切られてしまった寂しさ。
温度を持った感情が、ぐるぐると渦巻いてしまう。けれど、今だけは部屋の中に、大切に閉じ込めておける。マスタードと2人、共有していた。この部屋は、今の瞬間だけ宝箱の中に違いない。
静謐をこじ開けるように、ばたばた、きゃっきゃと廊下を走り回る音が聞こえ始めた。母親そっくりに叱る声が響いている。
「……あらら、もう我慢の限界かな」
「……いつも子供の声は変わらなくて……いいねん」
「はは、そうね。……あたしもおかげでしっかりしなきゃって思えるよ」
メロンはハンカチをずらして口端を上げて見せる。目は赤いが、少しだけ覇気を取り戻したように見えた。
「そうだな。……まったく別れも、悲しみも……何度前にしても越えられぬものだが。それでも……少しでも、僅かでも……わしらは共に進んでいると信じることは出来ると……わしはそう祈っておる」
小さく丸まった背中の上に、メロンは永劫の別れの重さを視た気がした。同じく相棒を失い、その苦しみに耐えられなかった息子を思い出し、さらにぐっと熱くなった目頭を押さえる。
「祈る……か。ああ、そうかもね」
「……それじゃあワシちゃんは、おいとまさせていただくよん!」
立ち上がったマスタードは、扉を開けて、部屋を覗こうとしていた3つの小さな頭に話しかける。
「いぇーい! みんな元気!?」
「げんきー!」
「ともだちげんき!」
「うんうん! 過去は変わらないけど、今と未来はちょっとだけ楽しくできる。みんなでハッピー目指そうね!」
相棒を失った息子と、マスタードの姿が重なる。母の情動を自分が選ぶことはできないとマクワは言った。マスタードの抱える感情の大きさは想像することしかできないが、深い哀しみを湛えながらも、明るく生きることの難しさと逞しさを改めて思い知る。
メロンは再び顔をハンカチで拭い、ポケットにしまって立ち上がった。
「……そうだね。あたしも負けてられないな。……マスタードさん」
ゆっくりと息を吐き、顔を叩く。
「あともうちょっとだけあたしに付き合ってくれない?」
メロンはモンスターボールを前に突き出し、構えた。その姿を見たマスタードが、にっと笑った。
「うふふ! いいねぇ、強者と戦えて嬉しいよん! 麗しの氷塊、拳で砕いてみせようぞ!」
「なぁに、届く前に凍らしちゃえば……あとはお楽しみさ!」
黄昏の彼方で、モンスターボールが2つ、高く舞って、夕星のように西の空にかかった。
真っ直ぐ伸びた橙色の陽光を受けて、閃光が輝いた。子供たちの歓声が温かく響いている。
ひとの想像をはるかに超える尺度で世界は巡っていく。
いつか思いもよらない方法で、閉じられていた物語の扉が開くかもしれない。
光のように進んだ先で、再び繋がることもあるだろう。
流れる血潮の末端が、迷う事のない道しるべを囁き、どこまでもどこまでも地図を広げている。
コメントを残す