雁字搦めになって、いつの間にか砂の中で溺れ、呼吸の仕方を忘れている。
硝子玉が一つ、ぱちんと弾けて、小さな鉱石になった。
この日の為に、どれだけ費やして来ただろう。
山小屋の周囲にはポケモンすら寄せないよう、バンギラス達に数日間見張らせた。
生活必需品や最低限の家具などの備蓄品の搬入は全て完了した。
ガラルの代表、キルクスの顔、そうやって教わったものも全て背負い込んだ。
いまぼくが出来る最善の手段が犯罪であるなんて信じたくはない。
けれど、そうでもしなければぼくがぼくとして死んでしまいそうだった。
間違っていても後戻りは出来ない。
ぼくは今日からここで、自分の母親を監禁する。
1日目
調達した眠り粉はとても良く効いた。一度自分でも確かめているので当然といえば当然か。
母さんはぐうぐう眠ったまま、この小屋の檻の中に閉じ込められた。
果たして開放出来る日は来るのだろうか。
ぼく自身驚いている。まさか拉致監禁をしてしまえる程自分の母親を恨んでいたのだから。
だが、果たして何を恨む事があるだろうか。わからない。
今はただ、ぼく自身を解放した心地良さに委ねていたい。
しばらくして、ぼんやりした様子で母さんが目を覚ました。
息子に監禁されているというのに暢気なもので、目の前の鉄格子越しに帰って来ていたの、なんて言い放つ。
だからしっかり母さんに今自身が置かれている状況をきちんと説明しなければならなかった。
さすがの母さんもそれには驚いたようで、自分の手枷を外せないかと躍起になっている。
その光景は思ったより胸の空くもので、これまでの努力の成果を実感した。
しばらく母さんとやり取りをした後、ぼくは改めて母が眠りにつくまでを見つめていたが、
ぼくはツボツボを別室の見張りに立てて、部屋を後にした。
2日目
想定より少し遅くなってしまったが小屋に戻れば、
相変わらず両手に枷を付けられて窮屈そうな母さんが床に座っていた。
母さんは特に意気消沈した様子も無く、むしろ退屈さが不満だとぼくに言う。どこまでも母さんは母さんだった。
ぼくは母さんの首を絞めた。ぼくは。
ぼくは母がわからないままだ。
3日目
昨日あれだけ色々な事があったのに、母さんの態度は変わらない。
いっそ食事すら抜いてしまおうかと思うが、ぼくは母さんを殺したい訳ではない。
これは復讐なのだろうか?
ぼくは母に求めている事がある。母さんにはそれが理解出来ているのだろうか。
だからいつも変わらず居られるのだろうか。
もう少し、ゆっくり様子を見ていく必要がある。
4日目
家族が母さんの留守に違和感を覚え始めた。
忙しいとはいえ全く家に帰らない時は無いように調整していたのだから当然かもしれない。
ぼくは家族に対し、母さんは修行を兼ねた旅行に出ていると嘘を付いている。
弟達は無邪気に土産を楽しみにしていた。
適当にはぐらかし、1人母親に会う。流石の母も疲れが見え始めた。いや、むしろ当然かもしれない。
アクティブを絵に書いたような母親だ、こんな小屋の中で動けず、
誰とも連絡を取れずにいるのは相当なストレスだろう。
5日目
最近酷く眠たいが眠れない。事務仕事が終わらない。
6日目
退屈だと母が騒ぐのでポケワードのページを千切ってあげた。
母は真剣に紙きれと向き合っている。
7日目
ちょっとだけ食事を贅沢にしてみたら、母はたいそう喜んでいた。
別に喜ばせたいわけではない。
8日目
9日目
うっかり昨日は日誌を付け忘れてしまった。最近どうもぼんやりしている気がする。母親のせいだろうか。
だが母親に負けるわけにはいかないのだ。
なんだか最近母親の様子が順応して来ている気がする。そもそも応用力の高い人だ。
それくらいしていてもおかしくはないが、監禁の犯人としては面白くない。夕食は簡素にした。
他人に食事を用意する事は案外難しい。
10日
今日も母は変わら な い m
◆
【1日目】
目をさましたら、息子が鉄格子の向こうで自分を見つめていた件。
あまりの驚きに、SNSで流行りの構文が頭の中をよぎってしまった。
ジムリーダーは引退して息子に譲ったからと言って完全に一線を退く気はないからね。
きちんと流行に遅れないようにしてるんだよ。
いやいやそんな場合じゃない。この現状をわかる範囲で整理してみよう。
深く眠っていたせいか、少し感覚は狂っているが、壁から漏れる灯りの強さからして恐らく昼間だ。
なのに薄暗い木造りの部屋の中だった。
全く見覚えはない。昨日の夜は普通に自宅のベッドで眠った所までの記憶しかなかった。
遠くでとりポケモンのさえずりが聞こえるだけの閑静な場所。山の中だろうか。
おそらく窓があった場所は厳重に外側から閉じられていて使用は不可能だろう。
木の壁も思ったよりしっかりしていて、あたしの力では到底破壊は難しいんじゃないかと思う。
ワンルームより少し広いくらいの部屋には重々しい鉄格子が備えられている。
人が通れそうなサイズの扉らしき場所と、そこにいぬポケモンぐらいのサイズ用の扉があって、
出入りできるのはそこだけのようだ。ただ、自分にもしっかりと両手に手枷はされている。
鉄格子の向こう側から見ているマクワには全く伝わらなかったようだけれど、あたしはとてもびっくりしていたんだ。
確かにマクワはあたしに対して複雑な感情を抱いていたことは知っているけれど、
まさかこんな形で爆発させるとは思っていなかった。
何を失敗したのか、どうすればよかったのか、
おそらくあの子はそれを考える時間を作らせたくてこうしたのだろうか?
まさかガラルに隕石が落ちて崩壊したからあたしだけ守りました、なんてことはないだろう。
そんなことしたら氷漬けにしてやるけどね!
いろいろ尋ねてみても、何も答えない息子はあたしの立場と設備の説明だけすると、さっさと部屋から出ていった。
残されるのはベッドや最低限の備え付け以外ない牢の部屋だけ。
「こんな部屋でどうやって過ごせっていうのー!!」
思いっきり声を出してみたが、当然誰の返事もない。
いや、すこし期待していたんだ。外の誰かがこの声を聴いてくれないかと。
せめて喋り相手が来てくれないかなという淡い希望さ。結局何度か叫んで、なんだか空しくなるだけ。
ここは人里離れた山の中で、誰かが来ることはないのだと、
昨晩息子が説明してくれていた事実を実証するだけに終わってしまった。
なんだろうね、これは。あたし専用ベッドルーム、鉄格子付き。
あたしは捕虜かな。ああいや、息子の態度からしてみれば、罪人扱いかもしれない。
だがあたしはあたしなりに全部誇りをもって行ってきたことなので、息子に謝る事はないし筋合いもないだろう。
それは今の息子に対しても誠意がない。あの子は立派ないわジムのジムリーダーだ。
あたしはそれをちゃんと認めているし、伝え続けてきた。
時々未練が顔を出すときもあるけれど、それだって現在があるからこそ。
ただ、こんなわけのわからない行動を起こしてる以上、何か手は打たなくてはいけないと思うし、
話はしないといけないよね。
一度機嫌を取ってみるというのは手段としてアリかもしれない。
そして夜、また帰ってくると、マクワは小さい鉄格子の窓から弁当らしき袋を渡した。
キルクススタジアムの近くで、あたしも仕事中よくお世話になっていたお弁当屋さんのものだ。
早速フォークを取り出した。食事が美味しいと、少しざわざわした心が落ち着いてくる。
「マクワ、あたし何かした?」
「……いいえ」
「謝ってほしいと思ってる?」
「そういうわけではありません」
「じゃあなんでこんなことを? どうしたら出られる?」
その質問に帰って来た返事は無言だった。それきりぱたりと会話が途切れてしまい、何もできない。
空になった弁当も律儀にマクワが回収していく。
あっという間にやる事をうしなったあたしは床の上でごろんと寝ころんだ。ちょっと手足をバタバタさせてみた。
意外だ、床を叩いたのに、ちっとも音が鳴らない。
マクワは何も言わずに、なんだか居心地悪そうに格子の外の椅子に座ってこちらを見ている。
あたしをこうして閉じ込めて、マクワ自体は何もしない。とても不思議だった。
まるであたしが眠るのを待っているかのように。
その時に思い浮かんだのは、昔、大きな虫かごでユキハミを育てている家庭のことだった。
【2日目】
朝もマクワは弁当だけを置いてさっさと出ていったきり。
あたしの目の前に転がるのは長い長い何もできない時間との闘いだけ。人生は有限なのに、ああもったいない!
何とかし返してやれないかとマクワがいた朝にちょっかいを掛けてみたのだが、全て徒労に終わってしまった。
がっくり。
そもそもこの部屋は薄暗いので、時間の感覚が余り分からない。
電気をつけるか消すか、くらいでしか変化が起きない。
ああ、頭が狂いそうだ。
適当に壁をマットで拭き続けたりなんだりしながら時間を潰していると、マクワは(おそらく)夜やってきた。
流石に監視しているだけだった事が不自然だと思ったのか、書類仕事を持ち出すようになった。
せっかくあたしが手持無沙汰なのだから、手伝わせて欲しいと頼んでみる。
「母さんはそこにいればいいのです。」
と冷たく突き放されるだけだった。本当におかしな話だ。あたしはやっぱりユキハミちゃんなのだろうか。
自由を奪われて、ここからどこへ行く事も出来ないかわいいかわいいユキハミちゃん。
キルクスではユキハミを飼っている家庭が多く、鑑賞用として楽しむ人もいる。
雪の多い街では、ユキハミを育てる環境として最適なので、ペットとしても飼いやすいのだ。
こおりタイプ専任ジムリーダーだったあたしも太鼓判を押しちゃうレベル。
卵と鶏が逆になっていることは今は捨ておくよ。
マクワはやはり、何かをさせることも、することもなく、淡々と最低限の世話だけを焼いていく。
まるで自分がどこぞの姫にでもなったような気分だが、重たい鉄格子と手枷だけは思い上がりなのだと教えてくれる。
あたしはペットのユキハミちゃんではなかった。ああがっくり。
ペットのユキハミちゃんでもなければ、あたしは今、息子の何なんだ。
「ねえ、マクワ、ここにいるだけじゃつまらないな~?」
今も背中を向けて書き物をする息子に、努めて明るい声を出してみた。
「なんかさ、テレビでいいから置いてよ。退屈なんだよ。」
「……退屈、ですか。」
マクワは立ち上がると、重々しい鉄格子の扉を開けて、中に入ってくる。
それから寝転がるあたしに馬乗りになると、大きな掌であたしの首を包んで、首を絞めようとした。
「これは、暇つぶしになりませんか。」
流石のあたしで、その相手が息子であっても、
大の男にいのちの権利を握られた瞬間、ひゅ、と息を呑むような声を漏らした。
けれどマクワは両手をかざして一切触れずそれきり、逆光の下、苦々しい顔をして離れて行く。
それから今まで広げていた資料を全てしまいこむと、何一つ言わずにこの家から去っていった。
あの子の暇つぶしに、一切苦しいことはなかった。それが妙にあたしにとっては追い風のように思えて仕方がない。
こんな犯罪じみた事を犯してもなお、あの子はあたしに手を出す事が出来ずにいる。
なんて優しい息子なんだ!
なんて言ってやりたいけど、本当に優しい息子は退屈だって嘆く母親を閉じ込めたりはしないのだ。残念だね。
こういう時のなんだっけ、被害者が犯人につい情が移っちゃう、吊り橋効果?じゃないけど、
まあ、そういうのではないと思う。
だってあたしは母親で、あの子の事をよく知っているし、なんなら最初から同情さえしてやれる相手なのだから。
最初から存在せずに、それよりももっと強固な何かだ。
ともかく、あたしにとって今日のあの子の行動は、心を紐解く重要なカギに出来る気がしてならなかった。
ポケモンの鳴き声すらほとんど聞こえない静謐な家は、確かに考えるにはぴったりなのかもしれない。
果たしてあの子がどこまで計算していて、思惑があるのか全く読み取れないけれど、一つ確信が持てるのは、
あたしに対して向けた暇つぶしの方法が、彼自身の心理試験だったに違いない。
あたしの教えを忠実に守ろうとしてきたあの子は、実は自分の感情に対して、
鈍感になりがちであることはあたしが良く知っている。
その上、向上心が高くて自分から険しい道を選びたがることも。
おそらく、マクワは今、自分の感情を探している状態で、無自覚のまま行動をしている。
自分自身の気持ちを結んでみては、ぐちゃぐちゃにかき混ぜてしまい、
解き方がわからなくて頭を抱えているのではないだろうか。
そうして一つずつ解けそうな方法を試しては、結果を照らし合わせている。
何もない振りをして近づいてみせながら、
そこにあるのは分厚い反射のミラーコートで、あらゆる全てを跳ね返してしまう。
本当はたった一人の独り相撲であるならば、実に滑稽な話で、同時に酷くグロテスクなことだろう。
その相手が実の母親なのだからより一層。
ならば、母である自分が彼の納得できる答えを見つけ出し、導くことが出来るのではないか。
いや、その対象は母である自分だ。息子にとって閉じ込めたいのは実の母なのだ。慎重に行かないと。
なんてね。まるで戦術を考えている時のよう。
甘えられているのだと思えば、母親冥利に尽きると思った。
他の誰でもなく、あたしに対する感情で本当によかったなんて、それこそ罰の当たりそうな事を考えてしまう。
これもバトルの一つだと思えば、多少の根競べは必要だろう。息子との和解で脱出する道を探す勝負なのだ。
ポケモンバトルなんて、トレーナー同士心のぶつかり合いなんだ。
相手の繰り出すポケモンと技を読み取り、そうしてあたしもそれに応えて手段を選択する。
マクワが仕掛ける大規模な搦手に隠された、手の内を読み取る戦い。
そう考えた瞬間、俄然燃え始めたおのれの性分に少しだけ呆れを感じながらも、あたしは興奮を抑えられなかった。
【3日目】
マクワは基本1日2回顔を覗かせることを日課にしているようだ。ジムへの出勤前と後なのだろう。
朝に朝と昼の分の食事をまとめて渡しに来るか、それが難しければ彼のポケモンが代わりを務めて弁当配達をする。
今日来たのはツボツボだった。
せっかくだしあたしの暇つぶしに付き合ってはくれないだろうかと声をかけてみたが、
ツボツボには無視をされてしまった。
でもあれはちょっと後ろ髪を引いていそうだから、何度か声を掛ければ遊ぶくらいしてくれるかもしれない。
いわジムに顔を覗かせていた頃を思い出す。
息子の選んだ立派なポケモンたちと仲良くしたいと思い、ジムに顔を覗かせてこっそりうちのポフィンを分けたりしていた。そういうのも息子的には宜しくなかっただろう。うん。
そういえばあたしも同じ事を昔父にされて怒った。うん。やっぱりあれはちょっと悪かったかも。
管理係のツボツボが隣の部屋に姿を消してしまい、更にやる事がなくなった。
仕方が無いので、稼働できる範囲でストレッチでもする事にした。全く身体を動かさないと鈍ってしまう。
せっかく手すりにしやすい格子もある。
それにしても、あたしは改めて自分を束縛する壁を見る。しっかり備えられた鉄格子だ。
自分の手以上の物は通らない。
今時こんないかにも牢屋です、なんて部屋を作る事はないだろうから、わざわざこの為に全部用意したのだろう。
衝動的な犯行じゃない事は恐ろしいが、逆に息子らしくも思う。
窓一つ無い簡素な部屋に、シャワーとトイレ用の個室が隣接したワンルーム。
息子がわざわざ家から持ってきたあたしの着替え。ギシギシ軋むオンボロベッドと敷かれたルームマット。
そしていまだ外れない手首用の枷。
今のあたしにあるのはたったそれだけだった。
改めて、本当に我が息子ながらいい趣味だなと思う。相手が実の母親である所まで。
覚悟を決めて眠った昨日だったが、特別良い手は何も見つかっていなかった。とにかくまだ自分を保つ事で精一杯だ。
こういう時、正しい親ならば息子を警察に突き出すのだろうか。最も、連絡手段はない。
いや、感情の矛先があたしなのだから、おそらく解けるのもあたしだけだ。傲りではない、決して。
これ以上の加害を行うならば、取れる手段は選んでゆく覚悟はしている。
だが、出来る限りは自分で解決してみよう。母親として、息子ともう一度向き合い直すのだ。
夕食を差し入れて、今日もマクワはすぐに書類に向きだした。
正直こっちはその背中を見てるだけでも十分な退屈凌ぎになるんだよね。本当にありがたいことだ。
こっちに見向きもしない背中にコオリッポの顔でもぐるぐる落書きしていよう。結局全部妄想なんだけどさ。
当然、そんな妄想をしているだけでは何も進展しない。
いつも通りの顔をしながら、マクワの気持ちをこちらへ差し向けられないか、適当に話題を投げかけてみる。
「今日のジムはどうだったんだい?」
「……あなたが気にするような事はありません。」
その言い草は、自分が引退した直後、良くマクワが口にしていた言葉で、
この異常下では日常を取り戻したように思えてしまった。リラックスリラックス。
「そうかい。みんな元気なら何よりだね。あの子達は?」
残された大切な家族の事は正直とっても気にかかっていた。まだ小さい子やんちゃ盛りが3つもいる。
毎日フェスティバル状態なのだ。
「問題ありません」
「ひょっとして、あんた今あの子たちの面倒までみてるの?」
鎌掛けのつもりだった。
「当たり前ですよ。あなたが『旅行』で居なくなって困るのはあの子達です。あの子達に罪はありません」
さらりと帰ってくる返答。あたしの不在理由はともかく。
家族の面倒を全て見て、ジムの仕事も通常通りこなして、その上今のあたしの面倒まで見てる。
ここがどこだか知らないが、山中で、移動が簡単ではない事は容易に想像できる。
「……はあ、あんた、すごいねえ」
思わずポロリと本音を出してしまった。息子は、険しく眉間を寄せて、ジトりとした目を向ける。
褒めたのに受け取れない気難しい息子。ああ、なんていつも通りなのだろう。いつも通り過ぎて泣けてきちゃうね。
「ぼくはあなたに褒められるために行なっているわけではありません」
そうでした。母さんうっかり。そしてこれは心配なんてして見せたらかなり機嫌を損ねるに違いない。
足りない頭で全力で考えてみる。答えは出ないので聞いてみた。
「……ほめるのが嫌なら、あたしは何て言うのがいい?」
「それ、は……」
マクワは言い淀んでいる。
「……やっぱり、好きにしてください」
「そっか。ありがとう」
また何か言いたげな視線を寄越したが、すぐに唇を噛んだ。
「ねえ、マクワは、あたしに言いたい事ないの?」
「ぼくは……」
「せっかくだし全部言いなさいよ。あたしは何も出来ないよ?」
手枷を持ち上げ、じゃらりと鎖を鳴らしてみせる。しばらく沈黙が続いたが結局マクワは首を横に振った。
その表情はまるで喉に何か詰まらせているような苦し気なものに見えた。
「そうかい。ま、母さんの暇潰しに時々付き合ってくれよ」
「あなた、誘拐されてる自覚ありますか?」
「正直無いねえ」
別に息子を侮っているわけではない。
けれど誘拐だなんだという割に、この生活はあたしにとって緊張感がなさすぎる。
居るのは胎児よりも小さい頃から育てた息子で、動けず、好きなことが出来ない以外は不自由がない。
本当にたったそれだけ、普段と変わらない。
「じゃあどう思っています?」
だから、それには強気で返してやった。チャンスだと思ったからね。
「さあ、なんだろうね。あんたも考えてみなよ。賢いアンタならすぐわかるでしょ」
「っ……そんなの、誘拐犯と被害者以外……」
何か思い当たる節があったのだろうか、マクワはそれきり書類に向いてしまった。
どうだろう。あたしのやり方はきちんと息子に届いているだろうか。
息子は、わざわざそんな物騒な関係をあたしと結ぶ事を本当に望んでいるのだろうか。
残念ながら愚かなユキハミちゃんには、今それ以上を知る権利はなさそうだ。
不安になりながら転がった退屈なベッドは、すぐに睡眠の中へとあたしを誘った。
【4日目】
眠った、はずだった。おはようございます、実は本日3回目の朝。
あれ程すぐに眠れた事が嘘のように、何度も目を覚ましては眠ることを繰り返した。
いま、あたしが過ごしているのは、何もせず、ひたすら退屈を潰しているような日常。
当然薄暗い室内で、日光だって一日の必要摂取量に足りないだろう、体内時計が狂ってもおかしくは無いよね。
いっそ日中眠っていようかとも思ったが何となく、ただ怠い身体をベッドの上に転がしてしまう。
普段やんちゃ坊主たちの世話をフルタイムで行い、
更に家事やらポケモンの世話などをこなして、超フルパワーで活動。
その分しっかりぐっすり睡眠を取る生活をしているので、眠れないのはとても辛い。
というよりこのメリハリのなさが大変なストレスだ。
今朝も、息子は元気な姿で食事を用意していくのを、布団の端からぼっと見ていた。
余りにあからさまなあたしの不調に、息子も声を掛ける。
これで声を掛けなかったら、監禁犯として失格を押してあげるところだよ。
なんて冗談かましている余裕はあんまりない。ねむい。ねれない。だるい。
「体調が悪いのですか?」
「んー、全然寝れなかったんだよ」
「そうですか。これはあなたを連れて来た時に使った、眠り粉の残りです。もし必要なら使って下さい」
「アハハ、気遣いありがとう」
誘拐に使用した眠剤を勧める息子の有り難さに、心の底から大変感謝をしながら、出て行く背中を見つめていた。
結局、日中はひたすらに眠気に襲われてしまい、動く気もなくベッドの上でぐうぐう惰眠を貪って、
少し起き上がるようになったのは夕方だった。
完全昼夜逆転してしまった後悔を余所に、気が付けば隣の部屋からスマホのパシャと音がしていた。
誰かがスマホで写真でも撮っているようだけれど、こちらからは全く様子が見えない。
しばらくしてからこちらの部屋へとやってきたのは当然の如く息子だった。
「あら、今日は早いんだね」
息子がここに来るのは大体夜も深まった頃だ。時計もないから推定だけど。
息子が来る時に少しばかり漏れるドアの外の灯りが一番正確な時間を教えてくれる。
「早めに……予定が終わりましたので」
「そうかい。そりゃよかったよかった」
詳細を聞いた所、あたしは息子により他地方に修行兼旅行に出ている事になっている。
用意周到な息子は、その分の着替えや道具を全てこの家の中に置いた。
着替え一式は牢屋の中に入れてくれていたので、唯一着替えは自由にすることが出来る。
もっとも、ここでは着る用途以外ないのだけれど。
とりあえず朝着替えて爆睡しちゃったので、もう一度パジャマに変えておく。こういうのは気分が大切。
特にこの起伏ない生活では、多少の努力が大きな成果になる。気がするのだ。
今日の弁当はあたしにはあまり馴染みのない、最近できたチェーン店の名前が書いてある。ハンバーグかな。
良い香りがからっぽの部屋の中で巡り、たっぷり幸福の空気で溢れかえる。
これが今のあたしの、数少ない楽しみなんだよね。
温めた弁当を差し入れて、息子は小さな鉄格子を閉じていく。
「……母さんなら、いつでもここから出て行ける。そんな気がするのです」
ぽつりと息子が溢した。ここに来るマクワが弱気を見せるのは珍しい。
「何言ってんだい。出してくれる気にでもなった? それとも昨日の答え?」
「……いいえ」
それきりまた書類に向き合う息子は、あたしが寝るよりも、随分と早く出て行く。
静まり返った部屋は、息子の湿っぽい感情だけが残り香の様に漂っている。
それだけの少ない情報は、あたしの脳味噌の中で鮮明に再生されて、とうとう眠りにつくまで巡るのだった。
【5日目】
マクワの言う分量をきちんと守って、飲み込んだ眠り粉はぐっすり快眠をもたらした。
とはいえやはり眠剤なので寝起きは少し怠ったけれど、満足に眠れたから問題ない。
枷はあるしちっとも快適とは言えないけれど、気分は爽快になれたので、やはり息子には感謝しておく。
心で思うだけなら問題ないよね。例え犯人だとしても。
そんなわけで、今日も元気に誘拐被害者としてしっかり暇を潰していこう。
はあ、と思わずため息を吐いた。意気込んでみたものの、正直退屈は人を殺しかねないとは思う。
ここへ来て確か1週間弱。
やはり娯楽が欲しい。せめて何かしら働きたい。ただ何もせず時間を無為に過ごすのは人生への冒涜だ。
息子にもそう教えたのにな。いや、その教えに忠実だからこそこの仕打ちか。参ったねえ。
流石に今日はマクワも忙しいのか、朝来たのはなんと、相棒であるセキタンザンだった。
「おや、あんたが来るなんて。ジムの方は大丈夫なのかい?」
セキタンザンはあの表情豊かな顔色一つ変えずに、あたしに弁当だけ渡して帰って行く。
うーん、流石、あの子と長年過ごしているだけあって、ツボツボよりも手強い相手になりそうだ。
そういえばセキタンザンはあたしのおやつもなかなか食べてくれなかったっけ。
意外と人見知りする性格なのかもしれないな。
あたしは普段日課のトレーニングを思い出して、ひたすら身体を動かしながら、出来る限りで思考を働かせる。
昨日の夜のマクワは少し様子がおかしかった。
ひょっとして仕事で何かあったのか。考えられるのはポケモンに起きた事があるのか、
あるいは自分の思うように出来なかったか。理想の高い息子なので、その可能性も高い。
それとも、この生活に対して何かあったのか。誰かに感づかれたのかもしれない。
それはそれであたしは早く出られる可能性が高いので良いけれど、
根本的な問題の解決にはならないような気がしているので、少し待ってもらった方が助かる。
昨日の晩から考えたけれども、正直なところ、この生活の疲弊が、
あの子にも出てきてしまったのではないかと思っているんだよね。
無理もない。
先日あたしが褒めた通り、こんな監禁生活を維持して通常通りの生活を送るのは、どう考えても恐ろしく大変だ。
特に我が家に関しては、そりゃもう育ち盛りで、常にニャースの手も借りたいぐらいには大変なのである。
そして今はオフシーズンであるとはいえ、ジムの維持にポケモン管理、広告宣伝PR対応、
マクワなんてファンイベントをしょっちゅう開催している。
はっ、そういえば昨日って久しぶりにトークショーだったんじゃないか!?
ああ、あたしのことが見逃してしまうなんて。がっくりだよ。うん、その本人に捕まっておりました。
とまあ脱線をしたけれど、考えれば、一番負担がかかっているのはあの子自身であり、
あたしはただただ暇をつぶしているだけという事になる。
加えて準備した期間の手間隙を考えれば、決して楽では無いはずだ。
そうまでしてあたしを閉じ込めたい理由。自由に出来ない息子心。
マクワは、ここまでしてもなお、あたしが逃げてしまう事を恐れていた。
あの子から見たあたしは、いつだって大きいのだろう。それは自分にも親がいたからわかる事だ。
あたしを閉じ込めているのは、屈折した自尊心を満足させるだろうが、同時に罅を入れているに違いない。
だから怯えている。
それがマクワが今抱えてるこんがらがった心の一端だという事がわかっただけでも、十分な収穫だろう。
とりあえず、今日の夜に向けて心身を整える。チャンスの時間は短いのだから。
大分深夜も暮れた頃、その日のマクワはやってきた。だが随分酷い顔で、まるで試合にでも負けた直後のようだった。
なんだか昨日の疲弊を引きずったままのように見える。だから、あたしの仮説が正解のようにも思えた。
マクワは、いつもより乱暴に椅子を引き、荒い音を立てて机に向かう背中に声を掛ける。
「……あんた、ひょっとして寝てないんじゃないかい?」
「忙しくて」
まさか、昨日渡された眠り粉を使ってしまったせいか。
「安心して下さい。自分の分はありますので、問題ありません」
すぐ人の心を読んだ息子がそっけなく答える。おのれ、流石我が血族。
「……とりあえずあたしは平気だから、しばらく通うのやめないかい?」
「そういうわけにはいきません」
確かにジムの維持の関係で、事務処理が混み合う時期ではある。
マクワも通常より何倍もの書類を広げてひたすら記入をしていた。
これはもう、監禁がなんだとかそういうよりも、親としてただ心配になる。
マクワが一番切り捨ててしまいたいものかもしれないけれど、
あたしはどうしようもなく繋がっていて、手繰り寄せてしまうんだ。
「だって誘拐した相手を放っておいて仕事してるなんてサスペンス、聞いたことないよ」
「……じゃあ、ぼくオリジナルと言うことで」
それからカリカリとペンが紙を滑る音だけが響き渡ってしまい、あたしはとっても退屈になる。
この間の続きで背中にまた妄想落書きでもしてやろうか。
ふと悪戯心がよぎって、昔幼い頃聴かせていた童謡を口ずさんでみた。
うるさい、とまた怒られるだろうと思っていたのだが何も飛んで来ない。
その事に気を大きくして最後まで歌い切ってしまった。気が付くと、ペンが派手な音を立てて床に転がり落ちる。
「マクワ?」
机に突っ伏した息子に、鉄格子の中から近づいてみれば、どうやら寝息を立てている。
その事に心底ホッとしたが、このままでは風邪をひいてしまう。
「セキタンザン!セキタンザン!!」
マクワが帰ってきた事でボールに戻っていたセキタンザンを呼んでみる。
彼はボールから出てくると静かに立ち上がって、牢屋越しにあたしを見た。
「マクワに、毛布かなんか掛けてやって」
賢い息子のパートナーは頷いて、すぐに隣の部屋へと消えると、ブランケットを持って来て息子の肩にかけた。
それからすぐに自らボールに戻る。
「はあ、あの子もあんたに似て真面目だねえ本当」
ちょっとぐらいあたしの相手をしてくれたっていいのに。
だが目の前ですやすや眠る息子の前で、全ての不満は吹っ飛ぶように満たされてしまうのだった。
本当に母親って言うのは殊勝で愚かな生き物だなあと思う。
それでも世界にたった一人くらいは誰にでもそういう生き物があっていい。
この子にとってはそれがあたしだというだけ。結局のところ、息子も同じくらいに愚鈍な生物なのだからそれでいい。
おそらくマクワはここで寝ているなどありたくないだろうが、監禁なんて馬鹿なことをしている罰だ。
隠れて見えない寝顔をそのままに、あたしはそのまま自分のベッドで眠りについた。
びっくりする程朝までぐっすり眠ってしまった。
【6日目】
朝目を覚ました時には既に息子の姿は無かった。
慌てて飛び出していっただろうマクワの様子は、見てやりたかったが致し方無い。
今日も今日とて暇を潰すだけの1日だ。息子のことは心配だけれど、今日は少しだけ思考を変えてみた。
正直、唐突に止められてしまった日常の中で、気にかかる事は山ほどあって、そのままになっている。
まだまだ甘えたの一番下の末っ子に、ミニカーを買ってやる約束をしたままだった事。
近所の奥様友人が、他の友人の誕生日のお祝い金のカンパを集っていたのに
1円足りとも払えず仕舞いになっている事。
少し思い出すだけでもわんさか未練が溢れてきて、
やはりこんなところで息子に付き合っている義理はないような気がして来た。
いやもちろん出られないんですけどね。
そういうわけで暇だ暇だと喚いていたのが通じたのか、夜、ようやく息子がポケワードの雑誌の切れ端をくれた。
思わず夜更かしをしてしまったがこれを大事に取っておかないといけない。
とそこまで考えて、順応しすぎている自分を少し呪った。
ここから出る。ここから出る。よし、そのためのポケワードは明日の昼間にとっておく。
【7日目】
とうとう息子が見かね始めたのか、いつもより夕飯のメニューが増えていた。
素直に喜んだが、やはり無碍にされてしまった。
うまく順応しているのは良いことだけれど、ちょっと疲れたのか考えがまとまらないまま、一日を終えた。
【8日目】
正直、この日も特別手を打てることはなかった。
忙しなく働く息子の背中を見るだけに終わりそうで、あたしは悔しさにベッドの上でふて寝をしていた。
うっかり距離感を間違え、寝返りを打ち過ぎたあたしは、ベッドから転がり落ちて、したたかに腰をぶつける。
すると帰り際だったマクワが、あたしの方を見て振り向いた。
動きを止めたその顔は、目を見開いて驚いているようだった。
「あたたたた……」
「……大丈夫?」
「アハハ、平気平気」
「気を付けてよ」
ちょっと痛かったが、軽くぶつけただけで特に問題はなさそうだった。
けれど、あたしを見るマクワの表情は、いつになく心配そうに見える。
あたしに緊張感がない理由。そう、息子のこういう良くも悪くも変わらなさだった。
いつも通りに心配をして、いつも通りの会話をする。
短い一言を言ったかと思うと、マクワは部屋の扉を閉めていった。
またしても牢とあたしだけがぽつんと取り残される。
傾いたままだったあたしの箱が、均衡を取り戻して、中のビー玉がころころと転がる音が聞こえた。
今の息子の反応のおかげで、ようやっと妙案が思いついたのだ。実行は明日。明日だ。
明日はあたしから仕掛けてみせる。楽しみにしているんだよ、マクワ!
【9日目】
とうとうあたしが攻めの一手を打てる時が来た。本当に簡単!動かないでいるだけ。
本気で体調を崩したふりをしてやるのだ。
流石のマクワも、様子を見に重たい扉を開けるだろう。
どうもあたしに危害を加えたいわけじゃなさそうなので、そこを突いた作戦だ。
あたしに何かあれば、必ず原因を取り除こうとするだろう。
上手くいけば脱出出来るかもしれない。いや、そこまで行かなくていい。
ただ背中ばかり向けてくる息子が、自分に対して向き合う時間を、1秒でも伸ばす事こそが本当の目的なのだから。
朝はまたツボツボの番だったので、狙うは夜だね。
「母さん……? 寝てるのか、珍しい……。」
マクワはいつも通り既に書斎化し始めている机へと向かう。
「マ、クワ……」
布団をかぶったまま、喉の奥から、捻り出すような声を上げる。ポケデミー主演女優賞受賞待ったなしって感じ?
「母さん?」
「く、苦しくて……」
マクワは予想通り、牢屋の扉を開けて、ベッドに近付いた。
それから自分の額に手を当てるとあたしの額にも手を伸ばす。
「熱はなさそうだけど。ごめんツボツボ、医療セット持って来て」
するとツボツボがプラスチックの箱を持ってくる。
ここでの生活の危機管理をしっかりしている男、我が息子ながら偉くて褒めてやりたいが、ここは我慢。
いやそもそもここで監禁生活する方がおかしいのだから。うん。
「ありがとうツボツボ、一体どこが……」
ベッドの端に座った息子は、医療箱を受け取った。
ツボツボをボールに戻したその瞬間を見計らい、
あたしは息子の腕を、枷で不自由な両手で掴み、思いっきり引っ張った。
巨躯の持ち主とは言えバランスの悪い体勢を取っていて、なおかつ不意打ちに、いともたやすくベッドに倒れ込む。
うるさく軋んだのは内緒にしておこうかな。あたしのせいにとられちゃ困るしな。
「か、母さん……!? ぼくを、騙したな……!」
「……母さん、話がしたいの」
身体を起こして、顔を見る。
「あんた、ずっとこのままで居るつもり? 出来ると思う?」
「出来るんじゃなくて、やるのです」
「前言った事、思いついたかい?」
先日あたしは言った。今のあたしとマクワの関係。誘拐犯と被害者であるかどうか。
今、改めてその答えを聞きたかった。
「……わかっています。わかっていますよ、こんなことでは変わらないって。
ぼくは『母さん』をただここに閉じ込めてるだけに過ぎないって……それくらい」
「じゃあなんで」
「監禁すれば強制的に向き合えると思った。だけど結局、ぼくには勇気がないだけで……」
マクワは掴んでいたあたしの腕を強く振り払うと、立ち上がり、また背を向ける。
「あれから、いや、計画し始めた最初からずっと考えていました。
ぼくは母さんを、越えたいという気持ち、母さんから何か、欲しいという気持ち……」
あたしはただ、ベッドの上に座ってマクワの言葉を聞いている。
やっとぽろぽろと零れ落ちた砂のようなそれを、あたしは拾い集める。一つも落としてしまわぬように。
しっかりと抱きしめる。
「おろかでしょう。ぼくはそれを確認するために、わざわざ母さんを閉じ込めないといけなかった」
俯きながらゆっくりと離れていくその背中を、あたしはじっと見つめていた。
「ぼくは……ただ解放されたいだけなんだ」
無慈悲な鉄格子は、冷たい音を立てて再び閉じる。
あたしは息子の名前を呼んだけれど、何も答えずマクワは家を後にして、当然のように戻ることはなかった。
【10日目】
何にも変わらない朝が来た。今日もマクワは来ず、セキタンザンが隣の部屋にいる。
あの巨体が普通に家に入るのだから、この山小屋はかなり大きいんだろうねえ。
あたしの観測できる範囲がたったこれだけなのが本当にもったいない。
昨日の今日で、なんだか酷く疲れているけれど、正直これが本来の疲労感なんだろう。
あたしもマクワもきちんと向き合うべき問題から目を背け続けてしまった。その結果が今に至っている。
きちんとこの不祥事のケリは付けようじゃないか。おきる全てのことが、前に進む為に必要な工程の一部に違いない。
昨日拾い集めた息子の心を思い返す。向き合いたいのに、どうしても向き合い切れていないのは、息子の方なのだ。
あたしはとっくに覚悟を決めている。
彼の心は、岩のような頑固さで、同時に驚くほど脆弱でバラバラに砕けた臆病だった。
まあうん、問題解決に監禁なんて手段使う時点で気付くべきではあるんだけど、それを使わねば出来ない、
そうしてもまだ向き合い切れていないという。
過去のあたしにもマクワに向き合おうとする力は不足していたのだろうが、
息子のそれはその倍以上で、恐ろしいほど強固だ。
もっと話をしようとも、警戒心の強い息子の事、同じ手は使えない。
だが、ひょっとして、何度かこちらから攻めていけばあの子も変わってくるのではないだろうか。
いや、おそらく、真面目なあの子は自分から向き合わなければいけないと思い込んでいる。
こんな最終手段を使うほど自分を追い込んでいるのだ、その責任感は倍になるだろう。
せめて今日の態度が少しでも軟化されていることだけを願う。
そんな時、扉の向こうから誰かの聴き慣れた声がした。
どんどんと、扉を叩く音がする。
セキタンザンは居留守を決めていたようだが、突然酷い音がして、家の中を冷気が迸る。
これは、懐かしい温度。
慌ててセキタンザンが廊下に出て、追い出そうと岩を放ったところが見えた。
けれど既に家屋に入り込んだ侵入者はあたしの目の前にいる。スゴいスピードに思わず感動しちゃった!
あたしの懐かしい仲間、モスノウだった。すぐさまあたしはその名前を呼ぶ。
「モスノウ!!」
彼女は必死に身体を鉄格子にぶつけるが、びくりともしない。
その後、扉の存在に気が付き、強風を起こして鍵を破壊しようとするがびくりともしない。
それからすぐにセキタンザンが部屋にやってきて、炎を放つ。
「ちょ、ちょっと!あんたたちこの家を壊す気!?」
モスノウは天井に捕まって炎を凌いでいた。避けられた熱は鉄を燃やす。
モスノウは負けじとふぶきを起こしてセキタンザンから距離を取ると、その風に乗せて強い風を放った。
あたしが良く使う手だ。火はすぐに消え去って、あたしはふうと息をついて安堵する。
強風の一部が、熱せられた後に急に冷やされた鉄に当たり、ぼきりと折れる音がした。
それはモスノウが狙っていた鍵の掛かっていた鉄の棒で、
扉は急に与えられた自由を困惑するかのようにゆっくりと開いた。
モスノウは既に廊下の向こうへにセキタンザンと逃げ込んでいる。大丈夫だろうか。
あたしは心配になって、初めてこの牢の部屋から出ることになった。
既にマクワが書斎化している机を抜け、開いたままの扉を越える。
そこはあたしも何度か見ていた廊下が伸びていて、すぐ右側には外へ通じる玄関口が、開いたまま。
外で岩や氷が飛んでいる様子が見られたし、久しぶりの日光は眼に痛かった。
反対側にはリビングやキッチンがあるようだったが、今はそれを無視して、
玄関に置かれたスリッパをはいて外へ向かう。
あたしの姿を見た途端、当然だろうがセキタンザンは酷く驚いていた。
「そのままいけ、モスノウ!!……と言いたいところなんだけど。」
今度はモスノウが驚愕する番だった。
「ごめんよ。まあこれでも大丈夫なんだ。どうしても解決しないといけない問題があってね。
もうちょっとだけ待ってくれるかい?」
モスノウは憤慨と心配を混ぜたように高く舞っている。
賢いセキタンザンは、あたしに逃げる意思がないとみると、すぐに攻撃をやめていた。
「どうしても困ったらあんたを呼ぶからさ。」
モスノウは困惑したようにしばらくその場をぐるぐる回っていたが、
あたしの意思が伝わったのか、家の屋根の方へと飛んでその羽を休めていた。
「ありがとね」
セキタンザンがあたしをじろりと見つめた。だが、その眼光はすぐに弱まって、本当の彼の気持ちを知る。
そうだよね、あんたもこんな事、本当はしていたくないんだよね。
「大丈夫大丈夫。あたしはまだのんびり牢屋生活するからさ。もう少しだけあの子に付き合うよ」
恐らく、息子の言いつけを守れなかった事に対して気落ちしているのだろう、セキタンザンが肩を落としている。
「へこんでるのかい?大丈夫だよ、あんたには落ち度ないから」
そう言って枷付きの手で、セキタンザンの肩を叩きながら玄関の方へ戻れば、少しだけ嬉しそうにしていた。
なんだかんだ本当にかわいい子だ。
しかし、初めて外観を見たが、日に焼けた薄い水色の木の壁は煤けておんぼろだった。
スリッパを脱いで、廊下を通ってすぐのあたし専用部屋へと戻る。鉄格子の扉との隣接部分がしっかり落ちている。
これでもうあたしが閉じ込められる状況は終わりを迎えた。
お互いの権利はほぼ同じになったといえるのだ。条件が変わったのは、きっと何か変化を起こすに違いない。
改めて今日、マクワと話をしてみよう。
だが、そんなポケモン達が唐突に起こしてくれた化学変化は、不要に終わった。
その日の夜、日課通りマクワは家に来た。なんだかやたら大きな音と共に。玄関先でこけたりでもしたんだろうか。
玄関からそんなに距離がないはずのこの部屋にたどり着くのにも、いつもより時間が掛かっていた。
マクワはばたんと牢屋部屋の扉を開いて、覚束ない足取りで歩き、書斎替わりの机に凭れ掛かっている。
明らかに様子がおかしい。
「どうしたんだい?」
あたしが尋ねると、サングラスの無い蒼い目がくるりとこちらを向いたが、
返事もしないまま突然床の方へと倒れ込んだ。
あたしは壊れた格子を開けて急いで駆け寄る。
「マクワ!? マクワ、しっかり……」
抱き起こしてみるが全く返事がない。完全に意識を消失している。
息が荒く、顔色は酷く悪かった。体調の悪さは明らかだ。
流石のパワフルなあたしでも、立派すぎるほど立派に育った息子を一人で運ぶのは難しい。
「セキタンザン!いるんだろう?手伝ってちょうだい!」
あたしの叫びに、奥の部屋でスタンバイしていたマクワのパートナーはすぐ駆け付ける。
それから努めて冷静に意識の無いマクワを抱えた。
「この家にもっと良いベッドはあるかい?」
セキタンザンは首を振る。鉄格子が邪魔だが仕方が無い。一度あたしが寝ていたベッドで寝かせてもらうことにした。
セキタンザンは素直にあたしのいう事を聞いて、鉄格子をくぐると息子をベッドに寝かせた。
掛け布団をかぶせてやり、マクワの額に手を当てれば、明らかに違う温度があたしの掌を焼いた。
「ああ酷い熱じゃないか、全く……」
恐らく懸念していた事が起きたのだろう。
あたしを監禁し、あたしと家族を養いながらのジムリーダー生活は破綻した。
とうとう全ての負担を一人で背負い切れなくなり、身体の方がはっきり悲鳴を上げたのだ。
「本当にしょうがないんだから」
あたしはセキタンザンに息子の様子を見ているように言うと、部屋を後にした。
家の探索は初めてで、ちょっとだけわくわくしているのは内緒。
昼間とは反対に向かえば、隣の小さなダイニングとリビング、物置が繋がっていた。
ダイニングには一通りの料理道具や食器の他に、丁寧に日用品や保存用の食料品などが用意されていて、
おそらくマクワに何かがあった時の事まで完備していた。
多分一人であれば1週間以上は生活していけるだろう。
医療用のキットもダイニングの机の上の目立つ場所に置いてあり、
自分のスマホもここにあったのでそっと回収する。
医療キットと氷のうを準備して、鉄格子の部屋に戻れば、セキタンザンがまだ息子を心配そうに見守っていた。
あたしに気が付いたセキタンザンは大きな身体を縮こませるように場所をあける。
気を失ったままの息子は苦し気な息を吐いていたが、寝顔はどこか安らかに見えるのは贔屓目だろうか。
この子供は、昔から身体は頑丈に出来ていて、風邪が流行っていてもケロっとしているのに、
辛抱強いせいで無茶が祟り、拗らせてしまう悪癖を持っていた。全く今と変わらない。
濡れたタオルを額に被せてやる。
「母、さん」
「気が付いたかい?」
熱に浮かされた息子の硝子玉の瞳は、ぼんやりと虚空を見つめている。
「ごめん、なさい。ぼくはやっぱり、母さんには……母さんよりすごく、なれないや」
「バカ。母さんとぼくは違う、その責任を負うんだって豪語してたのはあんたでしょうに」
忘れもしない、大喧嘩の始まり。キルクスでは誰もが記憶に新しい、ジムリーダー親子が街を巻き込んだ一大騒動。
キルクスは代々続くこおりのジムであり、あたし自身もこおりを学んで、こおりの中で生きてきた。
だから当然のように、息子をこおりタイプのジムリーダーとしてすぐ自立できるような教育方針を立てていた。
その中で、マクワが選んだのは、まさかまさかのいわタイプ。これにはあたしも猛烈に大反対だった。
キルクスのジムリーダーのバトンの歴史は遥かに長く、また重たいものだ。
あたしが20年以上メジャーの立ち位置を守り続けただけでなく、先代からずっと受け継いできた、
誇り高くうつくしい、大切なこおりの証。
それをたった1人の一存で変えてしまう事は、何より耐え難い歴史への冒涜だった。
そういうわけで、こおりタイプを継がせたい有名ジムリーダーの母と、
いわタイプを極めたいその息子の親子喧嘩は一大センセーショナルとして大々的に報道されていたわけだ。
だけど一人の人間としてのあたしには、そんな大義よりも、
自分で「新き」を見出せなかったことへの嫉妬の気持ちが優っていたし、
何より本当は自分の息子が新しい歴史を作ろうとしている事が嬉しくて仕方なかったんだよね。
誰より近くでそれを見ていたかったのは、その後のあたしの行動が何より証明するだろう。うん、脱線した。
とにかく喧嘩の始まる頃に息子は言った言葉がある。
あたしの心を叩いたそれを、今改めて息子に突き返してやった。
「『自分とあたしは血の繋がりはあるが、どうしたって他人であり、真似した所で同じにはなれない。
だから他人である責任を負わなければいけない』そう言っていたのは、あんたじゃなかった?」
「……そう、だね。だからぼくは、母さんには……
母さんを、一秒でも早く越えなくちゃいけないと、思ったんだ……」
息子は苦虫を潰したような顔をしていた。
そして、結局のところ、どうしようもなくあたしに引きづられてしまったのだと、拙い言葉で説明をする。
ジムリーダーとしてキルクスでいわジムを就任して、直接重圧が掛かったのは、容易に推測できる。
あたしの影が急に怖くなった愚息は、とにかくその影を急いで乗り越える為にあたしを閉じ込めた。
そうしてあたしより自分ができる奴なのだと証明しようとしたのだ。
月を捕まえる為に、水溜りに映る月をすくうような事に違いないというのに。
だから出来るだけ長くこの監禁生活を続ける必要があったし、
それはあたしに向き合えない理由の一つでもあったろう。
いろんな要因が混ざり合って見えなくなっていたけれど、話を聞けばとても簡単な事。
けれどそれが見えなくなることはある。
「だけど、母さん……ぼくは、ずっと聞きたくて聞けなかったことが……」
「なんだい、教えて?」
息子はすう、と一呼吸置いた。
「母さんが、わからないんだ。どうして、いわジムを選んだぼくを、勘当しない?」
どうやらマクワも同じように、あの喧嘩の時の事を思い出したようだ。
それが、ずっと彼の胸にはびこり続けたものを、溶かしてゆく。
「あれだけ反対したくせに……。どうして、そんなに優しい? わからないよ。ぼくは、どんな顔をすればいい……?
こんな事をしでかした今さえ……」
自分でも驚くほど、答えは明確な形を描き出していた。
「それはね、あたしがどうしようもなくあんたの母親だからだよ。観念しなさい。
あたしだけはずっとあんたを許し続ける。恐ろしいだろう、母って」
「フフ、わからないな……いや、わかっていて、どこかへ失くしてしまう方法を探したかったのかな」
潔癖過ぎる青さだった。例え見えなくても、そこに存在するものはたくさんある。
見えないからといって、消えてしまうわけではないのだ。
けれど我慢強い息子は疑問をしまいこんだまま、地層が積もって鉱物と化していくように、
根深く押し固めてしまったのだろう。
何層も重なったミルフィーユの感情は、目的のものをすぐに取り出せないよう隠してしまう。
「いいかい。あんたは、生まれてきた責任を持ってあんたの好きな事をしなさい。
全力でそれを応援する。やりたくない事を無理にやったところで何も生まれやしない」
それは今のこの状況の話だった。
こんな鉄格子を用意する事も、鉄格子の外に居続けることも、
何一つこの、若くて未来ある息子には不埒であり、似合わない。
母として、輝いているこの子の姿を見ていたい。
「やりたくないことをやろうとする苦しさは一番自分が知ってるでしょう?」
あたしは知っている。“素直”で“真面目”な幼い長男が、自分の感情を押し隠して、あたしを学ぼうとする姿。
よくよく見れば、あの時に見ていた表情と、ここで見る顔はそっくりだった。
ここで過ごした事のうち、マクワが心躍らせた事などほんのわずかで、
それよりも負荷の方がはるかに大きかったに違いない。
マクワはあたしを檻に閉じ込めたつもりでいたのだろうが、
実はマクワ自体が鉄格子の中に自分自身を閉じ込めていたんだ。
この狭い家屋の中で、身動きできなかったのはあたしではない。マクワの方だ。
マクワは濡れたタオルがずれるのもよそに、震える背中を向けた。
親の前で泣く時に、声の出し方も忘れてしまった息子を見ていると、むしょうに涙が溢れて仕方がない。
けれど、そんなあたしも声をあげて泣いてはいなかった。
【?日後】
「ただいまー!」
旅行用のバックを引き摺って、あたしは1週間と少しのラテラル旅行から家に戻ってきた。
土産もマクワが買っていたジョウト菓子と玩具を鞄に忍ばせてある。
当然いつかやってくる解放の日の為に、嘘を誠にさせる為の小道具だ。
本当に我が息子ながら用意周到な事だった。
ただ、それをあたしが断っていたらどうするつもりだったのかな。まあいいか。
そう、朝明けてわかったことなんだけど、あの山小屋があったのはラテラルの山中だった。
キルクスからはプチ旅行レベルの距離ではある。
つまりわざわざラテラルとキルクスをほぼ毎日二回もあの息子は往復していたというのだ。
まったく自分の息子だというのに、そのポテンシャルの高さには本当に驚いてばかり。まあ今後が楽しみだよね。
3人の子どもたちがきゃっきゃとあたしから土産を強請ってくるので、順番に渡していく。
ついでに帰り道で買ったミニカーも。
こんな風にあの子の嘘に乗ってあげるくらい、自分もたいがい甘いなと思うが、理由は息子に伝えた通り。
それがあたしで、マクワという子供に対する母親の在り方だ。
「もー、急に旅行なんて、ビックリしちゃったよ」
長女が困り顔で言った。
「いやあごめんごめん。思い立ってどうしてもね。」
「あ、でも写真ありがとう」
「えっ写真……?」
「メールで送ってくれたでしょう? あれって山の中?」
いろんなことがあったあの生活の中であった何かを必死に脳味噌の中から探り出す。
そういえば、隣の部屋からスマホで写真を撮っている音が聞こえた日があったな。あれか。
本当に息子のアリバイ工作への創意工夫、お母さん感心しちゃうなあ……。けどせめて説明はほしかったねえ。
「あ~! そういえば送ったねえ、いいでしょあのモーテル。お母さん気に入っちゃったの。
ところでマクワはどうだった?」
「毎日来て面倒見てくれたよ。お兄ちゃん忙しいだろうに……」
ただ、と少し視線を横にそらした。
「疲れてるみたいで、最近ちょっと空気が怖かったんだ。お母さん、様子見に行っていい?」
「ああ大丈夫。あの子また無茶して倒れてたんだよ。あたしにも責任あるし、面倒見とくから」
「そっか。もう、……お兄ちゃんたら心配だね。ありがとうお母さん、よろしくね」
これくらいなら全然良いだろう。ほとんど嘘をついていない。娘も安心した笑顔をみせてくれた。
久々の我が家は全く色褪せず、むしろ眩しいくらいのひだまりがあたしを温めている。
正直山の中は静かすぎるくらいに清閑だったから、
この喧騒に身体が慣れて戻るまで少し時間が掛かってしまいそうだ。
あたしはいつも通りの日常を送る。
ご近所さんとちょっとお話をして、カンパも遅れたことを謝りながら差し出せば、笑って許してくれた。
そういえば来週、久しぶりに仕事もあるんだった。ポケモンの調整をしなければ。
久しぶりにポケモン達と自宅の庭で顔合わせをした。
みんな心配していたらしく、あたしの元気な姿を見てとても喜んでくれている。
彼女たちはみな、マクワによってマクワの家で面倒を見てもらっていたのだと
世話をしていた本人に聞いたので、しっかり回収もした。
モスノウも自分からボールを飛び出し、マクワの家からあたしを追って探しに来ていたのだというから驚きだ。
あの夜、モスノウはすぐにあの家の中に呼んだっけ。かなり嫌そうに室内を飛び回っていたけれど。
久しぶりの仲間たちの様子は、全く毛艶も落ちていなくて完璧だった。
それを見るといつも手伝わせてた事を思い出し、
こおりタイプを継いで欲しかったな、なんて気持ちが蘇ってしまうけれど、こればかりは我慢我慢。
ただ、モスノウだけはやっぱりまだ少し憤っていたので、今度おやつのきのみを増やしておこう。
そして夜、あたしはまたあの山小屋へ向かう。当然だけれど、付近は全く灯りがなかった。恐ろしい限りだ。
アーマーガアタクシーで近くまで来れるとはいえ、街の外れで険山の足場の舗装はほとんどされていない。
引退した身にはちょっときつかったけど、そうはいっていられなかった。自由のありがたさというものだ。多分。
スマホロトムを照明代わりにして、あたしが閉じ込められていた家屋の前まで辿り着く。
木造の古い建物は、中から見ると狭いような気がしていたけれど、外から見ると意外と大きい。
セキタンザンが普通に歩けるぐらいだからそれもそうか。扉を開けて、鉄格子の部屋まで廊下を越えればすぐだ。
「元気してたかい?」
「元気だけど……母さん、その、いい加減だしてくれないかな」
あれから数日、マクワは鉄格子の向こうのベッドの上で、居心地悪そうに横になっている。
それもそうだろう、まさか自分が用意した部屋に、自分が閉じ込められることになるとは思うまい。いい気味だった。
扉に隣接した部分は破壊してしまったので、改めてチェーン式の鍵を取り付けた。マクワが出る事は叶わない。
さあ、あたしの受けた退屈地獄をたっぷりしっかり味わうが良いのだ。
「なあに言ってるの。罰として完璧に治るまでは大人しく監禁されていること。いいね。体調はどうだい?」
「……ごめんなさい。だいぶ良くなったよ」
今あんたの出番はここにはない、
そう示す事がマクワにとって何より辛い罰だということはあたしにはよくよくわかっている。
間違った手段(選んだのはおバカな息子だけれど、
それを育てたのはあたしなので)を選んで、お互い痛い想いをした。
かなり荒療治だったが、今後の投資だと思えば安いもんだ。
本来、賢い自慢の息子なのだ、もう間違えることはないだろう。
「その代わり、治ったらちゃんと果たすんだよ、あんたの務め。あたしが一番待ってるんだから、ファンとしてね」
「……もちろん、です」
「あれ、これはなんだい?」
ふと半開きになったままの机の引き出しから、一冊の本が覗かせていた。
この机はマクワが書斎として仕事の事務処理に使っていたものだが、ジムの事務処理にこんな冊子は使わない。
あたしは思わず手に取り、ぱらりと表紙をめくってみる。
「あっ、待って、それは……」
どうやらあたしを監禁していた時につけていた日誌らしい。だが全体的に薄味で、途中からほとんど形を成していない。
「なんだいこれ。全然日誌の意味がないじゃないか」
「……ぼくが犯人だという事がわかれば問題ないから」
「あんた、まさかお互い死んで見つかることまで想定していたのかい?」
2日目に首を絞めたという記載があるが、これは正しくて正しくはない。
実際に絞められてはいなかったから、事実無根だ。
途中途中不穏だったり、息子が迷う様子が残っていた。
最終日にあってはとうとう書けなかったのだろう、途中で終わっている。というかいつの間に書いたんだろうね。
「こんな危険なことを行うんだ。何があるかわからないだろ」
「あ、ねえ一つ聞くけど、あたしのこと恨んでるのかい?」
1日目の記述が気になったので聞いてみた。
そりゃまあ、あたしも人間なので、否定されることは怖かったけど、
それよりも息子の本心を聞けない関係でいる方がもっと恐ろしい。今回みたいにね。
「……まさか。母さんに教えられていた期間、確かに逃げたい時もあったけど、
結局あの日々がなければ、ぼくはセキタンザンと出会っていないと思うよ。」
「……ああもう、まったく、あんたは。これからが本当に楽しみだよ!」
思いっきり抱き着いてやろうとした瞬間、鉄格子にぶつかって、すぐ肩を落とすことになった。
もう!マクワはよく耐えてたよね!
こんな不自由生活、やっぱりあたしには耐えられないし、耐えるもんじゃないな。
笑って見せると、ようやく息子が少しほほ笑んだ。気を取り直し、鉄格子の扉を開ける。
家で作った弁当をマクワに渡していると、セキタンザンが医療箱を持ってきてくれた。
セキタンザンは体内に熱を飼う、ほのおを持ったポケモンだ。
当然近づけば熱くなるはずだが、彼は自分で適切な温度に調節が出来る。
何の指示もなく普段から行えるのはセキタンザンが人間を理解していて、
なおかつ人間のことを考えてくれているからだろう。
よく育てられた本当に立派なポケモンだ。こんな山小屋の手伝いをさせるだけなんてあまりに勿体ない。
彼も、マクワも、まだまだ今後のキルクスを、いやガラルを引っ張っていけるあたしの大事な希望。
あたしは、連れて行って欲しいと思っているんだ。
自分では見つけられなかった「新しい何か」を見つけた息子が、
どこまでも羽根を広げて、遠く、高く飛んでゆくその場所へ。
【Epilogue】
◆
いつの間にか、遠心力を帯びた蜻蛉玉が、同じ場所をくるくる回りまわっていた。
大きな星の周りを、くるくると。
目の前が真っ暗になった、というのはこういう時のことを言うのだろう。
ぼくが抱え込んだプレッシャーは、いつの間にか母親を巻き込んで、閉じ込めてしまうという凶行へと駆り立てた。
今思えば本当に馬鹿だなと思えるし、何故そんなことが必要だったのかとさえ思えてしまう。
だけれど、あの時は本当に何も見えなくなっていたし、ぼくがいた場所は毎日真っ黒で泥まみれだった。
ぼくが自分自身で切り拓き、選んだはずなのに。
いわジムリーダー就任直後のぼくは、母親を越えるジムリーダーにならなくてはならないと考えていた。
母親の教えと理想を蹴ったのだから、それが当然だと思ったし、
最低限あるべき姿で、さらにはいわタイプすら背負っていこうと振る舞った。
ぼくが覚えている母親の姿のほとんどは、既にジムリーダーとして軌道に乗っているものだったし、
強くて美しい記憶の欠片はいっそうぼくのバイアスできらきらに磨かれて、ぼく自身を酷く呪った。
母親の姿を追って、母親を見てきた常連ファンの感想を検索すれば、
同じように彼らが覗いている輝く氷のフィルターがぼくから色を奪った。
そんな状態で試合に黒星が続けば、ぼくのプライドが悲鳴を上げるのは当たり前だった。
だけど、母さんに負けるわけにはいかず、一人でなんとかしなければならないと思い込んだぼくは、
とうとう母さんを山の中に閉じ込めて、更に背負うものを増やそうと考えた。
おかしいと、逃避ではないのかと脳味噌のどこかで思いながらも、これが最善なのだと思い込む。
気が付けば人里隠れた安価な山小屋を探して購入していたし、大掛かりな改装を施して、部屋には鉄格子を設置した。
母さんがいない中で、母さん以上の働きが出来れば、ぼく自身に誇りが持てる。母さんを越えた証明になるのだと。
結局それは、全ての始まりが母さんであるという理由付けだけではなく、
ぼく自身がまだ、母さんに甘えていた心理の現れだったのだろう。
同時に、母さんという人間と自分自身に対して、ぼくの勉強不足と無理解が浮上して、酷い程に雁字搦めになった。
本当は向き合い、話をしたかったという本音さえぐちゃぐちゃに混ざり合わせた。
ぼくの感情はまとまりを作ることなく、一つ一つがバラバラに絡んでどうしようもなくなった。
絡み付いた心を、母さんに解いて欲しいと泣いて喚いていたというわけだ。本当に弱くて情けない。
ぼくは母さんに許されて、こうして今もいつも通りのぼくでいる。
これがぼくにもたらされた贖罪の形だというのは、正直とても辛くてふがいないが、
それこそがぼくの背負わなければいけない罰なのだ。
力強い母さんから生まれて、その周りを巡る鉱石のぼくは、きっと月に似ている。
今日も全てを噛み締めて、人一倍ガラルを、いわポケモンを輝かせよう。
彼らの放つ一際眩い光が、ぼく自身を映す輪郭となって、またガラルを照らしてゆけるように。
2020年6月4日 pixiv投稿
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