万彩の軌跡を閉じ込めて
雪山のふもとに広がる深い緑の森、その静寂の中に佇む大木の洞。
朝の光が雪に反射してキラキラと輝き、冷たい空気がピリリと肌を刺す。木々の間を縫うように透けてくる朝の光が、タンドンの硬くて黒い表皮にやわらかな輝きを与えていた。
だがしかし、よく見れば大きく抉れて割れたような痕があり、中のほのおの色が見えている。
今日はとても天気がよく、風もない。たった今まで、陽光の温かさの中にいた。はずだった。
氷を纏った冷たい風が吹き抜ける中、彼を囲う不安と恐怖の影に思わず、は、と気が付き、意識はある瞬間へと引き戻される。
あの日の空気は冷たく、どんよりと重たい鈍色の雲が空を埋め尽くしていた。風は急に方向を変え、びゅうびゅうと大きな音を運んできた。
自分の住処たる小さな石窟の中で、天井に埋まった綺麗な石を見上げ、いつ届くようになるだろうかとぼんやり考えながらタンドンはその音を聞いた。
突然の激しい地鳴りと共に、今見上げていた石の壁が崩れ、巨大な影が彼に襲い掛かる。
あまりにも突然の出来事に、タンドンはただ立ち尽くすしかなかった。激痛が身体を突き抜け、心臓が凍りつくような恐怖が襲いかかる。自分の脆弱さを痛感し、何もできなかった自分に対する無力感が胸に広がった。
バンギラスの容赦ない牙が身体を引き裂き、その痛みは記憶と身体に深く刻まれた。
車輪は震え、身体が不安定に揺れた。周囲の静けさがかえって恐怖を煽る。心音はぐるぐると早鐘のように激しく音を立てていて、耳障りなほどに響き渡っていた。
自然が一瞬にして静まり返り、タンドンは木の洞の中でひとりぼっちだった。
赤い瞳に映るのは、悲しみと痛みに満ちた過去の断片。硬い皮膚は大抵ならば耐えられるように作られているが、今はただただ空しいばかりだった。
森の奥深くから何かが動く音がして、その度にタンドンの心は跳ね上がった。周囲の微かな音にも敏感に反応してしまう。
タンドンは、重い息を深く深く吐き出した。あの狂獣は、まるで天災のように自分の住処を崩し、どこかへ去っていった。まだ近くにいるのだろうか。
息が白い霧となり、凍える空気の中でゆっくりと上昇していくのを見送りながら、タンドンは重たい車輪を転がして、その場を後にした。
【改ページ】
信じられなかった。
ポケモンと互いに助け合い、信頼関係を築き上げながら生きていく。
それが優秀なポケモントレーナーとしての基本中の基本であり、マクワ自身がなによりも最初に学び、至極当然基礎中の基礎として身に着けてきたはずの事だった。
まだ深い雪の残る山道を歩くことは、自分の体力作りにもなるし、なによりポケモンたちに近づき、彼らの生活を学ぶことが出来る。
幸い母のお陰で、一般的な同い年のこどもよりいち早くポケモンを連れている。いざというときは自分の身を守ることもできる。
そこは珍しく雪の少ない斜面だった。普段ならば白く分厚い氷が覆い隠している道には、いくつもの大きな赤銅色の岩が鎮座している。今までにはなかったものだ。
落石でも起きたのだろうか。そうであれば地盤が不安定になっている可能性もある。まだ幼くとも、母との訓練で学んだことだ。登山は良い訓練だが、それゆえにリスクも高い。少しでも変化や危険を感じ取ることがあれば、必ず引き返したり、安全を選ばなければいけない。
慎重なマクワはすぐに道を変えようと、今残してきた自分の足跡の上を再び踏み直した。
突然なにかが自分の足に触れてきた。歩みを妨げられては危険性も高い。
思わずマクワは身構え、後ろに後ずさりしようとした。足元を見ると、そこには小さなタンドンがいて、なぜか自分の足に、その頭をそうっとこすりつけている。
「タンドン……こんなところに……!?」
不思議なことばかりだった。この近辺に野生のタンドンが生息しているなんて聞いたこともなければ見たこともなかった。何度も母とともに上った山だ、ポケモンの生態系は幼いなりに熟知しているつもりだった。
それなのに、この初対面であるはずの見知らぬタンドンはマクワの細く白い足にぴたりと身体をくっつけていた。
ほんのりと温かさのある石の感触。しかしよく見て見ると身体の皮膚が大きく削れてしまい、中の熱が零れ落ち、小刻みに震えていた。酷いけがだ。
見上げたタンドンと視線がかち合う。真っ白な少年の姿を映して、なぜか安堵の色が浮かんでいる赤い瞳。
マクワはどくん、どくんと震える大きな自分の鼓動の音を聞いた。
怪我をしている。助けなくてはいけない。利き手はすぐに背負った鞄を引っ張り上げる。
だが。どんどんと鼓動が大きく高鳴っていく。
それは今すぐ逃げなくてはいけないと、それを受け取ってはいけないのだと、胸が警鐘を鳴らして訴えている。
助けなければならないはずなのに。助けて当然のはずなのに。
自分が信じられぬほど、耐え難い感情が渦巻いていた。
◆
朝日がキルクスタウンの街並みを淡い金色に染める頃、メロンの家にも一日の始まりが訪れた。冷たい風が窓をかすめ、外にはまだ薄霧が漂っている。家の中は暖かく、木の床には柔らかな日差しが差し込んでいた。
マクワは目覚まし時計を止めるとベッドから起き上がり、窓の外を見つめた。真っ白な山並みがこちらを荘厳に見下ろしている。今日はあそこに登る訓練の日だ。
まだ眠気の残る目を擦り、大きく息を吐いて部屋から出た。
リビングに降りると、焼き立てのパンの香りが鼻孔を擽り、腹をぐうと鳴らした。メロンはふんわりした白い髪を後ろでまとめ、エプロンをゆらし、キッチンで朝食とともに昼の弁当の準備していた。
その手際の良さにいつも感心させられる。
「おはようございます……」
「おはよう、マクワ。今日は特別な訓練の日だよ。しっかり準備しておきなさいね」
「はい」
メロンは振り返り、大きな青い目に弧を浮かべ、優しく微笑む。額にはほんのりと汗がにじんでいるのは、火を扱っているからに違いない。それでもその目には、既にほんのりと厳しさが宿っていた。スタジアムの上で見る色に近いものだ。
キッチンの隅には、シッターの女性が立っていた。彼女はメロンがジムの仕事に出かける間、まだ幼い妹を見るとともに、家のことを手伝うために雇われた頼りになる存在だった。
マクワ自身も生まれる前から面倒を見てもらっていて、恥ずかしいところもたくさん助けてもらってきた。
シッターはメロンが訓練に出かける準備をしている間、家の中を整えてくれている。
妹はマクワの姿を見つけ、握りしめたフォークを揺らして笑う。
「おにいちゃん、おはよ!」
「おはよう」
「マクワ、おはよう。しっかり朝食を食べてエネルギーを蓄えようね」
シッターは優しい声で言いながら、テーブルにパンケーキとフルーツを並べた。マクワの隣の席では、妹が既に朝食を食べていた。
切り分けたパンケーキを口に運び、嬉しそうに咀嚼する。
朝食を済ませた後、マクワは背中のリュックを確認し、必要な道具が揃っているかをチェックした。その時、メロンの声が彼を呼んだ。
「マクワ、ユキハミはだいじょうぶ?」
マクワはうなずき、自分のポケモン、ユキハミのボールを取り出した。同じ年の子では、ほとんどまだポケモンを育てているひとはいないだろう。だがマクワはメロンの承認のもと、既にしっかりと手持ちを育てていた。
二人は庭に出て、まずユキハミを出した。小さなこおりポケモンは元気いっぱいで、マクワの足元をぐるぐると回り始めた。
「おはようユキハミ、調子よさそうですね。でも、一応体調をチェックしますね」
マクワはグローブをはめるとユキハミを抱き上げ、その体を優しく撫でながら冷たい体温や反応を確認した。ユキハミは嬉しそうに体を震わせた。
「よし。今日は山に登りますよ」
メロンもラプラスを呼び出し、その大きな体を丁寧にチェックし始めた。ラプラスの目は優しく、メロンに信頼を寄せているのがわかる。
「ラプラス、今日も元気ね。調子はどうだい?」
母の白い手で、ラプラスの背中やヒレを確認しながら話しかけた。ラプラスは軽く鳴いて応え、その体をメロンに寄せた。
「よしよし、ご機嫌だね。今日の訓練もよろしく頼むよ、ラプラス」
ポケモンたちの体調が万全であることを確認したメロンとマクワは、再びボールに戻す。
そして荷物を背負い、玄関で見送るシッターに言った。
「今日も家のことをお願いね。あたしたちは少し遅くなるかもしれないけれどよろしく頼むよ」
メロンはにっこり微笑みかけた。
「もちろん、メロンさん。マクワも気をつけて行ってらっしゃい」
シッターは温かい笑顔で送り出した。
玄関を出ると、冷たい朝の空気が二人を包み込んだ。山々は薄くもやに覆われ、その頂は朝日を浴びて金色に輝いていた。メロンとマクワは肩を並べて歩き出し、これから始まる一日の訓練に向けて、心を引き締めた。
「さあ頑張ろうね、マクワ」
メロンは息子に目を向け、優しく言い、息子は静かにうなずいた。
そしてふたりはアーマーガアタクシーで移動したのちに街の北の外れの雪山へと登山道から入っていくのだった。
ここは地元のひとであっても、ほとんど入ることの少ない険しい山だということは、メロンからマクワはよく聞かされていた。
白銀の頂は、天を突くかの如く聳え立ち、山腹は冷たい雪に覆われており、時折、太陽の光がその表面を照らし出すと、眩いばかりの輝きを放っている。
ゴーグルがなければ目を焼かれているだろう。
随分と高く昇ってきて、もう山頂にちがいない。後ろ側を見下ろしてみても境界線すらなにもない。どこまでも続く白の美しさは荘厳で出来ていた。反対側は緩やかな斜面の先に、盆地の中の雪原が見え始めていた。
木々は低く、地面を埋めるようにして短い枝を伸ばしていた。大気の薄い場所では、植物も生活できないのだと、前メロンが教えてくれていたことを思い出す。
あたりいっぱいを埋めるみずみずしく、湿っぽい香りとは対照的のように思えた。雪を踏みしめる足音と、ふたりの息遣い、時折遠くでツンベアーの遠吠えが聞こえる。
それらと重なるようにして、オフホワイトの鞄に下げられた赤いリボンの小さな鈴が柔らかい音を鳴らしている。
まるで雪と氷の延長のような色をした大きな母のリュックサックの中で、特別目を引いた。
この厳冬の中、少年マクワは母親とともに、一緒に雪山の登山訓練に臨んでいた。
「ステップは小さく、息は深くだよ、マクワ」
厳しくも温かい声が、母の背を追う息子の名前を呼ぶ。
マクワは頷き、雪に覆われた斜面を真剣な眼差しで見つめながら、慎重に登っていく。手には、厳しい風に耐えうる特製のグローブがはめられており、子供用のストックを握りしめていた。
メロンは振り返りながら、重なる山並みを見下ろす。澄み切った海のような色をした広く大きな瞳は、今は自分と同じ色のゴーグルに隠されている。
「山の呼吸がわかるかい? 気配を感じ取ることができれば、こおりタイプのポケモンとの調和も出来るようになる。その身で聴いて、感じるんだよ」
マクワは言われた通り、周囲の自然に意識を向けてみる。
冷たい空気が肌を刺す感覚や、足元の雪の柔らかさが伝わってくる。
ふと風が一時的に静まり、その沈黙の瞬間があった。
「あれは……?」
先を行くメロンが何かを発見したかのように呟いて、マクワも彼女と同じ方向を見た。
小さなくぼ地の中心で、動けなくなっているユキハミがいる。その体は震え、弱々しく息をしていた。
「ユキハミ……? ケガ……してるのでしょうか」
「……体温が高い」
メロンはすぐにリュックを降ろすと、救急キットを取り出した。その中には冷却用のスプレーや保冷剤がたくさん入っている。
「大丈夫だから、見ていなさい?」
「は、はい……」
慣れた手つきでユキハミの体を包む特大の冷凍パックを準備した。彼女はユキハミをそっと抱き上げ、自らのコートで氷とともに体温を分かちながら、ポケモンの身体を丁寧に拭きあげた。
「たぶん日差しの強い場所にいすぎてしまったんだね。雪の上の反射光は思いのほか強い……まだ生まれてそれほど経ってないんだろうね」
メロンがマクワに向かってそう語りながら、彼女の白磁の手が、ユキハミの小さな体を慈しむように、そして確実にその生命を守るための手当てをしていく。
震えていたユキハミの身体は落ち着きを取り戻し、心地よさそうな表情を浮かべていた。
「ラプラス、れいとうビームを」
(ああ、すごいな)
メロンに呼ばれ、ボールから飛び出したバディのラプラスが、指示通り氷の光をユキハミに優しくあてる。すると溶けていたユキハミの背中の氷が綺麗にもどっていく。
やがてユキハミは体力を取り戻し、小さな声で鳴き始め、自らの足で歩きだした。
「よかった。もう変なところで寝るんじゃないよ!」
岩陰の向こう側に消えた背中を見送ったメロンの顔には満足げな笑みが浮かび、彼女はマクワに向かって言った。
「こうやって野生のポケモンを助けることも、環境を見つめることも、あたしたちジムリーダーの重要な仕事だね」
マクワはただ頷いた。自分の身体の奥にも温かいものが流れ込んでいるのがわかる。
すぐさま野生のポケモンの状況を見抜き、的確な手当を行う母親の姿はとても誇らしかった。それと同時に、穏やかなユキハミの表情を見るのもまた、心身のこわばりを解いてくれた。
それから少し歩くと、メロンは左手のストックを伸ばし、盆地の中に広がる雪原を指した。よく目を凝らせば雪の中に小屋のようなものがある。
「よし、見えてきた。あそこが今日のゴールだよ。あともうちょっとだね」
マクワはボトルから伸びたストローに口をつけて、身体を潤すと、母の背中についていくのだった。
それから1時間程雪の中を下り続け、山小屋にたどり着いた。厳しい冬の空気が身体を通り過ぎる中、古びた木製の扉を開けると、内部からは埃と木の混じる香りとともに、温もりが漂ってきた。中は誰もおらず、しんと静まり返っている。一階は広い共同スペースになっているようで、キッチンや小さなソファ、大きなテーブルなどがおいてあり、ごく普通のリビングだった。
上の階もあり、そこは小さく区分けされて、複数の人たちが同時に眠れるようになっている。
「ここで休むよ。訓練にはしっかりした休憩も大切だからね」
メロンが提案し、荷物を降ろしてテーブルの上に置くと、暖炉に火をくべる。
「荷物はここで良いのですか」
「いいよ。めったに人が来ることなんてないんだから。ここの管理人さんとは知り合いでね。ジムリーダーになる前からいつも借りてるんだけど……誰かと一緒になったことなんて片手の指で足りるぐらいさ」
マクワは明らかに共同スペースであるテーブルの上を占領すること懸念を抱いたが、メロンは既に、いつもの豪胆さを取り戻しているようだった。
二人は登山用の上着やズボンを脱ぎ、残る雪をしっかり叩き落とすと暖炉の火の前に広げて乾した。
小屋の中は質素ながらも、家庭的な装飾が施されており、壁に掛かる古いポケモンの絵や、手編みのラグが彼らを迎え入れているかのようで、誰かがこんな場所まで定期的に来て、手入れをしてくれているのだということは幼いマクワにも理解が出来た。
マクワは窓際に置かれた埃ウッドチェアに積もった埃を払うと、腰を下ろし、母が用意してくれた温かいハーブティーを一口飲んだ。
「いつも家の面倒を見てくれてるシッターさんのオススメを買ってみたんだよ。どうだい?」
「おいしい……です」
「そりゃよかった!」
カップから立ち昇る湯気がきのみのようなあまいかおりを乗せて彼の顔をほんのりと温め、目の前の窓ガラスに小さな水の粒となって貼り付いた。
シッターさんは毎日家に来て、メロンが不在の時、マクワの学校での宿題の面倒を見てくれたり、掃除などの手伝いをしに来てくれているひとだ。
そういえば、甘いものが好きだと言っていたことを思い出した。
メロンは携帯食を湯銭から取り出しそれぞれカップに入れると、となりの椅子に座り、しばらく火を眺めながら、育てたこおりポケモンたちとの訓練法について語り始めた。
「ここでの訓練がこおりポケモンたちを知るにも、あたしたちにも良いんだ。厳しい冬を耐えることで、誰にも負けない強さをはぐくめる」
その話を聞きながら、マクワは窓の外を見た。雪が舞い落ちる中を、一羽のアーマーガアが風にもまれずに堂々と飛んでいくのが見えた。
このひとは、本当にポケモンといることが好きで、誇りなんだな。メロンはいつも饒舌だが、今日は一段と口数が多かった。
母親としてではない、トレーナーとしての矜持が溢れんばかりにこぼれて居るのを、マクワはすべて取り落とさぬよう拾い上げていた。
外の世界がどれほど過酷でも、この山小屋の中では、時が穏やかに、しかし燃えるように流れていく。赤い火の揺らぎが、はじける音が聞こえる。
なりたい。なれるんだ、ジムリーダーに。
そう思うとユキハミを助けた母を見たときと同じ心の温かさを感じることができた。
だが同時に、落ち着かないような、むずがゆさのようなものもそこにはあった。
まだ幼いマクワには、その複雑すぎる感情を掬い取ることが出来ない。ただ温もりだけを拾い上げ、勲章にしていた。
◆
前日と比べて、翌日の朝は分厚い雲が空を包み、ちらちらと白雪を落としていた。
雪の中、二人は息を白くしながら、凍てつく風が吹き抜ける中で訓練を行っている。
スタジアムを見下ろす観客を見上げるときはこう見えるんだろうなと想像しながらマクワは空を見上げる。周囲を囲うのは真っ白な雪の山並みだった。
メロンの姿は、雪の中でも一際輝く氷の彫像のように厳かで、実の息子から見ても動きの一つ一つが精確で冷徹な美しさを放っていた。
きっとこのひとはこおりの中で戦うために生まれてきたのだろう。自分の目が、その白い光を受けて輝くのがわかる。
ヒヒダルマが雪を舞い上げるほどの速さで動き、マクワの前で構えるユキハミに雪玉を投げつける。
「集中しな! 余計な動きは消耗に繋がるよ!」
メロンの声は冷たい風に乗り、雪原を越えて響き渡る。マクワはその言葉に耳を傾けながら、自分のバディであるユキハミの動きを追い、同調させるよう試みる。
呼吸は白い息が立ち上り、てヒヒダルマの動きを追う。
足元の雪は深く、各ステップに重さを加える。普段のキルクスよりもずっと標高が高く、無駄な動きは自分からも、ユキハミからも酸素を奪う。
的確な判断と必ず伝わる指示が必要だった。
「ユキハミ、3時方向! 次は8時でストップです!」
雪山の静寂は、二人の息遣いとポケモンたちの動きによって時折破られる。
周囲の木々は霜に覆われ、空は鉛色に重く閉ざされていたが、マクワとメロンの訓練の場には、熱気が漂っていた。
「もっと速く! ユキハミ、こなゆきを!」
マクワの指示に従い、ユキハミは周囲の雪を巻き上げながら、雪の風を放つ。その技はヒヒダルマから投げられた雪玉を正確に捉え、空中で美しい氷の花を描いた。
ヒヒダルマの巨大な体は雪の中でも一際目立ち、力強く立ち塞がった。
「まだまだ! 相手の動きをもっと読むんだよ」
メロンは冷静に見守りながら、時折、アドバイスや指摘を加えていた。
「体勢を低く保って、そう、そのまま! もっとスピードを上げるんだよ! 敵は待っちゃくれないからね!」
メロンは訓練の最中、冷静かつ厳しく指摘を加える。彼女の眼差しは冷たく、それでいてどこか期待に満ちていた。ユキハミとマクワは、母の期待を一心に応えようと耳を傾ける。
「マクワももっと足を閉じる! バランス崩したら命取りだよ!」
ユキハミは賢い。メロンの指示も、マクワの指示もきちんと聞き、素直にそれを再現できる。
だがしかし、その時ヒヒダルマの投げた雪玉がユキハミより手前に落ちかけて、ユキハミがそれを追いかけようとした。
「前に出過ぎない! ユキハミは遠距離の攻撃のほうが得意なんだから、間合いをキープすること!」
確かに、それは納得できる理由だ。けれどあの時ユキハミは自分の判断で動いた。マクワにも見れなかった何かを掴み取っていたに違いなかった。
「……もう少し……ユキハミの動きをみてみたい、です」
マクワが提案を試みるものの、メロンは即座にそれを遮った。
「スタジアムは甘くないんだよ。一瞬の動きが生死を……勝敗を分ける。一寸の隙も産んじゃいけない。言ったでしょう? ユキハミは至近距離を取られたら命取り。弱点を明け渡すようなもんだよ」
確固たる信念はこおりの檻のように聳え立っていた。
「ユキハミ、次は左に小さくステップを踏んで、その後でこなゆきを!」
母親の指示とは異なる新たな戦略を込めて叫ぶ。
ユキハミが見つけた『何か』を、マクワ自身も捉えたかった。
メロンはしばし黙ってその様子を見守ったが、やがて小さく頭を振り、冷ややかに言葉を紡ぐ。
「覚えておきな、マクワ。ジムリーダーとして生き残るためには、ポケモンそれぞれの基本的な立ち回りに規律と伝統……つまりルールが絶対なんだ。……基本が出来なければ応用が通じるはずがないだろう?」
マクワは母の顔を見た。微笑むメロンの顔には、彼女が見てきたであろう苦難の色がじんわりとにじみ出ている。
ああ、同じ目に遭わせたくないのだな。幼い少年にも理解することが出来た。
それに気づいたのか、メロンはマクワを励ますように、期待を込めるように肩を軽く叩いた。
「あんたはあたしの頃に……負けないぐらい……いやそれ以上に優秀だよ。大丈夫、すぐ理解できるさ」
やはり居心地のないような、むずがゆいような不思議な感覚が、時折マクワの中に姿を現すことがあった。その理由も、名前も、いまだマクワは掴み切れていない。
(それでも、確かに)
存在していないことには出来ない、拭い去ることのできない違和感。
メロンは自身のスタイルと戦術を一寸の狂いもなく与えようとしていた。
毎日の訓練は、メロンが描いたこおりタイプのジムリーダーとしての理想像にマクワを適応させようとする試みであり、愛情とともに、時には制約となる期待が重くのしかかっていた。
【改ページ】
それからしばらく経ったのちのこと、あの時母とともに登った山を、今度はたった一人で登っていく。
寒風が吹き抜ける中、マクワは日課のトレーニングを行っていた。
舗装された道はなくなり、どんどん砂利と斜面に変わっていく。さらに樹木の数や植物の種類もぐっと増えて、野生のポケモンたちが時折さえずる声が聞こえる。
土のむっとした香りと、松脂の渋くつんとした香り、ひんやりとした雪の湿った香りがマクワを歓迎していた。
既にポケモンを連れているとはいえ、たったひとり、人のいる場所から少しずつ離れていく一人だけの山道はまるで大きな口の中へ自ら歩みを進めているような感覚に陥る。
背筋をわずかばかりぞっとしたものが駆け抜けるが、自ら湧き出るその恐怖に打ち勝ち、同時に山道で足腰と計画性を鍛える訓練だ。しっかりと足を踏みしめる。
母がやっていたように、足で踏み固めながら安全な道を探していく。だが母が選んでいた道よりは人や獣が多く通ったり、目で見てもわかるほどはっきり作られた道を選ぶ。
目指すは山の中腹だが、それでも野生のポケモンも存在しており、未熟なマクワひとりではかなりの危険性を伴うもの。
いつか母のようになるために、周囲の子供やひとを超え、ジムチャレンジを勝ち抜くため必要な第一歩だった。ふもとであるこのあたりにも相変わらず雪は残り、白い世界を作っている。
だが、今日の山の姿はあの時の記憶とは、随分と違う顔を見せていた。
雪原を壊すように異様な数の岩がごろごろと転がり、所々には砂が散乱して、重たい砂や土の、古い香りが充満している。眉間にはしわが刻まれた。
「これは一体…?」
マクワの声は、冷たい風に乗り、深緑の木々の隙間を流れていった。訓練ルートは山の一部を辿るものだが、このような状態になったのは見たことがなかった。一瞬、訓練を続けるべきか悩む。
(しかし……原因はなんだろう。……大人に知らせるにも情報は必要だ)
好奇心と危険への警戒心が突き動かし、原因を探るための探索を決意させた。
ゆっくりと、しかし確実に異変の地を探り始めた。足を踏み入れるごとに、岩に隠れていた雪が軋む音を立てる。寒さは彼の肌を突き刺し、厳しい自然の変貌を物語っていた。手袋をした手で冷たい岩を掴み、バランスを取りながら、彼は山の更なる奥へと進んでいった。
大岩の向こうの周囲の景色は一変していた。露出した岩肌には奇妙な削り跡が見られ、何かがここを通り過ぎたように砂が散らばっている。
マクワは、通常の野生のポケモンが作り出すものとは明らかに違う、何者かによる荒れ模様を目の当たりにして、不安を抱えつつ、少しずつ足を進めた。
「いったい何が……」
進めば進むほど、岩石の数が増えていく。落石でも起きたのだろうか。そうであれば地盤が不安定になっている可能性もあり、次の落石も発生しかねない。まだ幼くとも、母との訓練で学んだことだ。登山は良い訓練だが、それゆえにリスクも高い。少しでも変化や危険を感じ取ることがあれば、必ず引き返したり、安全を選ばなければいけないというのは、メロンとの絶対の約束だった。
マクワは自分の中の慎重さを選び、一度道を変えようと、今残してきた自分の足跡の上を再び踏み直した。
そのときだった。突然ほのかな温かさと、はっきりとした凹凸のある、硬いものが自分の足に触れてきた。歩みを妨げられては危険性も高い。
思わずマクワは身構え、後ろに後ずさりしようとした。足元を見ると、そこには小さなタンドンがいて、なぜか自分の足に、その頭をそうっとこすりつけている。
「わっ!? タンドン……こんなところに……!? あなたがこれを……? いや、まさか」
タンドンの小さな体にしては、転がる岩のサイズは大きく、数は多すぎる。よほど訓練されたタンドンでなければ難しいだろう。
不思議なことばかりだった。この近辺に野生のタンドンが生息しているなんて聞いたこともなければ見たこともなかった。何度も母とともに上った山だ、ポケモンの生態系は幼いなりに熟知しているつもりだった。
それなのに、この初対面であるはずの見知らぬタンドンはマクワの細く白い足にぴたりと身体をくっつけていた。
ほんのりと温かさのある石の感触。しかしよく見て見ると身体の皮膚が大きく削れてしまい、中の熱が零れ落ち、真っ赤な中身が見えていて、小刻みに震えていた。酷いけがだ。
見上げたタンドンと視線がかち合う。真っ白な少年の姿を映して、なぜか安堵の色が浮かんでいる赤い瞳。
マクワはどくん、どくんと震える大きな自分の鼓動の音を聞いた。
怪我をしている。助けなくてはいけない。利き手はすぐに背負った鞄を引っ張り上げる。
だが。どんどんと鼓動が大きく高鳴っていく。
それは今すぐ逃げなくてはいけないと、それを受け取ってはいけないのだと、胸が警鐘を鳴らして訴えている。
助けなければならないはずなのに。助けて当然のはずなのに。
自分が信じられぬほど、耐え難い感情が渦巻いていた。
結局打ち勝ったのは、身に沁み付いた教えだった。ぐるぐると苛む思考をはねのけて、気づけば勝手に腕が動き、鞄から携帯用のスプレー式のきずぐすりを取り出していた。
いまだ足に体を擦りつけようとするタンドンの動きに合わせながら、大きく開いてしまった背中にノズルを向けた。大きく割れた背中から、中央の赤い色が漏れ出ていた。
石炭に近い成分の体表はばらばらと崩れ落ちて、今も細かく砕けた部分が砂のようになって柔い風にすら飛ばされていく。マクワはそれを拾い上げて、なるべく彼の身体の中心が守られるように穴をふさぐ。寒冷地キルクスではタンドンやその進化系のポケモンたちともゆかりが深い。
だからこそタンドンが今育てているはずの熱を逃させては絶対にいけないことくらいは知っていた。
それでも、これほどまで近づき、まじまじと観察したことはなかった。
彼の身体から今も離れようとする岩を抑えた指が、黒い粉を吸って真っ黒に染まっていく。
(石炭って……こんなにやわらかかったのか……)
本来、いわというものは非常に硬いものだ。それはこおりタイプを専任しているからこそ知っている、実践から学んでいた筈の知識だった。
彼らいわの力は、硬くとも脆さを携えたこおりタイプにとっては天敵で、あっという間にこおりを割ってしまうものだ。だからこそ対策は必要で、そのために学んだこともたくさんあった。
冷たい風が頬に刺さる。それはタンドンの怪我にも御手を伸ばし、ぱちんと火の粉を上げさせた。考え込んでしまう頭を慌てて振り、マクワはタンドンを抱き上げた。
タンドンはおとなしくマクワの腕に収まっている。それは心の内側から熱を引き出したことを感じて、マクワはその熱の前で扉を降ろして閉じ込めた。
「とにかく、ポケモンセンターにいきましょう……スマホロトム!」
「案内するロト!」
スマホロトムがマクワのポケットから飛び出して、即座に通報と道案内のアプリを開いた。
柔い土を避け、踏み固められた地面を慎重に、瞬時に判断しながら、マクワは山を下って行った。
◆
急ぎ足でポケモンセンターに向かう彼の足音は、雪に覆われた道を切り裂いて響き渡った。
センターの温かい灯りが見えたとき、彼はほっと一息ついたが、安堵にはまだ早い。
センターのドアを押し開け、慌ただしく中に入ると、既に通報を受け、待機していた医師にタンドンを託した。キルクスタウンのポケモンセンターは、外の凍てつく寒さとは裏腹に、中は温かさに満ちた空間であった。マクワの声は震えていたが、意志は固かった。
「お願いします、タンドンを助けてください」
「絶対とは言い切れませんが、もちろんです。最善を尽くしますね」
青白い電灯が、緊急状態の一刻一刻を照らし出す中、タンドンは白いシーツの上で静かに横たわり、医師たちが忙しなく行き来していた。
この扉の向こうで、タンドンの身体は綿密な手当てを受け、その深い傷は丁寧に処置されているのだ。
マクワは、ポケモンセンターのベンチに座って静かに待った。冷たい鉄製のベンチが彼の体温を奪うが、それ以上に心を冷やすのは、タンドンの身に起きた恐ろしい事件だった。
病室の白い壁は、外の雪に覆われた風景と同じくらい冷たく感じる。
それから数時間ほどたって、無事手術は終了し、マクワとガラスを隔てた病室の中、小さなカプセルに入れられたタンドンは、静かに眠っていた。
治療が一段落したところで、医師が硝子越しにタンドンをじっと見つめていたマクワのもとへと近づき、ため息をつきながら言った。
「……最近、あのあたりのポケモンがよく運ばれてくるんですよ」
「先生……ありがとうございます、タンドンは大丈夫でしょうか」
「怪我はかなり深刻ですが、治療には成功しました。ただ、彼がこのような重傷を負ったのには……理由がありまして」
「普通の怪我には見えませんでした」
「ええ、タンドンは……バンギラスに襲われたようです」
「バンギラスに? あの山はよく知っていますが……野生のバンギラスなんて……」
マクワの背筋に冷たいものが立ち上る。バンギラスといえば『動く災害』として、一つの山を容易く変えてしまえるほど凶暴で有名なポケモンだった。
こおり使い見習いとして、弱点足りえるものに対する勉強は、既に母親から受けていた。もし、一人でいたときに遭遇してしまっていたらと思うと、恐怖で指先が冷えてしまう。
思わず反対の手で握りしめた。
「はい、通常、バンギラスは生息していません。彼が現れたのは行動は恐らく生息地での問題が原因でしょう」
医師はパッドを取り出すと、ガラルで起きたばかりの災害のニュースを映し出した。
人里離れたワイルドエリアの中で、大きな地震と地盤沈下があったというものだ。原因はポケモンではなく、ただの自然災害であるという調査結果も発表されていた。
「つい先日の地震とそれに伴う土砂崩れで、ジュラルドンとの争いが激化し、そして負けた個体はテリトリーを追い出され、生存のためにはより広い範囲を移動しなければならなくなったのです。
この情報はやっと得たばかりで、先ほどメロンさんに連絡したばかりだったのですが……まさかマクワくんがあの山にいたなんて。しばらくは入らないようお願いしますね」
「バンギラスはジュラルドンと縄張り争いをするのですか」
医師は、マクワを見つめてゆっくりと瞬きをした。思わぬ方に話が転がったな、と顔に書いてあるのがマクワにも分かった。
しかしすぐにその表情は、いつもの冷静な医師としてのものに隠されていった。
「ええ、習性で。両者は生息地が同じなので、どうしても争いがおこるようです」
「……ぼくはまだ……ポケモンについて知らないことがたくさんあるのだな……」
マクワはボブヘアを左右に振った。人一倍ポケモンについて学んでいるという自負があったのに、思わぬ形で容易く撓んでいた。
「ああ、いや、でも……あんな場所にバンギラスがいるというのなら、もしかしてキルクスに来てしまう可能性もありますか」
「……ええ、その通りです。もしバンギラスがさらに人里へと降りてきた場合、より多くのポケモンや人々が危険に晒されることになるでしょう」
「ぼくになにか出来ることはありますか。……メロンの息子として、やれることをしたいのです」
母の名前を出すことは矜持でもあったが、同時になぜか苦いものを腹の中に一滴垂らす。
「さすがマクワくんですね、気持ちはとてもありがたい。ですが今はレンジャー隊と連携をとって詳細の調査をしている所ですから、マクワくんはゆっくり体を休めていてください。このタンドンを助けてくれただけで君は十分な働きをしていますよ」
「そうですか……。ありがとうございます」
そのとき、ガラス越しのベッドの上で眠っていたタンドンの眼が開き、マクワをとらえた。赤い色が嬉しそうに微笑んだ。まだ体を起こす力はないのか、それでもマクワの元へ近づきたいのか小さく車輪を転がしている。
「あ……目が覚めたんですね」
「よかった。本当にひどいけがだったのに。数日時間がたっていて体力も消耗していました。あと数分遅れていたら助からなかったかもしれません」
医師も笑うと、病室の扉を開いた。動かぬマクワに、振り返りざまに言う。
「……よかったらもう一度近くにいきませんか。よほど気に入られているみたいですし、……これほどひどい目に遭って……安定してくれるかもしれません」
マクワは頷くと、再び病室の中へ入る。つんとした消毒の香りが少年を歓迎した。
ベッドの隣に立ち、タンドンを見下ろすと、包帯の巻かれた黒い小さな身体が傾いて、マクワの手に触れようとした。
「タンドン……動いてはいけません」
「ゴオ」
「喜んでますね、やはり」
「……でもぼく、何もしていないのです。確かに母からポケモンの扱いは学びました。嫌われない術は理解しています。……ここまでなつかれるなんて」
「なにかシンパシーのようなものを感じているのかも……ポケモンって不思議ですよね」
「……彼を野生に戻してあげたいですが、バンギラスがいてはあの場所には戻せない」
「タンドンはもともと鉱山近辺に住んでいるポケモンです。特別な理由がなければそちらの方が過ごしやすいはず」
マクワは瞬きをした。鉱山はキルクスから離れた場所にあるものだった。
だがポケモンを連れている今なら多少の冒険は問題ない。
「……炭鉱……一緒に……行きますか?」
「ゴオ!」
「それでは回復次第、向かいましょう」
「ありがとうマクワくん。忙しくないですか」
「大丈夫です。ポケモンとのことであれば、母の許可も得られるでしょうから」
まだ擦り寄ってくるタンドンに、医師は無理しなければ触ってよいと言った。
マクワはその黒いいわの塊をそうっと抱き上げた。ずっしりとした質量は思いのほか軽く、ほのかな温かさが触れた部分から伝わってくる。
足元を擦った時と同じように、タンドンはその頭をマクワの腹に優しくこすりつけていた。
◆
日はすっかりと傾いていた。キルクスタウンの自宅に歩いて戻る道中、凍える風が彼の顔を突き刺すようだった。
マクワはひとり、過去のトレーニングを思い返し、常に自然と共に生きる教えを受けてきたことを思い出した。
タンドンはもうしばらくポケモンセンターでの経過観察が必要だ。あの後ベッドの上に置き、医師に頭を下げて家に戻ったが、母はまだ試合中なのか誰もいなかった。
暖かい自分の部屋に入ると、マクワはすぐバンギラスについて調べ始めた。家の中にあるポケモン図鑑やポケモン勝負の資料を片っ端から集めて、改めて生体や歴代のトレーナーとの関係性を知る。
育てることは非常に難しく、扱いも難易度が高いが、信頼関係を築くことが出来ればこれ以上ない力となってくれるポケモンであり、たとえジムリーダーであっても彼らが仕事とは別の勝負がしたいと考えたときでなければ、見ることも敵わない可能性がある。
そんな記述ばかりを目にして、マクワはごくりと生唾を呑んだ。それほどまでに強力なポケモンが相手なのだ、心してかからねばならない。
けれど同時に、そのハードルの高さはわくわくするような、もっと知ってみたい熱が存在していることも、確かだった。
さらにロトムの力を借りて、現在のキルクスでのバンギラスの情報も集めることにした。彼をなんとかしなければ、タンドンを元の生息地に戻してあげることが出来ない。
一刻でも早く返してあげるためにも、マクワ自身も出来る限りの協力をしたかった。
キルクスで発見されているバンギラスの行動範囲、最近の地震活動、そしてその影響を受けた地域のエコシステムやバンギラスの生息状況、紐づいてジュラルドンの生息状況についてのデータがマクワのもとへと集まってくる。
ワイルドエリアやキルクスタウンの地図を広げ、バンギラスが目撃された場所に印をつけ始めた。それぞれのポイントを結んでいくうちに、頭の中であるパターンが浮かび上がった。
彼らが自然災害によって追われていることを示唆していた。
「バンギラスは……その身体を育てるために、ヨーギラスのころから大量の土が必要……」
こおりポケモンが雪や氷で身体を作るように、バンギラスにも身体を構成する物質がある。
一つずつ、取りこぼすことのないようノートに取りまとめていく。派手な記録ばかりが残るバンギラスたちだが、意外にも子育ては質実剛健で、自分たちのテリトリーを守るのに必死だということも、新しい発見だった。
何せヨーギラスひとりでも一つの山を食いつぶしてしまうほどなのだ。そんなヨーギラス達の食事を確保するために、バンギラスたちは一生懸命であり、それゆえジュラルドンやボスゴドラなど敵も多い。
なんだかそれがとてもマクワの胸をわくわくさせて、バンギラスやボスゴドラ、セキタンザンなどのポケモンたちの逸話までも、気が付けばノートにびっちり埋まってしまっていた。
とくにキョダイセキタンザンには、激しい寒波からガラルのいのちを守ったという伝説が残っていて、それはどこの話なのか、いつの時代だったのか、興味は尽きない。
「……たのしい」
ポケモンを学ぶことは、いつだってマクワの心を彩った。けれど、なぜだかわからない。
今までにない温度が胸の奥で溢れているのがわかる。それは自然と体を動かして、本来ならば必要のないはずのところまでも自分を連れていった。
その夜、マクワは眠りにつくまで、自分の作ったノートを何度も反復し続けるのだった。
◆
次の日、ポケモンセンターでの医師との会話が彼の頭の中で何度も反芻されていた。
地震、天災。それはいったいどれくらいの規模で、どれくらいの頻度で起きているのだろうか。
震源地から距離のあるキルクスでは、揺れなどを感じたことはなかった。
バンギラスが追われてしまった根本的な理由を手に入れるため、図書室へと足を運んだ。
キルクスタウンの図書館は、厚い雪に覆われた静かな場所にあった。その古びた石壁は、冷たい外気を遮り、暖かく落ち着いた学び舎の内部を守っていた。マクワは重い扉を押し開け、ほっと息をつきながら、無数の書棚が並ぶ中を歩き始めた。彼の目的は明確だった。
バンギラスの行動パターンと生息域についての深い理解を得ること。
彼は図書館の中央に設置された大きな木製のテーブルに向かい、昨日書き溜めたノートを広げた。同時に、周囲の棚から関連する書籍を手際よく選び出し、重たい本を積み上げていく。その中には「岩石ポケモンの生態系」と「山岳地帯における野生ポケモンの行動分析」というタイトルの書籍も含まれていた。
プロトスマホロトムでも情報収集をする。ボタンを押しながら、ポケモンに関するフォーラムやソーシャルメディアのページを次々と開いていく。マクワの目は熱心にスクリーンを追い、ファンやトレーナーたちの意見や感想に耳を傾けるように文章を読んでいた。
「いわタイプのポケモンって、ウェポンはすごいけど見た目が無骨だよね。もっとスマートな戦い方ができればいいのに」とある投稿が彼の目に留まった。
そのコメントには多くの「いいね」がついており、さらに同意する返信が続いていた。
「確かに。バンギラスとかゴローニャは強いけど、戦い方が単調で飽きるんだよね」
マクワはそのコメントを見つめながら、自分の中で感じていた疑念が少しずつ形を成していくのを感じた。さらにスクロールすると、同様の意見が多く見られた。
「いわタイプのポケモンは耐久力があるけど、どうしても力任せに見えるんだよな、弱点も多いし。もう少し戦略的に使えれば、もっと魅力的になると思うんだけど」
「無骨さが売りかもしれないけど、それが逆にマイナスになってる感じがする。もっと華麗な技とか、スマートな戦術があれば評価も変わるかも」
「ステロステロ」
そこで慌てて頭を振った。いけない、今はそんなことを調べている場合ではなかったはずだ。
オンラインデータベースにもアクセスし、バンギラスに特化した最新の研究論文を探し出す。
論文の内容はとても難しいが、ロトムが解説し、翻訳してくれるのでまだ学の浅いマクワでも理解が出来る。それに、難しいことへの挑戦はとても楽しいと思えた。
バンギラスが生息する地域の地質学的特性について調査を進めた。特に、その地域の地下資源や、最近行われた開発活動がバンギラスの行動にどのような影響を与えているのかを詳細に調べ上げた。地質調査から、その地域が以前はバンギラスにとって理想的な生息地であったが、とある瞬間から環境を激変させ、食料源を失わせたことが明らかになった。
地震の揺れによって山々は揺さぶられ、岩石や土砂が崩れ落ちた。これらの自然の変動は、バンギラスの主食である小型ポケモンの生息地を破壊し、さらにヨーギラスの主食たる地質までも大きく変貌させてしまい、彼らの食料源を激減させた。飢餓と生存圧力が増大し、食料を求めて安全だった領域を離れることを余儀なくされたのだった。
マクワは、これらの事実を受け止め思案を巡らせた。自然災害という無情な現実が、バンギラスをキルクスタウンの方へと追いやったのだ。彼は一瞬、研究に没頭する自分を忘れ、窓の外を見た。冬の風が、裸木の枝を揺らしている。
深いため息をついて、マクワは立ち上がり、図書館を後にした。今、自分にできることをしたくて仕方がなかった。とにかく、彼らと繋がっていられるような心持になれる。
そしてそれは自分の身体をとても軽くする繋がりだった。
家に戻り、深夜まで資料とにらめっこする中、マクワは窓の外で舞い散る雪を見ていた。この問題がただ単にバンギラス個体のものではなく、自然との共生を重んじる故郷、敷いてはガラル全体の問題であることを痛感した。
環境の変化にポケモンたちがどう対応しているのか、そして人々がその変化にどう向き合うべきなのか。
「……ぼくに……出来ること」
数日後、マクワは図書館で得た地元のポケモンレンジャー隊の情報を使い、電話連絡を取り、バンギラスとその生態系についての情報を集め始めた。彼らは災害の時など、積極的にポケモンやひとのために前線で働くことを生業としている。だが、そこで帰ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「マクワくん! ありがとうございます。実はちょうどこの件、メロンさんに協力いただいているんですよ」
ああ、だから最近家にいないことが多かったのか。マクワは溜飲が下がるのを感じた。ジムリーダーはリーグの業務以外では、野生ポケモン対策の仕事が入ることが多い。
当然ながら、キルクスタウンのジムリーダーたる母親の元にはこれに当たる仕事が入るのだ。
なんとなく歯がゆく、悔しい想いが喉の奥からせりあがってくる。
だがその時、浮かんできたのは、自分を見上げるタンドンの嬉しそうな顔だった。
礼を述べ、丁寧に電話を切る。窓の外は雪が降っていた。
◆
ちょうど日がてっぺんに上るころ、まだ包帯の残るタンドンを抱きしめて、マクワは新たな住処を求めて炭鉱へと向かっていた。
学校は休日であり、メロンは朝から試合の準備で家を出ていた。ひとりで動くには、絶好の機会だった。病院でタンドンを受け取り、アーマーガアタクシーに乗ってキルクスを飛び出した。
雪の多いキルクスとは違い、炭鉱近くのエンジンシティは空気がカラッとしていて日差しが強い。そこから少し歩いた先に、第一炭鉱があった。
遠くから見える炭鉱は古びたシャフトといまだ健在なレールが伸びる荒涼とした風景で、周囲は低木や岩がちの地形に覆われていた。ツンとした鉄の臭いと、独特の埃っぽい岩や土の匂いが立ち込めている。
ここは今でも掘削されている所だが、子供がポケモンと触れ合えるように、常に解放されていた。
マクワはタンドンにとって安全で静かな場所を探そうと、舗装された横穴へと足を進めていく。外とは違い、暗がりの続く道には、光る石が誘うように伸びている。湿っぽい匂いと、どこかから吹き抜けるぬるい風がマクワの頬を撫でていった。
マクワがしばらく足を進めた後、人工的なライトが設置された広間にたどり着いた。しゃがみ込むと、腕の中に納まっていたタンドンの車輪を地面に卸す。
タンドンはその場所の様子をうかがうと、興味深げに辺りを見回していた。
マクワはタンドンを励ますように、その岩肌を軽く撫でながら語りかけた。
「……どうですか、ここは……気に入ると思うのですが」
タンドンは平然とした顔で、車輪を転がし自ら奥へと入っていく。それはまるで、勝手知ったる様子に見えた。
「ひょっとして……きみはここを知っているのですか」
ふと振り返ったタンドンがぱちぱちと瞬きをする。それから小さくうなずいたのちに、再びマクワの元へやってきた。
それから以前擦り寄ってきた時と同じように、脛に頭をこすりつける。自分の居場所は、マクワなのだと言わんばかりだった。
「……きみは自分で……あの場所を選んで……? いや、とりあえずここはダメかな。違うところも探してみよう」
そういってマクワはタンドンとともに炭鉱中を歩き回った。少し足を延ばして第二鉱山も覗いてみた。やはりタンドンはマクワから離れていく気はないようで、むしろ気持ちのいい場所での散歩を楽しんでいるように見える。
「……困ったな……」
マクワは言葉とは裏腹に、まんざらでもない様子で再びタンドンを抱き上げる。
「きみのこと……母に……なんて説明しましょうか」
石炭越しの温かさが、じんわりと体の奥深くまでしみわたるのを感じていた。
◆
キルクスタウンの日は早く沈み、寒空の下、星が一斉に輝き始めた夜。タンドンは再びポケモンセンターのベッドに戻し、マクワは立派な自分の邸宅へと戻った。
マクワは母メロンがリビングの窓際でレンジャー隊のリーダーと話しているのを見つけた。
冷たい窓ガラスに手を当て、彼はその会話に耳を傾ける。レンジャー隊からはあのバンギラスを救助するための協力要請があり、メロンはそれを真剣に受け止めていた。
「といった計画でして、バンギラスを安全に、元の生息地に戻したいと思っています」
メロンは頷き、深い青の瞳を輝かせながら応答した。
「ええ、地の利はあたしにある。どんと任せてちょうだい。あたしが出れないときはジムの子を行かせるよ」
マクワはその言葉を聞いて、ほっと一息ついた。だが同時に、自身もこの問題に関わりたいという強い願望が心を突き動かした。
彼を安全に山に戻すためにも、バンギラスの問題を解決することは急務だった。
毅然としてリビングのドアを開け、メロンとレンジャーの前に立った。
「ぼくも……何か手伝いたいです。野生のタンドンが、あの山でバンギラスに襲われました。彼を帰すためにも、まずバンギラスを助ける必要があります。次期ジムリーダー候補たるぼくにも何かできることがあるはずです」
メロンは驚いた顔でマクワを見た。その眼は深い色に輝いている。
「これはかなり危険な仕事だよ」
「タンドンもバンギラスも、ぼくたちが守らなくちゃいけないと思います。どんな小さなことでもよいですから……手伝わせて……もらえませんか?」
レンジャー隊のリーダーは少年の熱意に打たれたのか、その節くれだった掌で、丸い頭を優しく撫でた。
「いいだろう、マクワ。君の勇気と情熱を評価するよ。安全な範囲での協力を頼もう」
「はい……! ありがとうございます」
「ちょっとマクワ……本当にいいのかい、隊長?」
「もちろん。その代わり彼の事は絶対に守ります。危険なことはさせません。必ず」
「まあ……すまないね。そのかわりしっかり手伝うんだよ! あんたが仕事の邪魔したら……わかってるよね」
「は、はい」
マクワはまるでおもちゃの様に首を動かす。朗らかに笑うレンジャー隊たちの姿は、なぜか頼もしく見えた。
【改ページ】
翌朝、雪がやんだ静かな朝食の時間のことだった。マクワはメロンの用意したマフィンを食べ、メロンはテーブルに向かい合って座っていた。
そういえば、お母さんと朝食を一緒に食べたのはずいぶんと久しぶりだったな。そんなことを思いながら母を見つめていると、コーヒーを一口飲んだ後、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「マクワ、昨夜の決断はとても勇気があるものだったよ。あんたがポケモンを守りたいという気持ちは理解できる。あたしも誇らしい。でもね、あんたが忘れてはならないのは、将来のこおりタイプのジムリーダーとして、大きな役割があること。あたしは当然、他のみんなを認めさせるためには、ジムチャレンジでトップレベルの功績を残さなければいけないんだ」
メロンの言葉は冷静でありながら、その声には息子への深い感情が込められているのが少年にも理解が出来る。彼女の視線はマクワの目をしっかりと捉え、彼女の言葉が息子に真剣に受け止められることを願っていた。
メロンは、自分が築き上げた遺産を引き継ぐことを望んでいた。マクワの新しい関心事が彼の訓練と将来にどのような影響を与えるかについて、深い懸念がにじみ出ている。
「協力することは大切だけど、本来の訓練と勉強をおろそかにしてはいけない。こおりタイプのジムリーダーとしての訓練は非常に重要。マクワがどれだけ時間を割けるか、よく考えるんだよ」
マクワは母の言葉を静かに聞いていた。彼の心の中では、自分の情熱と母の期待との間で小さな闘いが繰り広げられていた。彼自身もまた、こおりタイプのジムリーダーとしての訓練の重要性を理解していたし、早く立派な跡継ぎとしてジムリーダーになりたい気持ちはある。
だが同時に、タンドンやバンギラスのようなポケモンが直面している問題にも、深く心を動かされていた。何よりもっと彼らの事を知ってみたい気持ちがある。
「分かっています。でも、ぼくはただジムリーダーになるだけじゃなくて……もっとポケモンのことを知りたい。なにより、母さんのもとに来る仕事なら、将来ぼくのもとにもやってくる仕事かもしれません。必ずジムリーダーとして役に立つはずです」
「……どんなに忙しくても、訓練は怠らないこと。そして……いいかい。自分自身の安全も第一に考えて」
母はそのまま立ち上がると、カップをキッチンシンクに置いた。マクワはただリビングの扉が閉まる音を聞いていた。
◆
既にワイルドエリアには雪山からの雪解けの水が川を激しく流れ、生き生きとした春の息吹が感じられるようになっていた。
マクワはこの日、レンジャー隊と共に、森の奥深くで作業をしていた。今日の任務は、バンギラスの元の生息地である森林地帯の環境復旧と、ジュラルドンの繁殖制御の仕事を手伝うことだった。
レンジャー隊はこの地をバンギラスが再び安心して暮らせる場所に戻すため、倒れた木の片付けや、自然のバランスを崩す植物の除去作業と、ジュラルドンのキャプチャスタイラーによる捕獲作業を行っていた。
周辺の生態系の話は以前に聞いていたが、バンギラスの縄張り争いの相手であるジュラルドンの姿は異常に増えている。
テントを張っていても、近くを過ぎ去るジュラルドンの美しい白金のボディはきらきらと輝いて見えた。荷物を整理していたマクワは思わず瞬きをする。
「い、いがいと……眩しいのですね……」
「ここは以前、バンギラスのテリトリーだったんだけどね、今はこんな感じさ。あのバンギラスもちゃんと生態系の一員なんだよねえ」
荷物の整理を一緒に行っていたレンジャーの一人が説明すると、マクワは深く頷いた。
ジュラルドンの群れは、バンギラスが追われた後に急速にその地を占拠し、バランスを崩していた。
タマゴ制御の作業はどうしてもレンジャー技術が必要な繊細なものであり、マクワが参加できる部分は限られていた。
「今日はジュラルドンをほんの一瞬捕獲……正しくはキャプチャして、これを与えるんだ。彼らがタマゴを作るのを抑えるためにねえ」
「見たことのないきのみですね。においもない……?」
「ああ、市場では出回っていない……9割レンジャー専用だよ」
「マクワくん! こっちを手伝ってくれないか?」
小走りでやってきた隊員の一人が声を掛ける。マクワはしっかりと返事をする。
「はい!」
「すまないね、肉体労働だけど……人手が必要で。土砂の撤去……正しくは撤去の撤去を頼みたいんだ」
「だいじょうぶです。ぼくも……ある程度は鍛えていますから」
「それじゃあいってらっしゃい~」
そうしてテントを後にして、隊員とともに山の中にはいった。小さなシャベルを渡されて、連れていかれたのはマクワの頭よりもさらに低い高さの土の山がいくつも並んだ広場だった。
既に隊員の一部が積まれた山の上に立ち、掘り下げている。
「道を遮った土砂をここに運んでいるんだ。均すためにね。マクワくんにはこの均しの作業を頼みたいんだ。一緒に頼むよ」
「わかりました」
マクワはさっそく、隊員たちの見様見真似で小さなシャベルを手に、土を掘り返し、地面を均す作業を始めた。
彼の周りでレンジャーたちが動き回り、賑やかな声が飛び交っている。
少年は一人しゃがみ込み、その地中深くから姿を現した赤い土に触れてみる。
「……鉄っぽい匂いがする……。そうか、ジュラルドンはこれを食べられるけど、バンギラスは食べられない……」
傍らでマクワの様子を見守っていた隊員が嬉しそうに言う。
「すごいね。わかるんだ?」
「ああ、いえ、ぼくも初めてで……でもバンギラスが好む土壌は勉強したので知っています。だからジュラルドンは逆に、こういう土を好むじゃないかと」
「そうなんだ。崩れた地質調査の結果、鉄分の強い赤土が表面に出てきてしまったみたいでね。ジュラルドンにとっては潤沢で豊富な栄養になる。だからあっという間にジュラルドンが増えて……バンギラスが追いやられてしまった」
「バンギラスは……ここに戻せるでしょうか。彼らを他の地域に住まわせることは……リスクが大きいと思います。とても強いですが、だからこそ環境を選ぶ繊細さが……あるんですよね」
「そうなんだ、本当に良く調べている。バンギラスは力が強すぎるから、生息地は限られてしまう。ジュラルドンも、増えすぎれば今度は餌の取り合いで苦しむ個体が出てきてしまう。彼らにとっても、そして人間にとってもこのあたりで暮らしてもらう方が一番いい。時間はかかるけど、必ずやってみせるよ」
「よかったです……」
「というか……つまりマクワくん、バンギラスの好む土がわかるんだよね」
「え、ええ。いちおう……実物も拝見させてもらってきました。キルクスの博物コーナーにありましたので」
「それは非常に助かる」
ふたりの会話を聞いていたレンジャー隊の隊長の男が、テントから出てきた。
「マクワくん、すごいですよね」
「ああ。バンギラスの移送作業にも参加してみないか? 君の知識があれば、スムーズに進められるかもしれない」
「でも、隊長……」
マクワはこの気遣いの視線をよく知っていた。母親に対して気を回しているひとは、いつも同じ困ったような顔をするのだ。
それでもマクワは、また自分の目が輝きでぱっと開いたのがわかった。これは待ち望んでいたチャンスだった。
「大丈夫だ。フィールドで直接バンギラスに近づくのはまだ早い。だが、後方でのサポートなら任せられる。君のポケモンへの理解が、私たちにヒントをくれるかもしれない」
「ありがとうございます!」
感謝の気持ちを込めて頷くマクワは、この任命に心から喜びを感じていた。
早速次からは、トラックで運ばれる装備や資材の管理を任され、バンギラスが快適に過ごせるように、その運送環境の最適化に尽力した。彼の周囲には様々な測定器具や荷物が積まれており、それらを丁寧にチェックし、運送が始まる前にすべてが整っていることを確認した。
このささやかな行動のひとつひとつが、バンギラスの移送作業にとって不可欠なものであることは、マクワ自身が普段から鍛錬と勉学の日々を送っていることからも、しっかりと認識していた。その日の作業が終わると、マクワは遠くの森の中へと消えていくトラックを見守りながら、静かながらも深い満足感が両手足を温めていた。
「バンギラス……すぐに捕まるでしょうか」
共に資材を運んでいた隊員へと、マクワは呟くように言った。
「それがね……結構難航していてね。居ることはわかっているんだけど、なかなか姿を現さないんだ。長い任務になるかも」
「そうなんですね……。レンジャー隊でも見つからない。であれば到底ぼくの付け焼き刃な知識だけで敵う敵じゃない……」
「いやいや、マクワくんをチームに入れてくれたのは知識を買ってだろうから、そんなことないよ!」
「……ありがとうございます」
「でも、せめて誰かいればいいんだけど。バンギラスの個体と直接会ってる誰かが協力してくれれば……今足りない情報はそこなんだよなあ……実個体のことを知るもの……」
「……ぼく、知っています」
「え、本当かい!?」
「……でも、彼は……協力してくれるか……。しかし……」
「ああ、そうかあ。そうだよねえ、いや、みんなそうなんだよ。怖がっちゃってさあ」
マクワは眉間に深いしわを刻む。話の中で、最適な存在をマクワは知っていた。
今も病床で休む小さなポケモン、タンドンだ。だがあのタンドンは酷く辛く苦しい思いをしているはずだ。バンギラスの狙いがわからない以上、また襲わないとも限らない。
出来る限りマクワも彼を巻き込みたくなくて、どんどん眉間の皺になっていく。
ぎゅっと力を入れる身体の隙間で、あの優しい温もりを思い出していた。
◆
マクワは冷たい夜風が吹きすさぶ山の中、一人で緩やかな斜面を歩く。月明かりが岩肌を照らし、影が不気味に揺れる中、硬い決意が足を動かしていた。
(タンドンを……あの優しい彼を、もう一度危険な目に遭わせたくない。バンギラスは夜によく動く……)
山道は真っ暗で、道も空も境目がなく、昼間とは違う静かな草木の香りが立ち込めている。
懐中電灯の明かりを頼りに、少しずつ道を探しながら進んでいた。反対の手には自分で記録した生態などのメモ帳が握られている。プロトロトムはいるが、電力が足りなくなれば頼りにならない。
険しい岩場を登りながら、マクワは地面の様子や岩の割れ目を注意深く観察していた。バンギラスの痕跡を見つけるためには、彼の住処となる特定の地形や、水源を見つけ出す必要があった。マクワは自分がタンドンと出会ったときの記憶を頼りに、バンギラスが好む隠れ場所を探していた。彼に一度聞いてみることも考えたが、おそらく言語が伝わらない以上、一緒に出てきてしまうだろう。それは避けたかった。
「どこに隠れているのだろう……?」
マクワは自問しながら、懐中電灯の光を岩の割れ目に照らし、その奥を覗き込んだ。しかし、バンギラスの姿は見当たらなかった。
次に、彼は地面に這いつくばって岩の下を確認した。しかし、岩や土の様子からバンギラスの住処を特定するのは思った以上に難しかった。
「もう少しで見つかるはず……せめて水源が見つかれば、近くに……」
マクワは諦めずに岩場を進んだ。しかし、どの岩の割れ目も、どの洞窟も、バンギラスの痕跡を示すものはなかった。
時間が経つにつれ、マクワの心には焦燥感が募っていった。夜の静寂が彼を包み込み、風の音と、遠吠えだけが耳に響く中、バンギラスの気配を感じることができないことに苛立ちを覚えた。
「どうして見つからないんだ……」
マクワは立ち上がり、暗闇に向かって呟いた。彼の手は冷たく、懐中電灯の光が揺れる中で、自分の限界を感じ始めていた。それでも狭い山道を進もうとした。
その瞬間、足元の岩が不安定に動き、マクワはバランスを崩して斜面を滑り落ちた。「うわっ!」という声が夜の静寂を破り、彼の体が岩にぶつかりながら転がり落ちていった。痛みが全身に走り、ようやく止まったとき、彼は地面に倒れ込んでいた。
「痛っ……」
マクワは息を整えながら、体を起こした。膝や肘には擦り傷ができ、冷たい夜風が傷口にしみた。彼はその場に座り込み、無力感と不安に押しつぶされそうになっていた。その時、ガサガサと複数の足音が聞こえた。思わずバンギラスかと思い姿を近くの岩陰に隠し、身構えた。
「バンギラスの残した爪痕はどこも深くて大きい。わかりやすいが、警戒心が強いのか、なかなか姿を現さないな……」
「……実際の個体を知っているひとたちの協力が必要だな……個体の好みや習性を割り出せれば……」
「でも大怪我を負ってるひとがおおくて……」
それはあのレンジャー隊の一行だった。暗くてわからないが、2,3人ほどはいるだろうか。
彼らは明るい懐中電灯をヘルメットに括りつけ、足跡を辿り、樹皮に残された擦り傷や地面の擾乱を慎重に調べているようだった。
以前見せてもらったとき、彼らが持っている地図には、可能な隠れ場所がいくつかマークされていたが、それでも捕まえるどころか、うろこひとつ見つけられなかったという。
レンジャー隊の一員が薄い息を白く吐きながらつぶやく。
「バンギラスって本当に扱いづらいんだよな。まったく、そのくせ凶暴ときた。みんな……無事で済めばいいんだが」
「俺、最初のポケモン、タンドンでさあ、……いわタイプって弱点多くて面倒くさいんだよな。地味だし」
マクワからみても、それなりに経験を積んでいそうな、壮年の隊員と若い隊員だった。年を重ねた漆黒の目はじっと虚空を見つめていて、まるで過去を視ているようだった。
隊長が、彼に向って厳しい視線を向ける。
「口を慎め。ポケモンが私たちの脅威になることは当然のことだ。だからこそ私たちは共生が出来る」
「まあ、そうだな。タイプや種族で話をするのは間違いだった」
何気ない彼の言葉が、朝の冷たい空気と共にマクワの耳に届いた。心の中で反駁しつつ、彼は静かに頷いたが、心の中では深い動揺を隠せなかった。
自分はこおりタイプ専任として学んでいる最中だが、タイプごとでの偏見のようなものがあるとは露ほども知らなかった。思わず足に力がはいり、ぐりりと地面を踏みにじった。その瞬間、足を乗せていた石ががたんと傾いた。
「誰かいるのか!」
近寄ってくるひとの足音に、思わず息を呑む。電灯の明かりが目を焼く。白い顔が強く反射する。はずだった。
「……なんだ、野生のポケモンだったか……?」
マクワは再び岩陰であおむけに寝転がり、自分の中で籠った呼吸の音を必死に聞きながら、レンジャー隊の見回りが過ぎ去るのを待ち続けていた。額に括りつけられた眩い光が、まるで空間を切り裂くように見上げた夜空は深く、星のちいさな光が積もるように、何処までも瞬いていた。
しばらくして、彼らの足音は再び遠くに消え、気配も暗い森の影に溶け込んでいった。
どこからか野生のポケモンの遠吠えや羽ばたきの音が聞こえ、草の根っこと、湿った地面の香りやざらついた砂の感触が背中をじりりとくすぐっている。
「うまく……いかない……」
マクワは声を絞り出し、涙がこぼれ落ちるのを感じた。自分の無力さと将来への不安が一気に押し寄せ、彼の心を締め付けた。
メロンは長男であるマクワがこおりタイプのジムリーダーとしての訓練に専念することを望んでいたが、改めて考えると、今どうにもむずがゆくて落ち着かない。
なんだか用意されているものに座るような気がして、それはとてもつまらないことだと思う。
他の人たちはみな挑戦権をなんとか必死でもぎ取って、この椅子も勝ち取るものだ。
これだけ訓練してきた自分の力が試せないのは、まるで期待されていないようだ。きっとわがままだと、若気の至りだと母は言うだろうが。
ならばせめて自力でタンドンが住んでいた場所を取り戻してやりたい。そのためにバンギラスが安全に避難できる場所へ導かれるその瞬間まで、マクワは誰もいないところであっても、全力で支え続けるつもりだった。
マクワは一度深呼吸をし、再び近くの岩の割れ目を確認した。しかし、やはりバンギラスの姿は見当たらなかった。
夜の静寂の中、マクワは一人で山道を下りながら、次に何をすべきかを考え始めた。