とある日、炭鉱の洞窟の外へ出てみると、ちらちらと降る白くて冷たいふしぎなものがあった。それはあっという間に草むらを覆い、辺り一面をまるで違う世界の中へと呑み込んでしまった。この山ではほとんど見ない光景だ。少なくとも、俺が生まれてからは初めてだった。
誰かからポケモンは進化をするのだと聞いた事があるけれど、山もこうして進化したのだろうか。不思議に思った俺は仲間に尋ねてみた。物知りの彼はけらけらと笑って
「違うよ、これはこおりというものだよ。もう少し正しく言うと”雪”だ」
と教えてくれた。ゆき、こおり。初めて聞く名前に、俺は何度も反復しながらその白いものに触れてみた。しゃくしゃくと音を立てて潰れるそれは、あっという間に姿を消してしまい、元の草に戻ってしまった。踏みつけた部分が少しだけ濡れていて、しみるような感覚だけが残った。
「僕たちはこおりに強いから平気だろう?」
「……これは水なのか?」
「ああ、水が寒い所で変化するものらしい。僕も詳しくは知らない」
彼はそう言うと洞窟の中へと戻ってゆく。俺はまだ気になって、風に吹かれてゆらりゆらりと降りてくる雪の中をころころと車輪で駆ける。白色の草むらを歩けば、その部分だけ積雪が無くなり轍が残っていく。雨の時はもう少しだけ重たい感覚があるのに、雪の時はなくて、それも不思議だった。その日は雲間から蒼空が顔を出すまで、そうして戯れ続けていた。
◆
それから幾年か経ち、俺はマクワという人間と共に旅をするバディになった。
今は旅の最中、ジムチャレンジという課題を全て繰りぬけて、この地方一のトレーナーになる事が目標らしい。だが、その前にマクワにはもうひとつ大きな目標もあり、ピリピリしているのだが、この際は置いておく。
まだマクワも俺もお互いの事を詳しく知り得ぬまま、旅の同行者として日々を過ごしていた頃。
今朝町を出発し、今日は道端でほぼトレーニングに費やしながらゆっくり道を進む予定だった。
俺はマクワの作る訓練メニューについていくのがやっとで、しょっちゅう音を上げていた。
限界まで走り終えて、息を整える俺にマクワは言った。
「……休憩しましょう。今日の目標はクリアです。お疲れ様でした」
その言葉を聞き、解放された嬉しさから身体の力を抜いてその場で倒れてみせる。
「まだまだ目標には遠いですが……それでも少しずつタイムは良くなっています。その調子……です……タンドン?」
なんだかとても眠くなってきた。心配になったのかマクワが近寄り、両手で抱え覗き込んだ。俺は目を開き、大丈夫だと伝えた。
「……よかった。運動直後だからかだいぶ体温が上がっていますね。熱いです……それに……ううう……?」
マクワは何かに気が付いたのか、俺の身体に顔を寄せると、くんくんと鼻を動かす。それから思いきり眉間に皺を寄せて、とにかく嫌悪感を隠しきれていない、見た事のない顔をする。
こんなにも表情に出るのだな、と場違いなことさえ考えてしまった。
「うぐ……。タンドン……きみって……すごく独特な香りがするのですね……。炭坑の香りかと思ってましたが、いや石炭自体の香り……埃みたいな……古い家のような……」
なんとか一生懸命ゆっくり言葉を選ぼうとしていることだけは伝わったのだが、褒められてはいないことだけはわかった。俺も今、きっと同じような苦々しい表情をしているに違いない。
マクワはゆっくりと俺を降ろす。
「……うわっ! 手が真っ黒!服も!? 洗ったら落ちるかな……」
自分の掌を見て大きな声を上げた。見れば確かに真っ白なマクワの掌が綺麗な黒に覆われていて、上着の裾やズボンにまでもあちこち黒い煤がついてしまっている。
さらには鼻先や頬にも黒いもので落書きをしたかのような線が走っていた。
これは俺が持ち上げられる前にはなかったものなので、自分がつけてしまったんだということはわかる。マクワの反応からして、良くない事なのだ。どんどんと心の炎が小さくなってしまっていくのがわかり、俯いた。
「……こんな『石』もあるのですね。ぼくは今まで石というものは無臭で、色がつかないものだとばかり思っていました。……でもそうですよね、きみは『ほのお』を燃やせる『いわ』です。
『いわ』の個性が持つすごさ……! きみはいろんなことに気付かせてくれる……。
……新しい思い出がひとつ増えました」
明るい声に、俺はおそるおそるマクワを見上げた。灰簾石の眼は、思っていたよりもすぐに輝きを取り戻していた。
「しばらくは驚くこともあるかもしれませんが……すぐ慣れますから。これくらいぼくであればどうということはありません」
しゃがみ込んだマクワが、少しぎこちないが手の腹で俺の頭を撫でた。どうやら慰めてくれているらしい。
その気持ちが嬉しくて、なるべく汚さないように擦り寄った。
◆
それからまた幾年経って、マクワはとうとういわジムリーダーに就任した。
あの頃よりもお互いにずっとずっと成長し、俺もセキタンザンに進化することが出来た。
マクワの目標はまた形を変えて、俺たちの前に高く聳え立っていたが、悪くない。
今日は日課のトレーニングを終え、このままキャンプ形式で夜を明かす予定だ。
ワイルドエリアの片隅、砂の盆地に大きな太陽が沈んでゆく。
「今日は少し煤が出てますね……組み方でしょうか」
俺の横で背中の石炭の様子をみたマクワが呟いた。たまに体調が悪いと黒煤が出てしまうらしい。
少し水を入れた金属製のバケツに、一つずつトングで掴んだ石炭を入れてゆく。次は順番に背中に戻していく、時間のかかる作業だ。
体温は下がるが、なんとなく詰まっていたような感覚がすっきりして気持ちが良い。
俺にとってはどうってことのない時間だが、人間であるマクワにとってはかなり長い時を使うものだろう。さっきまでオレンジ色だった天空に黒が掛かり、ぽつぽつと星の光が射貫き始めている。
しかしマクワは一度も嫌だとか、辛いだとか言った事はない。だから俺も安心して背中を預ける事が出来るのだ。
「シュポー?」
「……へ?」
細かく石炭を並べることに集中していた頭が、突然俺の呼び声に引き戻されて、ちょっと間の抜けた声を上げた。きっと同じくぽかんとした表情をしているのだろうが、ここからだとみえないのが残念だった。
「すみません、聞いてませんでした」
「ポオ」
「ああ、これですか? 特に考えた事は……それよりきみがいつでも最大のパフォーマンスで試合を沸かせてくれることが大切ですから」
流石、トレーナーとして100点の答えを聞かせてくれた。でもバディとしてはあまり嬉しくなかったので拗ねて返す。
「シュポ」
「……まあ、その……そうですね。……ぼくが……好きなのですよ。きみの背中の炎がきちんとひかるように組むこと……」
「シュポォー」
「満足してくれましたか」
マクワはまたすぐに作業の方へと頭を切り替えたらしく、それから何も言わなくなってしまった。自分に、なにより自分の為に向き合ってくれていることに変わりないのに、なんだかほんの少し心細いような、寂しいような気持ちが湧いていた。まるで彼がこの背中に一人で山登りでもしているかのようだ。
それでも背中への登山が終わったのはそれからすぐのことだった。
「よし、終わりましたよ。これで問題ありません。ありがとうございました」
「ボオ!」
「……何かありましたか?」
俺の顔を覗き込んだマクワの顔が、随分と真っ黒に汚れている。もう日は沈んでしまったが、俺自身が放つ炎の灯りに照らされて見えている。煤の汚れだった。
マクワがいつもポケットに入れている小さな手鏡を指し示せば、彼もすぐに思い当たったようで、自分の顔を鏡で覗き見た。マクワが念入りに髪や顔の手入をしていることは知っている。
昔、大慌てだったことも、未だに記憶に根付いているのだ。
相棒は少し斜めに顎の角度を変えて四角い鏡を見ながら、
「……ああ、真っ黒ですね」
といって、困ったように笑うだけだった。俺は思わずぱちぱちと目を瞬かせた。拍子抜けだった。もっと驚くと思ったのだ。
「……きみの手入をした後なら当たり前ですよ。これは名誉の勲章みたいなものです。きみとお揃いなのですから。……まあ後ほど洗ってきます」
さらにマクワは胸を張ってみせて、楽しそうに笑った。
まだこの前、石の色さえ知らなかったマクワだった。彼は誇らしげに前髪を弄ってから、荷物用のテントの方へとぱたぱたと駆けていった。
俺の背中の炎がぼおっと熱くなり、その背中を追いかけていきたいような衝動まで駆られてしまった。
◆
夜も深まった。周囲にはポケモン達の気配もいない。食事もとり終わり、あとは就寝するだけだ。
シュラフの中に丸く収まったマクワが、寝る位置を調整するために俺の背中でごそごそと動く。
「……やっぱりこちらが良いです。セキタンザン、もう少し後ろに」
マクワが身体を起こして、俺の場所を指示する。言われた通り位置をずらして、足の上にマクワがのれるようにする。マクワは足の上に身体を乗せて、俺の腕を枕代わりにすると腹に顔を埋める。
「シュポォ?」
普段は問題ないが、ごく稀に体調が悪いと思いきり黒煤がついてしまう事があった。さっき煤を付けて、洗ったばかりなのだ。
「大丈夫です。……平気です」
「シュポー」
心配の声を掛けたつもりだった。すると余計に意地を張ったのだろうか、マクワは更に俺の方に身体を寄せて、しっかり顔を埋めた。
「きみ……埃みたいな……古い家みたいな香りがしますよ。独特な香り……です」
背中に顔を押し付けているせいで、もごもごと言う。いつか聞いた言葉にそっくりだ。
だけどその時とは違って笑みが含まれている。
「きみのお陰でいろんな……香りのする石を知りました。海の香りのする石、きのみの香りのする石、草や土の香り……でも煤っぽいのはきみくらいで……ふふ」
眠りの中に蕩け始めた言葉が、だんだんと要領を得なくなり始めた。ぼんやりと、マクワの頭の中にある何かをそのまま捉えては浮かび上がらせていた。
「黒い色がつくのも……きみくらい……あったかくてつよくてなつかしい……ほのおの香り……」
俺はその時むかし見た、あの白い雪の事を思い出していた。色が無くて冷たくて、轍と共にすぐに消えてしまうあの不思議な存在。
マクワはあのこおりと共に育って、そしてこおりよりも強くなりたいのだと言う。そのために、俺の力が必要で、つい最近ようやくこの姿にまでなった。
彼が俺のもっている色がついてしまうとか臭いだとかの特徴を全く知らなかったのも、きっと無理はないのだ。だって俺も「雪」のことも「こおり」のこともちっとも知らなかったのだから。
けれども今、マクワはこうして俺の隣で身体に顔を埋めて、安心しきった顔ですやすやと寝息を立てていた。
出会った最初の頃、俺の香りの事も、色がついてしまう事も、嫌がっていたことはまだはっきり記憶に残る。しかしそれを掴んでいなくてもいいのだと、今の彼が教えてくれていた。
ふと空を見上げれば、たくさんの星がきらきらと俺たちの天空を飾りつけて輝いている。負けないくらいの瞬きを、刹那のよろこびを、俺はじっとこの身に焼き付けて、噛み締めていた。