タグ: マクワ

暗い色をした水面は、いつも自分の顔をぽっかりと浮かび上がらせていた。月だとマクワは思った。真っ暗な夜空に浮かぶ、白い月のような自分がそこにいた。

じっとりと重たさのある風は磯の活きた香りを纏って、ひんやりと頬から体温を奪いながら過ぎ去ってゆく。岩と岩をちぎるような水辺はしばらく浅いが、突如深さをもってひとに怜悧な牙を剥く。
一度落ちてしまえば、もう助からない可能性さえある恐ろしいその場所は、いつだって氷の町のすぐ隣にあって、何もない顔でただ静かにこおりを学ぶ少年を映すのだ。
お前が何たるかを、そしてその身の程を、知るのだと冷たくシビアに問いかけ続けてくる。
それがマクワにとっての「海」だった。海に行くたび母の教えを受け、そして母が譲らんとするラプラスとともに航った。

カツン、浜辺でガラスとガラスがぶつかった。白い砂浜に座ったマクワが、隣のセキタンザンの持つサイコソーダの瓶に、同じものを軽く当てて響かせた音だ。
透けた素材同志が重なる影は、いっそう輝きを強め、まるでダイヤの破片のような光を放った。中に詰められたガラス玉と気泡がちかちかと揺れる。
照り付ける日差しはいっそうそれらを強く輝かせていたし、セキタンザンの背中のほのおをより猛々しく燃やす力になっているようだ。また額から流れた汗を拭って、マクワは笑った。

「今日のトレーニング……お疲れさまでした。……たまには良いでしょう? 乾杯……ということで」
「シュ ポォー!」

バディは瓶に口を付けると、揃って喉を通した。甘い炭酸ソーダはすっきりとして、今しがた野生のポケモンたちとひたすら連続で戦い、疲弊した体を冷まし、癒していく。
もっともセキタンザンにとってはこの冷やすというのは身体の天敵だ。少しずつゆっくりと口の中を通していた。それでも、安らぎをもたらしていることは同じだった。
マクワは少しだけ目を細め、空のガラス瓶を持ち上げて言った。

「……この間すなあらしの後、きみの背中から黒くて透明な石が出てきたの覚えていますか?」

セキタンザンは肯いた。まだつい先日のことだ。先発のバンギラスがすなあらしを呼び起こした後で切り札はすぐに登場した。その試合はあっという間に勝利をもぎ取ることが出来、言葉に出さないマクワが珍しく褒めてくれたからよく覚えているのだ。
その後、マクワがセキタンザンの身体のメンテナンスをしていた時、まるで祝福するように、石炭から紛れて出てきた小さな光の破片。

「あれはケイ素という物質が多い場所で……あの時はちょうどバンギラスの呼んだ砂にケイ素が多かったみたいですね。きみの高い温度のほのおに当てられたケイ素が溶けた後、冷やされて固まってできたものですが……このガラス瓶と色以外はほとんど変わらないそうです。
石に詳しい方々の受け売りですが……とても面白いですよね」
「シュポ!」
「きみの温度なら……このガラス瓶も溶かすことが出来るし……新しい石にも出来てしまう。……すごいことです」
「ポォー!」

セキタンザンが、地面に落ちている何かを見つけたらしい。空っぽのガラス瓶を置き、砂の中からその大きな指で器用に拾い上げると、マクワに差し出した。
太い石炭と石炭の指に挟まれて小さな煌めきを放つのは、薄くて丸い、何かの切れ端にも似て波打つような形状をした透明な緑色の石。

「これは……シーグラスですね。廃棄されたガラス素材の瓶等が、川や海の水に流され、長い年月をかけて削られた結果、こうして石のようになるものです。……そう、今の話と同じもの……きみの作る、きみの仲間ともいえるかもしれません。……あの時の透けた黒曜石といい、とてもカラフルですね」
「ボオ」
「……本当に、海って……こんなにもいろんな色があったんですね。ぼくが知っているのは……きっといつも不機嫌な海ばかりの狭いものだったのだと……そう思います」
「シュポオ?」
「そう、キルクスの入り江。きみのおかげでこんなにもたくさんの色を視ることが出来た。
……ぼくも太陽の仲間になれた」
「ボ?」
「ふふ、なんでもありません。……ぼくは月かもしれませんが……でもきみの輝きで光るもの。きみの輝きを届けるもののだから、それはきっと……素敵なことです」

真っ黒な顔は首をかしげた。それから自分の足元に置いてあった瓶に向けてほのおを放った。白い砂粒の上でほのおが躍り、瓶はまるで粘土のようにふにゃふにゃと形を崩して小さくなった。

「わっ!? ちょっと、突然何して……」

真っ赤な色に染まっていたガラスの塊は、煙を上げながらゆっくりとまた透明に戻ってゆく。

「ボオ!」
「……これも……黒曜石とシーグラスと一緒に……きみのコレクションにしたいのですか? ……まったくきみは……」

セキタンザンは得意げに笑っていて、マクワはいっそう目を細めた。

「やはりきみには敵いませんね。わかりました、全部ぼくが研磨してアクセサリーにしてしまいますから……きみは首を……いや張り切って待っていてください」

高らかな機関車の声が浜辺に響く。砂の上の石の輝きはいつまでも光続けていた。

きみと最後に会った日

ちょうど一年前の今日、きみと最後に会った日。
それはぼく自身との別れの日であり、同時にすべての覚悟を決めた日でもあった。

母と袂を分かつ。しかしそれが簡単なことではないことは、ぼくが誰より知っていた。
母はぼくを後継ぎにするために、心血のなにもかも、ありとあらゆるすべてを尽くしてくれていた。ポケモンに関するあらゆる知識、トレーナーとしての心構えや常識は、今も母親からすべて叩き込まれたものだ。ぼく自身の時間のほとんどはぼくの手中にはなく、座学から実践訓練までを行う母が一秒刻みで管理していた。
母はこのガラル地方有数のトレーナーとして名を馳せている。彼女が培ったものをこれほどまで与えてもらえるぼくは、このトレーナーという職業が強いガラルの中で、なによりも強力な剣となり、ぼくをまもる盾にもなりうるだろう。
しかしそれはぼくにとって何物にも耐えがたい拘束の糸が、喉元で呼吸を縛り付けるものだった。
それはどこまでいっても母だ。ぼくと母の境界線が、まるで雪に埋もれてしまったかのようにみつからない。
母の栄光をなぞり続けるぼくはただの母親のこおりの糸に繋がれた繰り人形だった。
ぼくが独立したいのだと伝えたとして、はいそうですか、と簡単に返事をもらえる相手ではないことも、ぼく自身の細胞という細胞がその身に刻んでいた。
それは経験もあったし、きっと母から別れて生まれた身体だからというのも、少なからず理由として存在していただろう。
シビアで非常に厳格な母だ。まず自分の実力を見せなければ、最低限の説得はかなわない。見せたとして、祝福してくれる可能性はないにも等しい。それはぼく自身の願いとして存在してているもの。
ぼくの細胞の、母とは違う部分のどこかひとかけらにしか存在していない。もっとも母から生まれた身体にそんな場所が今存在するとも思えないが、ぼくがこうして腹を括ったことだけがわずかで力強い希望の破片だった。
だからこそ、ぼくが見つけた新しい出会いは必要不可欠だったのだ。ぼくが選んだそれそのもの。母でもなければぼくでもない、全く新しい外部のいのちの存在。
きみはずっとぼくと共にいた。いてくれた。それだけで何より心強いことか。
きっとこの分厚すぎる親子の癒着に風穴を開けてくれる。
そう、まさに一石を投じてくれるはずのものだった。

だがしかし先ほども言ったように、母に対して実力を見せつけなければいけない。
少なくともきみとぼくの関係が、今まで通りであってはいけなかった。
きみと出会うために……ぼくはきみとお別れをする。ぼくが抱いた憧れに近づくのだ。

その記念すべき日は、ぼくが設定した。そこに至るまでの過程もすべて緻密に計算し、メニューを組んだ。そう、これがぼく自身がトレーナーとして始める第一歩だ。
こんなことは母にだって教えてもらっていない。トレーナーとしての心得も、指示を出すタイミング、動き方のひとつひとつの細やかなものだって、なにもかも受け売りでしかないぼくが。
だからではないが、メニューを作るのは本当に楽しかった(だってポケモンのことを試案するのはたのしかった。これも母の糸の残りかもしれなくともそれでも持ち得て悪くない糸だ)。
だってきみのことを堂々と考えて、しかも実践までしていられるのだ。これほど幸せなことはない。もちろん初めてのことだ、組んだメニューも実際に行ってみれば、やれ詰め込み過ぎだの、今度は運動量として偏りがあっただの、組み直さなくてはいけないこともままあった。
もちろんプレッシャーはあった。必ずこの最初にセッティングした別れの日程だけは絶対だ。
あまりの不甲斐なさに部屋にこもって奥歯をかみしめ続けたときもあった。
ただきみと一緒にいたいからだ。ぼくがきみのことで把握不足があることが悔しかった。きみのことで予想できなかったことがもどかしかった。
それはそれまでのぼくになかった知識だ、当然のことだろう。
ぼくはこおりタイプのポケモンについての知識と経験は他人よりも深いと自負しているが、いわタイプのポケモンに関しては完全に初心者だった。
きみに届かないような、遠い距離があるような、そんな気持ちさえ抱いていたことだってあった。

それでもきみはずっとぼくと一緒にいてくれた。それがなによりぼくの自信になったか、きみはきっと知らないだろう。
だからぼくはきみとの約束は必ず守る。少々強引だが、必ずきみを強くするという盟約だ。
きみは戦い慣れしていない、どちらかといえば和平を望む種族のポケモンだ。それを戦いに繰り出しているのはぼくに他ならない。もちろんポケモンはみな強さを求める生き物でもあるけれど。
ガラルはそんな彼らと強さを臨める環境を整えてくれたひとたちがいるのだ。その良さをきみにも伝えていきたいと思っていた。
きみはそんなぼくたちの世界で共にに生きてくれると肯いてくれた。

峻厳なトレーニングを幾度も乗り越えて、ぼくが指し示す羅針盤の先、その日はやってきた。午前中に野生のポケモンたちから連続で20回ほどもぎ取って、突然変化は現れた。
戦いを終え、去っていくポケモンの背中を見送り、次の場所へ移動しようとした。だがきみの車輪はうまく動かずその場の砂をぐるりと巻き取った。そうしてぎゅっと目をつぶった。まばゆい光が黒い体を包み込んだ。

「……やってきたんですね。予定通り……です」

きみは肯いた。とうとうお別れだ。ぼくはその石炭の頭を撫でた。
ごつごつした感触が手のひらをほのかに温めた。
きみは連れていく。ぼくの迷いも未練も、そして母の影でしかないぼくのことも。

「……さようなら。……そしてようこそ、新しいきみ。ぼくが出会いを待ち望んでいたきみ」

身体を包む光がいっそう強く激しくなり、見つめる目が痛みを発し始めてきたころ、その輝きは突然ぱたりと消え去った。
そのあとには、もうきみではないきみがいた。背に積まれた石炭の山はぼくの背よりうんと高く、辺りの空気を歪ませるほどのほのおを抱いている。ぱちぱちとはじける火の粉は時折岩の埃っぽい香りと焦がした香りを運んだ。
その体はぼくなんかよりもずっとずっと重たくて、ずっしりと落ち着いていて猛々しい。
両手と両足が出来たのがうれしいのか、手のひらを握りしめたり開いたりしたかと思うと、今度は腕を大きく開いて見せた。
黒くて丸い目が弧を描き、ぼくを見下ろした。
『きみ』でなければ、あの母に到底勝てるとは思えない。そしてきっちりポケモンを育て、進化させることが出来る自分は、立派なトレーナーの証左に違いなかった。
実績は、ぼくの胸を輝かせる勲章だ。その裏にある戻れぬ心には目を向けぬよう、青いサングラスを掛けることで閉じ込めた。

「……尖った目、お揃いですね」
「シュポォ!」

俯いたぼくはつるを抑えて、もう一度きみを見た。

「……改めてはじめまして、セキタンザン。ぼくとともに……ガラルでいちばんのトレーナーとポケモンになりましょう」
「ボオー!」
「ありがとう……ぼくの人生の剣のきみ。かならずきみの輝きをたくさんのひとたちに届けます。……だからまずは目前の試合で強さを見せつけましょう」
「シュ ポォー!」

ぼくはもう、勝負のスタジアムの上に立っていた。これがきみと最後に出会った日。
そしてぼく自身との別れと、二度目のきみとのはじめましてを続けた日。
ぼくは今もこの剣とともに、ぼくのいのちの居場所を切り拓き続けていく。
磨かれた赤い輝きと鋭い炭黒が、こおりを溶かしては砕き、勇ましい色を輝かせる。

七夕・カブさんの描写多め

『ジムリーダーになります』
幼いころ、慣れない縦書きの短冊にガタガタの文字で書いた願い事だった。それを見た母も、そしてぼくに教えてくれたカブさんもにこにこ笑っていて、ぼくはとても誇らしい気持ちでその短冊を掲げたことを覚えている。
ガラルからは遠い地、ホウエンやその近辺に残る星祭りの時に行う伝統らしい。星に願い事をささげることは、ガラルではそれほど珍しいことではない。
だからこそこちらでも親しんでもらえるのではないか、とカブさんがジム見学にやってきたぼくに合わせて用意してくれたのが、その短冊と笹の木だった。
ガタガタ文字の短冊は、笹の木のてっぺんに飾られて、そしてぼくの道を祝福し続けてくれたのだった。

ひらりと短冊が宙を舞った。何も書かれていない細い紙は、なぜかぼくのタブレットから現れて、キルクススタジアムのジムリーダーが主を務める部屋の絨毯の上に降りた。
長い間使われてきた部屋だが、こんな大きなタグのようなものを見るのは始めてだろう。
ぼく自身、キルクスで七夕飾りを見ることは初めてだった。

「もしかして……くっついてきてしまいましたか」
「シュポォ?」

部屋の中で一休みしていたセキタンザンも、不思議そうな顔をして紙切れを拾い上げると、ぼくに手渡した。

「ありがとうございます。……これは短冊というものです。先ほどカブさんのところでいただいたものを……ぼくとしたことが、どうやら間違えて持って帰ってきてしまったみたいですね」

数時間前までいたエンジンスタジアムでのことを思い出す。エンジンでのジムリーダー交流会は、会議を兼ねているとはいえ実りが多くていつも密やかに楽しみにしている恒例行事だった。
今日のエンジンスタジアムは、ちょうど星祭りの中でも『七夕』を祝っており、ほかではあまり見かけないホウエンあるいはその近辺の祭事を行っているところだった。
ジムトレーナーたちが率先してカブさんの故郷の慣習を復元し、笹の木を立て、短冊に願い事を書いて飾っているのだという。
正直なところ、カブさんとはありがたいことに、親の縁でとても長い付き合いをさせてもらっている。多分ぼくのあまり知られたくないところや見られたくない姿だってよく知っているだろう。
彼はずっと遠い場所からやってきて、そして長くぼくたちの地方に居続けてくれているひとでもある。どこまでも誠実で強いカブさんは、ぼくの目標のひとりでもある。
そんなカブさんがトレーナーとして尊敬され、めいっぱいカブさんを歓迎しようとしているジムトレーナーたちがいることは、ぼくとしてもうれしいことだった。
会議の休憩時間に七夕について教えてくれて、ぼくにも短冊を一枚渡してくれた。それはその場で書いて飾ってもらったものだが、なぜかここにもう一枚の短冊が残ってしまった。
会議の時にはいつもタブレットを使っている。おそらく知らずにもらってしまった余分な短冊が、その隙間にぴたりとくっついてきたことに気づけぬままここまで戻ってきてしまったのだろう。
スマホロトムを取り出し、カブさんに連絡を取ってみる。七夕飾りの処分の方法を尋ねるのだ。
一応祭事に扱うものだ、粗末にしてしまってはカブさんたちにも悪いことが起きかねない。
電話通信を受け取ったカブさんは笑って、ありがとう、特に気を付けることはないよ、と言った。

「昔は川とかに流していたんだけどね。しかし紙や葉をそのまま流してしまうのは忍びないという意見もあってね。ああ、そうだ、どうしても気になるなら――」

「ありがとう、スマホロトム」
「ロト!」
「せっかくだから……きみもなにか願い事を書いてみますか?」
「シュ ポォー」

ぼくはオフィスチェアに座り、デスクの引き出しからペンを取り出した。セキタンザンは興味深そうに短冊を見下ろしている。

「……きみは……きみの願いごとは……?」
「ボオ」

こうして短冊に向き合ってみて、ぼくは気が付いた。彼をぼくの願いに、やるべきことのすべてにずっと連れまわしてきた。ぼく自身の将来のために、疑うこともなく。この先にある道は、岩壁よりもはるかに険しい。それでも必ず彼にとっても幸福を齎すことだと信じてやってきた。
だがしかし、彼の本当の夢や願いを聞いたことなんてなかったのだ。
すうっと、抜ける冷たい風がある。窓は締め切っていて、エアコンも空調の類もつけてはいない。
小さな短い白い紙が、妙に大きく広がって途方もないほど大きく見えた。まるでキルクスに広がる雪山のようだ。
いつも通り、強い引力を連れて自分の願いを書いてしまおうかとも思った。それは絶対的に正しいことだ。ぼくがトレーナーで、彼がポケモンである以上正義であり続けるだろう。
けれど口の中にたまる唾を飲み込んだ音が大きくて、ぼくの動きを阻害する。

「シュポオ」
「へ」

セキタンザンはいつもの人好きのする笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。それから彼は小さく頭を横に振ると、真っ直ぐぼくの目を見つめる。

「シュ ポォー」

そこにあるのは、セキタンザンの黒い瞳の中で、僕の青い目が彼の背中の光を受けて輝く『あまのがわ』だった。

「……ふふ……きみは……」
「ポォ」
「きみはぼくの夢が叶うことがきみの夢だって……そう言ってくれる……?」
「シュポオ」

大きな石炭の頭は強く首肯する。

「……ごめん……いや、ありがとう。……そうですね。それを信じることがぼくたちです。……けれど本当は……もう少し早く聞いておくべきことでもあったと思います……」
「シュポォ」
「それでは、ぼくたちの願いを書きますね。初めて書いたものは夢などではなくて……こうして叶った今ですが、あの時のぼくが見たら驚くでしょう。ならば今度こそ……」

再び願望を書き記す。やりたいことはたくさんある。すべてが途方もない悲願であり、夢だ。けれどポケモントレーナーとして生まれ、今ここにいるぼくだからこそできることもあるはずだ。
ぼくはあの時の希望通りジムリーダーになったけれど、描いていたものとははるかに違う姿だ。
このガラルという素晴らしい土地を愛し、そして利用して、そしてぼくが捧げられるもの。
ジムリーダーになる夢を超えるもの。

「それではセキタンザン、動かずにいてくださいね」
「ボオ?」

ぼくは短冊をもって立ち上がり、セキタンザンに近づくと、彼の背中の山の石炭の間に差し入れた。乾いた紙切れはあっという間にセキタンザンの温かな熱に包まれて、端っこから火の粉を上げて黒く小さく変わっていく。焦げる香りは心地よい。きっと髪や衣服にも残るだろう。
ぼくたちを刻み付けてゆくものだ。

「ぼくの願いは……きみが持っていてください。ぼくの希望を自分の夢としてくれたきみが。
この夢が叶うそのときまで」
「シュ ポォー!」

セキタンザンは一層背中の熱を上げて、ほのおを強めた。一際ぱちぱちと音が立ち、炭の香りが当たりを包む。
カブさんに教えてもらった『焚き上げ』という方法だった。清らかなほのおにくべて、想いを天に昇らせるもの。けれどぼくにはセキタンザンがいる。ぼくの信頼する切り札は、いつだって隣で笑って、時に猛々しくいてくれた。
もうとっくの昔、彼が進化した時から、セキタンザンという彼自身にぼくの新しい大望を預けていたのだ。
キルクスの空気には静かな煙が溶け込んでゆく。

煙草

※喫煙描写があります

タバコを買った。いつもの酒を切らしてしまった上に、慌てて購入しようと入った最寄りの店も、すでに閉店の看板を掲げていた。
ここのところ試合やイベント続きで疲弊した心が、もやもやと燻り続けて逃げ道を探している。身体を動かすことも、ポケモンとともにいることも嫌いじゃないし、むしろ心を落ち着かせるのには役に立つ。
だがしかし、内側に広がり続ける重たい衝動のようなものを抑えるには足りなかった。
こういう時、身体が慣れていて手軽な酒の存在に助けられてきた。しかしマクワは自分の忙しさにかまけて、冷蔵庫の奥のことなんてすっかり忘れてしまっていたために、かたかたと音を鳴らす青い箱は今この手の中にあった。
母親も、家族も誰もタバコなんて吸わないものだ。同僚さえも吸っているところを見たことはない。母が口酸っぱくして肺に負担がかかるものは絶対にやめろと言っていたのを、今でも覚えている。自分の選手としての寿命を縮めたくなければ違うものにすがれと。
身体にも良くないが、今喫煙に対して厳しいガラルでは印象も悪くなりかねないものだ。
そのリスクはもちろん身に染みてわかっている。今でも毎日何キロもランニングをするのだ、呼吸器官に支障が起きればすぐに身体づくりさえかなわなくなるだろう。
それでも仕事が訪れる明日の昼に向けて急ぎ気持ちを整えられる何かがマクワには必要で、パッケージにでかでかと書かれた健康に対する警告の言葉とタールの名前が、めぐるめく呪文のように心を捉えていた。
自分の部屋のベッドに腰かけたまま箱を開けると、金の包み紙が煙草を覆っていた。それを開けばずらりと揃った12の束の頭が顔を出した。横側を抑えて傾けると、1本だけそっと体を伸ばすので、それを人差し指と親指で挟んで引っ張り出した。じっと見つめた後に、先端を見据えてライターで火をつけてみる。
ぱちんと音を立てて現れた光は揺らぎながら紙で出来た巻物の先を輝かせたかと思うと、タバコに移って早速煙を浮かばせ始めた。
マクワは慌てて反対側を口に運ぶと、すうっと息を吸った。よく鍛えられた横隔膜はあたりの空気を一気に引っ張り込んで、煙をたっぷりと腹の中に持ち込んだ。
味わう間もなく焦げた臭いと、燃え滓を乗せた空気が体の中に入り込み、マクワは大いに咽こむことになった。喉の奥がつっかえて出てくるのは咳ばかりで、喉奥に火をともしたようだ。近くで上がる煙のせいか、それとも気管支のせいか、両目には涙が溜まっていた。
身体の奥を焼くような錯覚が、熱を上げる脳みそにじりじりとした安息を届けていた。

入りを失敗した一本目を水を入れた金属の皿に突っ込んで、もう一本新しいものを引き出した。
それからライターを使おうとして、ふとモンスターボールを取り出した。少しだけ逡巡したが、どうしても今自分に必要だと判断して、中央のボタンを押す。
相棒はまだ眠る前だったらしく、にこにこと笑って出てきてくれていた。寝ていなかったことに安堵して出した口の中の空気は、メンソールの乗った煙の味がした。

「……きみ、この先端だけに火を付けられますか?」

セキタンザンはその大きな目を瞬かせていた。それから一度だけテーブルの上の灰皿を見つめたあと、マクワの顔を見た。その顔には珍しいものを見て理解しがたいのだと書いてある。

「……ええと、これはタバコというもので。煙を吸うものです。ここにこうやって火を付けて……吸うのです」

怪訝そうなセキタンザンの前で、マクワは再びタバコに火を付けた。それからはスムーズに自分の口に持って行き、咽ることなく上がる煙を見せていた。
ふわふわと立ち上る煙と、それをゆっくりと吸った後、口の中から煙を出した。セキタンザンの出す煙の香りとは違ってとても鮮烈で、辛いような苦いようなタールの香りの後に、すうっと鼻に抜けるようなメンソールが付いてくる。

「シュポ……」

セキタンザンはその煙の香りがわかるのか、やはり不思議そうに、しかし困ったような顔をしながらマクワを見ていた。見せたその表情は珍しくて、マクワは思わず拠れた灰簾石の眼で瞬きをした。

「……そうですね、きみは……きみの煙のことを知っていますから……。そうです、煙というのは燃えるとき……有毒なものを含みます。本来人体にはあまりその……良い影響は与えません」

残りの煙を肺に取り込んだ。それから息を吐き出すと、口や鼻から煙が上がって少しだけおかしい。まるでセキタンザンと同じものになったみたいだった。
本物はゆっくりと首を振ると、時計を見た。一緒に見上げれば、確かにもうすぐ日付が変わる頃だった。タバコをやめて寝た方がいいと言いたいらしい。

「……あと一本だけ」
「ボオ」

マクワは小さくなった煙草を再び灰皿に入れて、真新しい綺麗なものを取り出すと、立ち上がった。それからセキタンザンの背中に差し入れる。彼の背中の石炭は、今日も温かに燃えている。その炎のひとかけらを、紙の葉巻で無理やり掬い取った。

「シュポォ!」

再びその煙を吸い込めば、体内を満たすのは鮮やかなタールとニコチンの味。3度目ともなれば、なんとなくこれが苦味なのか、甘味なのかの分別もつき始める。焦がすような味わいの中に、なんともいえない心地よさが見つかりはじめて、これがひとを虜にするものなのだとマクワにもわかり始めていた。
吸い込んだ煙をまた燻らかせれば、セキタンザンがいじけたような、つまらないような、何とも言えない表情をしていた。

「……『タールショット』という技があるように、タールはきみもよく使用するもの。この煙草の中にも少ないですが含まれています」
「ボ」
「こうしていると……きみをもっと近くに感じられるような気がして……」

締め切られた部屋の中は、白い煙が揺れて、世界を霞ませている。隣にいるはずのセキタンザンだってそれは例外ではなかった。ぼやけた視界の先は、自分を隔てて遠い遠い距離が横たわっているようだ。見えないのは身動きが取れない。重たいタールが肺の奥に浸透していく。

「……だけど……そう、それなのに……なんだかとても……きみが遠いのです」

マクワは立ち上がると、半分ほどに迫った煙草の燃えている口を、水の中へと押し付けた。それからカーテンを開き、窓を開ける。空はしんしんと黒い闇を広げながら、小さな星々を湛えて居る。
行き場を失っていた白煙たちが入ってきた風に流されて、姿を消していく。

「……やはりぼくには……もっと強くて逞しい……いつものタールのちからのほうが……合っていますね」
「シュ ポォー!」

マクワが振り返れば、部屋の中で輝く赤い星々があった。闇のような石炭に包まれて光るそれは、セキタンザンの背中で燃えていた。
マクワは目を細めながら、再び夜空に向けて自分の髪に手櫛を入れる。煙草の香りでせっかくの石炭の香りが上書きされてしまうのはもったいなかった。強い香りがとれるように、風に向けて体中をはたいた。
セキタンザンはマクワに寄ると、同じ空を見上げて、去り行く煙と煌めく星を見上げていた。
バディは目いっぱい息を吸い込んで、同じ空気が肺胞の隅々までいきわたるように願うのだった。

目が覚めると

こおりの上にいた。
潮の香に乗った裂けるような冷たさが頬を撫でて眠気を払っていく。どこまでも続く広い海の上、どんよりと暗い雲が並んでいた。マクワはぷかぷかと流氷に乗って浮かんでいる。このままキルクススタジアムに向かうんだな。なぜか強い確信だけがあって、それは心強いものだった。そうでもない。
だってスタジアムに行くにはこおりが必要で、向こう岸にはチャンピオンとリーグ委員長なんだ。
ふと後ろから届く音がある。誰かが何かを訴える声だ。だがそれは聞き覚えのない声。もうジムリーダーになったのに世話しないなあ。
振り返ると、バランスを崩したこおりの島はひっくり返り、マクワはどぼんと真冬の海の中に転覆した。全く冷たくはなかったし、息もできる。

こおりの上にいた。
だが先ほどのような海の上ではない。スタジアムは試合を終えて、ジムトレーナーたちがそれぞれ掃除道具を片手に掃除を始めるところだった。床だけでなく壁にも霜がくっつき、温めて溶かしながら拭っていく。高い天井の鉄の骨組みにさえもつららがぶら下がっているのは、ポケモン勝負が白熱した証拠だった。
大きなブラシで床をごしごしと擦るジムトレーナーにふと目を取られた。その手前で、切り札であり今回の勝利の立役者、ラプラスがまだ残るこおりの上をすいすいと滑っている。
そこでマクワははっと気が付いた。淡いブルーの床が広がるスタジアム。ジムトレーナーたちの白いジムウェアと、青いポケモン。マクワは思わずその名を呼ぶ。

「……ラプ……ラス?」

のりものポケモンはにっこり笑うと近寄ってくる。間違いない。母の相棒を務めていたラプラスだった。それはもう長い付き合いだから知っている。彼女と一緒に訓練をした回数だって計り知れないし、おそらく自分の生まれる前だって全部知っている相手だ。
思わず手を伸ばそうとして、そこで両手を見た。長袖の、ジムトレーナーたちと同じ白い服。
胸を見下ろせば緩い曲線に広げられて描かれた、氷柱を模したこおりの尖ったマーク。

「え、え……!?」
「らんら?」

自分は、いわジムリーダーになったはずだった。こおりジムを継がせようとした母に反発して、町を巻き込むような大喧嘩にまで発展した。その後家を飛び出して、いわジムで修行をし、はれてジムリーダーとして就任したはずだ。
ここは母のスタジアムなのだろうか。よくよく見ればジムトレーナーたちも、新しくマクワと共に就いた顔ではなく、母の代からいるひとたちばかりだ。
マクワはすぐに踵を返すと見知ったジムリーダーの部屋に向かう。ウォルナットの扉の前で大きく息をついて、それからとんとんとノックをした。
返事はない。中に入れば誰もいない。いつものジムリーダー室だった。後ろ手で鍵をかける。
だがしかし、棚に収められた蔵書は幼い頃見ていたものとそのままで、やはりこおりタイプに関することばかり。ファイルにもこおりタイプのことが記録されている。しかしあるときから筆致が変わり、太くはっきりとしたものはマクワ自身のものだとわかる。
すべて母が購入したまま、それから何も変えることなく自分が引き継いだ証拠だった。

「らー?」

ボールから出てきたラプラスが心配そうに見つめていた。いつの間にかボールに戻り、そして出てきたのだ。マクワは自分の手持ちの5つのボールを懐から取り出した。

「……ほかのポケモンも……」

どれも見覚えがある。こおりタイプを継ぐことを決められていた自分は、早いうちから5体のポケモンのことも同じように決められていた。そのとおりのメンバーだ。
他のモンスターボールは棚の引き出しやポケットを探っても見当たらない。

「ゆ、ゆめ……? じゃない……ですよね……」

部屋に立てかけてあった鏡を見て、頬を叩く。痛みはある。だがトレードマークにしているサングラスはなく、眉根を潜める顔を隠すものは何もなかった。
もし夢だとしても、覚めることはあるのだろうか。
とんとん、と木製の扉が軽快に叩かれる音が部屋に響いた。

「マクワー? お疲れ様! 今日も良かったよ」

明るく朗らかな母の声だった。試合を見ていたのか。そうだろう。だとすればこれから先に待っているのは、母親によるシビアな自分の反省会。そうに違いない。
反省するのは嫌いじゃない。だがそれは自分自身でひとつひとつ丁寧にやることだ。誰かほかの人に介入されるのなんてたまったものじゃないし、母のやり方と自分のやり方は似ていたとしても違うのだ。
同じものにはなれはしない。マクワは口の中にたまった唾液を飲み込んだ。

「……母さん。すみません、その……あまり体調が……良くなくて……!」
「なんだって、大丈夫かい!?」

ドアノブと蝶番の金属が、がちゃがちゃと一際大きな立てた。そうだった、このひとはやさしくて、おせっかいで……こういうひとだった。
ラプラスは長らく務めたパートナーの声が聞こえて嬉しそうだが、同時にマクワの表情を見て、落ち込んだ顔を見せた。

「……らんら」
「すみませんラプラス……。……ぼく、行かなくてはいけないところがあるのです」

マクワはそう言うと、窓を開けて植木の間に飛び出した。幸いスタジアム用のシューズを履いていて痛みはない。それでも積もった雪の上は溶けた氷が水となって浸透し、温度を奪っていく。
湿った雪の濡れた香りが鼻先をかすめてゆく。滑りそうになりながら石の階段を駆け下り、街の中を走り抜ける。道路を進み、郊外の大きな住宅地の間を過ぎれば、周囲は再び雪の積もる道になる。ときどきポケモンの足跡はあるが、それ以外のひとは入らぬ林の深雪を踏み抜いて歩く。
木々が立ち並び、坂は真っ白な雪化粧に染まっている。時折靴や靴下の間に入った氷雪を払いながら、雪山を登っていく。冷たい空気をたっぷり吸いこんだ肺がちくちくと痛むので、そのたびにゆっくりと息を吐いた。
草木が減って、山がむき出しになったころ、白い袈裟を被るようにして、小さな洞穴に辿り着いた。入り口を覆う木の根を払いのけて、身をかがめながらマクワはその横穴をくぐった。
中は真っ暗だが、外に比べれば断然温かい。岩壁に手をつきながら進むと、マクワがギリギリ立てる大きさの開けた洞窟に出た。どこからかぽたぽたと地下に水が流れて落ちる音がする。
雪解けの香りが石と混ざって、重たくも懐かしいような香りでいっぱいだった。
マクワは大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。石で出来た床はひんやりと尻を濡らしていたが、気にも留めなかった。
ここにいればきっと会える。マクワには確信があった。きっと自分が何者になったとしても、必ず自分を返してくれる存在は、かならずここに居る。
そういえば、時々外に出ていた彼をこうしてひとりでじっと待っていたことがあったっけ。
冷たい膝を抱えていたら、なんだか懐かしい気持ちがじんわりと心の底から湧き出てくる。こころの温かさに乗ったマクワの意識はふっと消えてしまった。

目が覚めると、いわの上にいた。身体中、驚くほどぽかぽかでうっすらと額に汗がにじんでいる。あたたかい。石炭というよりは磨いてもらった黒曜石のようなつやつやの丸い瞳が、両手に抱えたマクワのことをじっと見下ろしている。

「……やっぱり会えましたね」
「シュポォー?」
「なんでもありません。……もしかして心配してくれましたか」
「ボオ!」

セキタンザンは肯いた。石炭の腕の中で体を起こせば、ゆっくりと足から降ろしてくれる。
自分が着ているのはいつもの寝間着で、ここは自分の部屋の寝室だった。外は真っ暗で、朝日が昇るまではまだだいぶ時間があるのだろう。
なんだかよくわからないし覚えてもいないのだが、妙に現実味のある夢をみたような気がする。
こおりジムリーダーとして跡を継いだ夢。それも悪くないかもしれないが、やっぱり見るなら叶えたいの夢の方がずっといい。
マクワは掛け布団を引っ張りだすと、いまだマクワを見下ろすセキタンザンの隣に座った。

「……夢見があまりよくなかったので、引き続ききみに監視をお願いしようかと」
「シュ ポォー!」
「わ、いやきみの上で寝るつもりはありません……! ……まあ……いいか」

セキタンザンも座り込むと、布団で包んだマクワごと自分の足の上に抱き寄せた。少し硬いが、ぬくぬくとして心地がいい。
マクワは次の目が覚めるときを楽しみにして、瞼を閉じるのだった。

快晴

土砂降りの雨を初めて見た。
大きな邸宅の一室、閑静な母の部屋の中。音も立てないその雨は、普段凪のように青く澄み切った母親の瞳に暗雲をもたらし、頬を濡らしていた。
ぼくは逃げるようにその場を後にした。もちろん、音を立てないよう細心の注意は払った。
いつだって勇ましく、試合中、たとえ最後の一体となり追い詰められてもその大きな瞳を輝かせるあの母が、まさか泣いているなんて思いもよらなかったのだ。
原因がぼくにあることはわかっている。朝、ぼくは母に自分の本当の意思を告げた。
いわポケモンに憧れていて、いわ使いになりたいのだと言い、そして既にその第一段階として、タンドンを連れていることも伝えた。これからいわジムの門戸を叩くことも。
あわよくば、笑って背中を押してくれるというのは、ほんの僅かばかりぼくが抱いた小さな希望的観測だった。だがしかし母が相当自分の跡継ぎに関して入れ込んでいることはぼく自身が何より、おそらく世界で一番身をもって知っている。
ぼくはこの世に生を受けた瞬間から、その祝福は全て立派に母の座を継ぐためという理由を紐づけられた条件付きのものだった。
その代わりガラルでトレーナーを志す同級生や、上級生に後ろ指を刺されたことは数えきれないし、羨望を向けられることも少なくはなかった。
一流選手である母のことは、当然誰もが知っている。その長男がぼくであることも。
魂を切り売りするような曖昧な環境の中、母がその身で蓄えた知識と経験全てを直接その身で学ぶことが許されていたし、だからこそぼくは将来こおりタイプのジムリーダーになることが決まっていた。
ジムリーダーという職業に就ける保証は、ガラルのトレーナーであればのどから手が出る程欲しいものに違いない。地位も名声も約束された、人々のまなざしを集める立派な職務がジムリーダーには課される。
もちろん母は身内だからといって容赦をすることはない。ガラルリーグは実力主義の厳格な場所だ。もとより自分のジムのトレーナーにさえ厳しいと評判のひとだ、跡継ぎと決定している相手に手を抜くことはしなかった。
今思えば幼い子供にさせることだったろうかと首をかしげたくなるようなものもあった。とにかく、凍えるような冷たさはぼくにとって母の代名詞となった。
そう思っているのも、おそらくこの世界でぼくひとりだろう。いや、こおりタイプのジムトレーナーであれば多少は理解してくれただろうか。
しかし母は、時に恐ろしい程の甘やかさを押し付けることで、ぼくから何もかもを奪おうとした。
自分の連れているバディを、ぼくのバディにしようとしたのだ。
母は自分の思うがままだったが、ぼくはなんとかそれにしがみ付いていた。そうしなければ失望されて何もかもを失うと、本気で思っていたこともある。
幼い子供だ、母親に見捨てられて、しかもポケモンさえ連れていないとなればどこにも行き場は失う。寒いキルクスの中でひとりで生きられるはずがない。
けれど初めて母がラプラスをぼくに譲るのだと言った時、ぼくの脳裏に浮かんだのは、初めてのポケモンを自分で選ぶこと、あるいは捕まえること、ずっと楽しみにしていたはずの経験が奪われてしまうことだった。
ぼくはぼく自身の新しい経験をしっかりとこの身に刻み、そして絆を深めた相手と一緒に居たかった。
きっと母のラプラスをぼくがバディにしてしまえば、また母はラプラスに対してもっと良い方法があるなどと言って強く口出しをしてくるだろうことは、手に取るように想像が出来た。
母が自分の育てたラプラスを譲られてしまえば、何もかもを失ってしまうと思った。それはもはや、スタイルの押し付けに違いなかった。
ポケモンが嫌いなわけではない。こおりポケモンのことも、繊細で美しく、そして特有の強さをもった彼らを尊敬していた。
リーグを席巻するようなポケモントレーナーにはなりたかった。ぼくであれば必ずなれるだろうという自信も少なからずあったのだ。
だが、とにかく母のやり方に「No」を突きつける必要があると思った。それも早急に。
でなければぼくがぼくでなくなる。枷付きのぼくに、呼吸が出来るとは思えなかった。今でさえ、母のやり方についていくことは簡単ではなかったのだから。
それからぼくが行動に移したのはあっという間の事だった。こおりに強いポケモンをぼく自身の力で手に入れた。
そして、ぼくはとうとう母の元から離れたい、いわタイプを極めたいのだと母に告げることが出来たのだった。
当然のように母は絶対零度で怒ったし、ぼくもそれに対抗した。絶対に譲らない硬い意志を示した。母は自分の部屋に戻っていった。その向こう、廊下の先にぼくの部屋があったので、半分だけ開いたままの母の部屋の扉を覗いた。
そこで見たのが、母の降らせた雨……もとい、涙の姿だった。
気丈で強く気高い母が、明るくて優しく頼もしいあの母が、まさか泣いてしまうだなんて。そしてその原因がぼくだなんて、信じられなかった。
口の中が乾き、それから胸の奥の方に震える熱くて重たい塊のような何かがあった。それが何なのかはわからなかった。ただ、暗雲はぼくの心にも分厚く鈍く立ち込めていることだけは理解した。
ぎゅっと口を結び、母の部屋を後にした。それから荷造りの仕上げをして、いわジムの下へと飛び込むつもりだった。
ばたんと部屋の扉を閉ざし、既に衣服や荷物が詰められた鞄を見ようとした。何かの角を思いきり踏みつけてしまい、痛みに呻きながらベッドの中に顔を押し付けた。
普段なら綺麗に整理しているはずの部屋の床の上に、無造作にものを置いて捨てていたぼくの自業自得だ。大きなテレビの電源が入り、画面はトレーナーの試合を映し出している。
スタジアムの中、キョダイセキタンザンが大きく吠えると無数の岩が現れて、相手の周囲を囲っていく。
もくもくと上がる煙はキョダイマックス・エネルギーを受けた赤い色とともに、彼自身の黒雲の色を保っている。
ぼくは思わずじっと見てしまう。キョダイセキタンザンはその大きな身体で苦手な水さえ受け止めて、たちまちスピードを自分のものにしてしまった。その鮮やかさと猛々しさが、きらきらと輝いて映る。こおりタイプのポケモンでは持ちえない耐久の力と、熱が生み出す力強さ。
あまりにもカッコよすぎて、ぼくの目は虜だった。
ぼくがテレビを見ていたことに気が付いたのか、ボールからタンドンが現れて、彼もいっしょになって画面の釘付けになる。いつもだったら叱るところだが、ぼくにはそんな余裕すらもなかった。
ただただセキタンザンのすごさに圧倒されていたのだ。

「……タンドン。ぼく……きみとこういう風になりたい……。どうかな……?」

ぼくが見下ろしたタンドンの赤い瞳は、ごうごうと燃えていて、画面の中で岩を生み出した時のセキタンザンの色そっくりだった。ぼくは同じ気持ちを抱いてくれていると確信した。
ぼくは反発する。ぼくは彼を利用する。母の檻から逃げるための、硬くて小さな鍵として。
そして氷を打ち砕く立派な岩石として。

「……うん……。ぼくはまだ……その……何て言っていいかわかりません。うまく言葉に出来なくて……。でもいつかぼくの心が……きみともう一度ちゃんと話せる時……。
必ずきみに伝えてみせるから……だからぼくの隣で……今一度バディになってくれますか」

タンドンはその小さな体で頷いてみせてくれた。もう十分すぎる程で、ぼくの胸の奥に溜まっていた温度がごうごうと溢れんばかりだった。
でも零してはいけない。ぼくはさっき見た母の降らせた雨を思い出して、目を瞑った。
瞼の裏に描くのは、真っ蒼に広がる空と吹き抜ける白い雲の下にいるぼくと、セキタンザンだ。天気晴朗の日、ぼくとセキタンザンは一緒にトレーニングをする。
バディはセキタンザンだ。きっとどんよりとした曇天みたいな煙がぷかぷか浮かんでしまう時もあるだろう。それでも、ぼくは描く。強く強く思い描く。
晴天の強い日差しの下、蒸し暑くてすぐバテてしまうような場所で、セキタンザンの熱がさらにぼくの居心地を悪くしてしまうような島の上で、ぼくたちは訓練をしたり、時にはポケモン勝負をするのだ。そんな毎日が当たり前の日が、必ずやって来るのだ。
その時にはきっといわジムの立派なジムリーダーを務めて、メジャーリーグの中心選手になっている。大丈夫。
ぼくの、ぼくたちの夢は、怒られるようなものでもなければ、哀しいものにもさせやしない。
母の双眸にも再び気持ちのいい輝く蒼穹がやってくる。いや、呼んでみせる。
それはいわタイプの魅力をもっとぼくの言葉で、身体全てで伝えられるようになった時だ。
それこそが母の夢を捨てて雨を降らせたぼくに出来る、最上級の親孝行だから。

ポケモンと訓練して寝ちゃったマクワさんの落書き

日差しはゆっくりと天頂に向けて進んでいる。あちこちでいわがぶつかる音が響き、草を支える茎が折れて青臭い香りを放つ。高い枝の上の鳥ポケモンが囀る山のふもとは、木と木の間をうっすらと白い霧が体を伸ばし、空気の温度をひんやり下げていた。
岩や苔を踏み鳴らす音を裂くように、高らかな笛の音が響いた。

「集合、休憩です!」

少し開けた砂利の敷き詰められた広場にキャンプの用意とテントがこさえられていた。その前ではマクワがすでに食事の準備を整えていて、今トレーニングを終えて寄ってきたポケモンたちひとりひとりの前に皿を置いていく。
マクワは食事が全員にいきわたったことを確認すると、次は自分の分をテーブルの上に置き、ぱくぱくと食べていった。思い切りボトルの水を喉の奥に通す。
流石に朝早かったせいだろうか、こみ上げてくる欠伸はかみ殺した。
荷物用のテントから、今日改めて持ってきたトレーニング用の器具を取り出した。折り畳みの橇のような形をしていてサイズが調整できるものだ。先端には太いロープとベルトが括り付けられ、上に金属の重しが乗っている。重量を調節することができる代物だった。
引っ張って運ぶことで足腰と、何より精神力を鍛えるためのものだった。
手始めに60kg程を乗せた後、自分の腰にロープの括り付けられたベルトを装着する。それから広場をぐるぐると走り出した。腰回りからずしりと来る力は強いが、この程度であれば走りながらでも余裕だった。
少しばかり息を整えて、再びボトルの水を飲む。上がった体温に冷たさが心地よい。
ふとマクワが気が付けば、もう食事を終えてしまったバンギラスが珍しそうに橇を見つめていた。金属の重しを持ち上げてきょろきょろと見まわし、次の重しを見るために近くに出しておいてしまう。

「バンギラス、こら、何して……? ……そうだ」

マクワは思い立つと、まだ折りたたまれていた橇を広げ、残った金属板を外に置き、ぽんぽんとたたいた。

「ここに座ってくれませんか?」
「ばぎゃあ!」

バンギラスは頷いて、言われたとおりに橇の上に乗り、座り込んだ。

「よし、じっとしていてくださいね」

マクワはベルトが留まっていることを確認すると、再び砂利を踏み込んだ。一気に4倍近くの質量になった橇はじりじりとマクワの足を堰き止めようとするが、負けじともう片方の足を踏み込む。
時間をかけながら、ぐるりと広場を1周した。
バンギラスがきゃっきゃと楽しそうに手をたたきながら座り、引っ張られていた。
トレーナーは大きく息を吸い、吐き出しながら額から吹き出る汗を腕で拭った。

「……ふう、まだ負けませんよ」
「ぱぐるる!」
「シュポォ」
「ああセキタンザン。……懐かしいですね。きみがまだタンドンやトロッゴンのころはこうして……よく付き合ってもらったものです」

ちょうどセキタンザンの前に止まったマクワを、石炭の瞳が見ていた。
まだいわトレーナーとして駆け出しのころ、タンドンやトロッゴンの重さと車輪は未熟なマクワにとって格好の体力づくりのサポーターだった。
今と同じように彼の体にひもを括り付けて、近くの山や町中を引っ張って駆け回るトレーニングをしたものだ。マクワは再びバンギラスの座る橇に回ると、折りたたんだ部分を広げてスペースを作った。

「……そうだきみも……乗ってくれませんか」
「ポオ?」
「ぼくも一緒に訓練……させてください」
「シュポォ!」

セキタンザンは笑顔になると、バンギラスの後ろに座った。セキタンザンが振り返ると、すでにバンギラスはじっと座ることに飽き始めているのか、遠くを羽ばたくウッウを見つめている。
マクワもそれに気が付いたのか、一度マクワは自分のベルトを外すと、荷物からオボンの実を3つほど取り出して、バンギラスの前に置いた。

「もう少しだけ辛抱をお願いします。きみたちの重さがちょうど良さそうなので」
「ぐるう」

バンギラスが嬉しそうにきのみを拾い上げるのを見ながら、マクワは再びベルトを装着した。そしてさらに重量の増した橇を引き、重たい脚を振り上げる。

「……ぐぐ……さすがに……これは……効きますね……!」
「シュポー!」

セキタンザンが後ろを向いたまま、高らかに鳴き声をあげた。まるで汽笛のような声は、マクワの足を進ませるためのものだ。

「……わかって……ますよ……! う……ぐぐ……!」

ずる、ずる、ゆっくりと小石をかき分けて、橇が動いていく。マクワの白い臼歯と臼歯がぐっと強く食いしばられる。
セキタンザンは目をぱちぱちと瞬かせて笑った。ここまでスピードが遅いことはなかったが、過去に何度もあったものだ。いつも小さなマクワの背中を見ていたが、今は空を見る余裕がある。
あの時の背の大きさに比べても、ずいぶんと大きくなったことは、自慢ではないがきっとあのメロンさんよりも間近で見続けてきた。
思い出して再び声を上げた。重たい重たい橇は、時間をかけながらぐるりと広場を1周した。

セキタンザンが気が付いた時、すでに周囲は暗く、スタジアムは片付けに入り、ジムトレーナーたちがせわしなく動いていたところだった。ここはキルクススタジアムの廊下というところで、廊下はほかの部屋と部屋をつなぐ場所である。
ジムトレーナーのひとりがセキタンザンのボールを持ち、見上げている。

「……お疲れのところごめんねー! どうしてもお願いしたいことがあって。……バディをおうちに連れて行ってあげてほしいんだ」
「ボオ!?」

彼女が横に目をやると、廊下の隅に座り、植木の横で気を失うマクワの姿があった。よくよく見れば寝息を立てていて、眠っているらしい。ただし目の下にはくっきりと色がついていて、かなり疲れが溜まっているのがセキタンザンにも見て取れた。

「……ここのところずっとイベントや会議に試合詰めに……聞けば毎朝山でトレーニングもしていたんでしょう? さすがにかっこいいマクワさんでもお疲れだよね。いつもいつもスタジアムの締めの作業もマクワさんがやってくれていたから……今日はあたしたちがやって帰るから大丈夫だって……もし起きたら伝えておいてくれるかなー?」
「シュポォー!」

セキタンザンは大きく返事をすると、膝を抱えるようにして眠るマクワの大きな体を抱え上げた。自分の胸に頭を乗せて、足と背中を支えた。それからマクワの荷物も持ち上げて、腕に引っ掛けた。カバンの中で、マクワのスマホロトムが起動する声を上げた。

「うん、ありがとう! ……あ、道は……ロトムがいるから大丈夫かな」
「シュポ」
「……んう」

小さく身じろぎをしたマクワを見て、ジムトレーナーが笑った。

「あはは、マクワさん……なんだかいつもよりもちょっと嬉しそう……安心したのかなあ? それじゃあ頼んだよ! 気を付けて帰ってねー!」
「ボオー!」

セキタンザンはスタジアムを後にした。外はすでに冷たい風が吹いていた。真っ黒な帳の上で、星々がちいさな光を放っている。相棒が寒くないように、少しだけ背中の炎の温度を上げた。
ずらりと並んだ街灯は、優しく道を照らしていた。セキタンザンはスマホロトムがしゃべる声を聴きながら、ゆっくりと夜闇の中を歩いていく。

「シュポー」

柔らかなマクワの体は静かに呼吸を繰り返していた。力が抜けていてふにゃふにゃで、ひんやりした相棒は、月に見守られながら眠っている。
なんだかこの時間がまるでとっておきのようで、昔の遠い時間がここにあるようで、セキタンザンはとてもうれしかった。
今日訓練中に運んでもらった分は、自分が運んであげたい。そんな気持ちがふつふつと広がって、足を動かしていた。おそらくイベントや会議の仕事が多かったのか、セキタンザンは日中までの訓練以降ほとんどボールから出ることがなかったから、体力もまだ十分だった。
そのあとに長丁場の試合があることだって、ざらではなかった。
ずるずる下がってきてしまった柔い体を軽くぽんと持ち上げて、石畳を歩いていく。

「……ほしが……きれい……。あかいほしが……たくさ……ん……きらきら、してて……」

もごもごとマクワの口から発せられたのは、おそらく寝言だろう。力の抜けきった体はやっぱりずっしりと重たい。それでも。

「シュ ポォー」

つめたくて白い頬が石炭の胸に押し付けられる。
この星の下を歩いて帰ることができるこの時間を、セキタンザンはただゆっくり、ゆっくりとかみしめて、宝石箱の中に閉じ込めるのだった。

甘える

トレーニング中に熱中症になっちゃったマクワと水の中に入って助けようとするセキタンザン(水4倍弱点)

の続き

—–

マクワが再び目を覚ました時、慣れたベッドの感触の中にあった。白い壁紙も見知ったもので、すぐに自室なのだと理解した。
閉したカーテンの向こうは、既に暗くなっている。まだ身体は重たくて、天井はぐるぐる回るし、時々ずきずきと頭痛はあるものの、日中よりは随分と良くなっていた。
あの後すぐにマクワは病院に運ばれて、ここはキルクスの町の中かと思うほど冷房の効いた真っ白な病室の中で長時間点滴を打ってもらった。医者や看護師の問いかけに答えたり、薬をもらい手当てを受けた光景が、朧げな記憶の中少しずつ蘇って来た。
マクワはふかふかの布団の中で体を横たえた。自分のくだらない不注意で、ポケモンにもたくさんのひとにも随分と迷惑を掛けてしまった。いまだって本当は寝ている場合なんかじゃない。次のファンイベントのための準備も進めなくてはいけないし、当然トレーニングだって穴をあければその分の負債が返ってくる。
しかしスマホロトムは明日以降のジムの予定に対しても既に連絡を入れてくれていた。
ふうと大きな息を吐き、マクワは少し身体を起こしてベッドサイドのモンスターボールを持ち上げた。
スイッチを押せば、強い輝きとともにちかちかと赤い炎をゆらめかせた相葉が姿を現した。
セキタンザンは黒曜石の眼でマクワを見ると、瞬きをして首を振った。それから背中の炎を弱めていく。日中のことを気にしてくれているのは、マクワにもよくよく分かった。
彼はとても気の付く優しいポケモンだった。

「きみにお礼と……それからお願いがありまして」
「ボオ」
「セキタンザンとロトムが迅速に対応してくれたおかげで……ぼくは即日退院ですみました……。本当に……ありがとうございます。助かりました」
「ぽお」

頭を下げるマクワにセキタンザンは少し不満げな声を上げた。その慇懃さは、バディの距離感にはあまり相応しくないんじゃないかと言いたかった。
マクワは気にせず、引き続いての頼みを伝える。

「それから……喉が渇きまして。むこうのテーブルのうえに置きっぱなしになっている水筒を取ってきてくれませんか。……もう手で水を汲んではダメです」
「シュオ!」

セキタンザンは頷き、寝室から出て、キッチンの近くのテーブルにどっしり置かれた大きなボトルを持ち上げた。巨大なボトルはセキタンザンも訓練の時、あるいは休憩の時によく見かけるものだった。トレーニングの時の人間の水分補給に必須の道具。
早朝マクワが用意をして、それから持っていくのを忘れてしまった物だ。
振ってみれば、中でちゃぷちゃぷと水が揺れて重心が動くのがセキタンザンにも伝わり、たっぷりと中身が入っていることが確認できた。再び部屋に戻り、ボトルのキャップを外し、マクワに手渡す。受け取ったマクワが口をつけて呷ると、白い喉仏が上下した。
しっかりと体に水分を入れて飲み干したのち、ボトルをベッドサイドに置いて、セキタンザンを見上げた。
再び横倒しになると、布団の隙間から手を伸ばして石炭の腕をとって引っ張る。ぺたぺたと黒くて太い指先まで触れていく。その触り方はなんだか珍しくて、セキタンザンは目を細めていた。

「……」

マクワは、まるで転がり込むようにして、自分の身体をセキタンザンの懐へと潜り込こませた。
バディは慌てて受け止め引っ張りあげる。右肩にマクワの頭が乗るように抱き上げて、その体を安定させてやった。

「……重い?」

セキタンザンは横に頭を振る。マクワは大きな肩に頭を擦り付ける。けして小さくはない。セキタンザンの巨躯の、1/3はあり、成人男性としても大柄なほうだ。しかしその体を縮こめるようにセキタンザンの片腕の中に収まった。
実際、普段訓練に使う器具のほうがマクワの何倍も重たかった。

「……くやしい。重いって感じて欲しい。体重また増やしたのに……」
「ポオ」

埃にも似た石炭の香りが鼻腔をたっぷりくすぐっていた。それはとてもやさしくて懐かしさを感じる香りだ。
理由はわからない。でもガラルのひとびとはずっと昔から石炭の世話になってきたのだ。特に寒冷地のキルクスでは、必須でもある。体のどこかで記憶していたとしてもおかしくはないだろう。マクワは心の底から安堵する。

「……痛くなかった?」

セキタンザンは昼間のことを逡巡する。痛くないと言えば嘘になるが、マクワのために行ったことはちっとも苦しいとは思わなかったし、つらくても平気だった。
なによりいつも戦っている身だ、多少の危険にも痛みにも慣れている。
今ここに無事居てくれていることが何よりも嬉しくて、セキタンザンにとって必要な答えだった。マクワは顔を埋めたまま言った。

「ごめんね」

ぼやけた瞳が、目の前の黒色以外を映してはいなかった。セキタンザンはこつんと頭を寄せて、小さく鳴いた。

「シュオー」
「いつもの……トレーニングのほうがきつい……? ふふ、まいったな……もちろん信じてる……信じてるけど……でも……。だからこそ必要以上なことは……」

深い水の中に入る訓練だってしたことがある。その時はマクワが入れと言い、そしてマクワも一緒に水に身を沈めた。
だから水中の足場が、セキタンザンにとっては非常に理解しがたく不可思議な動きをすることがあることは経験で知っていたし、転んで戻ってこれないような事故を起こさずに済んだ。
それはやはり普段からの特訓のたまものに違いない。
伝えてはみたが、マクワの顔は浮かないような、ふやけたようなままだった。

「ぼくはなんでもするのに……きみにしてほしくないなんてわがままだよね。
でも今日のきみをみてたら……本当に……」

マクワは何も言わず、ぴったりとしがみ付くようにセキタンザンの腕の中にいた。目を瞑って、何も言わずに、ただ石炭のなかで流動する熱に身体を委ねる。
ちから強く、優しいいのちがマクワを包んでいる。それは遠い大地の奥底の鼓動であり、何億年も前の植物たちが知っていた温かさでもあった。人は知る由もない。けれどこの星の上に生まれている以上、どこかで刻まれている古くからのつながりそのものだ。
そしてその石炭だけで体が構成された彼らは、本当に奇跡のような存在。その輝きは、独占されることなくほかのいのちに分け与えられたこともあった。

「きみにこうしてもらってるとすぐなおるきがする」
「シュポォ」
「ほんとうだよ。ぼくね……」

ふわふわとして気持ちが良くて、まだ完全に治りきっていない頭もうっすらと白い靄がかかったように重たくなった。ごつごつした引っ掛かる感触は、なんだか登山をしているような気持ちになる。緩やかで大きな体が描く丸い曲線は冷たさからほど遠く、ぽかぽかとして暖かい。
ここはとても温かさに満ちた、ほどけるように優しい場所だった。

「……いしをさがしにいこっか。さいきん……いしのことたくさん教えてもらったからきっときみにも見せてあげられるよ。みんな……ほかのちほうのいわつかいのひとは、みんないしがすきなんだって……すごくくわしくて……いいなあ……ぼくもいし、さがしてみたい。
でもまだぼくよりきみのほうがくわしいから、やっぱりひとりじゃダメで……」

ふとマクワの声が小さくなったことに気が付き、セキタンザンが顔を覗き込むと、その目は閉ざされて寝息が漏れていた。まるで子供のような幼い寝顔がここにあった。
願わくば、このたいせつないのちが長く安らかであってほしい。そのためなら、自分はきっとなんだってするだろうから。
もうしばらくだけバディの身体を抱きしめて、静謐な時間は移ろってゆく。

トレーニング中に熱中症になっちゃったマクワと水の中に入って助けようとするセキタンザン(水4倍弱点)

その日はもともと調子が良くなかったのだ。普段ならまるまる大皿を食べる朝食も残してしまっていたし、慣れたはずのヘアセットにも時間が掛かっていた。
けれどもあまりに些細な変化を気にするよりも、相棒との日課のトレーニングに心を向けていたかった。
それも本土から離れた場所にあるヨロイ島へ向かうのだから、マクワは1秒たりとも無駄にしたくなかったのである。
ここでセキタンザンとトレーニングすることにも慣れてきた。
マクワの指示には素直に応えてランニングするのは当然で、野生のポケモン達との連戦も悠々とこなしてみせる。
強い日差しもセキタンザンのほのおの味方だった。
20戦程勝ちをもぎ取って、ふとセキタンザンが振り向いた時、バディの白い顔が真っ赤に染まり、滝のような汗が流れていることに気が付いた。息使いも浅く荒く見える。サングラスに隠れた目が時折明後日の方を見ていた。

「シュポォー!」
「頑張り……ましたね、セキタンザン……一度休憩に……」

まるで立っているのがやっとのように足元がおぼつかない。足がもつれて傾いた身体を、セキタンザンが慌ててキャッチした。

「ボオ!」

マクワのサングラスを外してやれば、すでに両目を閉じてしまっていた。呼びかけても応えない。ただ荒い心臓の動きだけが肉体の中側で見て取れる。
セキタンザンは皮膚感覚が人間よりずっと鈍いから感じることは出来ないが、普段のマクワの身体の動きのことであれば誰よりずっと知っていた。
マクワが肩から下げている鞄を探り、スマホロトムを引っ張り出した。
非常時にどうすればいいかなんて、セキタンザンにはわからなかった。
ロトムは目を覚まし、頭上を飛び交うとマクワの状態をカメラを使って覗き込み、オンラインから情報を掻き集める。

「ロト……これはおそらく日射病……いや熱中症かもしれないロト!
急がないと命にも関わりかねないロト」
「シュポォ」
「とにかくまずは安全で冷やせる日陰に運ぶロト。こっちロト。案内するロト」

スマホロトムは高く飛行すると、するすると岩山の方へ向かっていく。
向こうに深い洞窟があることは、セキタンザンも経験上知っていた。セキタンザンは背中の火力を小さく弱め、マクワを持ち上げ抱えると、そのオレンジ色の閃光の元へ追いかけていった。

時々向かい来る熱気盛んな野生のポケモンを退けて、静かな池のほとりに辿り着いた。石床はひんやりと湿っていて、確かにここならマクワを休ませることが出来るだろう。
セキタンザンはまだ汗だくのマクワの額にくっつく髪を大きな指先でぴっぴと払いながら下ろした。

「取り急ぎ緊急連絡はしたロト! 急いで身体を冷やさないといけないロト。まず服を脱がせるロト。……マクワはタオルを荷物に入れてないロトか?」
「ボ!」

セキタンザンは言われた通りにマクワを下着姿にした。いつもなら嫌がるだろうが緊急事態なのだ、背に腹はかえられない。
それから荷物を探ると薄い汗拭き用のタオルが出てきた。汗でべたべたに濡れた顔と身体を拭いてやる。

「そしたら次はそこの池でタオルだけ水に浸して首周りに巻くロト。
あとそうだ、ボトルはないロトか? 水を汲んでマクワに飲ませたり、身体に掛けて冷やせるロト」
「ボオ……」

石炭の頭は横に振られた。きれいに整頓されたカバンの中に、いつも入っているはずの大きな飲料水のボトルが見当たらない。忘れてしまった場合、道中でよく購入しているおいしいみずだとか、サイコソーダの瓶さえも姿がなかった。セキタンザンが用途を知っているのは、ポケモン用の簡易フーズの袋だった。

「珍しいロトね。そんな大事なものを忘れるくらい……体調悪かったのかもしれないロト。とにかくタオルを水にロト」
「シュポォ」

セキタンザンはタオルを腕の関節に引っ掛けると、静かな水面が揺れる池の前に立った。
暗いはずの洞窟で、水底は蒼い光を帯びていた。流れは速くないが、全くないわけではない。この青さはおそらくどこか海に抜けているのだろう。
石炭の首を少し後ろに向ける。まだ真っ赤な顔のマクワのタンザナイトのつぶらな目が薄っすらと開かれ、菫色に染まって苦しそうに滲んでいた。
セキタンザンはまっすぐ池の中へと歩みを進めていった。
冷たい水は伶俐に体の温度を奪い、突き刺さる。痛みがべったりと貼り付いていく嫌な感覚。

「ロト! セキタンザン?!」
「……ダメ……ろとむ……とめて……くださ……!」
「ロトロト! あぶないロトー!」

たどたどしく声を上げるバディと騒ぎ立てるスマホロトムを背に、セキタンザンはどんどんと深い水の中に身体を進めていく。足場は細かい石が敷き詰められていて、まるで穴でも開いているように足を取られる場所があった。
そして足の深さになった所でしゃがみ込み、タオルを水に浸し再び腕に引っ掛けた。そして両の手を繋げた器で水を掬い取っていく。水を入れた二つの手のひらを腰の高さまで持ち上げれば、じりじりと削られるような感覚がくっついて痛みを伴う。
ぽたりぽたりと隙間から零れ落ちる水滴に、少なからず身体は安堵しているが、絶対に取りこぼさないようにしっかりと手と手の隙間を埋めた。

「……おねが……。……ぼ、ぼくは……だいじょうぶ……これはぼくの……じごうじとくで……」

マクワは何とか身体を横たえ、這いつくばってセキタンザンの元へ手を伸ばすが、滲む視界も茹った肉体もいうことをきかなかった。
その時、セキタンザンの巨体がごろ、と音を立てて突然傾く。小さな悲鳴が高い岩の天井に反響する。

「ゴオッ!」
「セ……キタンザン……ッ!!」

片方の足を下ろした場所の大きな石が傾いて、セキタンザンの足を深い水の中に引っ張りこむ。石炭の巨大な自重が掛かった分だけ沈み込み、透き通った水流が、腹の高さまで飲み込んだ。
じゅう、と高く上がる煙の濃さが深まった。身体の奥がぐるぐると動き出す気配がある。それと同時に、冷たさが、濡れた感触が、痛みを伴いながら体力を奪ってゆく。
特性のじょうききかんが発動しているのが自分でもわかった。この力を使って一刻も早くマクワのもとへ向かいたい。だがしかし、その際にこの水を落としてしまっては本末転倒だ。
これはマクワのいのちそのものだ。何としてでも運ばなければならない。セキタンザンは深みに取られた大きな足を、慣れない水中で引っ張り上げる。今度は自分の体重を支えられそうな足場を探り、少しずつその歩みを進めていく。
ばしゃばしゃと水を搔き分けて、セキタンザンはようやく水場から体を引き上げた。外は暖かく、心地よい。まだ身体中を覆い、石炭と石炭の間をぼたぼた流れる水滴を飛ばすために、一瞬自分の炎の火力を上げた。マクワの白色が、火炎を映してオレンジに輝くのが見えた。
セキタンザンはもくもくと濃い白い湯気をあげながら、いそぎながら、しかしゆっくりゆっくりとマクワの元へと戻って来た。
そして腰を下ろすとマクワの少しだけ開かれた口元に手のひらを傾ける。形のない水は石炭の大きな手の先を伝って、ひとの赤い口腔の中に吸い込まれていった。それと同時に、少しずつ手のひらが訴える痛苦も消えていき、セキタンザンは静かに息を吐いた。
大きな器からもたらされたたっぷりの冷たい水は、喉を通ってマクワの身体を冷ましてゆく。

「……は、げほッ……ぐ……う……」
「シュポォ」
「……はぁ……うう……セキタンザン……ほんとに……きみは……」

その大きな足に白い頭を擦り付けた。キルクスの入り江とは違う、真水に住むポケモンのような香りがした。ぺしゃりと音がして、冷たいタオルが首に掛けられた。背筋を進む寒気が、今はひどく心地よかった。

「おねがい無茶……しないで。きみのいのちが……寿命が、けずれたら……ぼく……」

セキタンザンはその相棒の震える赤い背をそっと撫でた。そう思ってくれているのなら、きっとこれからもマクワのために無理をすることが出来るだろうと確信を込めた。
全ておたがいさまだった。常に炎を燃やす石炭のバディは、寒冷地で生まれ育った相棒を知っている。同じ気持ちがいま同じところにある。
ひとびとの足音が岩窟に反響する音を聞きながら、セキタンザンは自分の白い煙が登る所を誇らしく見上げていた。

誰よりも、ずっと

ずっとやりたい仕事があった。
マクワの本業はジムリーダーであり、観客の前でポケモン勝負を行ったり、ポケモン及びジムトレーナーの教育と育成が中心だった。だがそれ以外のファンクラブのイベントを開いたり、精力的に活動していることは有名だ。
しかし他にも興味は尽きない。出来れば商品を勧めるものや写真の撮影にも携わりたいと思っていた。撮影のノウハウも、ファンからの出資で自分の写真集を3冊出している程度には経験がある。
スポンサーの担当と打ち合わせをするたびに、その辺りの仕事があればぜひ、と常に念を押していた。
その甲斐あってか、とうとうスポンサーからクライアントとして、新しい商品のCM撮影と、宣材用写真撮影の両方の依頼がやってきた。

「なるべくセキタンザンと一緒にお願いします。その方が良い画が撮れると監督の方から」

ポケモンにも、撮影用に訓練されたタレントポケモンがいる。けれど今回の撮影は、バディと一緒で良い、むしろバディとの撮影をしてほしいという話だった。
マクワは台本や香盤表などの資料を受け取り、目を通した。確かに撮影内容は、普段のトレーニングをしているセキタンザンであれば難しくないだろう。
スタジオ内でいつも行っている技を出し、それを撮影するだけだ。カメラや機材、スタッフに囲まれているという違いはあるが、問題はない。しかし折角だ、撮影内容に合わせた見栄えの良い見せ方をさせたい。もっとも、普段から客を沸かせる意識を持って訓練しているバディのことだ、そう難しくはないだろう。マクワは判断し、ジムでの業務終了後、練習を重ねた。
ひとの居ないキルクススタジアムの中で、岩を呼び出させる。スマホロトムに撮影させて、見え方を確認する。今RECを回していた映像をじっと睨むように見つめた。

「撮影用なので、もう少しゆっくり落とせますか。……ああ、今のタイミングはよいです。もう一度行きましょう」

セキタンザンはじっと意識を集中させて岩石をいくつも呼び込むと、空中からばらばらと振り落とす。煙が上がり、乾いた砂の香りが辺りに広がった。

「……その高さだとどうしても小さいものが目立ちますね。サイズをある程度一定に保てますか。練習してみましょう」
「シュ、シュポォー」

再び宙に岩石が浮かび上がる。マクワの指示通り、岩の大きさを揃えるように意識を変えた。そしてスマホロトムの前に転がした。

「もう一度」

それから同じことを何十回も繰り返し、ようやくセキタンザンは解放されるのだった。
どっと身体の奥から疲れが溢れてきて、それを捨て去るように大きくため息を吐き、その場に座り込んだ。

「お疲れ様でした。明日の撮影は滞りなく出来るでしょう。楽しみですね」
「ボオー」

マクワがミックスオレを渡すと、瞬時に空瓶の硝子の底が光を通し、床を照らす。
2人はまだ気が付いていなかったが、既に日付を跨ぎ越し、明日は今日になる頃だった。深夜のキルクスタウンには、しんしんと雪が舞い降りていた。

迎えた本番のことは、セキタンザンの記憶のなかにはなかった。
撮影スタジオは広いものの、たくさんの人がいて、たくさんの機材がセキタンザンを取り囲んだ。クレーンに乗った人間とカメラや、横のカメラ。それに謎の白い板を持ってセキタンザンの前に座り込む人。大きなモニターが自分の方を向いて置かれていた。他にも無数の人が同じ室内にいる。
背景も床も全部緑色に塗られていた。一度技を繰り出すたびに、出した岩を片付けるため動かなければならず、何度も移動するはめになり、その度にもう一度集中を取り戻さなければならない。マクワとやった練習とは全く違っていた。
さらにこれにはマクワもしっかりと見ていて、少しでも出すタイミングがずれたり、形状が違うとこの撮影を取り仕切っている監督よりも先に指示を飛ばすのだった。

「岩が揃っていません。……時間はまだありますか? 撮り直しをお願いしたいです」
「OKです。ではテイク4-5!」

カチンコの音が何度も高らかに響いた。それでも撮影自体はスムーズに進み、予定よりも早めに終了した。マクワだけでなくセキタンザンも花束を受け取り、撮影スタジオから出た。
控室で帰り支度を済ませセキタンザンをボールに戻す。外に出るとスポンサーであり、マクワとの窓口を担当している男が見送りに現れた。

「いやあすごかったですね、マクワさん。厳しいと聞いていたけどここまでとは」
「見苦しく申し訳ありませんでした」
「とんでもない! すごくいいのが撮れたって監督もカメラマンも喜んでました。実は最後のセキタンザンのシーン、最初はなかったけどあまりに上手く撮影してくれるからって、当初と変更してセッティングしたんですよ」
「そうだったのですね。それはよかったです」
「十分セキタンザンもタレントになれるんじゃないですかね。……いっぱい練習したでしょう? お忙しいのに……本当にどうしてそこまでしてくれるんですか? ああ、お聞きしたかったんです、どうして撮影に拘ってらしたのか知りたくて」
「いえ……ただぼくが負けたくないだけです。彼を……いわポケモンを魅せることに関しては誰よりも、ずっと上でありたい。撮影の仕事は……証拠としてずっと残りますから」
(ああ、そうか。マクワさんは元々こおり使いの家系で生まれ育った後継者で……)

開け放しの玄関から凍えるような冷たい風が吹いた。サングラス越しに見える青い氷の瞳には、硬い意思がじっと浮かんでいた。男は軽く手を叩く。そうすることで彼の背中を押し、彼がいわタイプへと抱える『見えざる距離』を狭めてあげられるような気がした。
扉の外では、既にアーマーガアタクシーが待っていた。

「今日は本当にありがとうございました、それではまたよろしくお願いします。次連絡する時には完成品の確認をお願い出来るかと」
「こちらこそありがとうございました。楽しみにしています。また撮影の機会がありましたら、是非」

マクワが後部座席に乗り込むと、男はお辞儀をした。アーマーガアが大きく羽ばたくと、タクシーが高く高く舞い上がった。

沈む夕日

まだ本当に幼かった頃、マクワは遠い地方からやってきたトレーナー・カブにこんな話を聞いたことがあった。
夕方は、逢魔が時と言って何か災禍を齎す危ない時間だと。だからあまり遅くまで家に帰らず、家族を心配させてはいけないよ、と。
立派に独立した今、それは冷たさと温かさの境界線を描く時間に移り変わっていた。

最近、マクワの気に入っているトレーニング場所がある。
広大な私有地でありながら、野生のポケモン達が活き活きと暮らしている温帯の島だった。ヨロイ島と呼ばれるそこは、どこもかしこも手入されているガラルの中でもほとんど人の住まない、ポケモンの楽園だ。
故に他の土地では見られないポケモンがたくさんいて、しかも熾烈な環境で育つためか、とても強い。絶好のトレーニング場所だ。
湿度と温度が高く、もともと寒冷地で生まれ育ったマクワはこの島にいると、ただそれだけでも忍耐の鍛錬になった。さらにセキタンザンの炎の温度が加われば、より負荷の高いものになるのは当然の事だった。
自然も多く、手入れのされていない広い洞窟なんかもあり、セキタンザンは通る度に心地よさそうにしていた。
相棒には秘密だが、敢えてその石窟を訓練場所に選ぶ回数を増やしている。セキタンザンの嬉しそうな顔を見ていると、マクワも同じように気持ちが明るくなった。
しかしこの日は互いの足腰を鍛えるために、長い階段の上り下りを繰り返すトレーニングを選んでいた。段数は数えていないが、一往復で一山を上り下りしてしまう程、急なもの。
これを行うと必ず筋肉痛になってしまうものの、効果は覿面だとわかっている。そもそもセキタンザンは余り機動の力に長けてはいない。試合で思い通りの動きを見せるためにも、苦手な部分をしっかり補うことは大切だった。
固めた砂と木で出来た階段を全て登ると、背の高い黒い塔があった。その先に、水平線の向こうへと隠れていく真っ赤な太陽の顔が見えている。
後ろの空ではいくつか星が瞬き始め、現在がちょうど昼と夜の境目に立っていることは明瞭だった。
湿り気特有の重たい水の匂いが漂っている。空気中の水分が、まるでくっついて溜まるように、額から汗となって流れていくのが分かる。巨躯の青年は荷物からハンカチを取り出して拭った後、次は水筒を見つけて蓋を開け、中身を口に含んだ。
冷たいおいしいみずが喉を通り、全身の筋肉が上げ続ける熱の冷めていく感覚があった。清涼な風が抜けるようで心地いい。
一生懸命酸素を取り込もうとして息を切らす肺のために、大きく息を吸った。

「……はぁ……はぁ、……到着です……ごくろうさまでした」
「シュポォー!」

マクワより遅れて、ちょうど今昇りきったバディが、目標地点への到着に喜びの声をあげた。その息は自分と同じぐらい荒く、普段よりもさらに高い熱気を帯びている。セキタンザンへと水筒を差し出せば、あっという間に軽くなって戻って来た。
少しだけ周囲の温度も下がったように感じた。

「どこかの地方では、これくらいの頃を逢魔が時というそうです。昼が夜に変わっていくこの時間は『悪いもの』が闊歩する時間なのだとか」

塔の向こうを見遣れば、半分ほどまだ顔を覗かせる巨大な太陽が、海の表面をごうごうと真っ赤に燃やしていた。めらめらと燃える光を受けて、マクワの眼が重たい紫苑の色に染まっている。

「ひんやりとした夜が……もうすぐやってきますね」
「シュボオ」

セキタンザンの頭の中に、夜になると母の事を思い出す、とマクワがパシオのトレーナーの前で話していた記憶がよみがえった。

「夕日が沈みますので、今日の訓練はここまで。これからはぼくたちの……いえきみの時間です」

マクワは水筒を鞄に戻しながら、塔の横にあるなだらかな下り坂を指さした。

「この道を下っていくと、ぼくたちが今まで行ったことのない、とても広い洞窟に繋がっているそうです。せっかくなので覗いてから帰りませんか」
「ボオ?」

自分の相方は少しでも危険の伴うリスクの多い行動は選びたがらない事を、良く知っていた。人間にとって視野が狭くなる夜の洞窟に行けるなんて思わなかったのだ。
セキタンザンは尋ねるような鳴き方をした。

「きみの炎のお陰で薄暗い洞窟も……ほとんど照明のない島の中でも迷わず行くことが出来ます。『逢魔』さえ退けるでしょう。……今からきみが太陽になるのです」

今まで孤島を照らしていた紅い日光は、頭のように見えていた尾びれの先っぽまで、水平線の中にもうすっぽりと隠されてしまった。町では見えない程、たくさんの星々が煌めき始めていた。
その地平に登った紅い光。地上を照らして路を作る、逞しくて美しい輝き。

「きみはいつだって……その……ぼくの太陽……です。きみのその光をさらに輝かせて……たくさんのひとに届けてみせますから」
「シュ ポォー!」

セキタンザンは一鳴きすると、水平線に背を向けて下り坂へと足を進めた。
沈む夕日のその先。留まり始めた暗がりは避けていき、2人の進む未来が紡がれている。

ゆびをふる大会

ゆびをふる大会は盛況のうちに幕を下ろした。パシオの主催、ライヤーの気まぐれに呼ばれて始まった企画だった。彼もエンターテイナーとして色んな企画立案をしている。その姿は良いお手本だった。
トゲピーとバディを組み、しかもたったひとつの、運に頼る技でのみ戦う経験なんて、ここに今居なければなかったかもしれない。
マクワにとって刺激的で、同時に新鮮な空気がすうっと胸の中を走り抜けて行くような心持だった。まだ大会の残り香は自分の中にたっぷり残っていて、わくわくするような高揚した気持ちが消えなかった。
名残惜しいがトゲピーは借りているポケモンだ、返さなければいけなかった。そして普段共にしているバディが戻って来る。
正直、結構いいコンビだったのではないかとマクワは思っている。自分がゆびをふるポーズをしてみせると、真似をするようにトゲピーが指を振ってくれる。
それだけで観客はどっと沸いた。スマホロトムが写真を撮る電子音も高らかに響いていた。
折角だ、これをいつもバディを組んでいるセキタンザンにも見てもらいたい。
どんな顔をするだろうか。ひょっとしたら、余りの似合いっぷりにセキタンザンも羨ましく思うかもしれない。
普段大らかでのんびりした彼の気質だ、新しい顔を覗けたらきっと楽しい。
マクワはトゲピーと共に宛がわれた自分の控室に行くと、ロッカーの中に置かれたモンスターボールを手に取る。
中から出てきたのは、お馴染みの大きな石炭の相棒。笑いながらごお、と吼えた。
トゲピーを片手で抱いたまま、マクワは右の人差し指を立てて横に動かしながら片目を瞑った。バディの顔を見上げていたトゲピーは、そのしぐさを見て同じように指を振ってみせた。

「セキタンザン、見てください。ぼくたち決まっているでしょう?」
「シュ ボォー!」

セキタンザンはにこにこ笑って頷いた。イベントの楽し気な気配は、まだセキタンザンにも降り注いだ。
けれど、マクワは何故か自分の心に少しばかり影が帯びた事を読み取った。
確かに、いいコンビだと認めてくれたのは嬉しい。だけど、もう一歩欲しいと思っていた反応ではなかった。
浮かれて求めるものではなかったのだ。伸ばした指を顔に向けて、サングラスをずらした。

「……ふふ、ありがとうございます。それではトゲピー、寂しいですがお別れです。いつかまたぼくとバディを組んでくださいね」
「ピィ!」

片手を上げたトゲピーに、モンスターボールを向ければもう反対の手の重みがすうっと消えていった。ボールの中に納まったトゲピーを、ポケモンセンターに渡すのだった。

ポケモンセンターには、パシオで生活するトレーナーとポケモン用の宿泊施設がある。マクワも一室に間借りをしていた。ボールから出したままセキタンザンも一緒に休めるよう、十分な広さと設備がある。
扉を開けると、日当たりの良さから昼間の温かい熱気がじんわりと籠っていた。常に体温調整をしてくれるとはいえ、セキタンザンも隣に居る。
そして寒冷地育ちのマクワは暑いのが苦手だった。荷物を降ろすとすぐに窓の鍵を開け、分厚い硝子戸を押し開けた。
すう、と穏やかな夜の静けさが風に乗って、部屋の中の温度を持ち運んで行く。過ごすにはちょうどいい気温だった。

「シュ ポォー!」

マクワが振り向くと、すぐ横でセキタンザンが夜空を見上げていた。

「気持ちいい夜ですね。星もよく見えます。……さすがにキルクスは見えませんが」
「ボオ」
「……え、昼間の事……謝りたいのですか。あ、あれは忘れてください」

まさかの話題に咽喉につっかえたものを感じ、小さく咳払いをした。マクワにとって恥ずかしさを伴う記憶だった。まさかセキタンザンから謝られるとも思っていなかった。

「わかっています。きみがぼくのことを信頼してくれているのは」
「シュポォ」
「悔しいですがきみのほうがずっと正しい……だからぼくはきみと良いバディだと思えるのです。きみが教えてくれることはたくさんありますからね」
「ボォ」
「……だからぼくはまた間違えたいと思います」
「シュポォ?」

マクワは窓から離れると、部屋の奥に聳える立派なマホガニーの棚の引き出しを開けた。ごそごそと奥に手を伸ばすと、何かを取り出して再びセキタンザンの前に戻った。
それは何処かで見覚えのあるカラフルな缶だった。丸形や四角型のものが複数抱えられている。
しかしセキタンザンはどこで見たのかを思い出せなかった。

「……一緒に店の前を通った時、きみが欲しそうにしていたものですよ。ついつい買ってしまって……気が付いたらこんなに溜まってしまっていました。でも普段食事は規定のものとしています。……ですからなかなか渡せなくて……」
「シュポォ!」

セキタンザンは再び笑った。彼が自分の事をいつだって一番に思ってくれているのは知っていた。
ここにあるものは何よりの証拠だ。
マクワは机の上に缶を置き、綺麗に並べた。

「……どれから食べたいですか?」
「……ボオ!」
「ええっ、どれでもいいは反則ですよ。……でもセキタンザンがそう言うなら……これにしましょうか」

それは試食もあり、セキタンザンがいっとう欲しそうにじっと長く見つめていたもの。人間も同じものが食べられるクッキーだった。本人は覚えていないかもしれないが、すべてマクワは記憶していた。
蓋を開け、中の袋を破ると香ばしさがいっぱいに漂った。マクワは摘まんで複数持ち上げると、そのうちの半分をセキタンザンに渡した。

「今日はお祭りでしたからね。無礼講、というやつです」
「シュポォー!」
「ん、おいしい。……きみもゆびをふるが使えたらな」
「ボオ」

マクワがぽつりとつぶやくと、セキタンザンが呆れた顔をした。わさわざ他の誰かが居なくても、自分のバディはこうしていろんな顔を見せてくれるのだ。
欲張った自分の気持ちごと、クッキーを一つまみ齧る。軽快な音を立てて、割れたクッキーはどんどんと小さくなっていく。

「冗談……です。あれはトゲピーとだから出来たことですからね。きみにはもっと相応しい魅せ方があります。……でも面白いだろうな。ゆびをふるセキタンザンか……」
「ボー!」
「ふふ、やっぱりきみはきみのままが一番ですよ」

割れたクッキーと同じ形をした月が、窓枠を越えて2人を優しく見下ろしていた。