こおりの上にいた。
潮の香に乗った裂けるような冷たさが頬を撫でて眠気を払っていく。どこまでも続く広い海の上、どんよりと暗い雲が並んでいた。マクワはぷかぷかと流氷に乗って浮かんでいる。このままキルクススタジアムに向かうんだな。なぜか強い確信だけがあって、それは心強いものだった。そうでもない。
だってスタジアムに行くにはこおりが必要で、向こう岸にはチャンピオンとリーグ委員長なんだ。
ふと後ろから届く音がある。誰かが何かを訴える声だ。だがそれは聞き覚えのない声。もうジムリーダーになったのに世話しないなあ。
振り返ると、バランスを崩したこおりの島はひっくり返り、マクワはどぼんと真冬の海の中に転覆した。全く冷たくはなかったし、息もできる。
こおりの上にいた。
だが先ほどのような海の上ではない。スタジアムは試合を終えて、ジムトレーナーたちがそれぞれ掃除道具を片手に掃除を始めるところだった。床だけでなく壁にも霜がくっつき、温めて溶かしながら拭っていく。高い天井の鉄の骨組みにさえもつららがぶら下がっているのは、ポケモン勝負が白熱した証拠だった。
大きなブラシで床をごしごしと擦るジムトレーナーにふと目を取られた。その手前で、切り札であり今回の勝利の立役者、ラプラスがまだ残るこおりの上をすいすいと滑っている。
そこでマクワははっと気が付いた。淡いブルーの床が広がるスタジアム。ジムトレーナーたちの白いジムウェアと、青いポケモン。マクワは思わずその名を呼ぶ。
「……ラプ……ラス?」
のりものポケモンはにっこり笑うと近寄ってくる。間違いない。母の相棒を務めていたラプラスだった。それはもう長い付き合いだから知っている。彼女と一緒に訓練をした回数だって計り知れないし、おそらく自分の生まれる前だって全部知っている相手だ。
思わず手を伸ばそうとして、そこで両手を見た。長袖の、ジムトレーナーたちと同じ白い服。
胸を見下ろせば緩い曲線に広げられて描かれた、氷柱を模したこおりの尖ったマーク。
「え、え……!?」
「らんら?」
自分は、いわジムリーダーになったはずだった。こおりジムを継がせようとした母に反発して、町を巻き込むような大喧嘩にまで発展した。その後家を飛び出して、いわジムで修行をし、はれてジムリーダーとして就任したはずだ。
ここは母のスタジアムなのだろうか。よくよく見ればジムトレーナーたちも、新しくマクワと共に就いた顔ではなく、母の代からいるひとたちばかりだ。
マクワはすぐに踵を返すと見知ったジムリーダーの部屋に向かう。ウォルナットの扉の前で大きく息をついて、それからとんとんとノックをした。
返事はない。中に入れば誰もいない。いつものジムリーダー室だった。後ろ手で鍵をかける。
だがしかし、棚に収められた蔵書は幼い頃見ていたものとそのままで、やはりこおりタイプに関することばかり。ファイルにもこおりタイプのことが記録されている。しかしあるときから筆致が変わり、太くはっきりとしたものはマクワ自身のものだとわかる。
すべて母が購入したまま、それから何も変えることなく自分が引き継いだ証拠だった。
「らー?」
ボールから出てきたラプラスが心配そうに見つめていた。いつの間にかボールに戻り、そして出てきたのだ。マクワは自分の手持ちの5つのボールを懐から取り出した。
「……ほかのポケモンも……」
どれも見覚えがある。こおりタイプを継ぐことを決められていた自分は、早いうちから5体のポケモンのことも同じように決められていた。そのとおりのメンバーだ。
他のモンスターボールは棚の引き出しやポケットを探っても見当たらない。
「ゆ、ゆめ……? じゃない……ですよね……」
部屋に立てかけてあった鏡を見て、頬を叩く。痛みはある。だがトレードマークにしているサングラスはなく、眉根を潜める顔を隠すものは何もなかった。
もし夢だとしても、覚めることはあるのだろうか。
とんとん、と木製の扉が軽快に叩かれる音が部屋に響いた。
「マクワー? お疲れ様! 今日も良かったよ」
明るく朗らかな母の声だった。試合を見ていたのか。そうだろう。だとすればこれから先に待っているのは、母親によるシビアな自分の反省会。そうに違いない。
反省するのは嫌いじゃない。だがそれは自分自身でひとつひとつ丁寧にやることだ。誰かほかの人に介入されるのなんてたまったものじゃないし、母のやり方と自分のやり方は似ていたとしても違うのだ。
同じものにはなれはしない。マクワは口の中にたまった唾液を飲み込んだ。
「……母さん。すみません、その……あまり体調が……良くなくて……!」
「なんだって、大丈夫かい!?」
ドアノブと蝶番の金属が、がちゃがちゃと一際大きな立てた。そうだった、このひとはやさしくて、おせっかいで……こういうひとだった。
ラプラスは長らく務めたパートナーの声が聞こえて嬉しそうだが、同時にマクワの表情を見て、落ち込んだ顔を見せた。
「……らんら」
「すみませんラプラス……。……ぼく、行かなくてはいけないところがあるのです」
マクワはそう言うと、窓を開けて植木の間に飛び出した。幸いスタジアム用のシューズを履いていて痛みはない。それでも積もった雪の上は溶けた氷が水となって浸透し、温度を奪っていく。
湿った雪の濡れた香りが鼻先をかすめてゆく。滑りそうになりながら石の階段を駆け下り、街の中を走り抜ける。道路を進み、郊外の大きな住宅地の間を過ぎれば、周囲は再び雪の積もる道になる。ときどきポケモンの足跡はあるが、それ以外のひとは入らぬ林の深雪を踏み抜いて歩く。
木々が立ち並び、坂は真っ白な雪化粧に染まっている。時折靴や靴下の間に入った氷雪を払いながら、雪山を登っていく。冷たい空気をたっぷり吸いこんだ肺がちくちくと痛むので、そのたびにゆっくりと息を吐いた。
草木が減って、山がむき出しになったころ、白い袈裟を被るようにして、小さな洞穴に辿り着いた。入り口を覆う木の根を払いのけて、身をかがめながらマクワはその横穴をくぐった。
中は真っ暗だが、外に比べれば断然温かい。岩壁に手をつきながら進むと、マクワがギリギリ立てる大きさの開けた洞窟に出た。どこからかぽたぽたと地下に水が流れて落ちる音がする。
雪解けの香りが石と混ざって、重たくも懐かしいような香りでいっぱいだった。
マクワは大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。石で出来た床はひんやりと尻を濡らしていたが、気にも留めなかった。
ここにいればきっと会える。マクワには確信があった。きっと自分が何者になったとしても、必ず自分を返してくれる存在は、かならずここに居る。
そういえば、時々外に出ていた彼をこうしてひとりでじっと待っていたことがあったっけ。
冷たい膝を抱えていたら、なんだか懐かしい気持ちがじんわりと心の底から湧き出てくる。こころの温かさに乗ったマクワの意識はふっと消えてしまった。
◆
目が覚めると、いわの上にいた。身体中、驚くほどぽかぽかでうっすらと額に汗がにじんでいる。あたたかい。石炭というよりは磨いてもらった黒曜石のようなつやつやの丸い瞳が、両手に抱えたマクワのことをじっと見下ろしている。
「……やっぱり会えましたね」
「シュポォー?」
「なんでもありません。……もしかして心配してくれましたか」
「ボオ!」
セキタンザンは肯いた。石炭の腕の中で体を起こせば、ゆっくりと足から降ろしてくれる。
自分が着ているのはいつもの寝間着で、ここは自分の部屋の寝室だった。外は真っ暗で、朝日が昇るまではまだだいぶ時間があるのだろう。
なんだかよくわからないし覚えてもいないのだが、妙に現実味のある夢をみたような気がする。
こおりジムリーダーとして跡を継いだ夢。それも悪くないかもしれないが、やっぱり見るなら叶えたいの夢の方がずっといい。
マクワは掛け布団を引っ張りだすと、いまだマクワを見下ろすセキタンザンの隣に座った。
「……夢見があまりよくなかったので、引き続ききみに監視をお願いしようかと」
「シュ ポォー!」
「わ、いやきみの上で寝るつもりはありません……! ……まあ……いいか」
セキタンザンも座り込むと、布団で包んだマクワごと自分の足の上に抱き寄せた。少し硬いが、ぬくぬくとして心地がいい。
マクワは次の目が覚めるときを楽しみにして、瞼を閉じるのだった。