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目が覚めると

こおりの上にいた。
潮の香に乗った裂けるような冷たさが頬を撫でて眠気を払っていく。どこまでも続く広い海の上、どんよりと暗い雲が並んでいた。マクワはぷかぷかと流氷に乗って浮かんでいる。このままキルクススタジアムに向かうんだな。なぜか強い確信だけがあって、それは心強いものだった。そうでもない。
だってスタジアムに行くにはこおりが必要で、向こう岸にはチャンピオンとリーグ委員長なんだ。
ふと後ろから届く音がある。誰かが何かを訴える声だ。だがそれは聞き覚えのない声。もうジムリーダーになったのに世話しないなあ。
振り返ると、バランスを崩したこおりの島はひっくり返り、マクワはどぼんと真冬の海の中に転覆した。全く冷たくはなかったし、息もできる。

こおりの上にいた。
だが先ほどのような海の上ではない。スタジアムは試合を終えて、ジムトレーナーたちがそれぞれ掃除道具を片手に掃除を始めるところだった。床だけでなく壁にも霜がくっつき、温めて溶かしながら拭っていく。高い天井の鉄の骨組みにさえもつららがぶら下がっているのは、ポケモン勝負が白熱した証拠だった。
大きなブラシで床をごしごしと擦るジムトレーナーにふと目を取られた。その手前で、切り札であり今回の勝利の立役者、ラプラスがまだ残るこおりの上をすいすいと滑っている。
そこでマクワははっと気が付いた。淡いブルーの床が広がるスタジアム。ジムトレーナーたちの白いジムウェアと、青いポケモン。マクワは思わずその名を呼ぶ。

「……ラプ……ラス?」

のりものポケモンはにっこり笑うと近寄ってくる。間違いない。母の相棒を務めていたラプラスだった。それはもう長い付き合いだから知っている。彼女と一緒に訓練をした回数だって計り知れないし、おそらく自分の生まれる前だって全部知っている相手だ。
思わず手を伸ばそうとして、そこで両手を見た。長袖の、ジムトレーナーたちと同じ白い服。
胸を見下ろせば緩い曲線に広げられて描かれた、氷柱を模したこおりの尖ったマーク。

「え、え……!?」
「らんら?」

自分は、いわジムリーダーになったはずだった。こおりジムを継がせようとした母に反発して、町を巻き込むような大喧嘩にまで発展した。その後家を飛び出して、いわジムで修行をし、はれてジムリーダーとして就任したはずだ。
ここは母のスタジアムなのだろうか。よくよく見ればジムトレーナーたちも、新しくマクワと共に就いた顔ではなく、母の代からいるひとたちばかりだ。
マクワはすぐに踵を返すと見知ったジムリーダーの部屋に向かう。ウォルナットの扉の前で大きく息をついて、それからとんとんとノックをした。
返事はない。中に入れば誰もいない。いつものジムリーダー室だった。後ろ手で鍵をかける。
だがしかし、棚に収められた蔵書は幼い頃見ていたものとそのままで、やはりこおりタイプに関することばかり。ファイルにもこおりタイプのことが記録されている。しかしあるときから筆致が変わり、太くはっきりとしたものはマクワ自身のものだとわかる。
すべて母が購入したまま、それから何も変えることなく自分が引き継いだ証拠だった。

「らー?」

ボールから出てきたラプラスが心配そうに見つめていた。いつの間にかボールに戻り、そして出てきたのだ。マクワは自分の手持ちの5つのボールを懐から取り出した。

「……ほかのポケモンも……」

どれも見覚えがある。こおりタイプを継ぐことを決められていた自分は、早いうちから5体のポケモンのことも同じように決められていた。そのとおりのメンバーだ。
他のモンスターボールは棚の引き出しやポケットを探っても見当たらない。

「ゆ、ゆめ……? じゃない……ですよね……」

部屋に立てかけてあった鏡を見て、頬を叩く。痛みはある。だがトレードマークにしているサングラスはなく、眉根を潜める顔を隠すものは何もなかった。
もし夢だとしても、覚めることはあるのだろうか。
とんとん、と木製の扉が軽快に叩かれる音が部屋に響いた。

「マクワー? お疲れ様! 今日も良かったよ」

明るく朗らかな母の声だった。試合を見ていたのか。そうだろう。だとすればこれから先に待っているのは、母親によるシビアな自分の反省会。そうに違いない。
反省するのは嫌いじゃない。だがそれは自分自身でひとつひとつ丁寧にやることだ。誰かほかの人に介入されるのなんてたまったものじゃないし、母のやり方と自分のやり方は似ていたとしても違うのだ。
同じものにはなれはしない。マクワは口の中にたまった唾液を飲み込んだ。

「……母さん。すみません、その……あまり体調が……良くなくて……!」
「なんだって、大丈夫かい!?」

ドアノブと蝶番の金属が、がちゃがちゃと一際大きな立てた。そうだった、このひとはやさしくて、おせっかいで……こういうひとだった。
ラプラスは長らく務めたパートナーの声が聞こえて嬉しそうだが、同時にマクワの表情を見て、落ち込んだ顔を見せた。

「……らんら」
「すみませんラプラス……。……ぼく、行かなくてはいけないところがあるのです」

マクワはそう言うと、窓を開けて植木の間に飛び出した。幸いスタジアム用のシューズを履いていて痛みはない。それでも積もった雪の上は溶けた氷が水となって浸透し、温度を奪っていく。
湿った雪の濡れた香りが鼻先をかすめてゆく。滑りそうになりながら石の階段を駆け下り、街の中を走り抜ける。道路を進み、郊外の大きな住宅地の間を過ぎれば、周囲は再び雪の積もる道になる。ときどきポケモンの足跡はあるが、それ以外のひとは入らぬ林の深雪を踏み抜いて歩く。
木々が立ち並び、坂は真っ白な雪化粧に染まっている。時折靴や靴下の間に入った氷雪を払いながら、雪山を登っていく。冷たい空気をたっぷり吸いこんだ肺がちくちくと痛むので、そのたびにゆっくりと息を吐いた。
草木が減って、山がむき出しになったころ、白い袈裟を被るようにして、小さな洞穴に辿り着いた。入り口を覆う木の根を払いのけて、身をかがめながらマクワはその横穴をくぐった。
中は真っ暗だが、外に比べれば断然温かい。岩壁に手をつきながら進むと、マクワがギリギリ立てる大きさの開けた洞窟に出た。どこからかぽたぽたと地下に水が流れて落ちる音がする。
雪解けの香りが石と混ざって、重たくも懐かしいような香りでいっぱいだった。
マクワは大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。石で出来た床はひんやりと尻を濡らしていたが、気にも留めなかった。
ここにいればきっと会える。マクワには確信があった。きっと自分が何者になったとしても、必ず自分を返してくれる存在は、かならずここに居る。
そういえば、時々外に出ていた彼をこうしてひとりでじっと待っていたことがあったっけ。
冷たい膝を抱えていたら、なんだか懐かしい気持ちがじんわりと心の底から湧き出てくる。こころの温かさに乗ったマクワの意識はふっと消えてしまった。

目が覚めると、いわの上にいた。身体中、驚くほどぽかぽかでうっすらと額に汗がにじんでいる。あたたかい。石炭というよりは磨いてもらった黒曜石のようなつやつやの丸い瞳が、両手に抱えたマクワのことをじっと見下ろしている。

「……やっぱり会えましたね」
「シュポォー?」
「なんでもありません。……もしかして心配してくれましたか」
「ボオ!」

セキタンザンは肯いた。石炭の腕の中で体を起こせば、ゆっくりと足から降ろしてくれる。
自分が着ているのはいつもの寝間着で、ここは自分の部屋の寝室だった。外は真っ暗で、朝日が昇るまではまだだいぶ時間があるのだろう。
なんだかよくわからないし覚えてもいないのだが、妙に現実味のある夢をみたような気がする。
こおりジムリーダーとして跡を継いだ夢。それも悪くないかもしれないが、やっぱり見るなら叶えたいの夢の方がずっといい。
マクワは掛け布団を引っ張りだすと、いまだマクワを見下ろすセキタンザンの隣に座った。

「……夢見があまりよくなかったので、引き続ききみに監視をお願いしようかと」
「シュ ポォー!」
「わ、いやきみの上で寝るつもりはありません……! ……まあ……いいか」

セキタンザンも座り込むと、布団で包んだマクワごと自分の足の上に抱き寄せた。少し硬いが、ぬくぬくとして心地がいい。
マクワは次の目が覚めるときを楽しみにして、瞼を閉じるのだった。

快晴

土砂降りの雨を初めて見た。
大きな邸宅の一室、閑静な母の部屋の中。音も立てないその雨は、普段凪のように青く澄み切った母親の瞳に暗雲をもたらし、頬を濡らしていた。
ぼくは逃げるようにその場を後にした。もちろん、音を立てないよう細心の注意は払った。
いつだって勇ましく、試合中、たとえ最後の一体となり追い詰められてもその大きな瞳を輝かせるあの母が、まさか泣いているなんて思いもよらなかったのだ。
原因がぼくにあることはわかっている。朝、ぼくは母に自分の本当の意思を告げた。
いわポケモンに憧れていて、いわ使いになりたいのだと言い、そして既にその第一段階として、タンドンを連れていることも伝えた。これからいわジムの門戸を叩くことも。
あわよくば、笑って背中を押してくれるというのは、ほんの僅かばかりぼくが抱いた小さな希望的観測だった。だがしかし母が相当自分の跡継ぎに関して入れ込んでいることはぼく自身が何より、おそらく世界で一番身をもって知っている。
ぼくはこの世に生を受けた瞬間から、その祝福は全て立派に母の座を継ぐためという理由を紐づけられた条件付きのものだった。
その代わりガラルでトレーナーを志す同級生や、上級生に後ろ指を刺されたことは数えきれないし、羨望を向けられることも少なくはなかった。
一流選手である母のことは、当然誰もが知っている。その長男がぼくであることも。
魂を切り売りするような曖昧な環境の中、母がその身で蓄えた知識と経験全てを直接その身で学ぶことが許されていたし、だからこそぼくは将来こおりタイプのジムリーダーになることが決まっていた。
ジムリーダーという職業に就ける保証は、ガラルのトレーナーであればのどから手が出る程欲しいものに違いない。地位も名声も約束された、人々のまなざしを集める立派な職務がジムリーダーには課される。
もちろん母は身内だからといって容赦をすることはない。ガラルリーグは実力主義の厳格な場所だ。もとより自分のジムのトレーナーにさえ厳しいと評判のひとだ、跡継ぎと決定している相手に手を抜くことはしなかった。
今思えば幼い子供にさせることだったろうかと首をかしげたくなるようなものもあった。とにかく、凍えるような冷たさはぼくにとって母の代名詞となった。
そう思っているのも、おそらくこの世界でぼくひとりだろう。いや、こおりタイプのジムトレーナーであれば多少は理解してくれただろうか。
しかし母は、時に恐ろしい程の甘やかさを押し付けることで、ぼくから何もかもを奪おうとした。
自分の連れているバディを、ぼくのバディにしようとしたのだ。
母は自分の思うがままだったが、ぼくはなんとかそれにしがみ付いていた。そうしなければ失望されて何もかもを失うと、本気で思っていたこともある。
幼い子供だ、母親に見捨てられて、しかもポケモンさえ連れていないとなればどこにも行き場は失う。寒いキルクスの中でひとりで生きられるはずがない。
けれど初めて母がラプラスをぼくに譲るのだと言った時、ぼくの脳裏に浮かんだのは、初めてのポケモンを自分で選ぶこと、あるいは捕まえること、ずっと楽しみにしていたはずの経験が奪われてしまうことだった。
ぼくはぼく自身の新しい経験をしっかりとこの身に刻み、そして絆を深めた相手と一緒に居たかった。
きっと母のラプラスをぼくがバディにしてしまえば、また母はラプラスに対してもっと良い方法があるなどと言って強く口出しをしてくるだろうことは、手に取るように想像が出来た。
母が自分の育てたラプラスを譲られてしまえば、何もかもを失ってしまうと思った。それはもはや、スタイルの押し付けに違いなかった。
ポケモンが嫌いなわけではない。こおりポケモンのことも、繊細で美しく、そして特有の強さをもった彼らを尊敬していた。
リーグを席巻するようなポケモントレーナーにはなりたかった。ぼくであれば必ずなれるだろうという自信も少なからずあったのだ。
だが、とにかく母のやり方に「No」を突きつける必要があると思った。それも早急に。
でなければぼくがぼくでなくなる。枷付きのぼくに、呼吸が出来るとは思えなかった。今でさえ、母のやり方についていくことは簡単ではなかったのだから。
それからぼくが行動に移したのはあっという間の事だった。こおりに強いポケモンをぼく自身の力で手に入れた。
そして、ぼくはとうとう母の元から離れたい、いわタイプを極めたいのだと母に告げることが出来たのだった。
当然のように母は絶対零度で怒ったし、ぼくもそれに対抗した。絶対に譲らない硬い意志を示した。母は自分の部屋に戻っていった。その向こう、廊下の先にぼくの部屋があったので、半分だけ開いたままの母の部屋の扉を覗いた。
そこで見たのが、母の降らせた雨……もとい、涙の姿だった。
気丈で強く気高い母が、明るくて優しく頼もしいあの母が、まさか泣いてしまうだなんて。そしてその原因がぼくだなんて、信じられなかった。
口の中が乾き、それから胸の奥の方に震える熱くて重たい塊のような何かがあった。それが何なのかはわからなかった。ただ、暗雲はぼくの心にも分厚く鈍く立ち込めていることだけは理解した。
ぎゅっと口を結び、母の部屋を後にした。それから荷造りの仕上げをして、いわジムの下へと飛び込むつもりだった。
ばたんと部屋の扉を閉ざし、既に衣服や荷物が詰められた鞄を見ようとした。何かの角を思いきり踏みつけてしまい、痛みに呻きながらベッドの中に顔を押し付けた。
普段なら綺麗に整理しているはずの部屋の床の上に、無造作にものを置いて捨てていたぼくの自業自得だ。大きなテレビの電源が入り、画面はトレーナーの試合を映し出している。
スタジアムの中、キョダイセキタンザンが大きく吠えると無数の岩が現れて、相手の周囲を囲っていく。
もくもくと上がる煙はキョダイマックス・エネルギーを受けた赤い色とともに、彼自身の黒雲の色を保っている。
ぼくは思わずじっと見てしまう。キョダイセキタンザンはその大きな身体で苦手な水さえ受け止めて、たちまちスピードを自分のものにしてしまった。その鮮やかさと猛々しさが、きらきらと輝いて映る。こおりタイプのポケモンでは持ちえない耐久の力と、熱が生み出す力強さ。
あまりにもカッコよすぎて、ぼくの目は虜だった。
ぼくがテレビを見ていたことに気が付いたのか、ボールからタンドンが現れて、彼もいっしょになって画面の釘付けになる。いつもだったら叱るところだが、ぼくにはそんな余裕すらもなかった。
ただただセキタンザンのすごさに圧倒されていたのだ。

「……タンドン。ぼく……きみとこういう風になりたい……。どうかな……?」

ぼくが見下ろしたタンドンの赤い瞳は、ごうごうと燃えていて、画面の中で岩を生み出した時のセキタンザンの色そっくりだった。ぼくは同じ気持ちを抱いてくれていると確信した。
ぼくは反発する。ぼくは彼を利用する。母の檻から逃げるための、硬くて小さな鍵として。
そして氷を打ち砕く立派な岩石として。

「……うん……。ぼくはまだ……その……何て言っていいかわかりません。うまく言葉に出来なくて……。でもいつかぼくの心が……きみともう一度ちゃんと話せる時……。
必ずきみに伝えてみせるから……だからぼくの隣で……今一度バディになってくれますか」

タンドンはその小さな体で頷いてみせてくれた。もう十分すぎる程で、ぼくの胸の奥に溜まっていた温度がごうごうと溢れんばかりだった。
でも零してはいけない。ぼくはさっき見た母の降らせた雨を思い出して、目を瞑った。
瞼の裏に描くのは、真っ蒼に広がる空と吹き抜ける白い雲の下にいるぼくと、セキタンザンだ。天気晴朗の日、ぼくとセキタンザンは一緒にトレーニングをする。
バディはセキタンザンだ。きっとどんよりとした曇天みたいな煙がぷかぷか浮かんでしまう時もあるだろう。それでも、ぼくは描く。強く強く思い描く。
晴天の強い日差しの下、蒸し暑くてすぐバテてしまうような場所で、セキタンザンの熱がさらにぼくの居心地を悪くしてしまうような島の上で、ぼくたちは訓練をしたり、時にはポケモン勝負をするのだ。そんな毎日が当たり前の日が、必ずやって来るのだ。
その時にはきっといわジムの立派なジムリーダーを務めて、メジャーリーグの中心選手になっている。大丈夫。
ぼくの、ぼくたちの夢は、怒られるようなものでもなければ、哀しいものにもさせやしない。
母の双眸にも再び気持ちのいい輝く蒼穹がやってくる。いや、呼んでみせる。
それはいわタイプの魅力をもっとぼくの言葉で、身体全てで伝えられるようになった時だ。
それこそが母の夢を捨てて雨を降らせたぼくに出来る、最上級の親孝行だから。

ゆびをふる大会

ゆびをふる大会は盛況のうちに幕を下ろした。パシオの主催、ライヤーの気まぐれに呼ばれて始まった企画だった。彼もエンターテイナーとして色んな企画立案をしている。その姿は良いお手本だった。
トゲピーとバディを組み、しかもたったひとつの、運に頼る技でのみ戦う経験なんて、ここに今居なければなかったかもしれない。
マクワにとって刺激的で、同時に新鮮な空気がすうっと胸の中を走り抜けて行くような心持だった。まだ大会の残り香は自分の中にたっぷり残っていて、わくわくするような高揚した気持ちが消えなかった。
名残惜しいがトゲピーは借りているポケモンだ、返さなければいけなかった。そして普段共にしているバディが戻って来る。
正直、結構いいコンビだったのではないかとマクワは思っている。自分がゆびをふるポーズをしてみせると、真似をするようにトゲピーが指を振ってくれる。
それだけで観客はどっと沸いた。スマホロトムが写真を撮る電子音も高らかに響いていた。
折角だ、これをいつもバディを組んでいるセキタンザンにも見てもらいたい。
どんな顔をするだろうか。ひょっとしたら、余りの似合いっぷりにセキタンザンも羨ましく思うかもしれない。
普段大らかでのんびりした彼の気質だ、新しい顔を覗けたらきっと楽しい。
マクワはトゲピーと共に宛がわれた自分の控室に行くと、ロッカーの中に置かれたモンスターボールを手に取る。
中から出てきたのは、お馴染みの大きな石炭の相棒。笑いながらごお、と吼えた。
トゲピーを片手で抱いたまま、マクワは右の人差し指を立てて横に動かしながら片目を瞑った。バディの顔を見上げていたトゲピーは、そのしぐさを見て同じように指を振ってみせた。

「セキタンザン、見てください。ぼくたち決まっているでしょう?」
「シュ ボォー!」

セキタンザンはにこにこ笑って頷いた。イベントの楽し気な気配は、まだセキタンザンにも降り注いだ。
けれど、マクワは何故か自分の心に少しばかり影が帯びた事を読み取った。
確かに、いいコンビだと認めてくれたのは嬉しい。だけど、もう一歩欲しいと思っていた反応ではなかった。
浮かれて求めるものではなかったのだ。伸ばした指を顔に向けて、サングラスをずらした。

「……ふふ、ありがとうございます。それではトゲピー、寂しいですがお別れです。いつかまたぼくとバディを組んでくださいね」
「ピィ!」

片手を上げたトゲピーに、モンスターボールを向ければもう反対の手の重みがすうっと消えていった。ボールの中に納まったトゲピーを、ポケモンセンターに渡すのだった。

ポケモンセンターには、パシオで生活するトレーナーとポケモン用の宿泊施設がある。マクワも一室に間借りをしていた。ボールから出したままセキタンザンも一緒に休めるよう、十分な広さと設備がある。
扉を開けると、日当たりの良さから昼間の温かい熱気がじんわりと籠っていた。常に体温調整をしてくれるとはいえ、セキタンザンも隣に居る。
そして寒冷地育ちのマクワは暑いのが苦手だった。荷物を降ろすとすぐに窓の鍵を開け、分厚い硝子戸を押し開けた。
すう、と穏やかな夜の静けさが風に乗って、部屋の中の温度を持ち運んで行く。過ごすにはちょうどいい気温だった。

「シュ ポォー!」

マクワが振り向くと、すぐ横でセキタンザンが夜空を見上げていた。

「気持ちいい夜ですね。星もよく見えます。……さすがにキルクスは見えませんが」
「ボオ」
「……え、昼間の事……謝りたいのですか。あ、あれは忘れてください」

まさかの話題に咽喉につっかえたものを感じ、小さく咳払いをした。マクワにとって恥ずかしさを伴う記憶だった。まさかセキタンザンから謝られるとも思っていなかった。

「わかっています。きみがぼくのことを信頼してくれているのは」
「シュポォ」
「悔しいですがきみのほうがずっと正しい……だからぼくはきみと良いバディだと思えるのです。きみが教えてくれることはたくさんありますからね」
「ボォ」
「……だからぼくはまた間違えたいと思います」
「シュポォ?」

マクワは窓から離れると、部屋の奥に聳える立派なマホガニーの棚の引き出しを開けた。ごそごそと奥に手を伸ばすと、何かを取り出して再びセキタンザンの前に戻った。
それは何処かで見覚えのあるカラフルな缶だった。丸形や四角型のものが複数抱えられている。
しかしセキタンザンはどこで見たのかを思い出せなかった。

「……一緒に店の前を通った時、きみが欲しそうにしていたものですよ。ついつい買ってしまって……気が付いたらこんなに溜まってしまっていました。でも普段食事は規定のものとしています。……ですからなかなか渡せなくて……」
「シュポォ!」

セキタンザンは再び笑った。彼が自分の事をいつだって一番に思ってくれているのは知っていた。
ここにあるものは何よりの証拠だ。
マクワは机の上に缶を置き、綺麗に並べた。

「……どれから食べたいですか?」
「……ボオ!」
「ええっ、どれでもいいは反則ですよ。……でもセキタンザンがそう言うなら……これにしましょうか」

それは試食もあり、セキタンザンがいっとう欲しそうにじっと長く見つめていたもの。人間も同じものが食べられるクッキーだった。本人は覚えていないかもしれないが、すべてマクワは記憶していた。
蓋を開け、中の袋を破ると香ばしさがいっぱいに漂った。マクワは摘まんで複数持ち上げると、そのうちの半分をセキタンザンに渡した。

「今日はお祭りでしたからね。無礼講、というやつです」
「シュポォー!」
「ん、おいしい。……きみもゆびをふるが使えたらな」
「ボオ」

マクワがぽつりとつぶやくと、セキタンザンが呆れた顔をした。わさわざ他の誰かが居なくても、自分のバディはこうしていろんな顔を見せてくれるのだ。
欲張った自分の気持ちごと、クッキーを一つまみ齧る。軽快な音を立てて、割れたクッキーはどんどんと小さくなっていく。

「冗談……です。あれはトゲピーとだから出来たことですからね。きみにはもっと相応しい魅せ方があります。……でも面白いだろうな。ゆびをふるセキタンザンか……」
「ボー!」
「ふふ、やっぱりきみはきみのままが一番ですよ」

割れたクッキーと同じ形をした月が、窓枠を越えて2人を優しく見下ろしていた。

閉じ込められるセキタンザンとメロンの落書き

険しい褐色の岩肌は極氷の白に覆われて、空からちらちらと降りてくるのは微細な雪の破片。やまおとこが思わず目をとられて見上げれば淡いオーロラが輝き、まるで異空間に誘い込まれたようだ。
絶対零度の氷河期がパシオの山中に到来した。

「いいよラプラス! さあ一気に決めようか れいとうビーム!」

大きな口に光が集まり、凝縮した冷気が光線となって放たれた。カイリキーにぶつかって弾けると、そのまま圧力となり巨躯を押し倒した。最後の一体が倒れて、モンスターボールへと帰っていく。

「いい勝負だったよ!」

メロンは去っていくやまおとこたちのチームの背中を見送ると、くるりと振り返る。

「……なのにこっちときたら、全く情けない!」

そこには顔を真っ蒼にしてしゃがみ込み震えるケイとバディのピカチュウ、そして2人を温めるセキタンザンとマクワがいた。
辺り一面を冷やして得意のフィールドを作って戦うのは、メロンのやり方だ。だがしかし、誰彼構わず行う為、同じチームを組む仲間でさえ巻き込まれてしまう。

「……仕方ありません。まだケイさんは母さんのやり方に慣れていませんから」
「そうだね。ケイは才能もあるし、腕もいいから慣れたらすぐについて来れるから! 今から楽しみだよ! ……おや?」

セキタンザンが立ち上がり、前へ出るとじっとメロンを見つめている。メロンはぱちぱちと瞬いた。マクワが静かに両者の間に言葉を投げかける。

「セキタンザン、ケイさんを温めてください」
「シュポオ」

じゅどん、大きな音を立てて雪が崩れた。セキタンザンとメロンの足元から崖の方へ、激しい音を立てて滑り落ちていく。
メロンは自分を呼ぶ息子の叫び声を聞いて、そのまま意識を失った。

「ボオ!」

目を開けると、至近距離にぱちぱちと弾ける炎があり、メロンは思わず後ずさる。

「びっくりした、あんたか……。ここは……洞窟みたいだねえ」

良く目を凝らしてみればセキタンザンの背中の石炭の山が燃える姿で、ほっと一息ついた。ぐるりと周囲を見渡すと、小さな洞穴だ。
崖の途中に空いたくぼみが上手く洞窟として機能したのだろう。落ちる途中、セキタンザンが上手くメロンを助けて転がり込んでくれた事だけはわかる。上を見上げても既に人の気配はない。下は崖が続いていて、高い木々が並んでいる。
ロトムを見れば、息子から助けに移動しているという報告が入っていた。流石行動が早い。

「ラプラス呼んで無理するのも難しそうだし……。とりあえず……ここで待っていれば大丈夫そうだね」
「……シュポオ」
「あたしと居るのは不服かい?」
「……ボオ」

先ほどもそうだが、セキタンザンは何か言いたげなことだけはメロンにもわかる。
元々息子が独立するために選んだポケモンであり、同時に彼が独立のために手を貸したポケモンでもある。敵愾心に近しい何かがあってもおかしくはない。
上の方は凍らせた氷柱が降りていて、ひんやりとした空気が流れていた。このままでは体温が下がっていくだろう。
それを目敏く察したのか、セキタンザンは少しメロンに近寄ると、身体の火力を上げようとした。

「ああ、ダメ。あたしのことは温めないで」

今度はセキタンザンがぱちぱちと瞬きする番だった。

「あたしはずっと冷えていなくちゃいけないんだ。冷たい所にいて……冷たい場所で戦う。
マクワはポケモンのすばらしさを伝えるために、観客を楽しませるって言うでしょう?
でもね……あたしは違うと思うの。ポケモンは強くなくちゃ。ありのままを見せなくちゃ。
強さそのものを教える事、理解してもらう事こそ観客が本当に必要だって信じてる。
だからあたしもね、こおり専任として、こおりポケモンを最大限魅せられる場所に常に居続けるの。……だからあたしは温めちゃダメだし、熱いのはもっとダメなんだ」
「シュポー」
「そろそろいつもの場所に帰りたいなあ……溶けちゃいそう……」
「母さん、セキタンザン、大丈夫ですか!?」
「やっと来た」
「シュポー!」

崖上にロープを括りつけて、杭で打ち付け足場を作りながらマクワが降りてくる。洞窟の中に軽く飛び降りると、セキタンザンの横をすり抜けて、急いでメロンを見る。
セキタンザンとメロンの間に距離がある事も、きちんと確認をする。

「母さん」
「遅いんじゃない?」
「これでも最短ルートだったのです。さあ、帰りましょう」

メロンはマクワが作った足場を難なく登って元の道に戻っていった。上ではケイがメロンと何かを話しているのもわかった。見届けたマクワが再び自分のバディの下へと降りると、どっしりと座り込んでいた。

「セキタンザン! ありがとうございました」
「シュポオ」
「……セキタンザン?」

なんだか少しへそを曲げているように見える。マクワには思い当たる節は見つからない。

「ポオ」
「どうかしましたか」
「シュポオ」

そこでふと気が付いた。今、一瞬ではあるが自分はセキタンザンよりもメロンを優先していた。
さらにセキタンザンがメロンを温めさせてもらえなかったことさえも自覚しているのに、自分はなかったことにしようとしていたこと。
実の母であり、セキタンザンより遥かに弱い生命だから当然だと思ってしまったが、この僅かな機微は自分のバディであるセキタンザンにとって大きな差異になりかねないだろう。

「ああ……いえ……すみません、ぼくたちの……意地張りに巻き込んでしまって……。……ぼくは多分、羨ましいのです。……ひとつだけに打ち込んで真っ直ぐに進める母が……。だけどぼくはぼくの力で母をこえたくて……」

セキタンザンは今度こそと自分の身体に炎を集めて、石炭に火を灯す。じゅう、と音を立てて周辺を凍らせていたものが溶けて水に変わっていく。

「シュポー!」
「……そうです。温かいですね。ぼくにとってはこおりを打ち破る力でしたから……きっと母にとってはあまり喜ばしい物ではないと思います」

マクワは母の一気に場を凍らせてしまう力を思い出す。

「ですが! ぼくたちはここではチームです。いくら母のやり方があったとしても……やはりチームで勝てなければ意味がありません。きみのやり方は正しい。ぼくたちが目指すのはたくさんの方法を考え試すクレバーな戦いで、観客を魅了する物です」
「ボオ」
「これはぼくと……きみのセキタンザンのちからです。どこでも輝いていける。まだまだ輝かせていきたい」

マクワがひとつ言葉をくれる度に、セキタンザンの中にあったもやもやが晴れていく。
まるで魔法のようだ。メロンもそうだった。温めてはいけないという彼女が自分に掛けた魔法。
それが不気味でよくわからなくて、セキタンザンはなんだかメロンのことをずっともやもやして見ていたのだ。
正直、全部が全部晴れたわけではない。それでも今まで見えなかったものが見えるようになった。
セキタンザンは、それだけでも彼らとずっと共に居られると思った。

「シュポ!」
「うん。それではぼくたちも帰りましょう。知りたい事がたくさんありますから」

残雪を溶かしながらセキタンザンはマクワを先導し、進んでゆく。
艶やかに濡れた石面は淡い日暮れの空を映し出している。