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たとえ間違いだとしても

マクワという少年のモンスターボールの中に収まった。
正直、洞窟の中でひとり生活していた時とあまりかわらない。良いことは寒くないことと、いつも山の中をやって来るマクワの心配をしなくてよい事くらいだ。
俺は、長い間ひとりで隠れるように生きてきたタンドンだった。大昔、人間とも一緒に居たが、別れがあって今こうしてここにいる。これからもずっとひとりで生きるのだろうと思っていたが、ある日俺の隠れ住む洞窟に迷い込んできたのがマクワだった。
彼はなにかある度にやってきて、洞窟で俺との時間を過ごした。ほとんどが他愛無いことばかりだ。宿題をするとか、本を読むとか、わざわざ俺の隣で行うのは少しばかり面白く見ていたし、一生懸命説明してくれる気持ちは嬉しかった。
彼の隣は、俺にとっても居心地の悪い物ではなかった。そうしてモンスターボールに収まった。
だがマクワには、既に決まったポケモンを育てる予定があった。
彼は有名なポケモントレーナーである母親の後を継いで、こおりタイプの専任トレーナーになることを決められていて、そのために毎日の時間をほとんど費やしていた。
残念ながら俺はこおりのポケモンではないそうで、いつまで一緒に居られるのかもわからない。その通りなのだろう、冷たいよりは暖かい方が心地よかった。
そしてその母親に見つかってしまえば、また洞窟生活に戻される可能性さえあった。堅実なマクワが選んだ小さな綱渡りだった。
だけどマクワはどうしても俺に近くに居て欲しいのだという。そうすればきっと、母の後を継いでも大丈夫だと。
彼の心の奥底が後継ぎを拒んでいることは、明白だった。
俺は知っている。あのマクワの一見冷たい氷の色をした眼が、深みを持った灰簾石の輝きを放つときがある事を。彼は水の塊なんかじゃない。澄み切った透明な鉱石で、立派な石であることを。
まだ俺の体内で小さく波打つ炎は、それを証明するためにあるものなのだ。
前からどれくらいの時間が経っただろうか。久しぶりにモンスターボールから呼ばれた。岩の身体を持つ俺は、それほどたくさん食べなくてもへっちゃらだったから、やっぱりなかなかボールから出る機会はなかったのだった。
ひんやりとした夜の空気は変わらないが、いつもより重たい気がした。見れば一面に雪が積もっていた。マクワがトレーニングや気晴らしに使う公園だ。中央に立てられた時計台も、白雪が分厚い帽子になっていた。
マクワは帽子とマフラー、分厚いコートでもこもこになっていた。とても上質なものだ。ひょっとしたら手編みに見える手袋はあの母親が作ったものかもしれない。毛糸でマクワの証が編まれている。大昔一緒に居た人間は、編み物が得意だったから良く知っていた。
それに人間の言葉も文字もはわからないが、マクワが教科書やノートの裏にいつも書いている記号はしっている。あれはマクワを現すものだ。
雪の払われたベンチに座って、眠たげな眼が俺を見下ろしている。冷たい空気にあてられて、頬や鼻がほんのり赤らんでいた。

「……きみはやっぱり温かいのですね。雪が溶けています。冷たくありませんか?」

俺は頭を振った。水を浴びると滲みて痛くなったりする時があった。確かに足元が少しばかり濡れてはいたが、この程度なら平気だった。しかしマクワは俺を抱き上げると、ベンチの上に乗せた。

「うん、こっちの方がよいですね。……久しぶりになってしまってすみません。もうすぐジムチャレンジで……母もピリピリしていて。もちろんぼくも学ぶことはたくさんありますからね」

そう言いながら、マクワは横に下げた鞄から細長い干し草の束を取り出して、俺の前に差し出した。青い香りが食欲を誘い、体内の奥に燃える炎が欲しいとばかりに熱を上げた。
俺は一度マクワを見上げた。マクワは頷いた。端っこを車輪に引っ掛けて、巻き上げながら食べていく。洞窟の近くにはなかったものだ。人間が何やら葉っぱを加工しているらしく、香ばしくてとても美味しい。

「口に合いましたか。よかった」

マクワが息を吐くと、真っ白いものが立ち昇った。俺は干し草を一房呑み込んで、瞬きをしながら見上げていた。いつもぱっちり開かれているはずの碧い眼は、どことなく重たげで、確かに疲労がたまっているのだということが伝わった。
じっと見られていると思ったのだろう、マクワは慌てて手を振った。

「ああいや、すみません。きみのことを見つめるつもりはなくて……。いや、そうでもないか」

再び彼の口から白い息がもこもこと上がり、小さな風に乗って流れていく。

「……きみがいてくれるだけでぼくは……」

マクワのふかふかの毛糸の手が、俺の頭を撫でる。正直感覚が小さくて、どこにあるのかあまりよくわからないけれども、なんとなく触られていることはわかって嬉しかった。

「うん。今日もありがとう。……タンドン、きみに不自由を強いていて……本当にごめん。でも……どうか一緒に居て欲しいんだ」

俺はただ肯首した。彼の中にある、あの透き通った石の輝きを知っているのは俺だけだ。その光の隣にいて、それを証明出来るのであればなんでもよかった。
違うポケモンと一緒に居るマクワのモンスターボールに入ると決めたのは俺自身だったのだから。
けれど身体の重そうなこの無色の少年を見ていると、今ボールに出ていられるこの僅かな時間で、ともにもう一度あの洞窟にでも逃げ出してしまいたいと思った。
俺は残っていた草の破片を身体の奥に送り込むと、上を向き、自分の上に乗っていた彼の手を石炭の先端に引っ掛けた。そして後方に車輪を進める。

「タンドン……?」

それほど重くない少年の身体が傾いた。けれど引っ張るところまではいかず、なかなかタイヤが動かない。ぐるりとその場で回転し、体勢を変えると前に輪を回した。

「……ひょっとして何処かへ行こうとしてくれている?」

俺は返事の代わりに引っ張る力をさらに加える。だが少年の毛糸の両手が俺の身体を抱き寄せて、膝の上に乗せられてしまった。そのまま抱きしめられる。
ふわふわして、冷たい彼の身体が、さらに小さな俺を包み込んだ。

「ありがとう。気持ちだけで……嬉しいよ。……タンドン」

身体が離れて、マクワのあの灰簾石の瞳が見下ろしている。俺が知っている、大好きな目の色だ。

「……もう少し考えられるかも……しれません。きみが後押ししてくれるなら。ぼくも……きみのほのおが見たいから……」

再びマクワは俺を胸で包んだ。俺はそっと擦り寄る。黒い煤の色が付かないように気を付けながら。
一緒に居れば、きっといつかその光が見える時が来る。いつかきっと、必ず。
公園に降り積もる雪は、少しずつ溶け始めていた。

快晴

土砂降りの雨を初めて見た。
大きな邸宅の一室、閑静な母の部屋の中。音も立てないその雨は、普段凪のように青く澄み切った母親の瞳に暗雲をもたらし、頬を濡らしていた。
ぼくは逃げるようにその場を後にした。もちろん、音を立てないよう細心の注意は払った。
いつだって勇ましく、試合中、たとえ最後の一体となり追い詰められてもその大きな瞳を輝かせるあの母が、まさか泣いているなんて思いもよらなかったのだ。
原因がぼくにあることはわかっている。朝、ぼくは母に自分の本当の意思を告げた。
いわポケモンに憧れていて、いわ使いになりたいのだと言い、そして既にその第一段階として、タンドンを連れていることも伝えた。これからいわジムの門戸を叩くことも。
あわよくば、笑って背中を押してくれるというのは、ほんの僅かばかりぼくが抱いた小さな希望的観測だった。だがしかし母が相当自分の跡継ぎに関して入れ込んでいることはぼく自身が何より、おそらく世界で一番身をもって知っている。
ぼくはこの世に生を受けた瞬間から、その祝福は全て立派に母の座を継ぐためという理由を紐づけられた条件付きのものだった。
その代わりガラルでトレーナーを志す同級生や、上級生に後ろ指を刺されたことは数えきれないし、羨望を向けられることも少なくはなかった。
一流選手である母のことは、当然誰もが知っている。その長男がぼくであることも。
魂を切り売りするような曖昧な環境の中、母がその身で蓄えた知識と経験全てを直接その身で学ぶことが許されていたし、だからこそぼくは将来こおりタイプのジムリーダーになることが決まっていた。
ジムリーダーという職業に就ける保証は、ガラルのトレーナーであればのどから手が出る程欲しいものに違いない。地位も名声も約束された、人々のまなざしを集める立派な職務がジムリーダーには課される。
もちろん母は身内だからといって容赦をすることはない。ガラルリーグは実力主義の厳格な場所だ。もとより自分のジムのトレーナーにさえ厳しいと評判のひとだ、跡継ぎと決定している相手に手を抜くことはしなかった。
今思えば幼い子供にさせることだったろうかと首をかしげたくなるようなものもあった。とにかく、凍えるような冷たさはぼくにとって母の代名詞となった。
そう思っているのも、おそらくこの世界でぼくひとりだろう。いや、こおりタイプのジムトレーナーであれば多少は理解してくれただろうか。
しかし母は、時に恐ろしい程の甘やかさを押し付けることで、ぼくから何もかもを奪おうとした。
自分の連れているバディを、ぼくのバディにしようとしたのだ。
母は自分の思うがままだったが、ぼくはなんとかそれにしがみ付いていた。そうしなければ失望されて何もかもを失うと、本気で思っていたこともある。
幼い子供だ、母親に見捨てられて、しかもポケモンさえ連れていないとなればどこにも行き場は失う。寒いキルクスの中でひとりで生きられるはずがない。
けれど初めて母がラプラスをぼくに譲るのだと言った時、ぼくの脳裏に浮かんだのは、初めてのポケモンを自分で選ぶこと、あるいは捕まえること、ずっと楽しみにしていたはずの経験が奪われてしまうことだった。
ぼくはぼく自身の新しい経験をしっかりとこの身に刻み、そして絆を深めた相手と一緒に居たかった。
きっと母のラプラスをぼくがバディにしてしまえば、また母はラプラスに対してもっと良い方法があるなどと言って強く口出しをしてくるだろうことは、手に取るように想像が出来た。
母が自分の育てたラプラスを譲られてしまえば、何もかもを失ってしまうと思った。それはもはや、スタイルの押し付けに違いなかった。
ポケモンが嫌いなわけではない。こおりポケモンのことも、繊細で美しく、そして特有の強さをもった彼らを尊敬していた。
リーグを席巻するようなポケモントレーナーにはなりたかった。ぼくであれば必ずなれるだろうという自信も少なからずあったのだ。
だが、とにかく母のやり方に「No」を突きつける必要があると思った。それも早急に。
でなければぼくがぼくでなくなる。枷付きのぼくに、呼吸が出来るとは思えなかった。今でさえ、母のやり方についていくことは簡単ではなかったのだから。
それからぼくが行動に移したのはあっという間の事だった。こおりに強いポケモンをぼく自身の力で手に入れた。
そして、ぼくはとうとう母の元から離れたい、いわタイプを極めたいのだと母に告げることが出来たのだった。
当然のように母は絶対零度で怒ったし、ぼくもそれに対抗した。絶対に譲らない硬い意志を示した。母は自分の部屋に戻っていった。その向こう、廊下の先にぼくの部屋があったので、半分だけ開いたままの母の部屋の扉を覗いた。
そこで見たのが、母の降らせた雨……もとい、涙の姿だった。
気丈で強く気高い母が、明るくて優しく頼もしいあの母が、まさか泣いてしまうだなんて。そしてその原因がぼくだなんて、信じられなかった。
口の中が乾き、それから胸の奥の方に震える熱くて重たい塊のような何かがあった。それが何なのかはわからなかった。ただ、暗雲はぼくの心にも分厚く鈍く立ち込めていることだけは理解した。
ぎゅっと口を結び、母の部屋を後にした。それから荷造りの仕上げをして、いわジムの下へと飛び込むつもりだった。
ばたんと部屋の扉を閉ざし、既に衣服や荷物が詰められた鞄を見ようとした。何かの角を思いきり踏みつけてしまい、痛みに呻きながらベッドの中に顔を押し付けた。
普段なら綺麗に整理しているはずの部屋の床の上に、無造作にものを置いて捨てていたぼくの自業自得だ。大きなテレビの電源が入り、画面はトレーナーの試合を映し出している。
スタジアムの中、キョダイセキタンザンが大きく吠えると無数の岩が現れて、相手の周囲を囲っていく。
もくもくと上がる煙はキョダイマックス・エネルギーを受けた赤い色とともに、彼自身の黒雲の色を保っている。
ぼくは思わずじっと見てしまう。キョダイセキタンザンはその大きな身体で苦手な水さえ受け止めて、たちまちスピードを自分のものにしてしまった。その鮮やかさと猛々しさが、きらきらと輝いて映る。こおりタイプのポケモンでは持ちえない耐久の力と、熱が生み出す力強さ。
あまりにもカッコよすぎて、ぼくの目は虜だった。
ぼくがテレビを見ていたことに気が付いたのか、ボールからタンドンが現れて、彼もいっしょになって画面の釘付けになる。いつもだったら叱るところだが、ぼくにはそんな余裕すらもなかった。
ただただセキタンザンのすごさに圧倒されていたのだ。

「……タンドン。ぼく……きみとこういう風になりたい……。どうかな……?」

ぼくが見下ろしたタンドンの赤い瞳は、ごうごうと燃えていて、画面の中で岩を生み出した時のセキタンザンの色そっくりだった。ぼくは同じ気持ちを抱いてくれていると確信した。
ぼくは反発する。ぼくは彼を利用する。母の檻から逃げるための、硬くて小さな鍵として。
そして氷を打ち砕く立派な岩石として。

「……うん……。ぼくはまだ……その……何て言っていいかわかりません。うまく言葉に出来なくて……。でもいつかぼくの心が……きみともう一度ちゃんと話せる時……。
必ずきみに伝えてみせるから……だからぼくの隣で……今一度バディになってくれますか」

タンドンはその小さな体で頷いてみせてくれた。もう十分すぎる程で、ぼくの胸の奥に溜まっていた温度がごうごうと溢れんばかりだった。
でも零してはいけない。ぼくはさっき見た母の降らせた雨を思い出して、目を瞑った。
瞼の裏に描くのは、真っ蒼に広がる空と吹き抜ける白い雲の下にいるぼくと、セキタンザンだ。天気晴朗の日、ぼくとセキタンザンは一緒にトレーニングをする。
バディはセキタンザンだ。きっとどんよりとした曇天みたいな煙がぷかぷか浮かんでしまう時もあるだろう。それでも、ぼくは描く。強く強く思い描く。
晴天の強い日差しの下、蒸し暑くてすぐバテてしまうような場所で、セキタンザンの熱がさらにぼくの居心地を悪くしてしまうような島の上で、ぼくたちは訓練をしたり、時にはポケモン勝負をするのだ。そんな毎日が当たり前の日が、必ずやって来るのだ。
その時にはきっといわジムの立派なジムリーダーを務めて、メジャーリーグの中心選手になっている。大丈夫。
ぼくの、ぼくたちの夢は、怒られるようなものでもなければ、哀しいものにもさせやしない。
母の双眸にも再び気持ちのいい輝く蒼穹がやってくる。いや、呼んでみせる。
それはいわタイプの魅力をもっとぼくの言葉で、身体全てで伝えられるようになった時だ。
それこそが母の夢を捨てて雨を降らせたぼくに出来る、最上級の親孝行だから。

タンドンと一緒に寝る話

家を出て初めての夜のことだった。
部屋の電気を消してベッドの中に潜り込むと、マクワはそこでモンスターボールのスイッチを押した。光と共に現れたのは、タンドンの紅い瞳だった。ふわふわした不思議な場所に呼ばれたタンドンはきょろきょろと見まわしていた。
マクワが珍しくいたずらっぽい楽しそうな笑顔を浮かべているのを見て、ぱちぱちと瞬きをした。

「……ずっとやってみたかったのです。きみと一緒の布団で寝ること。キルクスは寒くて布団がいつも冷たいから……きみに温めて欲しくて」

マクワは布団から頭を出して横になる。うっすらと外が明るくなって、タンドンは入り口をようやく理解した。布団のトンネルの中、自分の持っている灯りだけが頼りだった。
しかしマクワがタンドンを私的な事で呼ぶことは珍しい。いつも呼ばれる時は訓練だったり、ポケモン勝負をする時だった。タンドンは嬉しくなってマクワに寄り添う。柔らかい手が、タンドンの頭を撫でた。

「ここならきみの色が付いてしまってもぼくが自分で洗えますからね……やっぱりタンドンは温かいな」

灰簾石の丸い瞳がタンドンの紅い光を受けてきらきら光っている。けれど安心したようにゆっくりと瞼の帳が降りていった。その光景を間近で見たタンドンは、自分の奥の熱がぐっと強まるのを感じた。
身体の奥底にある炎の揺らめきの形がはっきりとわかる。力を込めると、まだ幼いはずの火の力がごうと燃え始めた。
これならマクワをたくさん温めてあげられる。そう確信したタンドンはその熱を逃さぬように精いっぱいの力で維持した。そしてマクワの胸元で自分の瞳も閉じたのだった。

タンドンは薄暗いふかふかの中で眼を覚ました。布団の中は一晩経ってもぽかぽかで、なんだか洞窟に居た頃を思い出して懐かしくなった。けれど今はマクワが隣に居る。
そう、真横にマクワがいた。彼の胸の奥で、何かがばくばくと音を立てていることに初めて気が付いた。これがマクワの「炎」なのだろうか。そう考えるととても心地の良いものに思えた。
少しだけ聞いた後、マクワの寝ている様子が気になって、布団から頭を出した。
枕に頭を乗せた少年は横向きに寝ていて、随分と汗をかいていた。眉根が顰められていて、随分と顔が赤い。タンドンは目を瞬きさせた。慌てて掛け布団のトンネルから飛び出して、マクワの枕元に立ち、とんとんと小さく身体をぶつけた。
何度か当てていると、瞑られていたあの灰簾石の目が自分を見た。しかし昨日の輝きとは違って、瞼も重そうだ。タンドンの心の中が心配の石ころでいっぱいになる。

「……タンドン? 時間ですか、ありがとう……」

タンドンは一生懸命横に身体を振った。マクワは額に零れた汗をぬぐった。

「……ぼく……? そうだ……なんだかだるくて……あつい……。でも大丈夫……ですから」

もう一度タンドンが否定を全身で現すと、掛け布団の端っこを身体に引っ掛けて思いきり畳んだ。突然外気に触れて、マクワは身体を小さくすくめていた。

「……涼しい……。ありがとうタンドン」
「ゴゴ!」
「……暖め過ぎてしまったかも……。ごめんタンドン、水……持ってきてくれますか? ペットボトルが戸棚にあるから……」

タンドンは頷くと、すぐにベッドから飛び降りた。そして飲食物のまとめられた戸棚を探すと、観音開きのウォールナットに身体をひっかけた。一番目の戸棚はシリアルやポケモンフーズでいっぱいだった。次の扉に未開封の飲み物が一式まとめられていた。
タンドンはそのうちのおいしいみずを一本取り出すと頭に乗せた。再びマクワの下へと走った。
ベッドは高さがあったが、気が付いたマクワが手を伸ばして受け取るのを確認した。上の寝間着を脱いで、シャツ一枚になっていた。

「ありがとう」
「ゴゴ?」
「……ほかにひつようなもの?」

マクワはボトルのキャップを開け、水をごくごくと飲み干していた。余程喉が渇いていたのか、あっという間に空っぽになってしまいそうだ。まだ水がいるのではないかとタンドンは考えた。
顔色から、マクワの体温がずっと上がっているのはタンドンにも理解が出来た。熱い時はいつも真っ赤になってしまう。近くにあった下敷きを使って、水を飲むトレーナーへとベッドの下からぱたぱたと風を送った。
すっかり中身のなくなったボトルがベッドサイドに置かれた。ふう、と大きなため息が降りた。
それからマクワの脚が伸びて、タンドンの目の前に居りてきた。マクワはベッドに座り、タンドンを見下ろしていた。まだ顔色は悪いが、さっきよりは随分と良くなっていた。

「おいしいみずを飲んだら大分らくになりました。ご迷惑をおかけしてすみません」
「ゴオ」
「……ごめんねタンドン。せっかく温かくしてくれたのに、きみの温かさについていけなかったようです。でも今度は大丈夫です。ぼくももっと身体を頑丈にしますから!」
「ゴオ!」

タンドンはまた慌てて首を振った。これは迷惑でもないし、マクワのせいじゃない。どう考えたって自分の調整の失敗だった。人間には自分と違う適切な温度があるのはわかっていた。わかっていたのに、つい張り切りすぎて見失ってしまったのだ。
マクワは自分と居るためなら何でも平気で耐えようとしてしまう。だからこそ、しっかり見極めて調整しなければいけなかった。
タンドンは車輪を転がし、マクワの脚に自分の頭を軽くぶつけた。

「……ま、まあそうですね。ぼくのバディになるくらいですから……これくらいはちゃんと理解していてもらわないといけませんね。でもきみが……ここまでの温度を維持できるとは思いませんでした。訓練の賜物でしょうか」

少年は足にすり寄る相棒を抱き寄せると、再び布団の上で寝転がった。タンドンと一緒に寝る時は、薄い掛け布団に変えるのも良いかもしれない。タンドンが畳んだ掛け布団に白い脚先を降ろした。

「まだちょっとだけ怠いから……もう少し一緒に寝てくれませんか」
「ゴゴゴ!」

石炭のポケモンは、再びあの灰簾石の瞳に幕が下りて行くところを見た。今度こそはこの帳の番をしっかり務めるのだ。もう次は同じ間違いはしない。
同じ場所に、同じものを置いていたい。そう祈り続けていることも、同じだと確信しているから。

石炭とゆき

とある日、炭鉱の洞窟の外へ出てみると、ちらちらと降る白くて冷たいふしぎなものがあった。それはあっという間に草むらを覆い、辺り一面をまるで違う世界の中へと呑み込んでしまった。この山ではほとんど見ない光景だ。少なくとも、俺が生まれてからは初めてだった。
誰かからポケモンは進化をするのだと聞いた事があるけれど、山もこうして進化したのだろうか。不思議に思った俺は仲間に尋ねてみた。物知りの彼はけらけらと笑って

「違うよ、これはこおりというものだよ。もう少し正しく言うと”雪”だ」

と教えてくれた。ゆき、こおり。初めて聞く名前に、俺は何度も反復しながらその白いものに触れてみた。しゃくしゃくと音を立てて潰れるそれは、あっという間に姿を消してしまい、元の草に戻ってしまった。踏みつけた部分が少しだけ濡れていて、しみるような感覚だけが残った。

「僕たちはこおりに強いから平気だろう?」
「……これは水なのか?」
「ああ、水が寒い所で変化するものらしい。僕も詳しくは知らない」

彼はそう言うと洞窟の中へと戻ってゆく。俺はまだ気になって、風に吹かれてゆらりゆらりと降りてくる雪の中をころころと車輪で駆ける。白色の草むらを歩けば、その部分だけ積雪が無くなり轍が残っていく。雨の時はもう少しだけ重たい感覚があるのに、雪の時はなくて、それも不思議だった。その日は雲間から蒼空が顔を出すまで、そうして戯れ続けていた。

それから幾年か経ち、俺はマクワという人間と共に旅をするバディになった。
今は旅の最中、ジムチャレンジという課題を全て繰りぬけて、この地方一のトレーナーになる事が目標らしい。だが、その前にマクワにはもうひとつ大きな目標もあり、ピリピリしているのだが、この際は置いておく。
まだマクワも俺もお互いの事を詳しく知り得ぬまま、旅の同行者として日々を過ごしていた頃。
今朝町を出発し、今日は道端でほぼトレーニングに費やしながらゆっくり道を進む予定だった。
俺はマクワの作る訓練メニューについていくのがやっとで、しょっちゅう音を上げていた。
限界まで走り終えて、息を整える俺にマクワは言った。

「……休憩しましょう。今日の目標はクリアです。お疲れ様でした」

その言葉を聞き、解放された嬉しさから身体の力を抜いてその場で倒れてみせる。

「まだまだ目標には遠いですが……それでも少しずつタイムは良くなっています。その調子……です……タンドン?」

なんだかとても眠くなってきた。心配になったのかマクワが近寄り、両手で抱え覗き込んだ。俺は目を開き、大丈夫だと伝えた。

「……よかった。運動直後だからかだいぶ体温が上がっていますね。熱いです……それに……ううう……?」

マクワは何かに気が付いたのか、俺の身体に顔を寄せると、くんくんと鼻を動かす。それから思いきり眉間に皺を寄せて、とにかく嫌悪感を隠しきれていない、見た事のない顔をする。
こんなにも表情に出るのだな、と場違いなことさえ考えてしまった。

「うぐ……。タンドン……きみって……すごく独特な香りがするのですね……。炭坑の香りかと思ってましたが、いや石炭自体の香り……埃みたいな……古い家のような……」

なんとか一生懸命ゆっくり言葉を選ぼうとしていることだけは伝わったのだが、褒められてはいないことだけはわかった。俺も今、きっと同じような苦々しい表情をしているに違いない。
マクワはゆっくりと俺を降ろす。

「……うわっ! 手が真っ黒!服も!? 洗ったら落ちるかな……」

自分の掌を見て大きな声を上げた。見れば確かに真っ白なマクワの掌が綺麗な黒に覆われていて、上着の裾やズボンにまでもあちこち黒い煤がついてしまっている。
さらには鼻先や頬にも黒いもので落書きをしたかのような線が走っていた。
これは俺が持ち上げられる前にはなかったものなので、自分がつけてしまったんだということはわかる。マクワの反応からして、良くない事なのだ。どんどんと心の炎が小さくなってしまっていくのがわかり、俯いた。

「……こんな『石』もあるのですね。ぼくは今まで石というものは無臭で、色がつかないものだとばかり思っていました。……でもそうですよね、きみは『ほのお』を燃やせる『いわ』です。
『いわ』の個性が持つすごさ……! きみはいろんなことに気付かせてくれる……。
……新しい思い出がひとつ増えました」

明るい声に、俺はおそるおそるマクワを見上げた。灰簾石の眼は、思っていたよりもすぐに輝きを取り戻していた。

「しばらくは驚くこともあるかもしれませんが……すぐ慣れますから。これくらいぼくであればどうということはありません」

しゃがみ込んだマクワが、少しぎこちないが手の腹で俺の頭を撫でた。どうやら慰めてくれているらしい。
その気持ちが嬉しくて、なるべく汚さないように擦り寄った。

それからまた幾年経って、マクワはとうとういわジムリーダーに就任した。
あの頃よりもお互いにずっとずっと成長し、俺もセキタンザンに進化することが出来た。
マクワの目標はまた形を変えて、俺たちの前に高く聳え立っていたが、悪くない。
今日は日課のトレーニングを終え、このままキャンプ形式で夜を明かす予定だ。
ワイルドエリアの片隅、砂の盆地に大きな太陽が沈んでゆく。

「今日は少し煤が出てますね……組み方でしょうか」

俺の横で背中の石炭の様子をみたマクワが呟いた。たまに体調が悪いと黒煤が出てしまうらしい。
少し水を入れた金属製のバケツに、一つずつトングで掴んだ石炭を入れてゆく。次は順番に背中に戻していく、時間のかかる作業だ。
体温は下がるが、なんとなく詰まっていたような感覚がすっきりして気持ちが良い。
俺にとってはどうってことのない時間だが、人間であるマクワにとってはかなり長い時を使うものだろう。さっきまでオレンジ色だった天空に黒が掛かり、ぽつぽつと星の光が射貫き始めている。
しかしマクワは一度も嫌だとか、辛いだとか言った事はない。だから俺も安心して背中を預ける事が出来るのだ。

「シュポー?」
「……へ?」

細かく石炭を並べることに集中していた頭が、突然俺の呼び声に引き戻されて、ちょっと間の抜けた声を上げた。きっと同じくぽかんとした表情をしているのだろうが、ここからだとみえないのが残念だった。

「すみません、聞いてませんでした」
「ポオ」
「ああ、これですか? 特に考えた事は……それよりきみがいつでも最大のパフォーマンスで試合を沸かせてくれることが大切ですから」

流石、トレーナーとして100点の答えを聞かせてくれた。でもバディとしてはあまり嬉しくなかったので拗ねて返す。

「シュポ」
「……まあ、その……そうですね。……ぼくが……好きなのですよ。きみの背中の炎がきちんとひかるように組むこと……」
「シュポォー」
「満足してくれましたか」

マクワはまたすぐに作業の方へと頭を切り替えたらしく、それから何も言わなくなってしまった。自分に、なにより自分の為に向き合ってくれていることに変わりないのに、なんだかほんの少し心細いような、寂しいような気持ちが湧いていた。まるで彼がこの背中に一人で山登りでもしているかのようだ。
それでも背中への登山が終わったのはそれからすぐのことだった。

「よし、終わりましたよ。これで問題ありません。ありがとうございました」
「ボオ!」
「……何かありましたか?」

俺の顔を覗き込んだマクワの顔が、随分と真っ黒に汚れている。もう日は沈んでしまったが、俺自身が放つ炎の灯りに照らされて見えている。煤の汚れだった。
マクワがいつもポケットに入れている小さな手鏡を指し示せば、彼もすぐに思い当たったようで、自分の顔を鏡で覗き見た。マクワが念入りに髪や顔の手入をしていることは知っている。
昔、大慌てだったことも、未だに記憶に根付いているのだ。
相棒は少し斜めに顎の角度を変えて四角い鏡を見ながら、

「……ああ、真っ黒ですね」

といって、困ったように笑うだけだった。俺は思わずぱちぱちと目を瞬かせた。拍子抜けだった。もっと驚くと思ったのだ。

「……きみの手入をした後なら当たり前ですよ。これは名誉の勲章みたいなものです。きみとお揃いなのですから。……まあ後ほど洗ってきます」

さらにマクワは胸を張ってみせて、楽しそうに笑った。
まだこの前、石の色さえ知らなかったマクワだった。彼は誇らしげに前髪を弄ってから、荷物用のテントの方へとぱたぱたと駆けていった。
俺の背中の炎がぼおっと熱くなり、その背中を追いかけていきたいような衝動まで駆られてしまった。

夜も深まった。周囲にはポケモン達の気配もいない。食事もとり終わり、あとは就寝するだけだ。
シュラフの中に丸く収まったマクワが、寝る位置を調整するために俺の背中でごそごそと動く。

「……やっぱりこちらが良いです。セキタンザン、もう少し後ろに」

マクワが身体を起こして、俺の場所を指示する。言われた通り位置をずらして、足の上にマクワがのれるようにする。マクワは足の上に身体を乗せて、俺の腕を枕代わりにすると腹に顔を埋める。

「シュポォ?」

普段は問題ないが、ごく稀に体調が悪いと思いきり黒煤がついてしまう事があった。さっき煤を付けて、洗ったばかりなのだ。

「大丈夫です。……平気です」
「シュポー」

心配の声を掛けたつもりだった。すると余計に意地を張ったのだろうか、マクワは更に俺の方に身体を寄せて、しっかり顔を埋めた。

「きみ……埃みたいな……古い家みたいな香りがしますよ。独特な香り……です」

背中に顔を押し付けているせいで、もごもごと言う。いつか聞いた言葉にそっくりだ。
だけどその時とは違って笑みが含まれている。

「きみのお陰でいろんな……香りのする石を知りました。海の香りのする石、きのみの香りのする石、草や土の香り……でも煤っぽいのはきみくらいで……ふふ」

眠りの中に蕩け始めた言葉が、だんだんと要領を得なくなり始めた。ぼんやりと、マクワの頭の中にある何かをそのまま捉えては浮かび上がらせていた。

「黒い色がつくのも……きみくらい……あったかくてつよくてなつかしい……ほのおの香り……」

俺はその時むかし見た、あの白い雪の事を思い出していた。色が無くて冷たくて、轍と共にすぐに消えてしまうあの不思議な存在。
マクワはあのこおりと共に育って、そしてこおりよりも強くなりたいのだと言う。そのために、俺の力が必要で、つい最近ようやくこの姿にまでなった。
彼が俺のもっている色がついてしまうとか臭いだとかの特徴を全く知らなかったのも、きっと無理はないのだ。だって俺も「雪」のことも「こおり」のこともちっとも知らなかったのだから。
けれども今、マクワはこうして俺の隣で身体に顔を埋めて、安心しきった顔ですやすやと寝息を立てていた。
出会った最初の頃、俺の香りの事も、色がついてしまう事も、嫌がっていたことはまだはっきり記憶に残る。しかしそれを掴んでいなくてもいいのだと、今の彼が教えてくれていた。
ふと空を見上げれば、たくさんの星がきらきらと俺たちの天空を飾りつけて輝いている。負けないくらいの瞬きを、刹那のよろこびを、俺はじっとこの身に焼き付けて、噛み締めていた。