何気ないエキシビジョンマッチだった。マクワにとって、ジムリーダー就任後、まだ指折り数えられる程度の公式試合。だがしかし、マイナーリーグにいる身としては、少しでも早くメジャーに上がるための大切な修練のうちの一つ。
結果、無事勝利を収める事が出来た。マクワは堂々とインタビューを受けて、良かった部分を語る。瞬く間に映像は記録となって、ガラルのメディアの端っこを動かした。
控室に戻り、マクワは大きくため息をつく。スポットライトの裏に伸びるのは深い影だ。
確かに結果は良かった。これで自分の為に出資してくれたファンにも、少しは恩義を返せるだろう。
しかしその内容に関しては、反省点の多過ぎるものだった。トレーナーは眉間を抑える。
「なぜ、あそこで……」
ただ勝つだけではいけない。よりポケモンの魅力を引き出す戦い方をメディアに映すこと。それは同時に、代わりに戦ってくれるポケモンたちに対して人一倍危機管理に気を配ることでもある。
見ていて心地よくない試合は、危険性ばかりに気をとられてしまい、観客に伝わらないものだ。
気がはやってしまったのか、逃げてダメージを減らすべき部分を受け止めさせてしまった。
頑丈ないわポケモンの取り柄でもある。だが、もしそれが後々あとを引いてしまった場合を考えれば、最悪の選択となりかねないだろう。
そして、何より。
マクワの心をざわつかせるのは、この試合を、直接母親が見ていたということだ。偶然だろうが、メジャーリーグにいるメンバーでの会合が、このスタジアムの一室で行われていたらしい。
偶然にも、母は終わりがけの試合を目にしており、自分が「勝った事」で上機嫌そうに去っていく後ろ姿を見た。
しかし何よりマクワは知っている。ポケモンに対して誰よりシビアな母が、この手の失敗を、本来ならば許さないだろうということ。
幾度か叱られたときの実際の記憶は、今でもすぐに再生することができる自信があった。
無数にある反省点のうち、すぐに解決出来そうなものだけをさっと洗い出し、マクワはすぐ訓練に向かった。翌日も早朝からジムで仕事がある。あまり長い時間は使えない。
自分だけでなく、途中セキタンザンとの鍛錬もてきぱきとこなす。さっさと終わらせたのち、支度を整えてベッドに向かったが、どうにも今日の試合ばかりが脳裏に戻りちっとも入眠できずにいる。
アルコールの力を頼ることにした。強い酒をなみなみグラスに注いで一気に仰いだ。大きな瓶を1つまるまる空にしてから、そういえば夕食を摂り損ねていたことに気が付く。
滅多にすることのない飲み方だ。
自他ともにアルコールには耐性があり、並大抵の人よりは高いとマクワも自負していた。母親から上手な飲み方を教わっていることも、多少なりとも助けになっているだろう。
いくら体質的に強くても、訓練していたとしても、無茶なアルコール摂取は負担がかかる。
けれど、今回は最初からコントロールも何もなかったものだ。ふわふわした脳ははさらに拍車をかけてしまい、あっという間に次の瓶を半分程飲み干してしまった。
ぐるぐると回る天井を見上げて、頭がカーペットの上に落ちる。瞼も重い。ようやく自分の目的を思い出した所で、マクワは突然せり上がる嘔吐感に、重たい両手で口を抑えた。
胃の中身が、肉に圧されてふたたび食堂を逆流しようとする。だが吐きなれていないせいか、昇っては来ていても、口腔に届くまでは至らない。
ぐぅっ、と喉の奥が鳴る。吐き出せない気持ち悪さに涙を浮かべながら、マクワは必死に耐えた。
このままではリビングを汚してしまうことに思い至り、そのままフラつきながらも、キッチンへと向かう。
シンクの前で立ち止まると、身体に力が入らなくなり、その場に崩れ落ちた。膝をついて、四つん這いになる。きもちわるい。きもちわるい。
「お、ご……ぉえっ……お゛っ……はぁ……はーッ……ぐぇっ……!」
必死に腕の力だけで巨躯を支え、立ち上がる。シンクに顔を突っ込む。
だしかし一向に吐瀉物は出てこない。むかむかとして、胃液が内臓を焼くひりつく様な感覚は確かにあるのに、吐けない。吐けない。吐けない。
何度もえづきを繰り返し、やがてマクワは、諦めたように身体の体重をシンクの縁に預ける。
その時、真横で黒い大岩が動く瞬間を見た。大きな石は遠慮のかけらもなくマクワの口の中に入り込み、喉奥を刺激する。むっとした石炭の香りが喉から嗅覚に触れた。
今までの苦が嘘のように、一気に胃の内容物が口腔を通り、びちゃびちゃと音を立てて、よく磨かれたシンクを叩いている。
「……お゛、んご、ごお、ぼォ……え、ひ……ぃ゛……ぼおごぼご、ろ……お゛おええッ……ゲエ゛エ……!!」
味蕾を焼く胃液の酸っぱさや、胆液の苦さをまるで緩和するように、いつもの相棒の石炭独特の香りがマクワの口腔を包む。ぼやけた視界で、紅い炎を捉えた。
「シュボオ……!」
セキタンザンは片腕で白い肉体を支えながら、太い指を一つ、マクワの口の中に入れている。ほんのりと蒸気が立ち上った。
「んご、んぐ……うえ……えッ」
殆ど中身のない粘着質の少ない液体を吐き切ると、不味い体液から逃れるべく、マクワの舌がセキタンザンの黒い指に触れる。石炭の苦さが、酩酊していた世界の中で、現実味と安心感を呼び覚ます。無意識のまま、深く舐め絡まる。
「んッ、んええ……れろ……」
「しゅぽ!」
ぬるつく感覚に驚き、石炭の相棒はマクワを支える手で軽く背を叩く。ぼやけて赤く染まり切っていた灰簾石が、はっと気付いて光った。
慌ててレバーを動かし、蛇口から水を出すと口の中に含んで吐き出す。普段であればはしたないと自制するだろうが、余裕のない相棒の姿はなかなか見られないものだと、セキタンザンは少しだけ思った。何度か濯いだのち、マクワは振り返る。
シンクに凭れる相棒の身体を、黒い手が軽く引っ張ると、容易く石炭の腕の上に乗った。
「……はぁー……はぁ、……ありがとう……ふぅ……ございます……。た、たすかり、ました……」
「シュポオ……」
「……たぶん……、ぼく、は……。…………ぼくは……なにかを……はきたかっただけで……かあさんは……わるくなくて……。……はあ……まさかぼくが……こんな……わるよい……する、なんて……」
眠たいのか真っ赤な顔をして瞼を閉じたまま、ただ口端だけで弧を描いている。
「……フフ……さいしょから……きみをよべばよかった……」
「シュ ポォー」
「……このまま……ねるから……あしたは……おこしてくださいね……」
セキタンザンが返事を返す前に、マクワは身体の力を全部抜いてしまった。あっという間に寝息が聞こえてくる。残念だが、その要望には応えられないのだ。
セキタンザンは相棒を抱いたまま移動し、マクワのベッドに彼の身体を寝かすと掛け布団を整えた。それから横に座り込んで隣で眠ることにする。
朝は必ずロトムが知らせるだろうから、一緒に起こせばいい。
長くトレーナーと暮らすセキタンザンは知っている。
セキタンザンの上で寝てしまうと、次の日のマクワの身体は『ガチガチ』になって、痛みが発生すること。マクワは好きだけれど、なるべくやらないようにしていること。
極力睡眠の質にも気を配っていること。
ほかにもたくさんの情報を集めて、一番マクワが良くなりそうなものを選んだ。
今日、試合後の訓練時も含めて、ずっと険しい顔をしていたことも、セキタンザンは良く知っている。
しっかり身体を休めて、また明日(もっとも、日付変更はとうに過ぎてしまっているのだが)もっと良い一日を共に過ごせますように。
石炭から漏れる自分の灯りが、疲れて眠る相棒の寝顔をきらきらと照らしている。