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お酒を飲むマクワとセキタンザン

人間には酔いたくなる時があるらしい。マクワは時々飲酒をしている時に俺を呼ぶ。そういう時のマクワは、いつもとは全然違う雰囲気で、ずっと機嫌がいい。きっと本人に伝わってしまったらあっという間にその魔法は解けてしまうだろうと思うが、メロンさんそっくりだ。
酔ってない時では絶対に言わないようなこともたくさん俺に言う。

「ふふ……うれしいですか。……きみはほんとに……かっこいいなあ」

俺がマクワを見ていると、急に眉間にしわを寄せ始めた。力の篭った対の眼には涙が浮かんでいる。晩酌の時、ふわふわと上機嫌になることは多いが、泣き出す事はあまりない。
俺は思わず声を上げる。

「シュポォ!?」
「……きみがあんまり幸せそうに笑っていて……ふふ」

それは、普段誰も知らないマクワの中の不安の気持ちが形になった物だった。マクワは零すことなく指で拭い去り、消してしまった。しかし俺が幸せだと泣くなんて、ひどいことだなとも思った。
けれど俺は、俺だけはマクワのことをなんだって知っている。
マクワがひとりの人間としていろいろな問題を抱えながらジムリーダーとして立っていること。
その最もたるは、マクワが本当はこおりジムのジムリーダーとして期待されて生まれ、育ってきた。しかし彼は自分の意思を貫き通して、俺と一緒にいわジムのジムリーダーになったこと。
マクワはいわタイプのポケモンのことが好きだけれど、彼自身まだ日は浅く、内心いわタイプとの間に隔たりのようなものを感じていること。
だからこうして俺がマクワといて喜んでいること、それ以上にマクワが喜ぶことがあること。つまりうれし泣きというやつだった。

「ぼくがトレーナーなのは……当たり前ですけど……でもいわタイプのトレーナーになれたのはきみがついてきてくれたからに他なりません。きみは……なんてことないタンドンでした。けれど……ぼくについて来てくれる。すごいこと……です」

どうだっただろうか。ただ一緒に居たかった。一緒に居て楽しかったし、心地よかったことだけはずっと覚えていた。だからボールに収まることも苦じゃなかった。それは進化して、生活が変わった今もずっと変わっていない。
なんてことなかったから、特別をたくさんくれるマクワとは相性がよかったのかもしれない。
きっとそれが別のタンドンであっても、優秀なトレーナーたる彼は根気良く育てただろう。そして母親から分かつ力を得て、立派に彼の隣を勤め上げるだろう。俺たちはそういう生き物だ。

「……きみ、いま……他の子でも変わらないって思いましたね。……そんなことはありません。きみは……きみだからついて来れたのです。誇ってよいです」
「シュポォー」
「そうです……それでよいのです。それで」

でも。俺は代替の効く俺だからこそ、こうして今、マクワがたくさんくれる特別がどれだけすごい物か、実感できる気がしている。俺にはマクワの真似は絶対に出来ないのだ。
そうしてひとりで満足していたせいだろうか、缶を煽ったマクワがじっと向こうの壁を見つめていた。

「……きみは本当に……ずるいです。ずっとずっと強くてカッコよくて……硬くて……あったかくて……」
「シュポォ」
「ぼくは絶対に届かない。でも……同じ夢を見てくれて……こうして一緒にお酒の時間まで共有してくれる。……どうかきみが……きみの時間をぼくと分けることを許し続けるその日までは……ぼくと共に同じ夢を見させて。……必ず損なんてさせません、最高の」
「シュポォ!」

マクワの言葉を遮って首を振った。それはマクワのいつもの言葉だけれど、俺にとっては一緒にいるために必要な言葉じゃなかった。
いつだって同じ場所に、同じ気持ちを置いておきたい。順番や速度は違ってもいい。たった一つだけ、同じ高さにいないのは、俺がいやだった。
もう決めている。マクワが俺の事を必要とする限り、最期まで共に一緒に居たいのは俺だ。それも同じ気持ちだと知っていた。
マクワはまた眉間にぎゅっと皺を寄せて、だけどすぐに表情を変えて笑った。

「本当に……ありがとう」

セキタンザンのいわの檻の中にいるマクワの話

ぼくはいわの檻の中にいる。湿った洞窟の香りにも、砂だらけの床で寝ることも既に慣れ始めてしまった。一体ここが何処なのかはわからない。
気が付いた時、ぼくの前には、床と天井を繋ぐ岩でできた大きな柵があった。おそらくストーンエッジを並べたのだ。セキタンザンの出す岩の剣は、自分の身体に沿うのかどうしても山波になりやすく、下の方が太いことは良く知っている。
外から漏れる明るい光に影が伸びた。薄暗い洞窟だが、そこまで深くないらしく、誰かが入り口に立つとすぐに影が出来る。ちょうど外から戻って来たセキタンザンは、背中の炎をぱちぱちと輝かせ、揺らしながら抱えたきのみをどっさりと落とした。昏かった石窟に灯りが付いて、ぼくは思わず瞬きをした。
彼は柵の隙間からぼくにオボンの実を差し入れた。何も言わずに受け取ると、硬い皮を岩壁にぶつけて割り拓く。中からじわりと果汁が零れたので、慌てて啜った。

「シュポォ」

セキタンザンが自分の力で割ったきのみをぼくに差し出していた。ぼくはしばらくそのきのみとセキタンザンを見比べた後、受け取ることにした。

「……ありがとうございます」
「シュポォー!」

相棒の笑顔はいつもと何も変わらなくて、ぼくの心がふわりと浮かんだ。良くないことなのはわかっている。何度もセキタンザンを説得しようと試みた。だが彼の硬い意志はぼく以上で、絶対にここから出してはくれない。同時にセキタンザンがこの檻の中に入って来ることもなかった。
理由はわからない。ただ、彼が行動を起こす前、ぼくが仕事を入れすぎてしばらく寝込んでしまったことは記憶にもまだ新しい。
ぼくを人の世界から遠ざけようとしているのだろうか。せめてそう信じたい。
たくさんの仕事、たくさんのひと。ぼくを待っていることを考えると、ぼくはこんなところでじっとしているわけにはいかない。
ぼくだってまだやりたいことがあった。それはセキタンザンと一緒に叶える夢だ。彼もわかってくれていると思っていた。
だがしかし。

「ボオー」

何故かとても楽しそうなセキタンザンを見ていると、ぼくの心は歪に揺れ動いた。
ここに来てから、セキタンザンはとにかくぼくの面倒をみたがった。こうして食事の用意をしたり、排泄だったり、必要なものがあればすべてセキタンザンが調達してくれた。
ひとつひとつの行動が、以前のぼくたちの関係では見れなかったものばかりだった。だからなんだと頭では理解している。
でも、ぼくの手は彼から享受することを選択していた。

「ねえセキタンザン」
「シュポオー?」
「……ぼくたちこれから……どこへ行くのですか」
「ボオ」
「きみがこんなことする必要なかったのに」
「シュポ」
「何を言っているのか……わからないや」
「ボオー」
「……そうですね。……ぼく、またきみの手入がしたいな」

セキタンザンは何かに気が付いたように立ち上がり、柵に向かった。ごお、と彼が大きな口を開けて吼えると、まるで魔法に掛かったように柵のひとつが消えて、出入り口が出来る。
そこを通り、セキタンザンがこの檻の中に入って来た。彼がこうして中に来ることは初めてだった。セキタンザンはぼくの前に座り込むと、じっと顔を見つめた。彼の炎の吐息が掛かって少し暑かった。
それから手を伸ばして、ぼくの頭を抱え込んだ。

「わ、何、なんですか」

大きくて硬い指が頭皮を撫でる。髪と髪の間を通り、撫でつける。時に毛束を作って、わしゃわしゃと掻き混ぜる。もしかして、ぼくの手入をしようとしているのだろうか。
普段セットしている時を、真似ているような動きだった。

「せ……せき、たんざん……」
「シュボオ」
「ちょっと痛い」
「ボオ」
「我慢って……うぐ」

ひとしきり動きを終えると、満足したのかセキタンザンは手を放した。なんだか妙な気分だったが、セキタンザンも普段ぼくに触られている時、同じように感じていたのだろうか。
大きく息を吐いていると、再びセキタンザンが両手を伸ばした。今度はぼくの背中に回って、全身を抱きしめる恰好になった。
彼が彼自身のおよそ三分の一の重量を持ち上げたと思うと、両腕に力が込められた。みし、と骨と皮が悲鳴を上げる音が聞こえた。

「い、痛ッ……せきたんざ……ぐ……あ、ぁ……!!」

ぼくが声を上げてもセキタンザンは止めることなく、さらに力を入れている。全く動くことが出来ない。当たり前だ。人間より何倍も強い生き物なのだ。
そして彼の力を奪うことなく育てたのはこのぼくだった。戦いの中で使うために。しっかり鍛えて分厚いはずの胸板は思いきりプレスされて、中身ごと拉げそうだった。
突然の事に呼吸が上手くできず、意味のない音ばかりが口から出て行った。肺が潰れて、心臓さえもが圧迫されて、形を変えている。
これが、これこそが彼の本当のいわの檻だ。ぼくはその身で体感している。手加減なんてしない、彼の力を、ぼくがぼく自身で受けている。
目の前がちかちかと瞬き始めた頃、セキタンザンは両腕に込めた力を抜いた。塞き止められていた酸素を少しでも早く入れたくて、大きな口で息をしていた。
セキタンザンは厳しい目をしながら、ぼくを抱きしめていた。

「ゴゴオ」
「……はーッ、せ、……せき、たんざ……はぁ、はぁ……」

彼は、今この場所での主人が誰かを知らしめたいのだ。わかっている。痛苦で喘ぐ身体よりも、優秀なトレーナーだと自負する心が、バディに手を出されて何よりきりきり痛みを主張していた。

「……ぼ……ぼく、きみの……だから」
「シュボオ」
「きみの……バディだから……ここにいますよ。ぼくのいのちはきみの……」
「シュポォー……!」

セキタンザンが再びぼくを抱き寄せる。今度は圧迫のない、ただ寄せられただけのもの。両手を回したいが、両手ごと抱きしめられて動く事が出来なかった。
苦痛よりも、矜持よりも、もっと深くて重い繋がりを握りしめていて、手放すことなどできなかった。彼が居なくなってしまうことの方が何より怖くて、痛かった。
ぼくはいわの檻の中にいる。ずっと昔、彼と出会った時から、いわの檻の中にいる。

 

予定外

明日は軽いトレッキングに行きます。きみも入れそうな洞窟を見つけました。気にいると思います。
そう言って眠り夜を過ごし、いつもよりほんの少し遅い朝食を食べた後だった。多忙な日々の合間、完全な休日は貴重だ。
マクワが支度を整え、部屋を出るまでセキタンザンも、違う部屋で自分の荷物を用意して待っていた。道中、好きなタイミングで好きなきのみを食べる事が出来る。もちろん荷物を持ちすぎれば自分に負担が掛かる。
あとでマクワが何か言うかもしれないけれど、貯蔵庫からオボンの実を2つ持ち出した。
もっと辛いきのみがお気に入りだが、運動する時はさっぱりしたきのみの方が合うことをセキタンザンは良く知っていた。しばらく悩んでいたが、今回も運動に適したものがいいだろう。
以前好きなきのみばかりを持っていき、山の天辺で食べたマトマの実は本当においしかったが、帰りはちっとも身体が動かずに、下り坂が長くて長くてしょうがなかった記憶がある。
マトマの実は気持ちを高めてくれるが、身体を休めてくれる力はないのだ。ポケモンバトルは短期間で片がつくが、山登りは全く違う。時には何時間、丸一日と掛けて行うものだった。
その日の出発前のマクワの提言に従わなかったことを、だいぶ後悔したのだった。
そこでセキタンザンははたと気が付いた。向こうの部屋から、準備しているはずのマクワの物音が聞こえてこなかった。
それに出発の予定時間はもう目の前だった。気になったセキタンザンは廊下に出て、リビングルームへと歩みを進めた。
キッチンの向こう、背中を向ける二人掛けのソファの横に、荷物をまとめた大きなリュックサックが立てかけてあり、マクワは中央に座り込んでいた。奥の窓から優しい陽射しが入りこみ、細かい埃が舞っているのが見えた。
セキタンザンは横からマクワの顔を覗き込んだ。

「シュポォ」
「……セキタンザン。……ごめん、なんか……お腹痛くて……」

マクワは両の手で自分のお腹をぎゅうと抑え込んでいた。眉間に深く皺が寄っていて、額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。顔色はあまりよくない。
セキタンザンはすぐに近くの棚からブランケットを引っ張り出すと、広げてマクワを包み込んだ。しかし彼は白金の頭を振った。

「でも、これくらいならすぐ治ります。……移動しているうちに平気になりますから。……うぐ」
「ボオ」

青年は突然立ち上がると、ブランケットを前に引っ張る。それからトイレに駆け込み、ばたん、と扉を閉める音が鳴って、壁に掛けてあった額縁が揺れた。
セキタンザンはしばらく目をぱちくりさせていたが、すぐに気を取り直した。これはもうトレッキングどころではないだろう。きっとマクワもそう思っているはずだった。
人間が腹痛を催した時に必要なものが他にもある事を知っていた。
ソファの横、ドレッサーの棚に薬品をまとめた籠が入っている。セキタンザンは器用に探り当てると、その中から腹痛用の鎮痛剤の茶色い瓶を見つけた。
次はキッチンへ向かうと、今度は金属製のカップに水を汲み、蓋をして自分の背中に入れた。すると背中を丸めたマクワがブランケットを引っ張りながら、トイレから出てきた。
まだ顔色は悪いが、眉間の皺が少し薄れ、汗も引き、さっきよりは落ち着いていた。ドレッサーに置かれた薬瓶に気が付くと、マクワはちょうどキッチンからやって来るセキタンザンを見た。

「……ありがとう……ございます……。用意周到だなあ……」
「シュポォ!」

セキタンザンは得意気に背中からカップを渡す。しっかりとお湯が出来上がっていた。

「……ちゃんと蓋もしてるから灰も入ってないし……石炭のにおいもついてないし……。もう、きみに文句言おうと思ったのに……文句の付け所がないじゃないか」
「ポー」

マクワはセキタンザンが用意した整腸剤をセキタンザンが温めたお湯で流し込んだ。丁寧に加減されたお湯は熱すぎることなくちょうど良く体を温めてくれた。
コップをドレッサーに置き、そして二人掛けのソファに横たわると頭までブランケットを被った。

「あーあ……楽しみにしてたのにな……。きみと今日洞窟行くの。ちゃんと自己管理もトレーニングもしてたはずなのに……。なによりぼく自身のせいなのも、耐えられないのも嫌だ……」

ぐるりと背中を向けて、丸い身体が縮こまった。人間にしては大きな身体だ。
マクワは身体を動かす事が得意でも、洞窟のような場所が特別好きな場所だと言うわけではなかった。
岩穴は、セキタンザンにとって居心地の良い空間だ。マクワは時々セキタンザンを洞穴に連れて行ってくれるが、しっとりとした落ち着く岩壁がぐるりと取り巻く間に居ても、天井で岩が何やら複雑怪奇な波模様をぐるぐると描いていても、大抵はバディの反応のほうを見て過ごしている事の方が多かった。
セキタンザンがその時に思い描くマクワの心の中は、バディが喜んでくれて嬉しいという気持ちと、いわポケモンのトレーナーで居られる喜びを噛み締めている気持ち。彼にとって洞窟はずっとずっと遠い存在なのだ。
その距離を小さくとも繋げることが出来たセキタンザンは、少しだけ誇らしい気持ちになったのだった。
だからきっと今日も同じ事ができるだろう。
セキタンザンはその不貞腐れた背中ごとさらにブランケットで巻いてやる。

「シュポォ!」
「……え? 一緒にいるの楽しくないのかって……。ふふ、参ったなぁ……」

簀巻きになったマクワが笑いながら頭を出した。

「予定変更しましょう。今日は部屋で……トレッキングとか、洞窟探検の映像でも探してみましょうか。もしかしたら面白そうな映画もあるかもしれません」
「シュ ポォー!」

ベッドから這い出たマクワが、テレビのリモコンを持ち上げた。
モニターは、いつだって2人の不揃いに寄り添う影を写し出している。

透明な砂石

セキタンザンはチャンピオンだった。
スタジアムに立てばたくさんの人が歓声を上げる。名前を呼んで応援する。勝つのは当たり前だけれど、倍率の高い席を高いお金を出して何とかもぎ取ったのだ、やっぱりカッコよく決めてもらいたい。
そんな有象無象の観客の期待を背負っていることを、セキタンザンはきちんと知っていた。
子どもたちは一番最初のポケモンにタンドンを選ぶ子が多いのだと、リーグスタッフたちは誇らしげに言っていたし、青いサングラスはしょっちゅう売り切れてしまうらしい。
おまけにあのバディが繰り出す宙返りを真似しようとして怪我する子の多さは一時期社会現象になり、子供でも真似しやすく、見栄えの良いアクロバット投法を新しく編み出し、瞬く間に広まった。
チャンピオンというものは、マクワと共にずっと目指していたものだけれど、これほどまでに世界に影響を与えてしまうのだということを知らなかった。
計り知れないその大きさは、今でも自分事のようには思えない。きっかいな気持ちだった。
控室にまで掲げられている立派にポーズを決めたマクワと自分を映した姿見の横断幕をぼんやりと見上げてセキタンザンは思い返していた。
そう、自分はチャンピオンだ。チャンピオンと、チャンピオンのポケモンなのだ。それはわかる。
だけれど不思議なことに、自分がいつからこうしてチャンピオンとして名を馳せていたのか、その道程がハッキリと思い出せない。リーグのトップに立ったというからには、必ず前リーグチャンピオンを打ち倒した経験があるはず。
それなのにセキタンザンの頭の中には、人の顔さえ思い出せないまま、まるで霞掛かったような記憶だけが漠然と転がっていて、通り過ぎる事も、踏み越える事も出来ず、もやもやとした感覚が残っていた。
マクワも同じだろうか。一度聞きに行った事がある。しかしその時は上手く取り繕われてしまった。今度こそ聞き出そう、そう決めたその瞬間だった。
がたがたと、大きな物音がして、奥の扉が開いた。控室の向こうは物置に続いていたはずで、今は誰もいないと思っていた。今はイベントの真っただ中で、全ての人がスタジアムの中へ出払っているはずだ。
扉を開けて部屋に入って来たのは、マクワだった。しかしセキタンザンにはすぐに分かったが、明らかにいつも見知っているバディとは様子が違っている。
今にも閉じそうな丸い目、閉じて重たい口許、ふらつく足、あれほど普段身だしなみに気を使っていた髪は一切セットされていないし、衣服もボロボロだ。
ふらふらと彷徨う視線がセキタンザンを捉えた瞬間、まるでセキタンザンを生まれて初めて見つけたかのように灰簾石の眼に青い輝きが灯った。
セキタンザンが急いで近寄ると、倒れかけのマクワは太い腕にしがみ付いた。ばらりと、砂が落ちた。

「……せき……タンザ……ン……よかった……。きみは……ここでは、ちゃんぴおん、ですね……?」
「シュポォ」

今輝いたばかりの瞳が、すぐさま虚ろに堕ちていく。それでも後ろのタペストリーのセキタンザンを見つけたのだろう。今見せた近しい色の輝きが少しだけマクワの時間を取り戻した。
かすれた唇は時折噎せ返りながら、たどたどしく言葉を作っていた。

「ぼく……。ぼく、は……こんなこと……しんじて、もらえない、とおもいますが……。きみを、ちゃんぴおんに、するために……ほかの、せかい……で、……がんばった……ぼく、です……。いろんな、せかいで…………いろいろ……しました。……中には、許されないことも……、ありました……。……でも……きみが、ちゃんと……チャン……ぴおン……になって……いたから……」
「シュ ポォー!」
「どうか、ここでのぼくと……なんど、でも……優勝してあげて……ください」

マクワの手から力が抜ける。ずるりとセキタンザンからも滑り落ちた身体は、ボロボロと崩れてすべて透明な石屑になり、冷たいリノリウムの床の上に転がってしまった。あれだけ大きかったマクワの体積には満たない、僅かばかりのケイ砂の塊。
しかしセキタンザンはその礫(中には砂粒ほどになってしまったものもある)を両手いっぱいに搔き集めた。床と床の隙間に入ってしまうほんの僅かな粉さえも、残したくなかったが、セキタンザンの大きな指で掬い取ることは難しかった。削れてしまった石炭の黒い粉が混じった。
控室の外、廊下に繋がる扉からとんとん、とノックの音が聞こえた。

「セキタンザン? ……今誰か居ましたか」
「ボオ……!」

チャンピオンのマクワが、控室に入って来た。蹲るセキタンザンの背中をバディの青いサングラスが見下ろしていた。

「セキタンザン、時間です。行きますよ。……セキタンザン?」

セキタンザンは白く濁った透明な砂石を、ただただ搔き集め続けていた。

疲れた日

部屋は生ぬるくて薄暗い斜陽が当たり、数日前の朝に掛けたままの上着が椅子の上で影を作っていた。ぶっ通しのイベントと撮影をし、片付けを終えたら一日はもうあっという間に、夜が近くなっていた。数週間前の空気が化石のまま復元されて、いまマクワの前で無秩序に転がっていた。
元々この週は、試合の予定が普段よりも多いことはわかっていた。そこにファンイベントを重ねていたら、契約しているスポンサーからの広告商材用写真撮影の仕事が転がり込んできた。
まだまだ走り出したばかりの新進の身、メディアでの露出スピードや回数だって多い方が自分のためでもあり、何より大切なポケモンたちのためにだってなる。
しっかりトレーナーとして調整やトレーニングの本業を疎かにしないようにスケジュールを管理しながら、なんとか撮影も上手く、楽しく乗り切った。
意外なことに、自分の中での撮影とトレーナーとしての振る舞いは、ありたい姿を自分で作るという面で似通っていた。もちろんそれだけでなく、クライアントの要望や商品を購入するお客さんを想像することも必要で、いつも行っていることそのままなのだ。
カメラマンさんや現場にいるスタッフそれぞれいろんな人とのコミュニケーションが必要であることもまた、トレーナーとしてのスキルを高める良い経験になるに違いない。
だがしかし、どれだけやりくりしたとしても一日の時間が増える事はない。とにかく休む間もなく移動にトレーニングに、試合に撮影、ファンイベントと動きっぱなしの過密スケジュール。
この部屋に戻る事もなく、ずっとスタジアムや現場近隣のホテルに泊まりっぱなしだった。
そしていま、マクワはようやく解放されてしばらくは自由の身となる。今まで分刻みどころか秒刻みにも片足を踏み入れていた所から、突然解放された脳味噌はこんらん状態に陥って、まだまだフルスロットルで駆け抜けようとさえして、目を閉じてもばちばちと光が駆け抜けているのが分かる。
だけれど身体は重力が引っ張る力に抗えず、どんよりと鋼よりも重たくて、いまも一刻も早く寝て欲しいのだと訴えている。疲れ切ってかなりちぐはぐあべこべだ。
電気もつけず、そのまま革張りの大きなソファに大きな身体をどんと乗せた。窓から入る一本のやわい陽ざしのなかで、光を受けた埃がちらちらと舞い上がるのが見えた。
つかれた。ほんとうにつかれた。
なんだか何もかもどうでもよくなりそうなぐらいに疲れ切っている。
よかったことをもう一度思い出そう。
今のところ、試合結果は上々。悪くないものだ。でもまだまだ内容を充実させていきたいし、僅かな油断さえ足を取られかねないのだ。もっといわポケモンと試していきたいことがある。そう、もっとセキタンザンと、クレバーな……。
すう、とゆっくり息を吐き、マクワは懐からひとつモンスターボールを取り出した。ボタンを押すと、ちかちかと赤い光が目の前で輝いた。
優しい木のような、ちょっと埃にも似たどこか懐かしい香りと、温かな焔が揺らめいてマクワの丸くて白い肉付きの良い頬を、高熱の小さな風が撫でていく。

「……ひさしぶりですね」

マクワは目を細めると、ほんの少しだけ口許を緩めて言った。セキタンザンは思わず目をぱちくりとさせた。試合やその前の調整の時には必ず会っているし、ファンイベントの時も大抵顔を合わせている。もちろん食事や手入などの時もだ。
少しだけセキタンザンは考えたが、すぐに意味を理解して手を伸ばした。ぐったりと力を抜いたままのマクワの背に腕を回し、抱きしめる。
正解だったようで彼は何も言わず、同じようにセキタンザンをハグし返してきた。しばらくしてから顔を放すと大きく息を吐いた。

「よい硬さ……です」
「シュポォ」

セキタンザンはいつも一緒に訓練しているからだと自慢気に返事をした。

「……それに……優しくて……良い温度で……温かくて……うん」

マクワはじっとセキタンザンの顔を見て、そっと頬を撫でた。石炭の頭が嬉しそうに擦り寄った。

「……よし。ヨロイ島に行きましょう。撮影のお礼にクライアントからチケットを追加報酬で頂きました。そこでは普段とは違う環境でのトレーニングが出来るそうです。きっとまた全然違うきみの魅力を引き出せると思います!」
「ボオ」
「ふふ、賛同してくれますか? 楽しみですね。きみの動きで……試してみたいことがあるのですよ。……きみのほのおが猛々しく燃え盛る姿! 誰も逃れられないいわの檻を操る姿! きっとかっこいい……たくさんの人が驚き魅了されます。……でも誰より一番ぼくが見たいから……。うん?」
「シュポォ」

石炭の黒い大きな手が、どんどん起き上がるバディの身体を、ぎゅっと両手で抑えつける。それから片手で背中を優しく撫で擦り始めた。
脳味噌の興奮に負けようとしていた身体の眠気が、セキタンザンがその手で働きかけたおかげで復活していた。いま最優先でとらなければいけないのは、そしてとろうとしていたのは、まぎれもなく休息の時間だったのだから。

「……ああ、うん……そうですね。大丈夫です、今日は……もう寝ますから……。きみのおかげで、やっとゆっくり眠れそう……。だってここで眠っても、風邪はひかずにすみますし、きちんとベッドに運んでくれるでしょう?」

マクワはにっこり笑う。

「……ぼくが元気になれたのだって、きみのおかげですから……。……おやすみなさい、ありがとう……」
「シュポォー!」

セキタンザンは喜んでマクワの頭を抱き止めて返事にした。それから改めてそっと何度も抱き寄せて感触を確かめては顔を見ているのが、眠りに落ちる前のマクワにも伝わって来た。
セキタンザンには、マクワが何故ここまで疲弊しているのかは理解しきれない。だからマクワにはちょっと悔しいことだけれど、わからないけど勝手に弱る脆い生き物だと思われているに違いない。庇護しよう。そんな慈愛に満ちたセキタンザンの笑顔を最後に、すっと優しい眠りの中に蕩けていくのだった。

なんでもないこと

月が光を帯びている。

朝4時、目覚まし時計の音でマクワは布団から這い出た。仮眠の時間としては十分だった。
布団の外は冷たくて、まるで別世界のようだ。
さっと準備を済ませると、外へ出た。まだ残り続ける夜は凍えるように冷え切っていた。
寒い夜が来ると、マクワにはいつも思い出す師匠の声があった。

『すごいじゃない! 本当に才能があるわ!』
『素晴らしい才能、活かさなきゃダメだよ!』
『マクワは才能があるんだからこれくらい出来るよ』
『才能がーー』

確かに、トレーニングすることは全く苦じゃなかった。ポケモンといることも、何も難しいことはなかった。師匠である母のおかげだろう。
それでもとにかく母に見捨てられるわけにいかなくて、トレーナーとして修行する頃の幼い息子の手は酷く擦り剥いたままだったが、それも『才能』のうちだっただろうか。
マクワはセットしていない頭を軽く振り、モンスターボールを投げる。
バディがまだ眠そうな顔を出した。パチパチと火の粉が弾けて、石炭の香りが立ち上った。一気に周囲が温まって、マクワは口から白い息を吐いた。

「ランニングです。行きますよ。まずはウォーキングから」
「ボオ」

仕事でどうしても難しい時以外、欠かさず行なっているマクワとバディの日課だった。
同じコースを同じスピードで走る。基礎のトレーニングであり、同時にセキタンザンの体調も確認することが出来た。
昨日はそこそこ長丁場の試合があり、まだ少し疲労があるのだろう、黒い眼は時折眠そうな顔をしていた。
セキタンザンは、スマホロトムで計測通りいつもと同じスピードを維持出来ている。調子は悪くなかった。
眠りについたキルクスの外周を巡ると、再び最初の道に戻った。

「お疲れ様でした。今日はおしまいです」
「シュポォ」

バディは揃って部屋の扉を潜った。朝ごはんを食べて、マクワはもう一度眠ることにした。随分と久しぶりのオフだ。
休まなければ身体が持たない。とはいえやりたいこともある。

「セキタンザン、10時になったら起こしてくださいね」
「シュポォ」

ベッドの中はふかふかで心地良い。あっという間に眠りの中に落ちてしまった。
しばらく隣でうたた寝をしていたセキタンザンだったが、ふと時計を見ると10時になっていることに気が付いた。
よほど疲れが溜まっていたのか、マクワはぐっすり眠り込んでいる。揺らして起こしても、微動だにしない。

「ボオ」

突っついてみた。少し眉を顰めたが、それきりだ。
再び揺らしてみた。仰向けに寝ていた身体がごろりと横倒しになった。
どうやらセキタンザンの石炭から漏れる温度が、暖かくて心地が良いらしい。
いたずら心がむくむく湧いて、足元の方へと遠ざかってみると、ベッドギリギリ落ちる寸前まで大きなマクワの身体が付いてきた。セキタンザンが慌てて戻ると、合わせて少し横に戻ったので、そのまま奥に押し込んだ。
あんまり気持ち良さそうに寝ていたので、セキタンザンも起こす気持ちが吹き飛んでしまった。特別な用事はないはずだ。
じっと横で見つめながら、共にうとうとしていた。

昼過ぎになって、セキタンザンは気がついた。流石に頼まれた手前、一度は起こさないと機嫌を損ねそうだ。もう一度強く揺らした。

「ボオシュウ」
「んん……いま……10時ですか……」
「シュポ……」
「過ぎてる……? 一緒に寝ちゃったの……?」
「ボオ」
「そっか……ありがと……」
「シュポォ」
「おきる……」

そう言いつつ、マクワの瞼は未だくっついたまま離れようとしない。

「ボオ」
「シャワー浴びたい……」
「シュポ!」

セキタンザンはまだ布団に隠れるマクワをぐるりと布団ごと持ち上げた。
何とか扉を開けて、廊下を歩く。

「待って、自分で歩けます……!」
「ボオ」
「もう……!」

真っ白な簀巻きの中で、ぱたぱたと足をばたつかせていた。

さっとシャワーを済ませた後、リビングの二人掛けの大きなソファに座って、まだマクワはぼーっとしていた。セキタンザンの隣、時折弾ける火の粉の音を聞いていた。瞼は重たい。

「たまには……何もしない日もいいのかも」
「シュポ」
「きみが……温かいし……いいなって。きみがいつものままでいてくれて……すごく楽しい、です」
「ポオ」
「きみはトレーニング好きじゃない?」

逡巡の後に、素直な返事をした。マクワと一緒だからしているけれど、もし違う人がトレーナーだったら絶対にしないだろう。セキタンザンの中に確信があった。
出来ればいつだってのんびりと時間を過ごし続けたい。
マクワがつまらなくとも安らかな顔をしている隣に長くいたい。
けれどもそれを大きく凌駕するほどに、マクワと一緒にいることの方がずっと良いことに思えていた。
マクワも分かってくれていて、最大限本当のセキタンザンであることに理解を示してくれている。
だからセキタンザンも、マクワがマクワの夢を追い続けることに対して、なんの意義もなかった。むしろずっと一緒に追って行きたいと思っている。

「シュポォ」
「当然きみに合わせて調整していますが……それでもきちんとぼくのメニューをこなせる……すごいことです」

マクワの目に、普段と同じ意思が宿る。冷たくて力強い、スタジアムの上で見せる眼だ。

「きみは……こおりを穿つ絶対の力です。きみはぼくのバディである以上、誰より強くあらねばなりません。もちろん甘やかすつもりもありません。でも」
「ボオ」
「きみがきみでよかった。きみとだから……きっと長く進んでいける。ぼくもたくさん学ぶことが出来る」

マクワは力を抜いて笑った。

「ぼくはきみの光をこの星に運ぶお月さまですからね」
「ボオ?」
「月は自分で光っているように見えますが、あれは太陽の光を浴びている部分が地球に向いているだけです。
ぼくもきみの光を浴びて……たくさんのひとが見るこの星の上で光るのです」
「シュ ポォー!」
「だから今日だけは……ドライヤーもおやすみ。……きみがいるとすぐ乾きますね。天然の高級ドライヤーだ……遠赤外線効果……」
「シュポ」
「え、顔が赤い? 近過ぎたかなあ…… じゃあこうして向きを変えます」

マクワは二人掛けのソファを占領し、横になった。重たい瞼が閉じられていく。
冷たい夜の凍りが溶けていく。

「きみが好きなときに起こしてくれて良いですから……」

窓の外、陽射しは優しく照らしていた。

クリスマス

ああ、星が足りないな、とマクワは思った。

今年もウィンター・ホリデーのパーティが終わった。この時期はいつも以上にファンイベントを重点的に増やし、スタジアムも華やかに彩っている。
大きなもみの木の天辺には星を飾り、キラキラ光を反射するモールとライトを巻き付け、ぴかぴかと輝くオーナメントをぶら下げる。
大人はコートを着て、三角の帽子と白い袋を背負ってプレゼントを配る。これはデリバードというポケモンの習性を真似たものが広まったものらしい。中には白いひげを付ける場合もあるという。
マクワも今日はデリバード風の衣装を身に着け、ファンに日頃の感謝とプレゼントを贈った。
一連のファンイベントが無事に閉会し、ジムトレーナー達と共に片付けも終えて、スタジアムに残ったのはマクワだけだった。既に帰り支度は済ませて、普段着のセーターに替えている。
帳簿に細かく今日の記録を残すのは、マクワの日課。ポケモンの様子だったり、自分の反省点だったり、仔細を書き記していく。キーボードに両手を滑らせ、一通り書き終えた所でふと見上げる。
一日イベントのサポートをしていたセキタンザンが、うとうとと半分眠りながらソファの横に座って待っていた。背中の石炭の大きな山が、彼の呼吸に合わせ、ゆっくりと赤く燃えて輝いてはすうっと消えて、また赤く燃えている。
マクワは部屋を出ると倉庫に入り、棚の中から先ほどジムトレーナー達としまい込んだ箱を引っ張り出す。大きな段ボール箱を持ち上げ、再び自分の事務室へと戻れば、相棒が気持ちよさそうにうたた寝をしている。
箱を入り口から入ったすぐ傍に置き、蓋を開けて中から飾りを取り出した。
出てきたのは大きな金属で出来た星飾り。裏に輪っかが付いていて、くっつける事が出来るようになっている。セキタンザンの背中の山の天辺に、崩さないようそれを取り付けてやる。

「シュオ?」
「ふふ、これでよし」

セキタンザンが眼を覚ました。
足りなかった「星」がついて、マクワは満足げに笑う。セキタンザンの背中の頂きで光る大きな星、きらきら輝く大きな山。まさに今日、スタジアムの中心で立派にさんざめいていたもみの木そっくりだった。

「主役に……応しい輝きですよ」

スマホロトムを呼びだすと、セキタンザンの周りをまわってシャッター音が響く。
そういう時、セキタンザンもどうしたらいいのか知っている。目を合わせて、ちょっとだけポーズをとるのだった。

「シュポ!」
「……そうだ、待ってくださいね」

さらにマクワは箱の中から赤い帽子と白い袋を取り出した。セキタンザンに帽子を被せ、袋を渡す。
ツリーを背負い、帽子をかぶったセキタンザン。マクワはソファの上に座ると、ひとりでころころと笑っている。
相棒がこれほど楽しそうに笑う姿も珍しくて、セキタンザンは今日のパーティを思い出し、袋を背負って構えてみると、それもまたマクワのツボに入ったのか、さらに笑う声が大きくなった。  

「……ふふふ、あはは……! きみはこのウィンターパーティ、一人で何役も出来てしまいますね……! 本当はきみのためのパーティなのかも……ふふふ」
「シュポォ」
「ふふ、でもそれは働きすぎなのでダメです。きみはやっぱり試合してくれなくちゃ。これはぼくの仕事ですから。でも」

マクワは身体を起こし、目尻に浮かべた涙を指で拭いてもう一度セキタンザンを見上げる。

「でも……こうしてぼくが独り占めする分には……問題ないですからね……ふふ」
「シュポォ……」
「うん……ちょっと今日……思ったより回ったみたいで……まだかなり酔ってます」

パーティといってもマクワは主催側だ、何かあってはまずいし、客を楽しませる方だ。誰より飲み方には気を付けていたつもりだった。
ファンという自分を支えてくれているひとたちの居る空間の温かさに、気を抜いてしまったのだろうか。
戸棚から普段休み時間用に使うふかふかのブランケットを取り出して、マクワは言った。

「申し訳ないですが……今日は泊っていこうかな」
「シュポォー!」
「ふふ、楽しいですか。……その代わり早朝はトレーニングを兼ねて走って帰りますよ」
「ポ、ポォ」
「おや、やる気ですね。よかった。……汚すといけませんし……名残は惜しいですがそろそろ片付けましょうか」
「ポオ!」

マクワが手を伸ばすと、セキタンザンがすっと立ち上がり、星が逃げていく。天頂の星は随分な高さになり、届かない。酔いが回って均衡感覚を失っている状態では、足取りもおぼつかなくて、とても追いつけそうになかった。

「……セ、セキタンザン、……うぐ……!」
「シュポ……!」

いつものじゃれ合いのつもりだったが、酔いの状態を想像出来ず、セキタンザンは慌ててふらつくバディを支えた。マクワは少し悔しそうに眉間にしわを寄せたが、アルコールに流されて、幾度か瞬きをした後にすぐ話を切り替えた。

「……それ、気に入ってるのですか?」
「シュポォ」
「ふふ……じゃあ今だけぼくもお揃いでいようかな……星はないから帽子だけ……」

段ボール箱からもう一つ三角帽子を取り出すと、マクワは被ってみせた。
二つの赤い帽子が並んで揺れた。

「……温かいですね」
「シュ ポォー」

窓のサッシに積もった夜のこおりが音を立てて溶けていく。頂きの星はいつまでも炭火の灯りを受けてぴかぴかと光を放っていた。

きみはかみさま

日差しが消える。暗雲が立ち込め、冷たい風が吹き、大きな雪の粒が窓を叩く。天気の急変に、ぼくはスタジアムの会議室から窓の外を見た。重たい雲が町全体を覆い隠し、塞ぎ込むように真っ暗だ。大粒の雪が横から硝子を殴るように叩きつける。

「なんだか嫌な天気ですねえ」
「今日は早く上がりましょう。……帰れなくなるかもしれません」

ジムトレーナー達が口々に様子を言い合うので、ぼくは外の景色を見つめながら伝えた。

「いえ……逆に私たちの仕事が必要になる可能性もありますよね、これ……」
「確かに確かに確かに! 普通じゃないもんね。ポケモンかもしれないよね!?」
「……既に帰れない気がするなあ」

窓ガラスは映画のフィルムのように、刻々と激しく移ろう雪景色を映し出している。
外気の影響で、室温が少しずつ下がり始めた。ネジを回しストーブの火力を上げて、周囲に集まる。スマホロトムを見ていたヨシコが言う。

「寒い……ストーブストーブ」
「気象予報では想定外……そうだよね……」
「こういう時は俺の出番! トロッゴン!」
「ハッカー!」
「ああ~トロッゴン~!」
「外の様子を見てきます。いったんこちらで待機して、すぐに出られるよう準備をしていてください。また連絡を取ります」
「ええ、マクワさん一人で!?」
「ぼくにはセキタンザンがいますから。こういう時はぼくの出番……いえ、彼の出番、です」

部屋を出て、雪で閉ざされたスタジアムの重たい扉を開く。目の前に広がるのは大雪に閉ざされたキルクスの街。石造りの家や建物はひとよりも何倍もの高さの雪に埋もれて途方に暮れている。
小さな小屋や木造りのものは拉げて中身を見せた。広く長く伸びていた道は真っ白で、無に帰している。草も木も、土もひとも建物も、ここにはなにもない。境界も。生も、死も。
このままでは気温はどんどん下がっていき、ただひとが存在するだけで辛い場所になるだろう。
ただ耐え忍ぶばかりの、虚無と間違いの世界。
けれど、それを救える存在を知っている。ぼくは、知っていた。
すぐさまセキタンザンを呼び出すと、慣れた力でキョダイマックスさせる。ガラル特有のキョダイマックスエネルギーの力で、セキタンザンは形を大きく変えて、スタジアムの前に聳え立った。
真っ白を切り裂く、赤と黒の光。

「セキタンザン! きみの力でこの寒気からキルクスを守って!」
「シュポォー!」

セキタンザンは吹雪の風をものともせずに大きな足で歩いていく。高温に触れた深雪はあっという間に溶けて蒸発し、吹き飛んでいった。下から出てきたのは、はちみつ色の石畳。
人々が長い年月を掛けて築いた、この街を繋ぐ道路。

「……ああ」

彼が苦手な「水」すら残さぬ強烈な温度。内部は2000℃もあると言う。表層に近づくだけでもかなりの高温なのだ。彼はあっという間にキルクスを救うだろう。
マクワはセキタンザンに背を向けると、一人山の方へと向かっていく。激しい雪風はまだ残ってはいるが、マクワは知っている。マクワだけは知っている。この雪風が当たらない場所を。
そしてこの風は、自分自身を避けようと動く事。

「……ありがとうございます。そして、ごめんなさい。きみたちに……こんな仕事をさせて……」

誰も知らない裏山の洞窟の陰。そこにはモスノウと、クレベース、ヒヒダルマ。ただ氷技を使うだけではなく、天候変化を起こすことで、人々の目を欺く。
ぼくはひんやりと冷たい彼らを、順番にそっと抱きしめると、モンスターボールを向けた。
その間も、セキタンザンはキルクスの街をひとり進んでいる。キルクスの街の中央でじっと佇んでいるのが見えた。高台の特等席で彼の様子を見るのだ。

「セキタンザンだ!」
「ありがとう!」

あれはホテルの観光客だろう。寒冷地慣れしていない彼らにとって、この天候の変化は恐ろしくてたまらなかったに違いない。けれどセキタンザンの温度があれば、すぐに元の温度に戻れる。
双眼鏡を覗いたマクワは、雪が溶けて、開ける事が出来るようになった窓から手を振っているアローラからの客人を見る事が出来た。セキタンザンがまたひとり、またひとりと人を救っていく。
彼が、英雄になっていく姿を、本当に伝説になってゆく姿を目に焼き付ける。

「み……!」

あれは英雄の湯に飛ばされ、遺跡に引っかかっていたユキハミだ。強風に飛ばされたうえに、雪や氷に埋もれて困っていた所をセキタンザンが助けてあげたのだ。
当たり前だが彼はポケモンにとっても救いになれる。
流石にユキハミにとっては高温は毒になるので、木の枝を使って救出してあげた所を見た。
不器用なのに、本当に優しいポケモンなのだ、セキタンザンは。
ふと一報入れるという約束を思い出し、スマホロトムを呼びだした。

「ロトム、一報を入れておいてください。急ぎ天候は落ち着き始めて、セキタンザンだけで大丈夫ですと」
「了解ロト。……マクワ……。……とても、寒そうロト……」
「……」

寒い。そう、とても寒かった。セキタンザンのお陰で殆ど雪雲は取り払われたが、この辺りはまだ分厚い雲も、ちらちらと霰も残っている。おそらくぼくのポケモン達がいた影響だろう。
けれど、ぼくにとってそんなことは些末だった。
もうすぐキョダイマックスも終わるだろう。それまでは、最後まで見ていなければ。
こんな馬鹿なことに手を出したのだ。きちんと最後まで。そう、最後まで、彼の雄姿を見つめていたい。
雄々しいセキタンザンの背中が、キルクスの中をぐるぐると廻っては、誰かを助ける。
時にはじっと動かずにいて、誰かを温めている様子だった。
それを見ているだけで、ぼくの体内もぐっと温かくなった。よかった。安心したのか、瞼が重くなってきた。とても眠たい。ごつん、と遠くで無機物同士がぶつかる音が聞こえた。
猛々しいセキタンザンの背中が、ぐるりと回って、真っ赤な目とぼくの眼が合う。

どうして

セキタンザンは真っ直ぐに、真っ直ぐにぼくの元へとやって来る。来ないで欲しい、逃げたいと思うのに、身体は全くいう事をきかなかった。
どんどんと辺りが温かくなって、セキタンザンの手が伸び、倒れ伏すぼくの事をぎゅうと摑まえた。

草食の話

光を受けてぴかぴかに輝く艶やかな緑。みずみずしく弾力に揺れる葉っぱ。どこまでも伸びて行く細くて長い葉脈たち。鮮やかな青い色はまるでよく磨かれた宝石のように眩く煌めいている。
豊かなターフタウンの自然の中で生き生きと育った自慢のうつくしい緑をどっさり束にして、ヤローはセキタンザンに差し出した。
セキタンザンが相棒の顔を覗くと小さく頷いて、セキタンザンは黒い石炭の掌で掴める束を握りしめた。セキタンザンは大きな口を開き、真っ赤に燃える口の中に放り込み、黒い石炭の口でごりごりと磨り潰すように咀嚼した。
嬉しそうに笑うと身体が揺れて、溢れた石炭がひとつふたつと零れ落ちていく。

「美味しいですか」

セキタンザンが呑み込んだ様子を伺って、ヤローと同じベンチに座っていたマクワが声を掛けた。
ヤローの経営する農場の片隅、畑を繋ぐ道端の広い茂みの上で、セキタンザンが座りながら味見をしていた。
セキタンザン食事用の植物を購入する為、時々ヤローの元へ来るようになったのはいつの事だっただろうか。マクワは形のよくないものや、実の葉の部分などの売れないもので構わないと言ってくれていて、ヤローとしても市場に出せないものを言い値で買ってくれることはありがたかった。
でもなにより。

「シュポォ!」
「それはよかったなあ」

ターフタウンのうららかな陽ざしに乗って、のんびりと笑った。セキタンザンの笑顔が見られたのだ。それだけで長い時間をかけて育てた自慢の植物たちとのお別れさえも、何より素敵な物に変わっていく。形が良くなくても、売れなくても、他の子たちと一切変わらない手間暇の掛かった子たちだ。

「ヤローさんが作って下さった物ですよ。当然でしょう。味の確認のつもりでしたが、これで良さそうですね、ありがとうございます。……しかしここでそこまで食べなくてもよいのに」
「でもタンドンもセキタンザンも、ずっと洞窟の中にいるわけじゃないでしょう? ターフタウンはお日様に近くていいんじゃ」
「シュ ポォー!」
「ほらセキタンザンもよろこんどるじゃろ? 気をつかわんとゆっくりしていってください」
「確かに……そうですね。ターフタウンは鉱山にも近いですし……きっと懐かしい空気が吸えると思います」

セキタンザンは、新鮮なマトマの葉っぱの味に夢中になっているのか、口に入れるペースが速いわりに、咀嚼している時間がゆっくりだ。味わってくれている様子は、ヤローにとっても嬉しい事だった。
水筒からお茶を汲んで、マクワのコップに注ぎ足した。

「しっかし……何回知っても面白いなあ。ぼくにはセキタンザンが植物を食べるなんて想像できんかった」
「ぼくもです。……でも石炭は元々太古の植物が化石になったものらしいのです。だから植物を摂取することで石炭を生成するのは当然なのかもしれません」
「へえ! そんな繋がりがあったんじゃなあ マクワくんはものしりじゃあ」

マクワは俯いて、サングラスを直した。それから小さくお礼を言うと、コップに口を付けた。

「これくらいは……当然です。それにぼくは植物の事は……全然ですし」
「いやいや、ぼくもほんの一部を知っとるだけですよ。でもその一部を知ってるだけで十分こうしてみんなのお役に立てるなら……立派なもんかな、なんてね」
「そうですよ。ヤローさんはその……本当に……流石です。ぼくには真似できない事がたくさんあります……いえ、悔しいので頑張って真似はしてみせますが!」
「マクワくんは努力家だなあ」
「……そんなことは」

温かな風が流れている。ふとヤローはマクワの方を見た。サングラス越しの丸い目が、緩やかに弧を描いて、今にも落ちそうだ。
その先にいるセキタンザンはやっぱりまだごりごりと葉っぱを食べていて、試合で対峙した時の猛々しさは身を潜めていた。
マクワもそうだ。スタジアムで立つあの飄々とした笑顔の裏には、いつも極寒に似た怜悧な冷たさがあった。

「ヤローさんだって。ぼくが何も言わなくても……こうしてセキタンザンが喜ぶものをくれますから」
「……いやあ……何も考えとらんかったです。ただ喜んでくれそうなものを集めただけで……」
「天然ですか? ずるいですよ」
「えへへ……」

ヤローは思わず頭を掻いた。マクワの瞳は相変わらず優し気なままバディを見つめていた。
この柔らかくて少しだけ尖っていて、でも日差しに満ちた時間を彼らとともに共有できるのなら。
次もまた立派にマトマと葉っぱを育てよう。今度はさらに喜んでくれそうな種類の葉と共に送り届けたいが、どれがいいだろう。
やはり辛い系の木の実のものが良いだろうか。
タンドンの頃は鉱山の近くの葉を食べていたそうだが、鉱山の葉っぱに近い物が喜ぶだろうか。
ターフタウンの農場の真ん中で、さっそく次のぴかぴかを考え始めるのだった。

せきたんざんの手入に熱中するマと手入れに飽きたせきたんざん

大冒険はほんのミクロの中にあった。
たとえばオフの日。
相棒と一緒にいる最中でさえ、あっという間にマクワを異次元に連れて行ってくれた。

機材の準備は抜かりなし。大きな箱をがちゃりと開けば、階段状になった引き出したちが、整備士のを運ぶクレーンのように、ずらりと顔を並べだして、いつだってマクワはとてもいい気分になった。
彼らは優秀なオペレーターとして、マクワの手足そのものになって旅路を手伝ってくれるのだ。
気分も上がるので、これを買って良かったと心底思う。
もちろん中身だって負けていない。
いつだってピカピカに磨き上げられていて、旅立ちの準備はオールオーケー。
太さや大きさで揃えられた『先端』たちも、一つたりとも抜けはない。
わくわくした気持ちのまま、マクワは手前に伸びた引き出しから、鉄製の細い棒を一つ握りしめて、目の前に広がる深い闇の中にすっと先端を横にスライドさせた。
たったそれだけで、冒険は始まるのだ。天頂を穿つ白星が、光を受けて輝いた。

たっぷりの真っ暗闇を銀の尖星がしゅう、しゅっと流れていく。
凹凸の宇宙を駆け抜けて、うっすら黒を削り取り進んでいく白星。たったひとり、温かな闇の中を迷うことなく怜悧に駆け抜けていく。魔法の輪郭線を描いていく。
黒い粉をぱっぱと躍らせながら、戻っては大きく進む、戻っては大きく進む。
航路は必然。「暗闇」のある場所、ただそれだけだ。
分厚く立ちはだかる黒を、塵芥よりもちいさく割って、彼の道が出来た。
ここは必要な隙間だ。スムーズに駆動するための溝。
基礎に近い場所。
その道筋を辿っていく度に、艶やかに磨かれた黒炭が青い光に触れて、悠然と瞬いていった。
見えないのに、何故か見える。石炭の陰、昏い場所。
だからこそ、もっともっと進んでいきたいと銀星は考える。
小さな星は、小さなまま随分と進んだ。十分すぎる程立派に、美しく出来た。
このままでも、きっと他の誰も十分だと言うだろう。
本人でさえ、いや、本人は一番どうでも良いと思っているに違いない。
だけど、今自分がきらきらと光っているのが分かる。せっかくだ、まだまだこの「旅路」を堪能していたい。

そう考えたマクワは、自分の形を――自分の使用する道具を替えることにした。
怜悧で細い器具を置き、次はざらついた細長い鑢を取り出して、再びセキタンザンの頭の下と睨めっこを始めた。昨日の試合でタールショットを使用し、零れた分が残って固まってしまったことはセキタンザンも自覚があった。
マクワも不足するよりは良い、試合後の手入はトレーナーの仕事の基本中の基本なのだから、常に余剰が出るようにと指示をしていた。
もちろんセキタンザンも試合で手加減するつもりはない。
その指示に従った。
そして今、その手入の最中なのだが。
なんだかいつも以上にマクワの気持ちが高まっているのか、それとも自分が乗り気でないだけなのか、セキタンザンにも判断はつかないが、とにかく退屈をし始めていた。
手入れしてもらうのは気持ちいい。
これもコミュニケーションの一つだ。
楽しいことに違いないはずなのだが、とにかくマクワを――気配をけしてしまうほど巧いのか何なのか、これもセキタンザンには判断がつかなかった――このちょうど視界からすっかり消えてしまう場所からでは、見つける事が出来なかったのだ。
マクワはずっと顎の下にいて、ずっと顎の下ばかりを集中的に手入していた。
しかも、あまり強い力ではなく、そっと、撫でるような力で研磨をしている。

セキタンザンはゆっくりと自分の身体を上に傾けて、マクワの作業から身体を遠ざけてみた。
マクワの手が届く範囲では、まだ何も言ってこない。もっと動かしたらどうなるだろう。
セキタンザンの好奇心が疼いた。

「セキタンザン! 動かないでください」

鋭く、しかし淡々とした声音が飛んで来た。しかしセキタンザンにとってはマクワの気を引く事が出来たことで、これはミッション成功の範囲だった。
では次に、マクワが作業しているまま一緒に運んでみたらどうなるだろうか。
セキタンザンは座り込んで自分の前に座るバディのお尻をゆっくりと持ち上げて、そのまま立ち上がった。邪魔はしていない。

「ちょっと……セキタンザン?」
「シュ ポォー」
「……動かないでと……。きみ、疲れましたね?」

溜息混じりでバディが見下ろしている。マクワの眼の色に少しばかり悪戯っぽい、勝ち誇ったような色が浮かんでいたのを読み取って、セキタンザンはあまり面白くなかったのだが、しかし今回ばかりはその通りなので小さく声を上げるだけに留まる。

「ボー」
「もう少しですから……忍耐の特訓です」
「シュォオ」
「うわ、ちょ、セキタンザンっ! ふふ、あはは!」

脇の下やお腹を擽る攻撃に出てみた。抱き止めた体勢のままだから、マクワは身動きをとる事が出来ない。逃げられない。
セキタンザンにとっては、もうとっくに忍耐の特訓だったのだ。そもそも手入はコミュニケーションのはずなのに、それを一方的に取り上げられている事自体、理不尽じゃないだろうか?
だからセキタンザンはコミュニケーションの時間を取り戻したい。そんな意思表示だ。
笑いすぎた丸い青い瞳からじわりと涙が滲んでいた。

「ストップ! わかりましたからっ! そうか。ぼくは勝手に良いことだとばかり思いこんでましたが……これはきみにとって何もわからないのですね?」
「シュポォ」
「それは残念ですね。ずっと仕上げをしていますし……やり方を考えるとしましょう。今から試しますので……きみが良いとおもったものを教えてください」
「シュ ポォー!」

大冒険はほんのミクロの中にある。しかしひとりきりでは到底難しい。
いつも自分の傍で煌々と聳え立ち、心躍る場所へと連れて行くのだ。

石炭とゆき

とある日、炭鉱の洞窟の外へ出てみると、ちらちらと降る白くて冷たいふしぎなものがあった。それはあっという間に草むらを覆い、辺り一面をまるで違う世界の中へと呑み込んでしまった。この山ではほとんど見ない光景だ。少なくとも、俺が生まれてからは初めてだった。
誰かからポケモンは進化をするのだと聞いた事があるけれど、山もこうして進化したのだろうか。不思議に思った俺は仲間に尋ねてみた。物知りの彼はけらけらと笑って

「違うよ、これはこおりというものだよ。もう少し正しく言うと”雪”だ」

と教えてくれた。ゆき、こおり。初めて聞く名前に、俺は何度も反復しながらその白いものに触れてみた。しゃくしゃくと音を立てて潰れるそれは、あっという間に姿を消してしまい、元の草に戻ってしまった。踏みつけた部分が少しだけ濡れていて、しみるような感覚だけが残った。

「僕たちはこおりに強いから平気だろう?」
「……これは水なのか?」
「ああ、水が寒い所で変化するものらしい。僕も詳しくは知らない」

彼はそう言うと洞窟の中へと戻ってゆく。俺はまだ気になって、風に吹かれてゆらりゆらりと降りてくる雪の中をころころと車輪で駆ける。白色の草むらを歩けば、その部分だけ積雪が無くなり轍が残っていく。雨の時はもう少しだけ重たい感覚があるのに、雪の時はなくて、それも不思議だった。その日は雲間から蒼空が顔を出すまで、そうして戯れ続けていた。

それから幾年か経ち、俺はマクワという人間と共に旅をするバディになった。
今は旅の最中、ジムチャレンジという課題を全て繰りぬけて、この地方一のトレーナーになる事が目標らしい。だが、その前にマクワにはもうひとつ大きな目標もあり、ピリピリしているのだが、この際は置いておく。
まだマクワも俺もお互いの事を詳しく知り得ぬまま、旅の同行者として日々を過ごしていた頃。
今朝町を出発し、今日は道端でほぼトレーニングに費やしながらゆっくり道を進む予定だった。
俺はマクワの作る訓練メニューについていくのがやっとで、しょっちゅう音を上げていた。
限界まで走り終えて、息を整える俺にマクワは言った。

「……休憩しましょう。今日の目標はクリアです。お疲れ様でした」

その言葉を聞き、解放された嬉しさから身体の力を抜いてその場で倒れてみせる。

「まだまだ目標には遠いですが……それでも少しずつタイムは良くなっています。その調子……です……タンドン?」

なんだかとても眠くなってきた。心配になったのかマクワが近寄り、両手で抱え覗き込んだ。俺は目を開き、大丈夫だと伝えた。

「……よかった。運動直後だからかだいぶ体温が上がっていますね。熱いです……それに……ううう……?」

マクワは何かに気が付いたのか、俺の身体に顔を寄せると、くんくんと鼻を動かす。それから思いきり眉間に皺を寄せて、とにかく嫌悪感を隠しきれていない、見た事のない顔をする。
こんなにも表情に出るのだな、と場違いなことさえ考えてしまった。

「うぐ……。タンドン……きみって……すごく独特な香りがするのですね……。炭坑の香りかと思ってましたが、いや石炭自体の香り……埃みたいな……古い家のような……」

なんとか一生懸命ゆっくり言葉を選ぼうとしていることだけは伝わったのだが、褒められてはいないことだけはわかった。俺も今、きっと同じような苦々しい表情をしているに違いない。
マクワはゆっくりと俺を降ろす。

「……うわっ! 手が真っ黒!服も!? 洗ったら落ちるかな……」

自分の掌を見て大きな声を上げた。見れば確かに真っ白なマクワの掌が綺麗な黒に覆われていて、上着の裾やズボンにまでもあちこち黒い煤がついてしまっている。
さらには鼻先や頬にも黒いもので落書きをしたかのような線が走っていた。
これは俺が持ち上げられる前にはなかったものなので、自分がつけてしまったんだということはわかる。マクワの反応からして、良くない事なのだ。どんどんと心の炎が小さくなってしまっていくのがわかり、俯いた。

「……こんな『石』もあるのですね。ぼくは今まで石というものは無臭で、色がつかないものだとばかり思っていました。……でもそうですよね、きみは『ほのお』を燃やせる『いわ』です。
『いわ』の個性が持つすごさ……! きみはいろんなことに気付かせてくれる……。
……新しい思い出がひとつ増えました」

明るい声に、俺はおそるおそるマクワを見上げた。灰簾石の眼は、思っていたよりもすぐに輝きを取り戻していた。

「しばらくは驚くこともあるかもしれませんが……すぐ慣れますから。これくらいぼくであればどうということはありません」

しゃがみ込んだマクワが、少しぎこちないが手の腹で俺の頭を撫でた。どうやら慰めてくれているらしい。
その気持ちが嬉しくて、なるべく汚さないように擦り寄った。

それからまた幾年経って、マクワはとうとういわジムリーダーに就任した。
あの頃よりもお互いにずっとずっと成長し、俺もセキタンザンに進化することが出来た。
マクワの目標はまた形を変えて、俺たちの前に高く聳え立っていたが、悪くない。
今日は日課のトレーニングを終え、このままキャンプ形式で夜を明かす予定だ。
ワイルドエリアの片隅、砂の盆地に大きな太陽が沈んでゆく。

「今日は少し煤が出てますね……組み方でしょうか」

俺の横で背中の石炭の様子をみたマクワが呟いた。たまに体調が悪いと黒煤が出てしまうらしい。
少し水を入れた金属製のバケツに、一つずつトングで掴んだ石炭を入れてゆく。次は順番に背中に戻していく、時間のかかる作業だ。
体温は下がるが、なんとなく詰まっていたような感覚がすっきりして気持ちが良い。
俺にとってはどうってことのない時間だが、人間であるマクワにとってはかなり長い時を使うものだろう。さっきまでオレンジ色だった天空に黒が掛かり、ぽつぽつと星の光が射貫き始めている。
しかしマクワは一度も嫌だとか、辛いだとか言った事はない。だから俺も安心して背中を預ける事が出来るのだ。

「シュポー?」
「……へ?」

細かく石炭を並べることに集中していた頭が、突然俺の呼び声に引き戻されて、ちょっと間の抜けた声を上げた。きっと同じくぽかんとした表情をしているのだろうが、ここからだとみえないのが残念だった。

「すみません、聞いてませんでした」
「ポオ」
「ああ、これですか? 特に考えた事は……それよりきみがいつでも最大のパフォーマンスで試合を沸かせてくれることが大切ですから」

流石、トレーナーとして100点の答えを聞かせてくれた。でもバディとしてはあまり嬉しくなかったので拗ねて返す。

「シュポ」
「……まあ、その……そうですね。……ぼくが……好きなのですよ。きみの背中の炎がきちんとひかるように組むこと……」
「シュポォー」
「満足してくれましたか」

マクワはまたすぐに作業の方へと頭を切り替えたらしく、それから何も言わなくなってしまった。自分に、なにより自分の為に向き合ってくれていることに変わりないのに、なんだかほんの少し心細いような、寂しいような気持ちが湧いていた。まるで彼がこの背中に一人で山登りでもしているかのようだ。
それでも背中への登山が終わったのはそれからすぐのことだった。

「よし、終わりましたよ。これで問題ありません。ありがとうございました」
「ボオ!」
「……何かありましたか?」

俺の顔を覗き込んだマクワの顔が、随分と真っ黒に汚れている。もう日は沈んでしまったが、俺自身が放つ炎の灯りに照らされて見えている。煤の汚れだった。
マクワがいつもポケットに入れている小さな手鏡を指し示せば、彼もすぐに思い当たったようで、自分の顔を鏡で覗き見た。マクワが念入りに髪や顔の手入をしていることは知っている。
昔、大慌てだったことも、未だに記憶に根付いているのだ。
相棒は少し斜めに顎の角度を変えて四角い鏡を見ながら、

「……ああ、真っ黒ですね」

といって、困ったように笑うだけだった。俺は思わずぱちぱちと目を瞬かせた。拍子抜けだった。もっと驚くと思ったのだ。

「……きみの手入をした後なら当たり前ですよ。これは名誉の勲章みたいなものです。きみとお揃いなのですから。……まあ後ほど洗ってきます」

さらにマクワは胸を張ってみせて、楽しそうに笑った。
まだこの前、石の色さえ知らなかったマクワだった。彼は誇らしげに前髪を弄ってから、荷物用のテントの方へとぱたぱたと駆けていった。
俺の背中の炎がぼおっと熱くなり、その背中を追いかけていきたいような衝動まで駆られてしまった。

夜も深まった。周囲にはポケモン達の気配もいない。食事もとり終わり、あとは就寝するだけだ。
シュラフの中に丸く収まったマクワが、寝る位置を調整するために俺の背中でごそごそと動く。

「……やっぱりこちらが良いです。セキタンザン、もう少し後ろに」

マクワが身体を起こして、俺の場所を指示する。言われた通り位置をずらして、足の上にマクワがのれるようにする。マクワは足の上に身体を乗せて、俺の腕を枕代わりにすると腹に顔を埋める。

「シュポォ?」

普段は問題ないが、ごく稀に体調が悪いと思いきり黒煤がついてしまう事があった。さっき煤を付けて、洗ったばかりなのだ。

「大丈夫です。……平気です」
「シュポー」

心配の声を掛けたつもりだった。すると余計に意地を張ったのだろうか、マクワは更に俺の方に身体を寄せて、しっかり顔を埋めた。

「きみ……埃みたいな……古い家みたいな香りがしますよ。独特な香り……です」

背中に顔を押し付けているせいで、もごもごと言う。いつか聞いた言葉にそっくりだ。
だけどその時とは違って笑みが含まれている。

「きみのお陰でいろんな……香りのする石を知りました。海の香りのする石、きのみの香りのする石、草や土の香り……でも煤っぽいのはきみくらいで……ふふ」

眠りの中に蕩け始めた言葉が、だんだんと要領を得なくなり始めた。ぼんやりと、マクワの頭の中にある何かをそのまま捉えては浮かび上がらせていた。

「黒い色がつくのも……きみくらい……あったかくてつよくてなつかしい……ほのおの香り……」

俺はその時むかし見た、あの白い雪の事を思い出していた。色が無くて冷たくて、轍と共にすぐに消えてしまうあの不思議な存在。
マクワはあのこおりと共に育って、そしてこおりよりも強くなりたいのだと言う。そのために、俺の力が必要で、つい最近ようやくこの姿にまでなった。
彼が俺のもっている色がついてしまうとか臭いだとかの特徴を全く知らなかったのも、きっと無理はないのだ。だって俺も「雪」のことも「こおり」のこともちっとも知らなかったのだから。
けれども今、マクワはこうして俺の隣で身体に顔を埋めて、安心しきった顔ですやすやと寝息を立てていた。
出会った最初の頃、俺の香りの事も、色がついてしまう事も、嫌がっていたことはまだはっきり記憶に残る。しかしそれを掴んでいなくてもいいのだと、今の彼が教えてくれていた。
ふと空を見上げれば、たくさんの星がきらきらと俺たちの天空を飾りつけて輝いている。負けないくらいの瞬きを、刹那のよろこびを、俺はじっとこの身に焼き付けて、噛み締めていた。

閉じ込められるセキタンザンとメロンの落書き

険しい褐色の岩肌は極氷の白に覆われて、空からちらちらと降りてくるのは微細な雪の破片。やまおとこが思わず目をとられて見上げれば淡いオーロラが輝き、まるで異空間に誘い込まれたようだ。
絶対零度の氷河期がパシオの山中に到来した。

「いいよラプラス! さあ一気に決めようか れいとうビーム!」

大きな口に光が集まり、凝縮した冷気が光線となって放たれた。カイリキーにぶつかって弾けると、そのまま圧力となり巨躯を押し倒した。最後の一体が倒れて、モンスターボールへと帰っていく。

「いい勝負だったよ!」

メロンは去っていくやまおとこたちのチームの背中を見送ると、くるりと振り返る。

「……なのにこっちときたら、全く情けない!」

そこには顔を真っ蒼にしてしゃがみ込み震えるケイとバディのピカチュウ、そして2人を温めるセキタンザンとマクワがいた。
辺り一面を冷やして得意のフィールドを作って戦うのは、メロンのやり方だ。だがしかし、誰彼構わず行う為、同じチームを組む仲間でさえ巻き込まれてしまう。

「……仕方ありません。まだケイさんは母さんのやり方に慣れていませんから」
「そうだね。ケイは才能もあるし、腕もいいから慣れたらすぐについて来れるから! 今から楽しみだよ! ……おや?」

セキタンザンが立ち上がり、前へ出るとじっとメロンを見つめている。メロンはぱちぱちと瞬いた。マクワが静かに両者の間に言葉を投げかける。

「セキタンザン、ケイさんを温めてください」
「シュポオ」

じゅどん、大きな音を立てて雪が崩れた。セキタンザンとメロンの足元から崖の方へ、激しい音を立てて滑り落ちていく。
メロンは自分を呼ぶ息子の叫び声を聞いて、そのまま意識を失った。

「ボオ!」

目を開けると、至近距離にぱちぱちと弾ける炎があり、メロンは思わず後ずさる。

「びっくりした、あんたか……。ここは……洞窟みたいだねえ」

良く目を凝らしてみればセキタンザンの背中の石炭の山が燃える姿で、ほっと一息ついた。ぐるりと周囲を見渡すと、小さな洞穴だ。
崖の途中に空いたくぼみが上手く洞窟として機能したのだろう。落ちる途中、セキタンザンが上手くメロンを助けて転がり込んでくれた事だけはわかる。上を見上げても既に人の気配はない。下は崖が続いていて、高い木々が並んでいる。
ロトムを見れば、息子から助けに移動しているという報告が入っていた。流石行動が早い。

「ラプラス呼んで無理するのも難しそうだし……。とりあえず……ここで待っていれば大丈夫そうだね」
「……シュポオ」
「あたしと居るのは不服かい?」
「……ボオ」

先ほどもそうだが、セキタンザンは何か言いたげなことだけはメロンにもわかる。
元々息子が独立するために選んだポケモンであり、同時に彼が独立のために手を貸したポケモンでもある。敵愾心に近しい何かがあってもおかしくはない。
上の方は凍らせた氷柱が降りていて、ひんやりとした空気が流れていた。このままでは体温が下がっていくだろう。
それを目敏く察したのか、セキタンザンは少しメロンに近寄ると、身体の火力を上げようとした。

「ああ、ダメ。あたしのことは温めないで」

今度はセキタンザンがぱちぱちと瞬きする番だった。

「あたしはずっと冷えていなくちゃいけないんだ。冷たい所にいて……冷たい場所で戦う。
マクワはポケモンのすばらしさを伝えるために、観客を楽しませるって言うでしょう?
でもね……あたしは違うと思うの。ポケモンは強くなくちゃ。ありのままを見せなくちゃ。
強さそのものを教える事、理解してもらう事こそ観客が本当に必要だって信じてる。
だからあたしもね、こおり専任として、こおりポケモンを最大限魅せられる場所に常に居続けるの。……だからあたしは温めちゃダメだし、熱いのはもっとダメなんだ」
「シュポー」
「そろそろいつもの場所に帰りたいなあ……溶けちゃいそう……」
「母さん、セキタンザン、大丈夫ですか!?」
「やっと来た」
「シュポー!」

崖上にロープを括りつけて、杭で打ち付け足場を作りながらマクワが降りてくる。洞窟の中に軽く飛び降りると、セキタンザンの横をすり抜けて、急いでメロンを見る。
セキタンザンとメロンの間に距離がある事も、きちんと確認をする。

「母さん」
「遅いんじゃない?」
「これでも最短ルートだったのです。さあ、帰りましょう」

メロンはマクワが作った足場を難なく登って元の道に戻っていった。上ではケイがメロンと何かを話しているのもわかった。見届けたマクワが再び自分のバディの下へと降りると、どっしりと座り込んでいた。

「セキタンザン! ありがとうございました」
「シュポオ」
「……セキタンザン?」

なんだか少しへそを曲げているように見える。マクワには思い当たる節は見つからない。

「ポオ」
「どうかしましたか」
「シュポオ」

そこでふと気が付いた。今、一瞬ではあるが自分はセキタンザンよりもメロンを優先していた。
さらにセキタンザンがメロンを温めさせてもらえなかったことさえも自覚しているのに、自分はなかったことにしようとしていたこと。
実の母であり、セキタンザンより遥かに弱い生命だから当然だと思ってしまったが、この僅かな機微は自分のバディであるセキタンザンにとって大きな差異になりかねないだろう。

「ああ……いえ……すみません、ぼくたちの……意地張りに巻き込んでしまって……。……ぼくは多分、羨ましいのです。……ひとつだけに打ち込んで真っ直ぐに進める母が……。だけどぼくはぼくの力で母をこえたくて……」

セキタンザンは今度こそと自分の身体に炎を集めて、石炭に火を灯す。じゅう、と音を立てて周辺を凍らせていたものが溶けて水に変わっていく。

「シュポー!」
「……そうです。温かいですね。ぼくにとってはこおりを打ち破る力でしたから……きっと母にとってはあまり喜ばしい物ではないと思います」

マクワは母の一気に場を凍らせてしまう力を思い出す。

「ですが! ぼくたちはここではチームです。いくら母のやり方があったとしても……やはりチームで勝てなければ意味がありません。きみのやり方は正しい。ぼくたちが目指すのはたくさんの方法を考え試すクレバーな戦いで、観客を魅了する物です」
「ボオ」
「これはぼくと……きみのセキタンザンのちからです。どこでも輝いていける。まだまだ輝かせていきたい」

マクワがひとつ言葉をくれる度に、セキタンザンの中にあったもやもやが晴れていく。
まるで魔法のようだ。メロンもそうだった。温めてはいけないという彼女が自分に掛けた魔法。
それが不気味でよくわからなくて、セキタンザンはなんだかメロンのことをずっともやもやして見ていたのだ。
正直、全部が全部晴れたわけではない。それでも今まで見えなかったものが見えるようになった。
セキタンザンは、それだけでも彼らとずっと共に居られると思った。

「シュポ!」
「うん。それではぼくたちも帰りましょう。知りたい事がたくさんありますから」

残雪を溶かしながらセキタンザンはマクワを先導し、進んでゆく。
艶やかに濡れた石面は淡い日暮れの空を映し出している。