I’m home

凍えるような冷たさが、記憶の中で確かな重みを増して、頬を一つずつ刺してゆく。

既に日は沈み、夜空を彩るパシオの星空の下、マクワはざくざくと白雪を踏みしめながら、人工的に造られた氷のエリアを歩いていた。
この場所は、母メロンのお気に入りの訓練スポットだ。
確かに思い出の中のキルクスの雪山の雰囲気に近く、傾斜が多くてとても簡単に歩みを進める事は出来ず、氷雪は食料を奪い、体温を根こそぎ攫って行く。
この環境下であれば、ポケモンと共に峻厳な鍛錬が行えることは、マクワにも想像が出来る。
パシオという他地方に来たメロンは、早速この場所を見つけてひたすらトレーニングを行っているのだという。全く、母らしいと思う。
喧嘩をしている現在は、なるべく顔を合わせないようにしている身だ。
本来ならば放っておくものだが、ルリナが今日は帰りが遅いと心配をしているのを耳にしてしまった。
同地方の大切な同僚の為、一時休戦して、長く訓練を続ける母親の様子を伺い、迎えに行くことにした。
氷の輝く洞窟を潜り抜けて、雪積の斜面を登れば、見晴らしの良い高い丘の上に辿り着いた。
低木は皆雪をかぶって白く染まり、真っ白な雪の中で、真っ白な母親が雪の上に座り込んで、荒くなった息を整えている。
辺りにはポケモンは全く見当たらず、一人で筋トレでもしていたのだろうか。
一筋、冷たい風が首筋を通って吹き抜けて行く。
大丈夫だ。マクワは大きく一呼吸をついてから、バディの入るモンスターボールをそっと撫で、もう一歩足を進めた。霜雪はじゃり、と高らかに音を立て、マクワの来訪を彼女の耳に届かせた。
白雪の長い髪の間から、大きなアイスブルーを細めて、薄桃に色づいた唇でにっこりと笑う。マクワはサングラスを指で持ち上げた。

「あら、一緒にトレーニングする気になったのかい?」
「……違いますよ。もうこんな時間です、ルリナさんやポケモンセンターの方も心配をされていました」
「おや、本当だ。……まったく、もう少しくらい一日の時間ってのは、長くならないもんかね」
「なりませんよ。さあ、行きましょう」
「そこは”帰りましょう”じゃなくて?」

ゆっくりと立ち上がり、近づいたメロンの細長い白磁の指先が、マクワの柔い手首を掴んでいる。
振りほどこうとしたが、意外なほど力強いその手は離れていかない。
仕方なく、そのまま後ろを向き、マクワは先導して歩くことにした。

「……行きますよ」
「ここの夜も星がたくさんで綺麗だねぇ」
「そうですね。キルクスで見る星とは種類も大きさも、全く違って見えます。とても新鮮で、良い経験です」
「そうでもないよ。あたしには良く見える」

マクワは思わず瞬きをして、無数の星々輝く深い寒空を見上げた。
パシオはキルクスのあるガラルとはかなり距離があり、遠く隔たりのある場所だ。
見える星の種類は違っていて、当然だった。

「……え、本当ですか? 一体どれが……」
「あんたの所にねがい星が降って来た日の空の星たちがよく見えるよ」
「何言って……」
「なーんてね、それじゃあ行こうか」

あれほど強く握られていたはずの手が、するりと糸のように解けて消えていく。
立ちすくむマクワの前を、何も言わずメロンが雪を滑るようにして歩む。

「母さん……!」

マクワにはわからない。
母が自分に何を求めているのか。
ただ、ひとつだけ確実なことは、あの反旗を翻した時から母の時間は進んでおらず、原因である自分を取り込もうとする。
今のマクワはただ、無理矢理巻き戻された時間を何とか引きずり戻して、後を追うだけで精いっぱいだった。

 

うみべの温度

日が降り注ぐ海辺の空を、ペリッパ―たちが渡っていく。
時折立ち上がる波濤は、たっぷりの織物が伸びるように嫋やかかと思うと、いきなりうねりを上げてマクワを乗せた白とブルーのサーフボードをぐんと強い力で引き寄せた。

「ぐう!」

近くの海中から、波の様子を伺っていたガメノデスが、合図を送ってくれていたことに、マクワは今頃気付きながら、冷静に、冷静にと息を落ち着かせる。
おおきな波紋は高々と上背を伸ばしながら、すぐに陸の方向へと進み出した。波は高い。背の高い波であればある程、波に乗りやすいことは、既に本や映像で予習済みだった。
ボードの上でうつ伏せにしていた身体を一瞬で持ち上げて、足は中心の軸に揃えることと、左右にぶらさないこと、それから、それから。
しかし、頭でわかっていても、身体はなかなか追いつかない。ひたすらまっすぐに進んだサーフボードは、あっという間にコントロールを失ってしまい、マクワの身体は海水に沈むことになった。

「うわっ」

激しい水飛沫の音と、波が割れる音が同時に浜辺一帯に広がる。水面へとゆっくり浮上している途中、ガメノデスに助けを受け、ボードを拾い上げながら、一緒にきらきら輝く水面を叩いた。

「……ありがとうございます。もう一度チャレンジしてみます」

ガメノデスは何も言わず、ただ頷いてマクワの挑戦を見守り、手伝ってくれている。マクワの下に次のCM撮影でイメージショットとして、サーフィン姿が撮りたいという依頼が届いたのは先日の事だった。正直なところ、海辺のスポーツであるサーフィンとは、縁遠いものであり、全く触ったこともない、というのがマクワの状態だ。
実際の撮影ではプロサーファーやポケモンの補助、場所もプールを使用するなど、サーフィン初心者のマクワに配慮したものである。
だがしかし、マクワもどうせ撮影するならばと、こうして訓練の合間、実際に練習して、撮影の当日に見映えするものが撮れるように拘りたいと考えての事だ。
最初は立つ事も難しかったが、何度か練習しているうちにすぐにコツを掴め、ここまで持って来る
ことが出来た。

「が!」

ガメノデスの合図が耳に届いた。また波が来る。この波のタイミングを掴むことはどうしても素人では難しい。ガメノデスがいて本当によかった。
陸に向けてボードに乗り、青い海の中をぷかぷか浮かぶように、強く、素早くパドリングをする。また、すうと身体を大きく引っ張るような強い力が、全てを押し流さんばかりの大波が、巨躯のマクワの身体ごと呑み込もうとする。
この波を掴む。ボードが浮かぶ。身体がふわっと軽くなって、波の上に立つマクワ自身がいる。
ボードがどんどん進んでいく。
高い所から、浜辺でトレーナーの帰りを待つセキタンザンの姿が見える。
前に進みゆくサーフボードを踏み込むと、ボードが沈んで大きく揺らいだが、しかし確かに波の上で、マクワはぐるんと宙に浮かび、さらに捻って回転した。
そして一人進み続けるサーフボードには着地出来ず、そのまま波濤の腕と共に水中に飛び降りて、再び浜辺をどぼんと大きな音で賑わせた。

「……はぁ……はぁ……温かい……」

ガメノデスと共にマクワが海水から上がり、砂浜で2人の特訓を見守っていた、セキタンザンの元へと戻る。彼に持たせていた大きなタオルを受け取ると、横に置いておいた携帯用の小型のパイプ椅子に座って、身体の水気を拭き、足についた砂を払う。

「……海は砂を意識するのが……少しだけ苦手ですね。少しだけ、ですけど」
「シュポー」

それから持ってきた水筒のおいしいみずを飲み、運動し続けて切れた息を整える。長い間冷たい海水の中にいたせいか、手先が冷たく、身体が震えて仕方がない。
セキタンザンは何も言わないが、体温を少しずつ上昇させてくれているのが、マクワには身にしみてよくわかった。じんわりと伝わって来る温度が、心底から沸き立つようなものに変わっていくと同時に、安心の余り、このままコントロールを手放してしまいたいと言っている。
マクワにとって水中訓練とは無縁だったが、新しいセキタンザンの可能性を垣間見たような気がした。
空はまだ高く、蒼空に白くて大きな雲がふわふわと揺られながら、マクワの目の前に浮かび、なにやら誘惑するような心地よささえある。

「ああ……『水』とセキタンザンは……なんだかとても良い組み合わせ……なのかも、なんて。きみは嫌かもしれませんが……」
「シュポオ」

蕩けそうな瞼に、両手でぱちんと頬を叩く事で気付をし、マクワは改めて首を振った。そして一呼吸おいてから、相棒たちに向き合い直した。まだよ。まだもう少しやらなければならないことがあるのだ。

「……練習に付き合って頂いたおかげで、なんとなく見えるものがありました。当日はきっと良い撮影が出来ると思います」
「シュポォー!」
「ガァ!」
「次はきみの……きみたちの番ですからね。ぼくは、今向こうまで遠泳もしてきたのですから」
「ボオ!」
「あれ、思ったよりやる気……え、いやバク宙はしなくていいのです。ダメです」
「ガッ」
「ガメノデスまで! きみは出来そうなのが……おしいですね……! あ、いや違いますから!」

そうして今日もトレーナーとポケモン達の訓練の一日は過ぎていく。
空の陽ざしはまだまだ柔らかい日差しが降り注いでいた。

ガラスの冠

休日のとある日、マクワのもとに荷物が届いた。何十にも縛られた段ボールの箱を開け、大きな箱から出てきたのは、うっとりするほど輝きを放つ大きな硝子の冠。
白い手袋をはめて、セキタンザンの頭に降ろすとマクワは笑った。

「パルデア地方にテラスタルというものがあるそうです。ポケモンを輝かせ、タイプを変えてしまう力があるとか。それをイメージして作ったアクセサリーです」

なるほど、不思議なくらい頭にぴったりはまっているのは、わざわざサイズを合わせてあるからだろうか。セキタンザンは嬉しくなって鳴いてみせた。
テラスタルの映像は、この間マクワと一緒に見ている。自分と同じセキタンザンが、なんと水タイプになって、水の技を使っていた。
自分もやってみたい、そう考えたセキタンザンは、窓を開けると、ベランダに向かって水タイプの技をイメージして身体から水を浴びせる。ぴちゃん、出てきたのは油の塊。

「……タールショット? ふふ、相手のタイプを変えてどうするのですか」
「シュオ」
「ううん、まあ、本物はそのうち……パルデアへ行った時に、挑戦してみましょう」
「シュポオ!」

でも確か。セキタンザンは思い返す。自分はやり方を知らないが、セキタンザンによっては水の扱いを知っているセキタンザンもいた気がする。いつか使ってみたいと思った。
部屋に戻って、自分の頭でキラキラ光彩を放つ冠を外し、改めて自分自身で見る。繊細で美しい。

「ああ、セキタンザン……もう外してしまいましたか……。まだ撮影すらしていないのに……」

しょんぼりと肩を落とすマクワの頭に、硝子の飾りを被せた。
少し大きくて斜めにずれてしまったが、白金の頭の上で輝く透き通る硝子を見たセキタンザンの眼がちかちかと光を放った。

「ボオ!」
「ぼく……ですか? サイズ合わないと思いますが……」
「シュポオ」
「ま、まあ……当然似合いますよね。ああでも……写真をSNSにあげたら、ファンの方も喜んでくれるでしょうか」
「シュポオ!」
「きみ、やけに力が入ってますね。せっかくですから……両方撮りましょう。……もう一つ作ればよかったかな」