月が光を帯びている。
朝4時、目覚まし時計の音でマクワは布団から這い出た。仮眠の時間としては十分だった。
布団の外は冷たくて、まるで別世界のようだ。
さっと準備を済ませると、外へ出た。まだ残り続ける夜は凍えるように冷え切っていた。
寒い夜が来ると、マクワにはいつも思い出す師匠の声があった。
『すごいじゃない! 本当に才能があるわ!』
『素晴らしい才能、活かさなきゃダメだよ!』
『マクワは才能があるんだからこれくらい出来るよ』
『才能がーー』
確かに、トレーニングすることは全く苦じゃなかった。ポケモンといることも、何も難しいことはなかった。師匠である母のおかげだろう。
それでもとにかく母に見捨てられるわけにいかなくて、トレーナーとして修行する頃の幼い息子の手は酷く擦り剥いたままだったが、それも『才能』のうちだっただろうか。
マクワはセットしていない頭を軽く振り、モンスターボールを投げる。
バディがまだ眠そうな顔を出した。パチパチと火の粉が弾けて、石炭の香りが立ち上った。一気に周囲が温まって、マクワは口から白い息を吐いた。
「ランニングです。行きますよ。まずはウォーキングから」
「ボオ」
仕事でどうしても難しい時以外、欠かさず行なっているマクワとバディの日課だった。
同じコースを同じスピードで走る。基礎のトレーニングであり、同時にセキタンザンの体調も確認することが出来た。
昨日はそこそこ長丁場の試合があり、まだ少し疲労があるのだろう、黒い眼は時折眠そうな顔をしていた。
セキタンザンは、スマホロトムで計測通りいつもと同じスピードを維持出来ている。調子は悪くなかった。
眠りについたキルクスの外周を巡ると、再び最初の道に戻った。
「お疲れ様でした。今日はおしまいです」
「シュポォ」
バディは揃って部屋の扉を潜った。朝ごはんを食べて、マクワはもう一度眠ることにした。随分と久しぶりのオフだ。
休まなければ身体が持たない。とはいえやりたいこともある。
「セキタンザン、10時になったら起こしてくださいね」
「シュポォ」
ベッドの中はふかふかで心地良い。あっという間に眠りの中に落ちてしまった。
しばらく隣でうたた寝をしていたセキタンザンだったが、ふと時計を見ると10時になっていることに気が付いた。
よほど疲れが溜まっていたのか、マクワはぐっすり眠り込んでいる。揺らして起こしても、微動だにしない。
「ボオ」
突っついてみた。少し眉を顰めたが、それきりだ。
再び揺らしてみた。仰向けに寝ていた身体がごろりと横倒しになった。
どうやらセキタンザンの石炭から漏れる温度が、暖かくて心地が良いらしい。
いたずら心がむくむく湧いて、足元の方へと遠ざかってみると、ベッドギリギリ落ちる寸前まで大きなマクワの身体が付いてきた。セキタンザンが慌てて戻ると、合わせて少し横に戻ったので、そのまま奥に押し込んだ。
あんまり気持ち良さそうに寝ていたので、セキタンザンも起こす気持ちが吹き飛んでしまった。特別な用事はないはずだ。
じっと横で見つめながら、共にうとうとしていた。
◆
昼過ぎになって、セキタンザンは気がついた。流石に頼まれた手前、一度は起こさないと機嫌を損ねそうだ。もう一度強く揺らした。
「ボオシュウ」
「んん……いま……10時ですか……」
「シュポ……」
「過ぎてる……? 一緒に寝ちゃったの……?」
「ボオ」
「そっか……ありがと……」
「シュポォ」
「おきる……」
そう言いつつ、マクワの瞼は未だくっついたまま離れようとしない。
「ボオ」
「シャワー浴びたい……」
「シュポ!」
セキタンザンはまだ布団に隠れるマクワをぐるりと布団ごと持ち上げた。
何とか扉を開けて、廊下を歩く。
「待って、自分で歩けます……!」
「ボオ」
「もう……!」
真っ白な簀巻きの中で、ぱたぱたと足をばたつかせていた。
◆
さっとシャワーを済ませた後、リビングの二人掛けの大きなソファに座って、まだマクワはぼーっとしていた。セキタンザンの隣、時折弾ける火の粉の音を聞いていた。瞼は重たい。
「たまには……何もしない日もいいのかも」
「シュポ」
「きみが……温かいし……いいなって。きみがいつものままでいてくれて……すごく楽しい、です」
「ポオ」
「きみはトレーニング好きじゃない?」
逡巡の後に、素直な返事をした。マクワと一緒だからしているけれど、もし違う人がトレーナーだったら絶対にしないだろう。セキタンザンの中に確信があった。
出来ればいつだってのんびりと時間を過ごし続けたい。
マクワがつまらなくとも安らかな顔をしている隣に長くいたい。
けれどもそれを大きく凌駕するほどに、マクワと一緒にいることの方がずっと良いことに思えていた。
マクワも分かってくれていて、最大限本当のセキタンザンであることに理解を示してくれている。
だからセキタンザンも、マクワがマクワの夢を追い続けることに対して、なんの意義もなかった。むしろずっと一緒に追って行きたいと思っている。
「シュポォ」
「当然きみに合わせて調整していますが……それでもきちんとぼくのメニューをこなせる……すごいことです」
マクワの目に、普段と同じ意思が宿る。冷たくて力強い、スタジアムの上で見せる眼だ。
「きみは……こおりを穿つ絶対の力です。きみはぼくのバディである以上、誰より強くあらねばなりません。もちろん甘やかすつもりもありません。でも」
「ボオ」
「きみがきみでよかった。きみとだから……きっと長く進んでいける。ぼくもたくさん学ぶことが出来る」
マクワは力を抜いて笑った。
「ぼくはきみの光をこの星に運ぶお月さまですからね」
「ボオ?」
「月は自分で光っているように見えますが、あれは太陽の光を浴びている部分が地球に向いているだけです。
ぼくもきみの光を浴びて……たくさんのひとが見るこの星の上で光るのです」
「シュ ポォー!」
「だから今日だけは……ドライヤーもおやすみ。……きみがいるとすぐ乾きますね。天然の高級ドライヤーだ……遠赤外線効果……」
「シュポ」
「え、顔が赤い? 近過ぎたかなあ…… じゃあこうして向きを変えます」
マクワは二人掛けのソファを占領し、横になった。重たい瞼が閉じられていく。
冷たい夜の凍りが溶けていく。
「きみが好きなときに起こしてくれて良いですから……」
窓の外、陽射しは優しく照らしていた。