タンドンと一緒に寝る話

家を出て初めての夜のことだった。
部屋の電気を消してベッドの中に潜り込むと、マクワはそこでモンスターボールのスイッチを押した。光と共に現れたのは、タンドンの紅い瞳だった。ふわふわした不思議な場所に呼ばれたタンドンはきょろきょろと見まわしていた。
マクワが珍しくいたずらっぽい楽しそうな笑顔を浮かべているのを見て、ぱちぱちと瞬きをした。

「……ずっとやってみたかったのです。きみと一緒の布団で寝ること。キルクスは寒くて布団がいつも冷たいから……きみに温めて欲しくて」

マクワは布団から頭を出して横になる。うっすらと外が明るくなって、タンドンは入り口をようやく理解した。布団のトンネルの中、自分の持っている灯りだけが頼りだった。
しかしマクワがタンドンを私的な事で呼ぶことは珍しい。いつも呼ばれる時は訓練だったり、ポケモン勝負をする時だった。タンドンは嬉しくなってマクワに寄り添う。柔らかい手が、タンドンの頭を撫でた。

「ここならきみの色が付いてしまってもぼくが自分で洗えますからね……やっぱりタンドンは温かいな」

灰簾石の丸い瞳がタンドンの紅い光を受けてきらきら光っている。けれど安心したようにゆっくりと瞼の帳が降りていった。その光景を間近で見たタンドンは、自分の奥の熱がぐっと強まるのを感じた。
身体の奥底にある炎の揺らめきの形がはっきりとわかる。力を込めると、まだ幼いはずの火の力がごうと燃え始めた。
これならマクワをたくさん温めてあげられる。そう確信したタンドンはその熱を逃さぬように精いっぱいの力で維持した。そしてマクワの胸元で自分の瞳も閉じたのだった。

タンドンは薄暗いふかふかの中で眼を覚ました。布団の中は一晩経ってもぽかぽかで、なんだか洞窟に居た頃を思い出して懐かしくなった。けれど今はマクワが隣に居る。
そう、真横にマクワがいた。彼の胸の奥で、何かがばくばくと音を立てていることに初めて気が付いた。これがマクワの「炎」なのだろうか。そう考えるととても心地の良いものに思えた。
少しだけ聞いた後、マクワの寝ている様子が気になって、布団から頭を出した。
枕に頭を乗せた少年は横向きに寝ていて、随分と汗をかいていた。眉根が顰められていて、随分と顔が赤い。タンドンは目を瞬きさせた。慌てて掛け布団のトンネルから飛び出して、マクワの枕元に立ち、とんとんと小さく身体をぶつけた。
何度か当てていると、瞑られていたあの灰簾石の目が自分を見た。しかし昨日の輝きとは違って、瞼も重そうだ。タンドンの心の中が心配の石ころでいっぱいになる。

「……タンドン? 時間ですか、ありがとう……」

タンドンは一生懸命横に身体を振った。マクワは額に零れた汗をぬぐった。

「……ぼく……? そうだ……なんだかだるくて……あつい……。でも大丈夫……ですから」

もう一度タンドンが否定を全身で現すと、掛け布団の端っこを身体に引っ掛けて思いきり畳んだ。突然外気に触れて、マクワは身体を小さくすくめていた。

「……涼しい……。ありがとうタンドン」
「ゴゴ!」
「……暖め過ぎてしまったかも……。ごめんタンドン、水……持ってきてくれますか? ペットボトルが戸棚にあるから……」

タンドンは頷くと、すぐにベッドから飛び降りた。そして飲食物のまとめられた戸棚を探すと、観音開きのウォールナットに身体をひっかけた。一番目の戸棚はシリアルやポケモンフーズでいっぱいだった。次の扉に未開封の飲み物が一式まとめられていた。
タンドンはそのうちのおいしいみずを一本取り出すと頭に乗せた。再びマクワの下へと走った。
ベッドは高さがあったが、気が付いたマクワが手を伸ばして受け取るのを確認した。上の寝間着を脱いで、シャツ一枚になっていた。

「ありがとう」
「ゴゴ?」
「……ほかにひつようなもの?」

マクワはボトルのキャップを開け、水をごくごくと飲み干していた。余程喉が渇いていたのか、あっという間に空っぽになってしまいそうだ。まだ水がいるのではないかとタンドンは考えた。
顔色から、マクワの体温がずっと上がっているのはタンドンにも理解が出来た。熱い時はいつも真っ赤になってしまう。近くにあった下敷きを使って、水を飲むトレーナーへとベッドの下からぱたぱたと風を送った。
すっかり中身のなくなったボトルがベッドサイドに置かれた。ふう、と大きなため息が降りた。
それからマクワの脚が伸びて、タンドンの目の前に居りてきた。マクワはベッドに座り、タンドンを見下ろしていた。まだ顔色は悪いが、さっきよりは随分と良くなっていた。

「おいしいみずを飲んだら大分らくになりました。ご迷惑をおかけしてすみません」
「ゴオ」
「……ごめんねタンドン。せっかく温かくしてくれたのに、きみの温かさについていけなかったようです。でも今度は大丈夫です。ぼくももっと身体を頑丈にしますから!」
「ゴオ!」

タンドンはまた慌てて首を振った。これは迷惑でもないし、マクワのせいじゃない。どう考えたって自分の調整の失敗だった。人間には自分と違う適切な温度があるのはわかっていた。わかっていたのに、つい張り切りすぎて見失ってしまったのだ。
マクワは自分と居るためなら何でも平気で耐えようとしてしまう。だからこそ、しっかり見極めて調整しなければいけなかった。
タンドンは車輪を転がし、マクワの脚に自分の頭を軽くぶつけた。

「……ま、まあそうですね。ぼくのバディになるくらいですから……これくらいはちゃんと理解していてもらわないといけませんね。でもきみが……ここまでの温度を維持できるとは思いませんでした。訓練の賜物でしょうか」

少年は足にすり寄る相棒を抱き寄せると、再び布団の上で寝転がった。タンドンと一緒に寝る時は、薄い掛け布団に変えるのも良いかもしれない。タンドンが畳んだ掛け布団に白い脚先を降ろした。

「まだちょっとだけ怠いから……もう少し一緒に寝てくれませんか」
「ゴゴゴ!」

石炭のポケモンは、再びあの灰簾石の瞳に幕が下りて行くところを見た。今度こそはこの帳の番をしっかり務めるのだ。もう次は同じ間違いはしない。
同じ場所に、同じものを置いていたい。そう祈り続けていることも、同じだと確信しているから。

これからも、ずっと

昨日、マクワに別れを告げた。
思い出せるのは、本当に毎日訓練ばかりしていたことだ。酷い時にはトレーニングと試合と、そしてマクワを応援するファンにお礼をするためのイベントでぎっちり予定が埋まっていた。
だから休みの時には、他の人間には見せられないような恰好をしていて、俺はそんなマクワを布団から引っ張りだしたりもしていた。誤解のないようにしておくが、自分の寝汚さを自覚していたマクワが頼んだことだ。
布団を丸めてそのままシャワー室へ連れて行ったり、それでも眼を覚まさない時は、思い切ってシャワーのお湯を掛けた。すると寝ぼけ眼は大慌てで見開かれるのだ。
俺の身体は石炭とほのおでできている。水が掛かれば負担になることを、俺のバディであるマクワは誰より一番知っていたし、極力普段回避したいと思ってくれていたからだ。
だけどそうやって、トレーナーであり、いつもは俺たちの面倒を見て、手入れをするマクワにお返ししてやるのはとても楽しい時間だった。
マクワもその事は理解してくれていたようで、俺が思い立って櫛やドライヤーを持っても止めたりはせず、そっと身を任せてくれていたのだった。
それも大分昔の話の事だった。思い出が溢れてくる。マクワが忘れてしまうような些細なことも、石炭といういわの身体で出来た俺は、たくさんたくさん覚えている。
出会った日の事は忘れもしない。まだ幼くて、真ん丸な髪型だった頃の彼は、突然俺が隠れ住む小さな洞穴に迷い込んで来た。
俺にはよくわからなかったが、厳しい母親との、自由の少ない今の生活があまり好きでないようだった。けれど俺と居る時はとても楽しそうにしていて、薄暗い洞窟に居る時ですら、灰簾石の色をした丸い目は興味津々に輝いていたのだった。
それは淡く透明で優しい、擦り硝子そっくりの光。だけどいわである俺にはわかる。それは磨かれる前の鉱物そのもので、そして温かい場所にいても溶けてしまうことのない、力強さを持った”同じ”煌めき。彼と離れるのは惜しいとさえ思った。
だってこの輝きを知っているのは、おそらく世界に今、俺たった一人のはずだからだ。放っておいてしまえば、これをこおりだとして連れていかれてしまう。
出来るだけ一緒に居る事で、いつか眩しく磨かれた”いわ”の煌めきなのだと証明してみせたい。
そんな思いが通じたのか、俺はマクワのモンスターボールに収まって、そうして今の今までずっと共に居る事が出来た。厳しいリーグの世界の中で共に眩い光を叫び、それからとうとう長いリーグ生活から引退をした。足を洗ってもなお、いわのポケモン達のためにずっと尽力し続けていた。
そしてきちんと最期を看取って、別れを告げる事が出来たのだった。彼の身体はもうほんの小さな灰になり、俺の掌に納まりすらせず、何処かへと連れていかれてしまった。
寂しさの風がすうっと抜けて行く。隙間を埋めるように、記憶が湧き上がる。

「人間は葬式の後、骨だけになって残るのですが……それは何より一番きみに近い姿です。いわも骨も無機物に違いありませんから」

冗談でもあまり聞きたくはなくて、俺は病室で、咎めるような、いじけるような声をあげてしまい、苦笑させてしまった。

「冗談……です。……ぼくはきみに全てをあげました。何処へ行ったとしても、通用する立派な力です。それがぼく自身の魂です。きみは……ぼくの墓標なのです」

俺は多分、目をぱちぱちさせていたに違いない。

「……これからもずっときみと一緒に居続ける、ぼくの魂。誇ってください。きみは自由だ」

そうだろう。これほど俺に向き合い続けた人間なんてそうそういない。本当にずっとずっと一緒に居て、ずっとずっと訓練に試合にと、あちこち引きずり回された。峻厳なトレーナーは、甘えを許さなかった。
そうして長い間ガラルのリーグのトップクラスに君臨し続けたのだ。

これから先、たとえどんな人間とバディを組んだとしても上手くやれるだろう。
これから先、たとえどんなポケモンが向かってきたとしても、簡単に負けはしないだろう。

マクワの磨き上げたクレバーなちからがいつだってついているのだ。
もしかしたら、彼よりずっと相性のいいトレーナーと一緒になって、もっと好きになれてしまうかもしれない。だがそれでも俺の石炭の中には必ずマクワが共に居る。
この世界を愛し続けたマクワがいるから、そうして何度でも世界を愛することが出来るのだ。いや、まだまだ先は遠い。マクワに負けない程、慈しみを降らせていこう。
蒸気機関車は、汽笛のような鳴き声を上げて走り続ける。そこにはマクワが乗っている。
これからも、ずっと。

きみの目を見つめると

そこには必ずぼくがいる。
控室で今日の反省会に没頭し過ぎて、つい試合後のインタビューのアポイントを忘れてしまった時。あるいは負けが続き、SNSでも下らない罵倒がぼくの名前に並び始めた頃。

そもそも今のぼくの立ち位置は危ういものだ。現在もリーグの一流選手である母が用意した跡継ぎの氷の椅子を蹴り飛ばし、自分の道を選んだことを良く思っていない人も少なくはないことを知っている。
親子喧嘩にわざわざ街を巻き込んでしまったぼくの(そして少なからず同じ戦いを強いた母の)責任に違いない。

『意地になっていわタイプの道に進まずにこおりタイプを選んでおけばよかったのだ』
『今のぼくの事は見たくなかった』

聴衆は好き放題インターネットの海で自分の気持ちを一時的に慰める。そこに本人が繋がっていて、いつでも覗くことが出来るというのは、思考の隅にも置かれていないのだろう。
とはいえ普段であれば、気にも留めないものだ。大衆が見下ろすガラルの中心に立つ以上、そういった感情のやり過ごし方はきちんと身に着けているはずだった。
結果が芳しくない今、どうしてもそれらが心の中で凍てつき貼り付いてしまっていた。小さな霜のようなそれは、じわじわと範囲を広げてぼくの精神を凍り付かせてゆく。

ああそうだ。確かに無謀だったのかもしれない。母の行動は正しかっただろう。
この結果主義かつ弱肉強食のガラルリーグの中、最初から丁寧に用意された環境と長く鍛錬した技術がぼくを必ず勝利という幸福に持ってくのだと。
将来ぼくを苦しめない為のものだったのだと。

目を瞑ればいつだって思い出せた。何もかもを真っ白に染めあげるこおりの難しさとその力強さ。
ぼくはこおりの中で生まれて、こおりの中で生きることこそが定められた美しい道なのだ。
観客も母も喜ぶのであれば、何も迷う必要はなかった。たとえそれが親が引いた、自己を殺す道だとしても。
大きく息を吐くと、かき消すように現れたのは、真っ黒に磨かれた黒曜石そっくりの、愛嬌たっぷりの優しい眼だった。
背中の石炭の山の中で燃える炎は静かに揺れながら、ぼくの頬を照らして温めているのが伝わった。古い木のような、埃っぽい特有の香りが鼻を擽る。
ぼくよりも3倍も大きな真っ黒な石炭の身体を持つ、ぼくのバディがモンスターボールの束縛を抜け出してその姿を現したのだった。
セキタンザンは小さく鳴くと、じっとぼくを見つめていた。

出会った頃は真っ赤に燃えていた、優しくも逞しいその黒曜石そっくりの瞳が大好きだ。ぼくの鋭利なサングラスは彼の影響を受けて身に着けたものと言っても過言ではない。少しでも彼の姿に近づきたい心の顕れ。
今でもあの時の赤は、相手と戦う時に見せてくれる。猛々しく相手と戦う強い力を持つもの。
だけど笑い方も、ぼくと接する時も優しくて、大昔寒波の時、たくさんの命を温めて救ったという彼らの逸話は本当なのだと教えてくれた。
いわで出来た身体は無骨であまり多くを語らないが、それでもじっと耳をすませばとても雄弁だということをぼくは知っている。
だから彼らの言葉のない言葉が、もっとたくさんの人に伝わるようにしたいというのが、彼らに憧れるぼくの夢であり、そしてこおりを蹴り飛ばしていわの道を選んだぼくの使命だと考えている。

「シュ ポォー!」

セキタンザンはにっこり笑った。もうそれだけで十分だった。指先が温かくなって、血が通っていくのが分かる。気持ちが溢れてくる。
それは全て、きみの瞳の中に映してくれるぼく自身が戻って来たからだ。
セキタンザンはいつだってぼくを見つめてくれていて、そうしてぼくのありたいぼくを返してくれるのだ。ぼくが選んだぼくは、きみの瞳の中にある。
ぼくはそうっとお礼を告げると、その大きな顔を撫でた。背の炎を受けて、ぼくの双眸がちらちらと輝いているのが分かる。そこには必ずぼくがいる。

星座の夜

それは雪山の奥のことでした。
真っ黒な夜の帳には、無数の星々が呼吸をしながら輝きを映しています。あまりに星の数が多いので、むかし教えてもらった星座さえもが光の海に呑み込まれていましたが、辛うじてまだ新しい星の物語がわかります。
大きく息をすうと、マクワの頭の中に古い記憶が浮かんできました。

『あれはリングマ座って言うんだよ。あの星がお尻で、リングマの頭になるのがあっちの星。ようく見てごらん』

そう教えながら星を映した大きな眼は、ぴかぴかに磨かれた眩いものでした。幼いマクワは一生懸命に星座盤と睨めっこをしていましたが、それはどうみてもリングマには見えません。

『リングマにはね、こどものヒメグマ座も近くにあるんだよ。あの木の上にある星……見えるかい?』
『ええと……これですか』
『そうそう。一番良く見える黄色い星があるだろう?』

今のマクワは星座盤がなくても星の上でリングマの姿も、ヒメグマの姿も描けます。ちかちかと輝きながら、リングマの親子はマクワのことを見下ろしていました。

『でも……星というのは、もとは鉱物で出来たおおきな物体なんですよね』
『おや、もうそんなところまで習ったのかい。そうだよ、ここからは見えないけど、この星の地面とおんなじだったり、ガスや爆発の輝きだったりするよ』
『ばくはつのかがやき?』
『そう、大きな星はとっくの昔に亡くなっていて、命が尽きる時に大きく爆発する、その光だけがここに届いてるのさ』

氷雪だらけの山道を、マクワは難なく歩いていきます。
きらきらした空を吸い込むように、雪で覆われた地面はずっと静かに佇んでいました。湿った重たい香りはいつもと何も変わりません。
林を越えて、石の階段を上ると、冷たい風が吹き抜けました。天辺では広い湖が顔を見せました。
その中央に、白くて長い髪の女性が座っています。湖は分厚い氷におおわれて、重量のあるマクワが脚を降ろしてもびくりともしません。
無数の星を携えるように、大きな満月がぽっかりと浮かんでいました。
マクワが女性に近寄っても、彼女はずっと下を見ていました。よく見ると湖の氷の中に、誰かが居ます。まるで眠っているかのように、目を瞑った少年が氷の狭間に浮かんでいました。
それはその女性とそっくりで、そしてマクワにとってもよく知っている男の子でした。
ようやく女性がマクワに気が付いて、顔を上げるとにっこりと笑いました。
それが余りにも綺麗でしたので、マクワはふらりと近寄ると、彼女の細い首に両手を回しました。
一瞬、驚いた顔はあっという間に歪み、苦しさに染まっていきます。
ぎり、と鈍い音がして、皮膚が捩れて、血管が、骨が軋んで悲鳴を上げています。細い、細い首でした。白い肌も、驚くほどに薄い感触です。ゆうに両手で一周してしまえるものでした。
反射でマクワの手に震える両手を掛けますが、力はほとんど入っていません。入っていたとしても、おそらく彼女の力では何の抵抗にもならないことがわかりました。手の中でひとつずつ器官が、細胞が壊れていきます。自分と同じ物。自分を作り上げたもの。
繋がりを握りしめて、そうして失ってゆくのでした。

「ぁ゛、マ……クワ……」

彼女は口角を上げてマクワの名前を呼びました。汚れた口端から泡のような唾液が零れていきます。顔がどんどんと鈍い色に変わっていきます。眼の端から艶やかな涙が零れました。
ぽかりと口を開けたまま、動かなくなっていきます。
大きな青い眼の中に、まんまるの月が映っていて、見たこともない程とてもとても美しいものでした。マクワが手を放すと女性は氷の上に寝転がります。
ひとには爆発の輝きはありませんが、それよりももっと重たくてずっしりとしていて、悍ましい光を写し取る事ができました。
その足の下で眠る、凍り付いた少年の周りにはたくさんの化石が一緒になって凍り付いているのが目に入りました。少年は、疑問を投げかけました。

『なぜリングマとヒメグマなのでしょうか』
『それはアルセウスのせいさ。リングマ座とヒメグマ座は親子で……リングマがお母さんで、ヒメグマが息子なの。
リングマは元々は人間の女性だったんだけど、罰を受けてリングマにされて森にすむことになったんだとさ。でも彼女には人間の息子がいたんだ。
リングマに変えられたお母さんのことを知らない人間の息子が森に入っちまって、そこに突然リングマがやってきてね。お母さんは息子に会えて大喜びで駆け寄ったんだ。
でも息子にとってはただの狂暴なリングマさ。息子は慌ててリングマを殺そうとしたんだ。でもそれを不憫に思ったアルセウスが、2人をこうして星座にしたんだとさ』
『ぼくはお母さんのこと……わからなくなりません……!』
『アハハ、それは嬉しいねえ』

真夜中、星の美しい空の下。マクワは自分のベッドの中で眼を覚ました。今でも絞めた首の感触が、徐々に息絶えていく命の感覚が、生々しく手の内に残っていた。
あの女性は間違いなくメロンだった。自分は夢の中で母親に手を掛けたのだ。
震える両手に思わず体を起こす。そして両手で自分の顔を覆った。

お酒を飲むマクワとセキタンザン

人間には酔いたくなる時があるらしい。マクワは時々飲酒をしている時に俺を呼ぶ。そういう時のマクワは、いつもとは全然違う雰囲気で、ずっと機嫌がいい。きっと本人に伝わってしまったらあっという間にその魔法は解けてしまうだろうと思うが、メロンさんそっくりだ。
酔ってない時では絶対に言わないようなこともたくさん俺に言う。

「ふふ……うれしいですか。……きみはほんとに……かっこいいなあ」

俺がマクワを見ていると、急に眉間にしわを寄せ始めた。力の篭った対の眼には涙が浮かんでいる。晩酌の時、ふわふわと上機嫌になることは多いが、泣き出す事はあまりない。
俺は思わず声を上げる。

「シュポォ!?」
「……きみがあんまり幸せそうに笑っていて……ふふ」

それは、普段誰も知らないマクワの中の不安の気持ちが形になった物だった。マクワは零すことなく指で拭い去り、消してしまった。しかし俺が幸せだと泣くなんて、ひどいことだなとも思った。
けれど俺は、俺だけはマクワのことをなんだって知っている。
マクワがひとりの人間としていろいろな問題を抱えながらジムリーダーとして立っていること。
その最もたるは、マクワが本当はこおりジムのジムリーダーとして期待されて生まれ、育ってきた。しかし彼は自分の意思を貫き通して、俺と一緒にいわジムのジムリーダーになったこと。
マクワはいわタイプのポケモンのことが好きだけれど、彼自身まだ日は浅く、内心いわタイプとの間に隔たりのようなものを感じていること。
だからこうして俺がマクワといて喜んでいること、それ以上にマクワが喜ぶことがあること。つまりうれし泣きというやつだった。

「ぼくがトレーナーなのは……当たり前ですけど……でもいわタイプのトレーナーになれたのはきみがついてきてくれたからに他なりません。きみは……なんてことないタンドンでした。けれど……ぼくについて来てくれる。すごいこと……です」

どうだっただろうか。ただ一緒に居たかった。一緒に居て楽しかったし、心地よかったことだけはずっと覚えていた。だからボールに収まることも苦じゃなかった。それは進化して、生活が変わった今もずっと変わっていない。
なんてことなかったから、特別をたくさんくれるマクワとは相性がよかったのかもしれない。
きっとそれが別のタンドンであっても、優秀なトレーナーたる彼は根気良く育てただろう。そして母親から分かつ力を得て、立派に彼の隣を勤め上げるだろう。俺たちはそういう生き物だ。

「……きみ、いま……他の子でも変わらないって思いましたね。……そんなことはありません。きみは……きみだからついて来れたのです。誇ってよいです」
「シュポォー」
「そうです……それでよいのです。それで」

でも。俺は代替の効く俺だからこそ、こうして今、マクワがたくさんくれる特別がどれだけすごい物か、実感できる気がしている。俺にはマクワの真似は絶対に出来ないのだ。
そうしてひとりで満足していたせいだろうか、缶を煽ったマクワがじっと向こうの壁を見つめていた。

「……きみは本当に……ずるいです。ずっとずっと強くてカッコよくて……硬くて……あったかくて……」
「シュポォ」
「ぼくは絶対に届かない。でも……同じ夢を見てくれて……こうして一緒にお酒の時間まで共有してくれる。……どうかきみが……きみの時間をぼくと分けることを許し続けるその日までは……ぼくと共に同じ夢を見させて。……必ず損なんてさせません、最高の」
「シュポォ!」

マクワの言葉を遮って首を振った。それはマクワのいつもの言葉だけれど、俺にとっては一緒にいるために必要な言葉じゃなかった。
いつだって同じ場所に、同じ気持ちを置いておきたい。順番や速度は違ってもいい。たった一つだけ、同じ高さにいないのは、俺がいやだった。
もう決めている。マクワが俺の事を必要とする限り、最期まで共に一緒に居たいのは俺だ。それも同じ気持ちだと知っていた。
マクワはまた眉間にぎゅっと皺を寄せて、だけどすぐに表情を変えて笑った。

「本当に……ありがとう」

セキタンザンのいわの檻の中にいるマクワの話

ぼくはいわの檻の中にいる。湿った洞窟の香りにも、砂だらけの床で寝ることも既に慣れ始めてしまった。一体ここが何処なのかはわからない。
気が付いた時、ぼくの前には、床と天井を繋ぐ岩でできた大きな柵があった。おそらくストーンエッジを並べたのだ。セキタンザンの出す岩の剣は、自分の身体に沿うのかどうしても山波になりやすく、下の方が太いことは良く知っている。
外から漏れる明るい光に影が伸びた。薄暗い洞窟だが、そこまで深くないらしく、誰かが入り口に立つとすぐに影が出来る。ちょうど外から戻って来たセキタンザンは、背中の炎をぱちぱちと輝かせ、揺らしながら抱えたきのみをどっさりと落とした。昏かった石窟に灯りが付いて、ぼくは思わず瞬きをした。
彼は柵の隙間からぼくにオボンの実を差し入れた。何も言わずに受け取ると、硬い皮を岩壁にぶつけて割り拓く。中からじわりと果汁が零れたので、慌てて啜った。

「シュポォ」

セキタンザンが自分の力で割ったきのみをぼくに差し出していた。ぼくはしばらくそのきのみとセキタンザンを見比べた後、受け取ることにした。

「……ありがとうございます」
「シュポォー!」

相棒の笑顔はいつもと何も変わらなくて、ぼくの心がふわりと浮かんだ。良くないことなのはわかっている。何度もセキタンザンを説得しようと試みた。だが彼の硬い意志はぼく以上で、絶対にここから出してはくれない。同時にセキタンザンがこの檻の中に入って来ることもなかった。
理由はわからない。ただ、彼が行動を起こす前、ぼくが仕事を入れすぎてしばらく寝込んでしまったことは記憶にもまだ新しい。
ぼくを人の世界から遠ざけようとしているのだろうか。せめてそう信じたい。
たくさんの仕事、たくさんのひと。ぼくを待っていることを考えると、ぼくはこんなところでじっとしているわけにはいかない。
ぼくだってまだやりたいことがあった。それはセキタンザンと一緒に叶える夢だ。彼もわかってくれていると思っていた。
だがしかし。

「ボオー」

何故かとても楽しそうなセキタンザンを見ていると、ぼくの心は歪に揺れ動いた。
ここに来てから、セキタンザンはとにかくぼくの面倒をみたがった。こうして食事の用意をしたり、排泄だったり、必要なものがあればすべてセキタンザンが調達してくれた。
ひとつひとつの行動が、以前のぼくたちの関係では見れなかったものばかりだった。だからなんだと頭では理解している。
でも、ぼくの手は彼から享受することを選択していた。

「ねえセキタンザン」
「シュポオー?」
「……ぼくたちこれから……どこへ行くのですか」
「ボオ」
「きみがこんなことする必要なかったのに」
「シュポ」
「何を言っているのか……わからないや」
「ボオー」
「……そうですね。……ぼく、またきみの手入がしたいな」

セキタンザンは何かに気が付いたように立ち上がり、柵に向かった。ごお、と彼が大きな口を開けて吼えると、まるで魔法に掛かったように柵のひとつが消えて、出入り口が出来る。
そこを通り、セキタンザンがこの檻の中に入って来た。彼がこうして中に来ることは初めてだった。セキタンザンはぼくの前に座り込むと、じっと顔を見つめた。彼の炎の吐息が掛かって少し暑かった。
それから手を伸ばして、ぼくの頭を抱え込んだ。

「わ、何、なんですか」

大きくて硬い指が頭皮を撫でる。髪と髪の間を通り、撫でつける。時に毛束を作って、わしゃわしゃと掻き混ぜる。もしかして、ぼくの手入をしようとしているのだろうか。
普段セットしている時を、真似ているような動きだった。

「せ……せき、たんざん……」
「シュボオ」
「ちょっと痛い」
「ボオ」
「我慢って……うぐ」

ひとしきり動きを終えると、満足したのかセキタンザンは手を放した。なんだか妙な気分だったが、セキタンザンも普段ぼくに触られている時、同じように感じていたのだろうか。
大きく息を吐いていると、再びセキタンザンが両手を伸ばした。今度はぼくの背中に回って、全身を抱きしめる恰好になった。
彼が彼自身のおよそ三分の一の重量を持ち上げたと思うと、両腕に力が込められた。みし、と骨と皮が悲鳴を上げる音が聞こえた。

「い、痛ッ……せきたんざ……ぐ……あ、ぁ……!!」

ぼくが声を上げてもセキタンザンは止めることなく、さらに力を入れている。全く動くことが出来ない。当たり前だ。人間より何倍も強い生き物なのだ。
そして彼の力を奪うことなく育てたのはこのぼくだった。戦いの中で使うために。しっかり鍛えて分厚いはずの胸板は思いきりプレスされて、中身ごと拉げそうだった。
突然の事に呼吸が上手くできず、意味のない音ばかりが口から出て行った。肺が潰れて、心臓さえもが圧迫されて、形を変えている。
これが、これこそが彼の本当のいわの檻だ。ぼくはその身で体感している。手加減なんてしない、彼の力を、ぼくがぼく自身で受けている。
目の前がちかちかと瞬き始めた頃、セキタンザンは両腕に込めた力を抜いた。塞き止められていた酸素を少しでも早く入れたくて、大きな口で息をしていた。
セキタンザンは厳しい目をしながら、ぼくを抱きしめていた。

「ゴゴオ」
「……はーッ、せ、……せき、たんざ……はぁ、はぁ……」

彼は、今この場所での主人が誰かを知らしめたいのだ。わかっている。痛苦で喘ぐ身体よりも、優秀なトレーナーだと自負する心が、バディに手を出されて何よりきりきり痛みを主張していた。

「……ぼ……ぼく、きみの……だから」
「シュボオ」
「きみの……バディだから……ここにいますよ。ぼくのいのちはきみの……」
「シュポォー……!」

セキタンザンが再びぼくを抱き寄せる。今度は圧迫のない、ただ寄せられただけのもの。両手を回したいが、両手ごと抱きしめられて動く事が出来なかった。
苦痛よりも、矜持よりも、もっと深くて重い繋がりを握りしめていて、手放すことなどできなかった。彼が居なくなってしまうことの方が何より怖くて、痛かった。
ぼくはいわの檻の中にいる。ずっと昔、彼と出会った時から、いわの檻の中にいる。

 

レポートが こわれています

ベッドの上に、慎ましやかな誰かが乗り上げてくる。しかしささやかなのは最初の足取りだけで、音はないものの、ずっしりとした丸みを帯びた主張はよく知っていた。身体はマクワのいわポケモンの中でも誰より小さいはずのに、その意思の硬さはいつも一番で、彼は行き先を曲げる事を知らなかった。そんな気質を気に入って、マクワは仲間にした。
細い手足はその手足と比較して大きな身体を持ち上げて、布団の上にどしりと乗ったことで、よくよくはっきりと形と重みが伝わって来た。何といっても元気な弟たちとさほど変わらないか、むしろ彼の方が重たい。
マクワは頭まで布団をかぶっているせいで見えないが、おそらくツボツボだろう。
さっき就寝して、それからの感覚はないがまだ朝は遠いはずだ。滅多にないが、ツボツボは時折早朝に目を覚ましてしまい、腹をすかせた時によじ登って来ることはあった。おそらくむしポケモン故の習性なのだろう。それにしてもまだ早すぎる。
布団越しにも深い夜の中にいることが分かる。当然のようにマクワのくっついた瞼は開かないし、身体も頭も動こうとはしなかった。
よく知った感触が近づいてくることに安堵して、まだ睡眠の浅瀬の淵から出る事が出来ないマクワはツボツボの自由に任せることにした。横向きになって眠るマクワの上を、小さな腕が昇ろうとして、くっついた、そうマクワは思った。
しかし、その感触は突然消え、何か大きなものが覆いかぶさって来た。大柄のマクワの身体をすっぽりと包む程大きなそれは、上から強い力でマクワを押さえつける。
驚いたマクワは布団から頭を出そうとするが、そいつは布団の中にマクワを閉じ込めたいのか、全身で押し込んでくる。誰かの息遣いが聞こえた。

(いたずらか……!?)

視界は真っ暗で何も見えない。ただ大きな人のような何かが、マクワを強い力で押しとどめている。足を、身体をばたつかせるが、布団と布団の狭隘の暗闇の中では、圧迫され、全ての力が吸い込まれてしまい、ただそいつの思惑のとおりになるだけだった。
まさか鍵をせずに寝てしまったのか。だがしかし、玄関口はオートロックになっているはずだった。ならばこれはいつ、どこからどうやって入ったのだろうか。ぞっとしたものが汗となって背筋を流れていくが、考えている余裕はなかった。
身動きが出来ない。何も見えない。腹の奥から恐ろしさが湧き出て、ぐるぐるとマクワを掬い取り、嵐のように暴れまわろうとしていた。
呼吸が辛い。ひゅう、ひゅうと自分の鼻の奥から出る音ばかりが耳に届いた。
だが、そこで気が付いた。自分が今、体勢を僅かばかりに変えて横倒しになろうとしたとき、激しい痛みがあった。その原因がわかる。
自分の身体の胸の中、綺麗に並ぶ肋骨の檻。身体を傾けた際に、中身である臓器の塊、肺が、心臓が、重力に引っ張られ、その美しく組まれた肋骨のなかに触れて、ずくんずくんと痛苦を生んでいるのだ。
今も少し身体を傾けるだけで強く痛んだ。そうしてわかる。自分の骨の正しい位置と、柔い肉がぶつかり刺さる、ひとのよわさ。
ツボツボが起こしに来たわけでも、いたずらで部屋に入り込んだ誰かが乗り上げてきているわけでも、一切なかった。ただ、寝返りを打とうとしていただけ。
ただマクワ自身の身体のなかで起きたエラーが、マクワ自身を苛み、動けなかったのに、正しく認識することができなかった。レポートのエラーだ。
ただそれだけのことだ。ひとの身体にある偽無機物の贋作のいわの檻にでさえ、ひとの肉の器官は耐えられない。耐えられるはずもないのだ。
ひとのもつ、まやかしのいわの檻、有機鉱物、にせもの、にせもの。レポートがこわれています。
突然ばちん、と目の前が光って、痛みが少し収まった。
身体と頭が軽くなって、呼吸がすうっと整った。身体の中に酸素が取り込まれていく心地がした。レポートが、こわれています。
しかし。マクワは布団の中で頭を抱えた。何かが記憶の中から無くなったような気持ちがあって、しかし何を失くしたのかはわからない。そういえばさっき、誰かポケモンの事を考えていた。
すごく面白いポケモンで、とっても気に入っていたはずなのに、一緒にいろんなことをしていこうと、思っていたはずなのに、何故か名前も、どんなポケモンだったかも全く出てこない。
また目の前で白い閃光が弾けた。痛苦は軽くなり、思わずごろんと寝返りを打った。
でも、またなにかが消えている。ポケモンのこと。どうしてポケモンのことばかりだ。すごく強くて、絶対に勝つと決めたときのための要のポケモン。
レポートが。光った。痛みはきれいさっぱり無くなった。
やっぱりまたなにかが消えて、軽くなったことだけはわかった。とてもユニークでたのしい。
もうひとつ光った。レポートがこわれています。
賢く頼もしい。なんのことだかわからない。レポートが。レポート。真っ白になった。かがやき。こわれて。こわれています。きらきらしていて綺麗だ。真っ白。白を見るとほっとする。
白はあたたかい。ずっと白といっしょだったし、これからもしろといっしょにいるからだ。

レポートが こわれています
ほんたいから セーブデータを
けして ください

予定外

明日は軽いトレッキングに行きます。きみも入れそうな洞窟を見つけました。気にいると思います。
そう言って眠り夜を過ごし、いつもよりほんの少し遅い朝食を食べた後だった。多忙な日々の合間、完全な休日は貴重だ。
マクワが支度を整え、部屋を出るまでセキタンザンも、違う部屋で自分の荷物を用意して待っていた。道中、好きなタイミングで好きなきのみを食べる事が出来る。もちろん荷物を持ちすぎれば自分に負担が掛かる。
あとでマクワが何か言うかもしれないけれど、貯蔵庫からオボンの実を2つ持ち出した。
もっと辛いきのみがお気に入りだが、運動する時はさっぱりしたきのみの方が合うことをセキタンザンは良く知っていた。しばらく悩んでいたが、今回も運動に適したものがいいだろう。
以前好きなきのみばかりを持っていき、山の天辺で食べたマトマの実は本当においしかったが、帰りはちっとも身体が動かずに、下り坂が長くて長くてしょうがなかった記憶がある。
マトマの実は気持ちを高めてくれるが、身体を休めてくれる力はないのだ。ポケモンバトルは短期間で片がつくが、山登りは全く違う。時には何時間、丸一日と掛けて行うものだった。
その日の出発前のマクワの提言に従わなかったことを、だいぶ後悔したのだった。
そこでセキタンザンははたと気が付いた。向こうの部屋から、準備しているはずのマクワの物音が聞こえてこなかった。
それに出発の予定時間はもう目の前だった。気になったセキタンザンは廊下に出て、リビングルームへと歩みを進めた。
キッチンの向こう、背中を向ける二人掛けのソファの横に、荷物をまとめた大きなリュックサックが立てかけてあり、マクワは中央に座り込んでいた。奥の窓から優しい陽射しが入りこみ、細かい埃が舞っているのが見えた。
セキタンザンは横からマクワの顔を覗き込んだ。

「シュポォ」
「……セキタンザン。……ごめん、なんか……お腹痛くて……」

マクワは両の手で自分のお腹をぎゅうと抑え込んでいた。眉間に深く皺が寄っていて、額にはうっすらと脂汗が滲んでいた。顔色はあまりよくない。
セキタンザンはすぐに近くの棚からブランケットを引っ張り出すと、広げてマクワを包み込んだ。しかし彼は白金の頭を振った。

「でも、これくらいならすぐ治ります。……移動しているうちに平気になりますから。……うぐ」
「ボオ」

青年は突然立ち上がると、ブランケットを前に引っ張る。それからトイレに駆け込み、ばたん、と扉を閉める音が鳴って、壁に掛けてあった額縁が揺れた。
セキタンザンはしばらく目をぱちくりさせていたが、すぐに気を取り直した。これはもうトレッキングどころではないだろう。きっとマクワもそう思っているはずだった。
人間が腹痛を催した時に必要なものが他にもある事を知っていた。
ソファの横、ドレッサーの棚に薬品をまとめた籠が入っている。セキタンザンは器用に探り当てると、その中から腹痛用の鎮痛剤の茶色い瓶を見つけた。
次はキッチンへ向かうと、今度は金属製のカップに水を汲み、蓋をして自分の背中に入れた。すると背中を丸めたマクワがブランケットを引っ張りながら、トイレから出てきた。
まだ顔色は悪いが、眉間の皺が少し薄れ、汗も引き、さっきよりは落ち着いていた。ドレッサーに置かれた薬瓶に気が付くと、マクワはちょうどキッチンからやって来るセキタンザンを見た。

「……ありがとう……ございます……。用意周到だなあ……」
「シュポォ!」

セキタンザンは得意気に背中からカップを渡す。しっかりとお湯が出来上がっていた。

「……ちゃんと蓋もしてるから灰も入ってないし……石炭のにおいもついてないし……。もう、きみに文句言おうと思ったのに……文句の付け所がないじゃないか」
「ポー」

マクワはセキタンザンが用意した整腸剤をセキタンザンが温めたお湯で流し込んだ。丁寧に加減されたお湯は熱すぎることなくちょうど良く体を温めてくれた。
コップをドレッサーに置き、そして二人掛けのソファに横たわると頭までブランケットを被った。

「あーあ……楽しみにしてたのにな……。きみと今日洞窟行くの。ちゃんと自己管理もトレーニングもしてたはずなのに……。なによりぼく自身のせいなのも、耐えられないのも嫌だ……」

ぐるりと背中を向けて、丸い身体が縮こまった。人間にしては大きな身体だ。
マクワは身体を動かす事が得意でも、洞窟のような場所が特別好きな場所だと言うわけではなかった。
岩穴は、セキタンザンにとって居心地の良い空間だ。マクワは時々セキタンザンを洞穴に連れて行ってくれるが、しっとりとした落ち着く岩壁がぐるりと取り巻く間に居ても、天井で岩が何やら複雑怪奇な波模様をぐるぐると描いていても、大抵はバディの反応のほうを見て過ごしている事の方が多かった。
セキタンザンがその時に思い描くマクワの心の中は、バディが喜んでくれて嬉しいという気持ちと、いわポケモンのトレーナーで居られる喜びを噛み締めている気持ち。彼にとって洞窟はずっとずっと遠い存在なのだ。
その距離を小さくとも繋げることが出来たセキタンザンは、少しだけ誇らしい気持ちになったのだった。
だからきっと今日も同じ事ができるだろう。
セキタンザンはその不貞腐れた背中ごとさらにブランケットで巻いてやる。

「シュポォ!」
「……え? 一緒にいるの楽しくないのかって……。ふふ、参ったなぁ……」

簀巻きになったマクワが笑いながら頭を出した。

「予定変更しましょう。今日は部屋で……トレッキングとか、洞窟探検の映像でも探してみましょうか。もしかしたら面白そうな映画もあるかもしれません」
「シュ ポォー!」

ベッドから這い出たマクワが、テレビのリモコンを持ち上げた。
モニターは、いつだって2人の不揃いに寄り添う影を写し出している。

透明な砂石

セキタンザンはチャンピオンだった。
スタジアムに立てばたくさんの人が歓声を上げる。名前を呼んで応援する。勝つのは当たり前だけれど、倍率の高い席を高いお金を出して何とかもぎ取ったのだ、やっぱりカッコよく決めてもらいたい。
そんな有象無象の観客の期待を背負っていることを、セキタンザンはきちんと知っていた。
子どもたちは一番最初のポケモンにタンドンを選ぶ子が多いのだと、リーグスタッフたちは誇らしげに言っていたし、青いサングラスはしょっちゅう売り切れてしまうらしい。
おまけにあのバディが繰り出す宙返りを真似しようとして怪我する子の多さは一時期社会現象になり、子供でも真似しやすく、見栄えの良いアクロバット投法を新しく編み出し、瞬く間に広まった。
チャンピオンというものは、マクワと共にずっと目指していたものだけれど、これほどまでに世界に影響を与えてしまうのだということを知らなかった。
計り知れないその大きさは、今でも自分事のようには思えない。きっかいな気持ちだった。
控室にまで掲げられている立派にポーズを決めたマクワと自分を映した姿見の横断幕をぼんやりと見上げてセキタンザンは思い返していた。
そう、自分はチャンピオンだ。チャンピオンと、チャンピオンのポケモンなのだ。それはわかる。
だけれど不思議なことに、自分がいつからこうしてチャンピオンとして名を馳せていたのか、その道程がハッキリと思い出せない。リーグのトップに立ったというからには、必ず前リーグチャンピオンを打ち倒した経験があるはず。
それなのにセキタンザンの頭の中には、人の顔さえ思い出せないまま、まるで霞掛かったような記憶だけが漠然と転がっていて、通り過ぎる事も、踏み越える事も出来ず、もやもやとした感覚が残っていた。
マクワも同じだろうか。一度聞きに行った事がある。しかしその時は上手く取り繕われてしまった。今度こそ聞き出そう、そう決めたその瞬間だった。
がたがたと、大きな物音がして、奥の扉が開いた。控室の向こうは物置に続いていたはずで、今は誰もいないと思っていた。今はイベントの真っただ中で、全ての人がスタジアムの中へ出払っているはずだ。
扉を開けて部屋に入って来たのは、マクワだった。しかしセキタンザンにはすぐに分かったが、明らかにいつも見知っているバディとは様子が違っている。
今にも閉じそうな丸い目、閉じて重たい口許、ふらつく足、あれほど普段身だしなみに気を使っていた髪は一切セットされていないし、衣服もボロボロだ。
ふらふらと彷徨う視線がセキタンザンを捉えた瞬間、まるでセキタンザンを生まれて初めて見つけたかのように灰簾石の眼に青い輝きが灯った。
セキタンザンが急いで近寄ると、倒れかけのマクワは太い腕にしがみ付いた。ばらりと、砂が落ちた。

「……せき……タンザ……ン……よかった……。きみは……ここでは、ちゃんぴおん、ですね……?」
「シュポォ」

今輝いたばかりの瞳が、すぐさま虚ろに堕ちていく。それでも後ろのタペストリーのセキタンザンを見つけたのだろう。今見せた近しい色の輝きが少しだけマクワの時間を取り戻した。
かすれた唇は時折噎せ返りながら、たどたどしく言葉を作っていた。

「ぼく……。ぼく、は……こんなこと……しんじて、もらえない、とおもいますが……。きみを、ちゃんぴおんに、するために……ほかの、せかい……で、……がんばった……ぼく、です……。いろんな、せかいで…………いろいろ……しました。……中には、許されないことも……、ありました……。……でも……きみが、ちゃんと……チャン……ぴおン……になって……いたから……」
「シュ ポォー!」
「どうか、ここでのぼくと……なんど、でも……優勝してあげて……ください」

マクワの手から力が抜ける。ずるりとセキタンザンからも滑り落ちた身体は、ボロボロと崩れてすべて透明な石屑になり、冷たいリノリウムの床の上に転がってしまった。あれだけ大きかったマクワの体積には満たない、僅かばかりのケイ砂の塊。
しかしセキタンザンはその礫(中には砂粒ほどになってしまったものもある)を両手いっぱいに搔き集めた。床と床の隙間に入ってしまうほんの僅かな粉さえも、残したくなかったが、セキタンザンの大きな指で掬い取ることは難しかった。削れてしまった石炭の黒い粉が混じった。
控室の外、廊下に繋がる扉からとんとん、とノックの音が聞こえた。

「セキタンザン? ……今誰か居ましたか」
「ボオ……!」

チャンピオンのマクワが、控室に入って来た。蹲るセキタンザンの背中をバディの青いサングラスが見下ろしていた。

「セキタンザン、時間です。行きますよ。……セキタンザン?」

セキタンザンは白く濁った透明な砂石を、ただただ搔き集め続けていた。

疲れた日

部屋は生ぬるくて薄暗い斜陽が当たり、数日前の朝に掛けたままの上着が椅子の上で影を作っていた。ぶっ通しのイベントと撮影をし、片付けを終えたら一日はもうあっという間に、夜が近くなっていた。数週間前の空気が化石のまま復元されて、いまマクワの前で無秩序に転がっていた。
元々この週は、試合の予定が普段よりも多いことはわかっていた。そこにファンイベントを重ねていたら、契約しているスポンサーからの広告商材用写真撮影の仕事が転がり込んできた。
まだまだ走り出したばかりの新進の身、メディアでの露出スピードや回数だって多い方が自分のためでもあり、何より大切なポケモンたちのためにだってなる。
しっかりトレーナーとして調整やトレーニングの本業を疎かにしないようにスケジュールを管理しながら、なんとか撮影も上手く、楽しく乗り切った。
意外なことに、自分の中での撮影とトレーナーとしての振る舞いは、ありたい姿を自分で作るという面で似通っていた。もちろんそれだけでなく、クライアントの要望や商品を購入するお客さんを想像することも必要で、いつも行っていることそのままなのだ。
カメラマンさんや現場にいるスタッフそれぞれいろんな人とのコミュニケーションが必要であることもまた、トレーナーとしてのスキルを高める良い経験になるに違いない。
だがしかし、どれだけやりくりしたとしても一日の時間が増える事はない。とにかく休む間もなく移動にトレーニングに、試合に撮影、ファンイベントと動きっぱなしの過密スケジュール。
この部屋に戻る事もなく、ずっとスタジアムや現場近隣のホテルに泊まりっぱなしだった。
そしていま、マクワはようやく解放されてしばらくは自由の身となる。今まで分刻みどころか秒刻みにも片足を踏み入れていた所から、突然解放された脳味噌はこんらん状態に陥って、まだまだフルスロットルで駆け抜けようとさえして、目を閉じてもばちばちと光が駆け抜けているのが分かる。
だけれど身体は重力が引っ張る力に抗えず、どんよりと鋼よりも重たくて、いまも一刻も早く寝て欲しいのだと訴えている。疲れ切ってかなりちぐはぐあべこべだ。
電気もつけず、そのまま革張りの大きなソファに大きな身体をどんと乗せた。窓から入る一本のやわい陽ざしのなかで、光を受けた埃がちらちらと舞い上がるのが見えた。
つかれた。ほんとうにつかれた。
なんだか何もかもどうでもよくなりそうなぐらいに疲れ切っている。
よかったことをもう一度思い出そう。
今のところ、試合結果は上々。悪くないものだ。でもまだまだ内容を充実させていきたいし、僅かな油断さえ足を取られかねないのだ。もっといわポケモンと試していきたいことがある。そう、もっとセキタンザンと、クレバーな……。
すう、とゆっくり息を吐き、マクワは懐からひとつモンスターボールを取り出した。ボタンを押すと、ちかちかと赤い光が目の前で輝いた。
優しい木のような、ちょっと埃にも似たどこか懐かしい香りと、温かな焔が揺らめいてマクワの丸くて白い肉付きの良い頬を、高熱の小さな風が撫でていく。

「……ひさしぶりですね」

マクワは目を細めると、ほんの少しだけ口許を緩めて言った。セキタンザンは思わず目をぱちくりとさせた。試合やその前の調整の時には必ず会っているし、ファンイベントの時も大抵顔を合わせている。もちろん食事や手入などの時もだ。
少しだけセキタンザンは考えたが、すぐに意味を理解して手を伸ばした。ぐったりと力を抜いたままのマクワの背に腕を回し、抱きしめる。
正解だったようで彼は何も言わず、同じようにセキタンザンをハグし返してきた。しばらくしてから顔を放すと大きく息を吐いた。

「よい硬さ……です」
「シュポォ」

セキタンザンはいつも一緒に訓練しているからだと自慢気に返事をした。

「……それに……優しくて……良い温度で……温かくて……うん」

マクワはじっとセキタンザンの顔を見て、そっと頬を撫でた。石炭の頭が嬉しそうに擦り寄った。

「……よし。ヨロイ島に行きましょう。撮影のお礼にクライアントからチケットを追加報酬で頂きました。そこでは普段とは違う環境でのトレーニングが出来るそうです。きっとまた全然違うきみの魅力を引き出せると思います!」
「ボオ」
「ふふ、賛同してくれますか? 楽しみですね。きみの動きで……試してみたいことがあるのですよ。……きみのほのおが猛々しく燃え盛る姿! 誰も逃れられないいわの檻を操る姿! きっとかっこいい……たくさんの人が驚き魅了されます。……でも誰より一番ぼくが見たいから……。うん?」
「シュポォ」

石炭の黒い大きな手が、どんどん起き上がるバディの身体を、ぎゅっと両手で抑えつける。それから片手で背中を優しく撫で擦り始めた。
脳味噌の興奮に負けようとしていた身体の眠気が、セキタンザンがその手で働きかけたおかげで復活していた。いま最優先でとらなければいけないのは、そしてとろうとしていたのは、まぎれもなく休息の時間だったのだから。

「……ああ、うん……そうですね。大丈夫です、今日は……もう寝ますから……。きみのおかげで、やっとゆっくり眠れそう……。だってここで眠っても、風邪はひかずにすみますし、きちんとベッドに運んでくれるでしょう?」

マクワはにっこり笑う。

「……ぼくが元気になれたのだって、きみのおかげですから……。……おやすみなさい、ありがとう……」
「シュポォー!」

セキタンザンは喜んでマクワの頭を抱き止めて返事にした。それから改めてそっと何度も抱き寄せて感触を確かめては顔を見ているのが、眠りに落ちる前のマクワにも伝わって来た。
セキタンザンには、マクワが何故ここまで疲弊しているのかは理解しきれない。だからマクワにはちょっと悔しいことだけれど、わからないけど勝手に弱る脆い生き物だと思われているに違いない。庇護しよう。そんな慈愛に満ちたセキタンザンの笑顔を最後に、すっと優しい眠りの中に蕩けていくのだった。