※喫煙描写があります
タバコを買った。いつもの酒を切らしてしまった上に、慌てて購入しようと入った最寄りの店も、すでに閉店の看板を掲げていた。
ここのところ試合やイベント続きで疲弊した心が、もやもやと燻り続けて逃げ道を探している。身体を動かすことも、ポケモンとともにいることも嫌いじゃないし、むしろ心を落ち着かせるのには役に立つ。
だがしかし、内側に広がり続ける重たい衝動のようなものを抑えるには足りなかった。
こういう時、身体が慣れていて手軽な酒の存在に助けられてきた。しかしマクワは自分の忙しさにかまけて、冷蔵庫の奥のことなんてすっかり忘れてしまっていたために、かたかたと音を鳴らす青い箱は今この手の中にあった。
母親も、家族も誰もタバコなんて吸わないものだ。同僚さえも吸っているところを見たことはない。母が口酸っぱくして肺に負担がかかるものは絶対にやめろと言っていたのを、今でも覚えている。自分の選手としての寿命を縮めたくなければ違うものにすがれと。
身体にも良くないが、今喫煙に対して厳しいガラルでは印象も悪くなりかねないものだ。
そのリスクはもちろん身に染みてわかっている。今でも毎日何キロもランニングをするのだ、呼吸器官に支障が起きればすぐに身体づくりさえかなわなくなるだろう。
それでも仕事が訪れる明日の昼に向けて急ぎ気持ちを整えられる何かがマクワには必要で、パッケージにでかでかと書かれた健康に対する警告の言葉とタールの名前が、めぐるめく呪文のように心を捉えていた。
自分の部屋のベッドに腰かけたまま箱を開けると、金の包み紙が煙草を覆っていた。それを開けばずらりと揃った12の束の頭が顔を出した。横側を抑えて傾けると、1本だけそっと体を伸ばすので、それを人差し指と親指で挟んで引っ張り出した。じっと見つめた後に、先端を見据えてライターで火をつけてみる。
ぱちんと音を立てて現れた光は揺らぎながら紙で出来た巻物の先を輝かせたかと思うと、タバコに移って早速煙を浮かばせ始めた。
マクワは慌てて反対側を口に運ぶと、すうっと息を吸った。よく鍛えられた横隔膜はあたりの空気を一気に引っ張り込んで、煙をたっぷりと腹の中に持ち込んだ。
味わう間もなく焦げた臭いと、燃え滓を乗せた空気が体の中に入り込み、マクワは大いに咽こむことになった。喉の奥がつっかえて出てくるのは咳ばかりで、喉奥に火をともしたようだ。近くで上がる煙のせいか、それとも気管支のせいか、両目には涙が溜まっていた。
身体の奥を焼くような錯覚が、熱を上げる脳みそにじりじりとした安息を届けていた。
入りを失敗した一本目を水を入れた金属の皿に突っ込んで、もう一本新しいものを引き出した。
それからライターを使おうとして、ふとモンスターボールを取り出した。少しだけ逡巡したが、どうしても今自分に必要だと判断して、中央のボタンを押す。
相棒はまだ眠る前だったらしく、にこにこと笑って出てきてくれていた。寝ていなかったことに安堵して出した口の中の空気は、メンソールの乗った煙の味がした。
「……きみ、この先端だけに火を付けられますか?」
セキタンザンはその大きな目を瞬かせていた。それから一度だけテーブルの上の灰皿を見つめたあと、マクワの顔を見た。その顔には珍しいものを見て理解しがたいのだと書いてある。
「……ええと、これはタバコというもので。煙を吸うものです。ここにこうやって火を付けて……吸うのです」
怪訝そうなセキタンザンの前で、マクワは再びタバコに火を付けた。それからはスムーズに自分の口に持って行き、咽ることなく上がる煙を見せていた。
ふわふわと立ち上る煙と、それをゆっくりと吸った後、口の中から煙を出した。セキタンザンの出す煙の香りとは違ってとても鮮烈で、辛いような苦いようなタールの香りの後に、すうっと鼻に抜けるようなメンソールが付いてくる。
「シュポ……」
セキタンザンはその煙の香りがわかるのか、やはり不思議そうに、しかし困ったような顔をしながらマクワを見ていた。見せたその表情は珍しくて、マクワは思わず拠れた灰簾石の眼で瞬きをした。
「……そうですね、きみは……きみの煙のことを知っていますから……。そうです、煙というのは燃えるとき……有毒なものを含みます。本来人体にはあまりその……良い影響は与えません」
残りの煙を肺に取り込んだ。それから息を吐き出すと、口や鼻から煙が上がって少しだけおかしい。まるでセキタンザンと同じものになったみたいだった。
本物はゆっくりと首を振ると、時計を見た。一緒に見上げれば、確かにもうすぐ日付が変わる頃だった。タバコをやめて寝た方がいいと言いたいらしい。
「……あと一本だけ」
「ボオ」
マクワは小さくなった煙草を再び灰皿に入れて、真新しい綺麗なものを取り出すと、立ち上がった。それからセキタンザンの背中に差し入れる。彼の背中の石炭は、今日も温かに燃えている。その炎のひとかけらを、紙の葉巻で無理やり掬い取った。
「シュポォ!」
再びその煙を吸い込めば、体内を満たすのは鮮やかなタールとニコチンの味。3度目ともなれば、なんとなくこれが苦味なのか、甘味なのかの分別もつき始める。焦がすような味わいの中に、なんともいえない心地よさが見つかりはじめて、これがひとを虜にするものなのだとマクワにもわかり始めていた。
吸い込んだ煙をまた燻らかせれば、セキタンザンがいじけたような、つまらないような、何とも言えない表情をしていた。
「……『タールショット』という技があるように、タールはきみもよく使用するもの。この煙草の中にも少ないですが含まれています」
「ボ」
「こうしていると……きみをもっと近くに感じられるような気がして……」
締め切られた部屋の中は、白い煙が揺れて、世界を霞ませている。隣にいるはずのセキタンザンだってそれは例外ではなかった。ぼやけた視界の先は、自分を隔てて遠い遠い距離が横たわっているようだ。見えないのは身動きが取れない。重たいタールが肺の奥に浸透していく。
「……だけど……そう、それなのに……なんだかとても……きみが遠いのです」
マクワは立ち上がると、半分ほどに迫った煙草の燃えている口を、水の中へと押し付けた。それからカーテンを開き、窓を開ける。空はしんしんと黒い闇を広げながら、小さな星々を湛えて居る。
行き場を失っていた白煙たちが入ってきた風に流されて、姿を消していく。
「……やはりぼくには……もっと強くて逞しい……いつものタールのちからのほうが……合っていますね」
「シュ ポォー!」
マクワが振り返れば、部屋の中で輝く赤い星々があった。闇のような石炭に包まれて光るそれは、セキタンザンの背中で燃えていた。
マクワは目を細めながら、再び夜空に向けて自分の髪に手櫛を入れる。煙草の香りでせっかくの石炭の香りが上書きされてしまうのはもったいなかった。強い香りがとれるように、風に向けて体中をはたいた。
セキタンザンはマクワに寄ると、同じ空を見上げて、去り行く煙と煌めく星を見上げていた。
バディは目いっぱい息を吸い込んで、同じ空気が肺胞の隅々までいきわたるように願うのだった。