手入れする話

籠るような温かさがずっしりと太ももの上に乗っている。
マクワが目を覚ませば、そこはキルクスの自室のソファの上だった。大きな窓は分厚いカーテンで遮断されていた。
時計の針を見ればもう日付を越えてしまっていて、自分の膝の上の重みに視線をやれば、きれいに頭も手足もしまったツボツボの甲羅が乗っかっていた。どうやら眠ってしまっているらしい。
一日の最後の手入れをしている途中で、うたたねをしてしまい、ツボツボも一緒に寝ていたようだ。大きな掌でそうっと硬い甲羅の表面を撫で、手入れで削った部分の粉末を払った。ほんのりざらざらした感触と、うっすら酸味の混じった甘い香りが鼻についた。
手入れ自体はしっかり終了している。ソファの上に転がしたままのモンスターボールを手に取り、ぐっすり眠ったツボツボを戻した。
あともうひとり、手入れをしておかなければいけない相棒がいる。マクワはポケットにしまったモンスターボールをひとつ取り出すと、スイッチを押した。
広いリビングに大きな石炭の山が現れて、ほのおの焦げるような香りがする。うつらうつらしていたのか、釣り目の瞳は少し眠たげにぼんやりとしていたが、マクワと目が合うとにっこりわらった。
マクワはさっそく彼の顔に手を伸ばし、そうっと目の下の硬い石炭の皮膚を指で擦った。平らに見えるが、凹凸も多くごつごつしている。角ばっている部分が多いと見栄えが悪くなってしまう。
左手に持ったキリの金属の細い先端でつんつんとたたいた。これは狭隘に嵌まり込んだ石や、ツボツボであればくっついて硬化してしまったきのみジュースを外すことによく使う道具だ。
セキタンザンもよく知っていて、くすぐったそうに笑った。

「寝る前にもう少しだけきれいにしますね」
「シュポォー」

黒い石炭の指が時計をさした。先に寝た方が良いのではないかと訴えている。

「……これだけ終わらせてからでないと……明日が来ませんので」

子供っぽい膨れ面をしてから、マクワはセキタンザンの石炭と石炭の間をじっと見つめた。大きな石炭が関節に入り込んでいる。ずっと石炭を生成し続けて、不要なものは落とすというセキタンザンの習性上、こまめに確認しておかなければいけない事象だった。

「ほら、こういうのは早めに取っておかないと……もっと奥に入り込んだらあとでつらくなりますよ」
「ボオ」
「右腕をこの高さにあげておいてください」

早速マクワはキリを握り替えて、セキタンザンの肘裏に当たる関節部分に向き合った。金属部分で入り込んだ石をとんとんとたたき、動かしてゆく。手前に引っ張れば、ばき、と音がしてセキタンザンの身体からきれいに外れた。
「よし。ほかも確認しておきますね」
そうして座り込んだセキタンザンの周りをぐるぐると巡り、引っ掛かった石炭がないかを入念に確認した。少しでも挟まっているものが見つかれば、キリの太さを替えて丁寧に外していく。
それからセキタンザンの顔をじっと見た。気持ちが良いのか、頭がうつらうつらと舟をこいでいて、瞼も重そうだ。
マクワはキリを紙やすりに持ち替えて、大きな頭をゆっくり持ち上げ傾けながら、先ほど見つけた尖りの部分を擦って研磨する。
セキタンザンも気が付いたのか、眼を開けてマクワを見下ろした。

「ポォ」

ふいに視線が合って、マクワはセキタンザンの頭を離し、小さく首を傾げて見上げた。
瞳の中に彼の顔を映すよう見つめた。自分のこの角度には自信がある。
最初はよくわからず四苦八苦していたが、これは写真集用の撮影のとき、カメラマンさんに何度も褒められた部分で、実際にファンも喜んでくれたものだ。

「フフ、どうですか。……いいかんじ?」
「シュボ?」
「こっちはどう?」

再び角度を変えてほほ笑んでみる。セキタンザンはよくわかっていないようだったが、マクワなりの遊び方だった。
セキタンザンはただにこにこ笑って頷くと、そのまま黒曜の瞳でじいっとマクワを見下ろした。
マクワは思わず瞬きをして、それから俯き、セキタンザンの顎の下に頭をいれながらぎゅうと抱き着いた。なぜだか顔が熱くなっているのがわかる。

「……やっぱりきみには勝てません……」
「しゅーぽ??」
「はぁ……なんでセキタンザンは……かっこよくてきれい……なのかな」

相変わらずセキタンザンは不思議そうに首をかしげながら、ゆっくりとマクワの背に手を伸ばした。

「い、いやいや……ぼくだけが独占するわけにはいきません。みなさんにもしっかり伝わるように……なによりいわのイメージを覆せるように。もっともっときれいにしますからね」
「ボオー」

マクワがセキタンザンの身体に回した両手を外し、ゆっくりとその身体から離れようとする。けれどいたずら心が生まれたセキタンザンは、そのまま相棒の身体をぎゅうと抱きしめた。

「ちょ、まだ作業するので」
「シュポォー」
「……うう。た、たしかにきみはすでに完璧で……理想で……だったら手を入れる必要なんてない……ないのですが……」

マクワはゆっくりとその場に座り込むと、大きなその腹に背中を預けた。紙やすりはセキタンザンの太ももの向こうの絨毯の上に置いた。

「……眠くなりました。今日はここで寝ますからね」
「ゴォー」
「きみも朝までここで寝るのです。動かしてはいけませんよ」
「ポポポ」
「……ぼくが寝た後ベッドに運ぶ気まんまんですね? ……もう」

セキタンザンの黒い両手が、マクワの腹を抱えるように回された。セキタンザンは知っている。
マクワがいつもどうやって寝るか。床の上で寝た後のマクワのこともだ。
バディは目を閉じた。

「……まあ……たまには……きみの好きにするといいです。……おやすみなさい」
「シュ ポォー!」

石炭の頭が頬ずりをして、マクワはうっすらと目を開けセキタンザンの顔を見た。背中の炎がぱちぱちと弾けて、からっとした温かさが伝わってくる。ツボツボの温かさも、セキタンザンの温かさも少しだけ違っていて、けれども優しいものに違いなかった。
心の底からの安心の形を絵にしたように、嬉しそうな微笑みがそこにある。
優しい笑顔に身体が綻んで、あっという間に眠りの淵に溶けていった。

たとえ間違いだとしても

マクワという少年のモンスターボールの中に収まった。
正直、洞窟の中でひとり生活していた時とあまりかわらない。良いことは寒くないことと、いつも山の中をやって来るマクワの心配をしなくてよい事くらいだ。
俺は、長い間ひとりで隠れるように生きてきたタンドンだった。大昔、人間とも一緒に居たが、別れがあって今こうしてここにいる。これからもずっとひとりで生きるのだろうと思っていたが、ある日俺の隠れ住む洞窟に迷い込んできたのがマクワだった。
彼はなにかある度にやってきて、洞窟で俺との時間を過ごした。ほとんどが他愛無いことばかりだ。宿題をするとか、本を読むとか、わざわざ俺の隣で行うのは少しばかり面白く見ていたし、一生懸命説明してくれる気持ちは嬉しかった。
彼の隣は、俺にとっても居心地の悪い物ではなかった。そうしてモンスターボールに収まった。
だがマクワには、既に決まったポケモンを育てる予定があった。
彼は有名なポケモントレーナーである母親の後を継いで、こおりタイプの専任トレーナーになることを決められていて、そのために毎日の時間をほとんど費やしていた。
残念ながら俺はこおりのポケモンではないそうで、いつまで一緒に居られるのかもわからない。その通りなのだろう、冷たいよりは暖かい方が心地よかった。
そしてその母親に見つかってしまえば、また洞窟生活に戻される可能性さえあった。堅実なマクワが選んだ小さな綱渡りだった。
だけどマクワはどうしても俺に近くに居て欲しいのだという。そうすればきっと、母の後を継いでも大丈夫だと。
彼の心の奥底が後継ぎを拒んでいることは、明白だった。
俺は知っている。あのマクワの一見冷たい氷の色をした眼が、深みを持った灰簾石の輝きを放つときがある事を。彼は水の塊なんかじゃない。澄み切った透明な鉱石で、立派な石であることを。
まだ俺の体内で小さく波打つ炎は、それを証明するためにあるものなのだ。
前からどれくらいの時間が経っただろうか。久しぶりにモンスターボールから呼ばれた。岩の身体を持つ俺は、それほどたくさん食べなくてもへっちゃらだったから、やっぱりなかなかボールから出る機会はなかったのだった。
ひんやりとした夜の空気は変わらないが、いつもより重たい気がした。見れば一面に雪が積もっていた。マクワがトレーニングや気晴らしに使う公園だ。中央に立てられた時計台も、白雪が分厚い帽子になっていた。
マクワは帽子とマフラー、分厚いコートでもこもこになっていた。とても上質なものだ。ひょっとしたら手編みに見える手袋はあの母親が作ったものかもしれない。毛糸でマクワの証が編まれている。大昔一緒に居た人間は、編み物が得意だったから良く知っていた。
それに人間の言葉も文字もはわからないが、マクワが教科書やノートの裏にいつも書いている記号はしっている。あれはマクワを現すものだ。
雪の払われたベンチに座って、眠たげな眼が俺を見下ろしている。冷たい空気にあてられて、頬や鼻がほんのり赤らんでいた。

「……きみはやっぱり温かいのですね。雪が溶けています。冷たくありませんか?」

俺は頭を振った。水を浴びると滲みて痛くなったりする時があった。確かに足元が少しばかり濡れてはいたが、この程度なら平気だった。しかしマクワは俺を抱き上げると、ベンチの上に乗せた。

「うん、こっちの方がよいですね。……久しぶりになってしまってすみません。もうすぐジムチャレンジで……母もピリピリしていて。もちろんぼくも学ぶことはたくさんありますからね」

そう言いながら、マクワは横に下げた鞄から細長い干し草の束を取り出して、俺の前に差し出した。青い香りが食欲を誘い、体内の奥に燃える炎が欲しいとばかりに熱を上げた。
俺は一度マクワを見上げた。マクワは頷いた。端っこを車輪に引っ掛けて、巻き上げながら食べていく。洞窟の近くにはなかったものだ。人間が何やら葉っぱを加工しているらしく、香ばしくてとても美味しい。

「口に合いましたか。よかった」

マクワが息を吐くと、真っ白いものが立ち昇った。俺は干し草を一房呑み込んで、瞬きをしながら見上げていた。いつもぱっちり開かれているはずの碧い眼は、どことなく重たげで、確かに疲労がたまっているのだということが伝わった。
じっと見られていると思ったのだろう、マクワは慌てて手を振った。

「ああいや、すみません。きみのことを見つめるつもりはなくて……。いや、そうでもないか」

再び彼の口から白い息がもこもこと上がり、小さな風に乗って流れていく。

「……きみがいてくれるだけでぼくは……」

マクワのふかふかの毛糸の手が、俺の頭を撫でる。正直感覚が小さくて、どこにあるのかあまりよくわからないけれども、なんとなく触られていることはわかって嬉しかった。

「うん。今日もありがとう。……タンドン、きみに不自由を強いていて……本当にごめん。でも……どうか一緒に居て欲しいんだ」

俺はただ肯首した。彼の中にある、あの透き通った石の輝きを知っているのは俺だけだ。その光の隣にいて、それを証明出来るのであればなんでもよかった。
違うポケモンと一緒に居るマクワのモンスターボールに入ると決めたのは俺自身だったのだから。
けれど身体の重そうなこの無色の少年を見ていると、今ボールに出ていられるこの僅かな時間で、ともにもう一度あの洞窟にでも逃げ出してしまいたいと思った。
俺は残っていた草の破片を身体の奥に送り込むと、上を向き、自分の上に乗っていた彼の手を石炭の先端に引っ掛けた。そして後方に車輪を進める。

「タンドン……?」

それほど重くない少年の身体が傾いた。けれど引っ張るところまではいかず、なかなかタイヤが動かない。ぐるりとその場で回転し、体勢を変えると前に輪を回した。

「……ひょっとして何処かへ行こうとしてくれている?」

俺は返事の代わりに引っ張る力をさらに加える。だが少年の毛糸の両手が俺の身体を抱き寄せて、膝の上に乗せられてしまった。そのまま抱きしめられる。
ふわふわして、冷たい彼の身体が、さらに小さな俺を包み込んだ。

「ありがとう。気持ちだけで……嬉しいよ。……タンドン」

身体が離れて、マクワのあの灰簾石の瞳が見下ろしている。俺が知っている、大好きな目の色だ。

「……もう少し考えられるかも……しれません。きみが後押ししてくれるなら。ぼくも……きみのほのおが見たいから……」

再びマクワは俺を胸で包んだ。俺はそっと擦り寄る。黒い煤の色が付かないように気を付けながら。
一緒に居れば、きっといつかその光が見える時が来る。いつかきっと、必ず。
公園に降り積もる雪は、少しずつ溶け始めていた。

子供のままで

俺のこころの玩具箱の中に、しまってある景色があった。

くちゅん。狭い洞窟に、ひとの発した息の音が響き渡って、白い息が煙となって立ち昇った。
緩い青色の光が零れる外の景色は、はらはらと雪が降りはじめており、辺りは急に温度を失い始めていた。
幼いマクワは分厚いハンカチを取り出して、顔を拭う。

「……今日は一緒に外へ行こうと思ってました。……でもこの天気では危険だから……やめておきましょう。ぼくも勉強のつづきをすることにします」

ため息交じりの言葉は、その優しい色をしたタオルハンカチに半分ほど吸われていた。
ああいうもこもこした素材はタオルというものらしい。
マクワはよく母親の話をする。彼女から譲られたものかもしれないと、なんとなしに思った。
俺は車輪を動かして、マクワに近寄った。少しだけ頭を傾けると、しっかりしたズボンの布地に触れた。身体の奥の方に力を入れてやると、ほんのりと湯気が上がった。
丸くて青い、澄んだ硝子のような目がぱちぱちと瞬きしながら俺を見下ろす。それからその場にしゃがみ込むと、俺の上に手を乗せた。

「……温かい」

ほんの少しだけ和らいだ表情を、もう少しだけ、発熱する力に変えてみせたのだった。

ぱち、と音が響き、それから少しの時間差で蛍光灯の光が瞬いた。年季の入った電灯は、しばらくその灯りを揺らがせながら、埃の被った棚や機材を照らし出した。
俺にはよくわからないが、よく人間が家の中に入れているはずのものだ。しかししばらく使われていないことは、積もったものの分厚さでよくよくわかった。
マクワは持ち上げた髪を震わせながら小さく咳き込んでいた。

「……当たり前ですが埃が凄いですね、この倉庫の中……。早く用事を済ませてしまいますね」
「シュポー」

殆ど隙間みたいな家具と家具の間をマクワは歩いていく。ここはキルクスにある、メロンさんの家の庭に建てられた物置小屋の中だった。
マクワが半分飛び出すようにしてこの家を出て来てしまった矢先、いくつか忘れ物があるのだという。
メロンさんが仕事で顔を合わせない内に、探したいものが何やらあるらしい。
マクワは俺が通れるように道を作りながら隅まで進むと、天井まで積まれたプラスチックの箱の前に立った。

「セキタンザン、申し訳ないですがぼくの足場になってくれませんか」
「ボオ!」

俺はすぐに両手を差し出した。その為に呼ばれたのかと思うとちょっとだけつまらないような気もしたが、それよりもマクワの探し物の方が気になった。
彼は礼を告げると俺の両腕に足を掛け、両足で立つ。俺はゆっくりとマクワを持ち上げて、その高い箱に手が届く様にしてやった。

「……ああ、この一番上の箱です、間違いありません」

マクワがプラスチックボックスを両手で抱えるのを確認すると、再び彼を床の上に降ろしてやる。分厚くて大きな埃がぱらぱらと舞っていた。
箱を近くの棚の上に降ろし、白い手が両脇の留め具を外し、中を開いた。そこにはたっぷりの紙を挟み込んだ冊子がぎっちり詰まっていた。かつて使っていた勉強の道具だろうか。
マクワは更にその本の山を取り出して箱の横に並べていく。

「……あった。ジムリーダーになった今……改めて読みたいと思っていたのです。母が書いて発行した本をぼくにくれたものと……リーグの記録本です」

しっかりした表紙が美しい本と、もう一つはずいぶんと太くて大きな本だった。

「それと……これ」

本たちの山の奥に、ひっそりと隠れていたのは、ヨクバリスが描かれた小さな玩具の缶のケースだった。見た目よりも重たそうで、しかし時折中の物がぶつかるのか、小気味のいい音が聞こえてくる。
マクワが爪を引っかけて力を入れると、擦れるような音を立てて開いた。土のような香りが漂う。缶を傾けると、中に入っているのはたくさんの石だった。
全て黒だったり、昏くて重たい色をしたものばかりだ。

「……きみが喜びそうだと思って拾ったのですが、よく調べてみたらあまり使われない成分のものばかりで……でも捨てるに捨てられず、ぼくのコレクションになってしまった石ころたちです」
「シュポォ」
「……どうですか、ぼくにも一応……ずっといわタイプでありたい気持ちがあったのですよ」

それは俺が誰より身をもって知っていると思っている。他のポケモンを育てている癖に、俺をボールの中に入れたのはマクワだった。

「幼い子供の……密かな抵抗でしょうか。……でももうこれは不要になりましたので、捨ててしまおうかと」

マクワは再び缶に蓋を付けた。そして目当てのもの以外を全て箱の中に仕舞うと、同じように元の位置に戻してしまった。もちろん手伝ったのは俺だった。
荷物を抱えて倉庫の外に出ると、ガラガラとシャッターを下ろした。
キルクスの柔らかい陽射しが降りてきて、マクワはサングラスを付け、光を反射させた。ちかちかした明かりが直接目に入って、思わず瞬きをした。

「子供のままだったら……きみとはこうして一緒に居られなかったでしょうね。ひょっとしたらタンドンのままだったかも……」
「シュポオー」
「……ぼくはずっと大人になりました」

サングラスを抑えて、マクワは家の裏へと歩いていく。そして敷地から出ると、林の中に入り、砂利の多い場所に立った。そして缶の中の石をばらばらと撒いてしまった。
一か所に固まらないようにという配慮なのか、ひとの白い足で散らしてゆく。

「……シュポォ」
「これでよし。……それではこのまま退散しましょう、いつ帰って来るかわからな……くちゅん!」

マクワが盛大にくしゃみをした。埃っぽい所にいたせいなのか、それとも。

「……なんですかその眼」
「シュ ポォー!」

俺は笑って鳴き声を上げた。俺のこころの箱の中から取り出したのはあの洞窟で見せた、くしゃみの仕方だけではない。
何かあると母親を避けてしまう所も、ずっとずっと変わっていない。
俺だけが知っている、バディの変わらない姿だ。気が付けば、もうあの捨てた石たちに対する気持ちは遠ざかっていた。
俺のバディはたくさん戦う術を身に着けて、誰より早く大人になってしまった。なろうとした。だけれど、だからこそ。まだ子供のままであり続けているもの。
俺のこころの玩具箱の中に、そうっとしまい込んでいく。

逃れられない呪縛

あぶくが空へと浮かんでいく。

結果が悪い。トーナメントに並ぶ名前の横には敗退の印が並んでいた。
スポンサーや委員長は焦らなくていいと言うものの、その双眸には閉じ込めた言葉がうっすらと浮かんでいて、真綿で首を締めるようにマクワの頭の中に纏わりついてくる。
そして何より自分たちの威信を今に知らしめたい観衆たちからは、心のない文言が自分の名前の隣で磔にされていく。杭を打ち込むように、茨の冠を被せるように、あるいは鞭を100回打つように、精神が乾いた丘の上に登らされていった。
このままではメジャーリーグから追いやられ、マイナーリーグという苦境に立たされることとなるのはもう目に見えていた。母親から生き勇んで独立した身だ、今実績を築き上げて周囲からの信頼を勝ち得ることは可及的速やかに必要なことだった。
失敗をすればこの胸からスポンサーのロゴを失って、空白の中でジムのトレーナーたちやポケモンたちの面倒を見なければならなくなる。ひともポケモンも、霞を食べて生きていくことはできない。なにより磨き続けたいわの輝きが曇ってしまっては、元も子もないのだ。
とにかく一刻も早く結果を出さなくてはいけない。あらゆる努力を、手を尽くさなくては。

青空の下、とりポケモンの鳴き声が耳に響く。蒸し暑いヨロイ島は、今日も眩しいほどの強烈な快晴で、湿度と温度の高い環境に適したポケモンたちが闊歩していた。

「何度言ったらわかるのです!? 今はまだ落とすべきではありません! もう一度!」
「ゴオオ……!」

マクワの叱咤に気圧されながら、セキタンザンは体に力を籠める。どごお、と音を立てて大きな石が地表から現れ、宙に浮かんだ。

「ではカウントしますよ。1、2、3……」

見えざる力によって空を飛ぶ巨石は、マクワのカウントに合わせて3mほど上にあがり、また同じ程度下がることを繰り返す。
いわタイプのポケモンにとって、自然の中で生まれるいわを操るワザは基本中の基本だ。これがうまくできない限り、あらゆるワザを扱えないことと同じ。
基礎の力をはぐくむことで、彼らのワザの精度をさらに高める特訓だった。
しかしカウントが進めば進むほど、いわの動くスピードが落ちていく。集中力が切れかかってしまう証拠だった。マクワは再び叫ぶ。

「目標より0.3mmほど下がっています! カウントやりなおし!」
「グ、オ」

なんとか100カウントまでの声が当たりに轟き、岩はばらばらと地に落ちて砕けた。セキタンザンは全身に込めていた力を抜き、ふらふらとその場に座り込んだ。

「お疲れさまでした」
「ボオ……」
「これを……どうぞ」

マクワがカバンの中から取り出したのは、ひとつの茶色い小瓶だった。ラベルは何も貼られていないが、蓋を外して揺らせば、奥から沸き上がった泡がはじけて、中の液体はしっかりと重たさを主張していた。

「……ぼくが独自に研究チームを雇い、作りました。きみ専用の特別なものです。
これがあれば、きみはきみのまま強くなれます。きみの輝きを保ったまま……ぼくたちがいま勝つために最も必要なもの……」

しかし大至急用意したもので、まだ副作用や安全性を保証するようなデータは完全に取り切れていない。それを口にすることはできなかった。

青い瞳がじっと瓶を見つめていた。セキタンザンは一度だけ瞬きをすると、すぐにそれを受け取った。鼻腔を擽るのは、たしかにハーブを煮詰めたような渋い薬品の香りで、少し眉根をひそめた。
しかしその小瓶を片手で持ち上げると、すぐに口元へと運んでいく。

「……! 待ってくださいっ」

バディは走り寄ると、瓶を持った太い腕に、しがみついて押しとどめた。

「や……やっぱりこれは……きみとぼくには必要ありません」
「ボオ?」

セキタンザンの目元は弧を描いていた。にこにこ笑っている。彼は、ポケモンであり、バディであり、トレーナーのいうことを素直に聞いてしまう存在だった。
ふと遠い昔、母親に自分のバディを譲りたいのだと話を聞いたときのことを思い出した。
その時も、ラプラスは母の後ろでほほ笑んでいた。マクワは無理やり小瓶を引っ張って奪い取ると、すぐに蓋をした。

「……ごめん……ごめんなさい……。ぼくはスタイルの押し付けなんてしたくない……したくないはずなのに……ぼくはきみに無理を強いて……こんなものまで……」
「シュ ポォー」
「きみはぼくじゃない。母に反論できるぼくとは違って……ほんとうに素直なのに。ぼくは母の……母のままで……」
「ボオ」
「……でもぼくだから……ここまで来れた?」

黒い大きな頭が肯首した。そして伝える。
もともと戦うことがそれほど得意じゃなかった。けれど戦い方を教えて、ここまで導いてくれたのはマクワ他ならない。マクワ以外だったらきっとこんなに強くなれていない。
だからずっと信じているのだと。

「……正直……家を出たというのに母から教わったものばかりで……ずっと逃れられない呪縛のようなものでしたが……きみの力になれているなら……」
「シュポォ」
「いつか……きみの祝福になれるでしょうか」
「シュ ポォー!」

マクワは荷物から、ミックスオレのボトルを2本取り出すと、片方をセキタンザンに渡した。そして優しく傾けて、ボトル同士を触れさせた。

「乾杯……です。一旦休憩しましょう。結果は必要……でもぼくたちにはぼくたちのペースがありますから。そこには必ずぼくも見たことのない、いわの……きみの輝きがあるはずです」

あぶくはもうぱちんと破裂した。
喉を潤すのは、甘くて優しいきのみとモーモーミルクの味だった。

入れ替わりの話

目の前にぼくが立っていた。
ここは家の中でもなければ、鏡面が立っているわけでもない。向こう側には青い海が広がっていて、足元には短い草が生えそろい、雄大なヨロイ島の上だということがわかる。
今の今まで野生のポケモンたちと戦う訓練をしていて、日も高くなったので一度休憩をしようと場所を探していたところだった。
今まで近かった磯の香が遠ざかり、焦げた石炭の香のようなものがずっと貼り付いているような感覚になっている。しかし音に関しては割と敏感なのか、ひとつひとつの草が風で揺れる音の違いがここまで届いた。
それとうまく言い表せようもない、微弱な振動のようなものが両足のずっと奥、脹脛のあたりで揺れているような感覚がある。全く持って慣れないので気持ち悪いのに、それを感じているとなぜか落ち着くような気持ちになるという不思議な状態だった。
何より驚いたのは唐突に変化した自分の視野の広さだ。まるで顔の横、肩にも目が付いているようで、目を動かせば丘の上にある森から広い海までを一望することができた。
そしてぼく背丈格好すべてそっくりで、ぼくの顔と同じはずのものがにこにこしながらぽかんと口を開けて笑っているのも、顔を動かすことなく見えるのだ。
気が付いた時、いきなり同一人物が目の前にいるなんてひどいホラーだ。自分でいうのもなんだが、簡単にはひとと被らないような恰好をしているつもりだ。真似される以外では
ぼくにしか見えないこのぼくの笑い方は写真の中や動画、鏡の中では見たことがない。けれど何故かいつも見ているような気がする、よく知っている笑顔。ふと自分の腕を持ち上げて見下ろせば、そこには真っ黒なセキタンザンの腕と手があり、自分の身体にくっついていた。
それが意味することは、つまり。

「……ぼくは……セキタンザンになっている……?」
「シュポォー!」
「どこから声が出ているのですか!?」

目の前の『ぼく』がセキタンザンの鳴き声を発した。それと同時にセキタンザンの身体になっているぼくは、普通にひとのこえと音を発している。セキタンザンは人間ほど精密な発音器官をもたないし、同時に人間もセキタンザンと同様の発音ができるはずがない。
詳細は省くが、呼吸器官がサイズから根本的に全く違うためだ。多量のほのおを燃やしていのちを働かせるセキタンザンはより酸素を取り込みやすいようにできている。
原因は先ほどキョダイイオルブと戦ったせいだろうか。能力入れ替えのエスパー技である、マジックスワップを使っていたことも覚えている。制御しきれなかったエスパーパワーが残っていて、変な方向に作用したとしていてもおかしくはない。
ぼくらの身体と精神といわれるもの(ゴースト使いなら魂というのだろうか)が綺麗に分離されたうえで入れ替わってしまったのか。なんとも都合のいいことだが、ポケモンのせいならしょうがないとあきらめもつく。

「いや……ええと……セキタンザンが……ぼくということですよね……?」
「ボオ!」

ぼくが――いや、セキタンザンの精神はぼくの身体でにこにこ笑って頷いていた。言いたいことはあったが、それよりも今、ぼくが動かせるセキタンザンの身体がある。
大きな両手を持ち上げてこぶしを作り、握ったり閉めたりしてみる。それから両足を上げて、歩いてみる。人よりも可動域が少ないセキタンザンの足は、重たくて歩きづらいものだった。
足を動かしたときに、さっきの振動のような感覚がゆらゆらと変化するのがわかる。なるほど、これは人にはない感覚器官なのだ。地の動きか、あるいは磁場か、それ以外なのかはっきりと知ることは出来ないが、とにかく人間には知ることのできない感覚を享受している。
そして今の状態であれば、身体は安心ができると判断しているらしい。
見守る『ぼく』に背を向けながら、ずるずると引きづるようにして、一歩、二歩とようやく進むことができた。

「……きみは……いつもこんなふうに動いていて、こんな光景を見ているのですね……!」

そう、ポケモントレーナーとしてのネックは、自分が人間である限りパートナーの心身についてはひたすら学び、そしてそこから想像するしかないことだ。もちろん近づくことはできる。
でも実際に見たり体感することはできないのだ。それがまさかこんな風にセキタンザン自身となって、その心身を理解することができるなんて。

「フフ……デカい……! 鍛えてるのに体が重たくて……ううんやっぱり筋肉ないからジャンプしづらいんだな……」

それから思いきり息を吸ってみれば、びっくりするほど身体の熱があがった。背中だけではなく、奥底からほのおが燃えているのがわかる。そしてぱちぱちとひのこが弾けて、海風に舞い上がった。
近くに木がなくてよかった。燃え移っていたかもしれない。
セキタンザンはいつもこういったことを理解して、きちんと制御しているのだ。ああ、本当にすごい生き物だ。
今みずを浴びたりほのおを浴びることができれば、きっと蒸気機関の働きがわかるに違いない。試してみたくてたまらない。
ふと見下ろせば、ぼくが……セキタンザンが座って見上げていた。なんだか足を広げているのに広げ切れていないような、変な体制だが、セキタンザンが地面に尻をつけるとき、両足を広げることはよく知っている。
彼も人間の関節の可動域がよくわからなかったのだろう。

「……って、いやはしゃいでいる場合ではなくて……」

いつ戻るか、本当に戻るのかもわからない。大抵は時間経過で元に戻ることが多いことは知識として持っている。一時的にエスパーパワーが残ってしまっているだけに過ぎないからだ。
だがそれにしても、ただぼくのことをにこにこ笑ってみているセキタンザンだった。

「……きみは……あんまり……。いや……なんでもありません。それでこそきみ、ですから……」
「シュポ?」

セキタンザンはぼくの顔で首を傾げて、ゆっくりと瞬きをした。
自分の姿なのにずいぶんとポケモンっぽい仕草で、妙な事だがかわいらしく見えてしまった。それからじっと前に視線を移したかと思うと、丘を少し下ったところで急にしゃがみだし、その場で後ろに跳躍した。ぼくが行うバク宙の再現だ。
筋肉の使い方がわからなかったのだろう、両足の膝の変な場所に力が入っていて、高い跳躍ではあったが、すぐにバランスを崩し、着地を失敗することは見て取れた。
ぼくは慌てて彼の後ろに入り込み、地面に落ちる前の自分の身体を両手で受け止める。

「だ、大丈夫ですか?」
「ボオ!」

ぼくの顔をしたセキタンザンは嬉しそうに、ちょっぴり照れたように笑いながらぼくの顔にすり寄った。加減がわからないのか、背中の炎に近づきそうだったので、少しだけ場所をずらして受け止めた。
今の彼は人間なのだ、ほのおはセキタンザンごと燃やしてしまうだろう。

「きみもバク宙に……興味ある?」
「シュポォー!」
「そうか……。フフ、そっか……」

なんだか心に蔓延っていたつまらなくて冷たいものが溶かされていくような気がした。
彼はたとえ姿が違ったとしても、ほのおタイプを宿すセキタンザンに違いなかった。
ぼくはぼくの姿をしたセキタンザンを降ろし、今度はぼくが両足に力を入れて見せた。

「……もう少しだけきみの身体を理解してみてもいいですか? 技はどうやって出すのかな」
「シュポー」
「ええ、それじゃわかりませんよ……。ううん……力を……うわっ!?」

身体の中になにかぬるりとしたものが動いた気配を感じたと思った瞬間、口の中からどろりとした黒い液体が飛び出てきた。タールだと理解したが、それはすぐにぼくの――今はセキタンザンのである顔を真っ黒に濡らしてしまった。

「ゴオ、ゴオ、ゴホオ!」
「ああ、すみません。いま拭きますから……」

思い切り顔を覆ったそれは、口と鼻をふさいでしまったらしく、セキタンザンはぼくの顔を大きく振って、振り払おうと咳き込んだ。
ぼくが下げているかばんのジッパーを分厚い石炭の指でなんとか挟み、かばんを開くと細やかな道具が綺麗に揃えられて入っている。人間の指ならばすぐに出せるが、この大きな指では目当てのタオルですら他の物が引っ付いてくる。
苦労しながらタオルを取り出すと、一生懸命両手でタールをとろうとするぼくの顔をごしごしと拭った。粘着性の高い液体だ、どうしてもすべては取れず残ってしまうが、それでも気持ち悪くないだろうと想像できるぐらいにはきれいにすることができた。
しかしせっかく朝長い時間をかけてセットした髪も、どろどろになってしまった。

「シュボ!」

セキタンザンはぼくの顔で心の底からうれしそうに笑った。ぼくがどうのというよりも、世話をしてもらえたことがうれしいように見えた。

「きみは……いつも通りですね」
「ボオ」
「それがよいところ……です。でもおかげでタールショットについてはわかりましたよ。ほのおを吐いたり、あとはストーンエッジをだしたり……試してみたいことはたくさんあります」
「シュポー」

ぼくは再び大きな指でタオルをカバンの中に戻す。

「このまま……戻らなかったらどうしますか?」
「シュポォー」
「……そうですね。……ぼくはいっそこのまま……。……ああでも……きみの顔が見えないのは……少しさみしい……かな……」

ふと目に留まったのはボールホルダーだった。

「そうだ、モンスターボールに……戻ってみたいです。中はどうなっているのでしょうか」
「シュポ?」

黒い指で今は空っぽの、セキタンザンのモンスターボールを選んで取り上げると、首をかしげているぼくの手に乗せた。

「真ん中のボタンを押してみてください」
「ポー!」

ぼくの顔をしたセキタンザンは頷くと、言われた通りに手の中のボールのスイッチを押し込んだ。間から光が放たれ、セキタンザンであるぼくのもとにまぶしい光が集まった。
目の前が光でいっぱいになり、あまりのまぶしさで思わず目を閉じた。説明は聞いているが、実際セキタンザンの身体からして、狭いのだろうか、それともずっと広いのだろうか。
温度は体感安定しているのだろうか。新しい体験と期待にわくわくした気持ちでいっぱいになる。ひょっとしたら改良が必要だと思うことが見つかるかもしれない。
ポケモンを身近に感じられることは、トレーナー冥利に尽きる。
そして再び目を開くと、そこは海を一望する丘の上だった。どうやらセキタンザンがボールに戻ったことで、ワザの効果が終わってしまったらしい。
目の高さはあまり変わらないが、馴染みのある大きさの中で広がる海をどこまでもまっすぐ見据えていた。その中に森が入ってくることはなく、さっきよりもくっきりと世界が見えているような気がした。意外とセキタンザンは近眼なのかもしれない。
確かに洞窟や山の中で生活するのであれば、それほど遠くを見渡す必要はないのだろう。
あっという間に状態変化が終わってしまったことは残念だったが、その代わりにまたひとつ気が付いた新たな収穫だった。
ポケモンにまつわる不思議な出来事は、いつも唐突に始まって唐突に終わるのだ。ひととは全く違う生き物とずっと隣に居続けるためには、不思議に対して寛容でいなければならない。
これもきっと、誰かから教わったことに違いなかった。
ぼくは白い掌の中に収まった紅白のボールをそうっと両手で抱きしめて、ボールに詳しいひとからもう一度中について話を聞こうと決めたあと、次は真ん中のボタンを押した。
あの人好きする、ぼくの顔ではない本物の笑顔に会うために。

MIRAI

日差しが強い。照り付ける日光は地面を焼き、空気を揺らめかせていた。ヨロイ島の蒸し暑い森の中、セキタンザンの背中の中で燃える炎が、風に揺られていつもより増してぱちぱちとはじけている。

「ヒートスタンプ!」

マクワが叫ぶと、セキタンザンは黒い身体を炎で包み、高く跳躍した。木の高さほどまで飛び上がった巨体は真っ直ぐ向かい合っていたウッウに向かって落ちてゆく。
太陽の力を借りた火炎に焼かれた青い鳥ポケモンは、慌ててその場から逃げ去った。

「ふむ、高さは申し分ありません。しかしこの天候です、まだ火力が出せるかと」

身を包む炎を消し、振り返ったセキタンザンに向かってマクワは言った。

「跳ぶ方に気を取られているのですね。両立できるよう集中的にトレーニングを……」

びゅう、と強い風が吹いた。森の木々が風に煽られ傾き、セキタンザンの背中の火の粉が共に流されてゆく。埃にも似た湿り気が鼻腔を擽ったかと思うと、空の方からゴロゴロと音が聞こえてきた。見ればあれほど真っ青に晴れていた天空に黒い雷雲が差している。
すぐに雨が降るだろうことは、マクワにも予想が出来た。一般的な雨量程度であれば、水が苦手なポケモンでも野生で生きる以上耐性がある。だがしかし、瞬間的に多量の水を浴びるとなれば別だった。

「……夕立が来ますね。一旦雨が止むまで待ちましょう。流石に大雨は、きみもつらいはずです」
「シュポォー」

ぽつり、ぽつりと肌に触れる冷たい水の粒。程なくして一帯を重く暗い雲が包み込み、激しい雨が降り始めた。バケツをひっくり返したような豪雨が衣服を濡らしてゆく。マクワは慌てて荷物から折り畳みの傘を開いた。
それからモンスターボールを取り出して、セキタンザンに向けスイッチを押す。しかし、ボールは反応せず、開かない。取り違えたのかと思いほかのボールを確認するが、間違いなくセキタンザンのモンスターボールだ。

「な、なぜ……!? まさかこの大雨で電波がやられ……ッ、セキタンザンこれを!」
「ボオ……!」

大水の中、セキタンザンは頭を振った。しかし背中から煙が上がっている。彼の特性じょうききかんがすでに発動してしまっている証拠だった。
それは彼が水を浴び、少なからずダメージを負っている証。マクワはあまり大きくはない傘をその黒くて大きな手に押し付け、すぐに離れた。

「トレーニングをするのに必要以上の負担は掛けられません! ……それに……ぼくは……みずに濡れても痛くありませんから」

マクワはセキタンザンに背を向けてつぶやいた。その背中は影を帯びていて、とても小さく見えた。
セキタンザンが声をかけようとする前に、すぐに走り出した。

「さあ急ぎますよ。洞窟は向こうです!」
「シュポォ!」

バディはなるべく傘を高く持ち上げながら、その背中を追いかけていった。

森から草原を抜けて、辿り着いたのは一本道の洞窟だった。二人が到着するころには、マクワの衣服は完全に水で濡れてしまい、全身にぴったりとくっついていた。まるで水の中を泳いできたようだった。
洞窟の入り口も、滝のような水がヴェールを作っている。
マクワは適当な岩の上に腰かけると、荷物から水筒を取り出し、一気に煽った。

「……はあ……はあ……流石にこの大雨の中の全力疾走は……なかなかに新しいトレーニングですね……」
「ボオ……シュポオ……」

セキタンザンは折り畳み傘を一生懸命畳もうとしていたが太い指先ではうまくいかない。

「ああ、だいじょうぶです。乾かしたいのでそのままその場においてくれますか?」
「シュポォー!」

セキタンザンは首肯すると、濡れた面が自分に向くように立てかけた。
それをみたマクワは水筒をしまうと、傷薬をさっと石炭の黒い身体に吹き掛けた。それから次はタオルを取り出した。軽く自分の手や、ぽたぽたと水を落とす髪を拭くと、セキタンザンの腕をとり、ごしごしと擦り始めた。

「……ぼくは……みずが平気ですが、きみはそうはいきませんので」
「ボオ?」

携帯用のフェイスタオルだ。基本的にはマクワが汗をぬぐう時に使用しているもの。広い面積のセキタンザンの身体全身を拭くには足りておらず、あっという間に濡れ切った。
マクワはそれをぎゅうと絞り水気を落とすと、再び石炭の身体を拭き上げる。時々水滴を落とす彼の衣服の水も吸わせながら。
セキタンザンはその手が小さく震えだしているのを見た。

「シュポオ!」

巨大な肩を拭うその顔を慌てて覗けば、マクワの薄い唇が青くなっている。

「……なんですか。ぼくはみずがへいきで……あつ!」

背中の炎が突如燃え上がった。セキタンザンが自分のエネルギーを背中に向けて集中をした。めらめらと高く炎が揺れて、それからゆっくりと体全体を包み込む。マクワは思わず後ずさった。

「きゅ、きゅうに火をつけるなんて……あぶな……くちゅん!」

盛大なくしゃみをしてマクワはその丸い目をぱちぱちと瞬かせた。それから改めて自分のユニフォームを見下ろした。濡れ切っており、時折雫をこぼしている。
それからジャケットとユニフォームを脱ぎ、下着姿になって思い切り絞り上げると、ぱちんぱちんと叩いて広げ、近くの岩の上に並べた。

「……ど、どうやらだいぶ身体が冷えていたみたいです……」
「シュポォー!」

セキタンザンは再び背中に炎を集めることに注力した。背中の山は高らかに大火が揺らめき、石窟の中を照らし出す。立てかけてあった折り畳みの傘がじゅう、と音を立てて水蒸気を上げていた。
マクワはセキタンザンの隣に座り込んだ。ちかちかと眩しい赤い火の灯りが、水を飛ばしながら、体の表面から中の方までゆっくりと浸透していくようだった。

「……温かい……。この量の水気のなか、それだけの火力が出せるのであれば……ヒートスタンプの火力も安定出来るかもしれません。……イレギュラーなトレーニングになりましたが」
「シュポォ!」
「……ああ、もう。ぼくがしっかりするべきなのに、またセキタンザンに助けられてしまいました。……きみと一緒にいることで、ぼくはいわタイプのトレーナーとして、いわタイプとして居られる……。きみがいたから自立できたのです。なのに欲張る気持ちがでてきてしまって……」

それは憧憬の重たい影だったとマクワは思う。生まれ育ちでひとの人生は決められる。
マクワも例外ではなくこおりタイプの親の轍を歩み続ける過去があった。
だからこそ自分もひとではなく、生まれからしていわポケモンであれたらと夢想する心が、現実の中に根を伸ばしていた。

「ボオ」
「意地を……張りました。……でもぼくがぼくであるから、こうして温めてもらえて……なによりきみの恩恵を誰より感じることが出来るのもまた事実です」

明るい火炎は石の壁をちかちかと照らし、座って寄り添うマクワとセキタンザンの影をも揺らしていた。気が付けば、激しい滝の流れる音が収まっている。
ふと外を見ると、雨は上がり始め、雲が光を取り戻していた。
モンスターボールを取り出しボタンを押せば、きちんと動作し開いた。セキタンザンが帰ってしまう前にキャンセル処理をして再び鞄に仕舞い込んだ。

「……よし、止んだら今度こそ続きをしましょう。きみの火力をみせつけるのです」
「シュ ポォー!」
「その前に……服を乾かさなければなりません。さすがに下着で島をうろつくのは……きみのクレバーに反しますからね。いつチャンピオンが現れるかもわかりませんし」

そう言ってサングラスを拭くマクワに、セキタンザンはいっそう体のほのおを強める。
雲間から現れた再びの日差しが、二人の道を照らして燃ゆる。

暗い色をした水面は、いつも自分の顔をぽっかりと浮かび上がらせていた。月だとマクワは思った。真っ暗な夜空に浮かぶ、白い月のような自分がそこにいた。

じっとりと重たさのある風は磯の活きた香りを纏って、ひんやりと頬から体温を奪いながら過ぎ去ってゆく。岩と岩をちぎるような水辺はしばらく浅いが、突如深さをもってひとに怜悧な牙を剥く。
一度落ちてしまえば、もう助からない可能性さえある恐ろしいその場所は、いつだって氷の町のすぐ隣にあって、何もない顔でただ静かにこおりを学ぶ少年を映すのだ。
お前が何たるかを、そしてその身の程を、知るのだと冷たくシビアに問いかけ続けてくる。
それがマクワにとっての「海」だった。海に行くたび母の教えを受け、そして母が譲らんとするラプラスとともに航った。

カツン、浜辺でガラスとガラスがぶつかった。白い砂浜に座ったマクワが、隣のセキタンザンの持つサイコソーダの瓶に、同じものを軽く当てて響かせた音だ。
透けた素材同志が重なる影は、いっそう輝きを強め、まるでダイヤの破片のような光を放った。中に詰められたガラス玉と気泡がちかちかと揺れる。
照り付ける日差しはいっそうそれらを強く輝かせていたし、セキタンザンの背中のほのおをより猛々しく燃やす力になっているようだ。また額から流れた汗を拭って、マクワは笑った。

「今日のトレーニング……お疲れさまでした。……たまには良いでしょう? 乾杯……ということで」
「シュ ポォー!」

バディは瓶に口を付けると、揃って喉を通した。甘い炭酸ソーダはすっきりとして、今しがた野生のポケモンたちとひたすら連続で戦い、疲弊した体を冷まし、癒していく。
もっともセキタンザンにとってはこの冷やすというのは身体の天敵だ。少しずつゆっくりと口の中を通していた。それでも、安らぎをもたらしていることは同じだった。
マクワは少しだけ目を細め、空のガラス瓶を持ち上げて言った。

「……この間すなあらしの後、きみの背中から黒くて透明な石が出てきたの覚えていますか?」

セキタンザンは肯いた。まだつい先日のことだ。先発のバンギラスがすなあらしを呼び起こした後で切り札はすぐに登場した。その試合はあっという間に勝利をもぎ取ることが出来、言葉に出さないマクワが珍しく褒めてくれたからよく覚えているのだ。
その後、マクワがセキタンザンの身体のメンテナンスをしていた時、まるで祝福するように、石炭から紛れて出てきた小さな光の破片。

「あれはケイ素という物質が多い場所で……あの時はちょうどバンギラスの呼んだ砂にケイ素が多かったみたいですね。きみの高い温度のほのおに当てられたケイ素が溶けた後、冷やされて固まってできたものですが……このガラス瓶と色以外はほとんど変わらないそうです。
石に詳しい方々の受け売りですが……とても面白いですよね」
「シュポ!」
「きみの温度なら……このガラス瓶も溶かすことが出来るし……新しい石にも出来てしまう。……すごいことです」
「ポォー!」

セキタンザンが、地面に落ちている何かを見つけたらしい。空っぽのガラス瓶を置き、砂の中からその大きな指で器用に拾い上げると、マクワに差し出した。
太い石炭と石炭の指に挟まれて小さな煌めきを放つのは、薄くて丸い、何かの切れ端にも似て波打つような形状をした透明な緑色の石。

「これは……シーグラスですね。廃棄されたガラス素材の瓶等が、川や海の水に流され、長い年月をかけて削られた結果、こうして石のようになるものです。……そう、今の話と同じもの……きみの作る、きみの仲間ともいえるかもしれません。……あの時の透けた黒曜石といい、とてもカラフルですね」
「ボオ」
「……本当に、海って……こんなにもいろんな色があったんですね。ぼくが知っているのは……きっといつも不機嫌な海ばかりの狭いものだったのだと……そう思います」
「シュポオ?」
「そう、キルクスの入り江。きみのおかげでこんなにもたくさんの色を視ることが出来た。
……ぼくも太陽の仲間になれた」
「ボ?」
「ふふ、なんでもありません。……ぼくは月かもしれませんが……でもきみの輝きで光るもの。きみの輝きを届けるもののだから、それはきっと……素敵なことです」

真っ黒な顔は首をかしげた。それから自分の足元に置いてあった瓶に向けてほのおを放った。白い砂粒の上でほのおが躍り、瓶はまるで粘土のようにふにゃふにゃと形を崩して小さくなった。

「わっ!? ちょっと、突然何して……」

真っ赤な色に染まっていたガラスの塊は、煙を上げながらゆっくりとまた透明に戻ってゆく。

「ボオ!」
「……これも……黒曜石とシーグラスと一緒に……きみのコレクションにしたいのですか? ……まったくきみは……」

セキタンザンは得意げに笑っていて、マクワはいっそう目を細めた。

「やはりきみには敵いませんね。わかりました、全部ぼくが研磨してアクセサリーにしてしまいますから……きみは首を……いや張り切って待っていてください」

高らかな機関車の声が浜辺に響く。砂の上の石の輝きはいつまでも光続けていた。

プロポーズ

結婚しよう、とマクワの声が躍った。

モニターの中では、すでにグリーンバックが失われて、鮮やかな青と白の花や教会の中に立つ、白いタキシードを身に纏ったセキタンザンがそこにいた。
ひゅんとスムーズに画面が切り替わったかと思うと、セキタンザンの巨体が衣服ごと全身を強い炎にまかれて空を跳躍し、教会の石畳の上へと降り立った。
まるでCGのようだが、ここは一切合成をされていないものだということは、何よりマクワが理解していた。角度は違えど、つい先ほどまで実際にこの目で見ていたものだからだ。
これは仮の状態だと監督から説明を受けていたが、映像について素人のマクワには完成形にしか見えなかった。もう明日からでも放映できそうだが、これが一般的にみられるようになるまで、まだ1か月以上先のことだった。
控室の壁に貼られたたくさんのスケジュール表を見ながら、マクワはおいしいみずのボトルに口を付けた。
今日はスポンサーからの依頼として、変わり種の季節もののCM撮影で一日を終えた。
主役はマクワではなく、セキタンザンだった。彼特注の衣装は今回新しく開発されたもので、非常に伸びが良く、強い日差しや高熱に強いポケモン向けの布。発売のアピールとして、セキタンザン用に純白のタキシードを着、実際に演技を行って、いわを放ったりほのおを吐くなどして見せた。
実際に着る時に担当者が着付けるところを見せてもらったが、なかなか興味深いものだった。可動域が人間と異なるため、全く同じ形では着衣が難しい。パーツ毎に分けられて、ひとつずつ巻いて止めるなどしている。
それでも造詣は完璧で、離れて見ればちっともわからない。ごつごつした石炭の肌を包むシャツも、たっぷり厚みを持たせたジャケットも、糊のきいたズボンも、どこまでも華やかで綺麗に見えた。これからひとつずつ外していくのが、とても名残惜しく思えた。
今こうしてマクワが間近で見ていても、焼け跡一つ残っていない。あの時確かにいつもと同じ程度の炎を吐き出していたのを、目の前で見ていたし、きっちり監修もしていた。
少しでも不足があれば、こちらからストップを出して再撮影を頼んだほどだ。出来る限りアピールはしておきたかった。

「……本当に結婚するみたいですね。……いや、きみは自由ですからそういう時がいつ来てもおかしくはないと思っています。いますが……」
「シュポォ」
「……ごほん。いえ、ぼくは……もともときみと婚約を考えていますからね」

セキタンザンが丸い目をぱちぱちと瞬かせた。

「……だってそうでしょう? きみとバディとしてチャンピオンになるなんて、結婚とかわらない……。それくらいの覚悟がないと務まりません」

マクワの言っていることがよくわからず、首を傾げた。

「……ああいや、きみを束縛する話をしたかったわけじゃなくて。その衣装は本当によくできていて……きみにピッタリです。なんだか今までにない魅力を感じるほどに。
しかし残念ながらそれは今後必要な現場があるそうで、買取は難しいといわれました」
「ポォ……」
「おや、やはりきみも気に入っていましたか。それはよかった。……よくないけど」

時計の針は夜を教えている。まだ退出の時間までは余裕があった。

「……それで考えたのですが。ぼくはきみに贈り物をすることにしました。

ふふ、これを贈り物と言っていいのかわかりません。でもぼくたちで築き上げたもの……きみに持っていてほしくて」

マクワは懐から指先サイズのベルベットのケースを取り出した。少し重たい蓋をぱかりと開くと、長いチェーンに繋がれた小さな小さなダイヤモンドが丁寧に磨かれて光を放っている。

「知っていましたか。きみがフレアドライブを使う時、ごく稀に発生するダイヤモンド原石があります。同じ炭素で高い圧力が掛れば当然反応してもおかしくないですからね。その中でも一際大きなものを拾うことが出来ました。それを……拙いですが、きみたちを研磨する技術を応用して、ぼくなりに削ってアクセサリーにしてみました」
「シュポォ!」

大きな分厚い黒い指が、本当に欠片のようなダイヤモンドにそうっと、壊れ物のように触れる。

「ふふ、普段のきみよりもずっと硬度は高いのですよ。……きみは、その……ぼくにとって一番のバディです。きみがぼくのバディで居てくれるから、ぼくはぼくで居られる……。
それはぼくが誰より知っているつもりです。だから、その……記念に、これを……きみに持っていてもらいたくて」

チェーンとチェーンを両手で掴んで宙に下げると、背中の炎の赤い光を帯びながらきらきらと光りを切り取っていた。
セキタンザンは、この色をなんだかとてもよく知っていると思った。赤を受けて放たれる煌めき。

「……ぼくよりずっと長く生きるきみです。ぼくが出来ることはたかが知れている。でも、だからこそぼくはきみに出来ることをしたいと思っています。ぼくが出来ることなら、何もかも……。
だからどうか、これからもずっと共にいてくれますように。
きみがぼくの夢そのものであってくれますように」
「シュ ポォー」

セキタンザンは、結婚というものを知っている。それは、この撮影のために覚えたことでもあるが、なによりマクワとマクワの母親のことをよくよく見てきたからだ。
ひととひとがその生をともに分かち合うことを約束する儀式。そこから生まれたのがマクワに他ならない。
自分もきっと、セキタンザンの誰かの儀式の中で生まれてきた。
けれど、マクワとの関係はもうとっくの昔に決まっていた。あの時、出会った瞬間から、共に過ごした時間から、今もモンスターボールという形を成して紡がれている。
けれども、ひととひとがつくった結婚という特別な儀式が紡ぐものも、きっと悪くないし、少しだけ羨ましいような心地が胸の奥で熱を持っていた。
だが今ここにある光を、セキタンザンは握りしめていた。
セキタンザンの手の中に収まるふたりの輝きの重なりは、これからも、いつまでも続いていく。走ってゆく。

きみと最後に会った日

ちょうど一年前の今日、きみと最後に会った日。
それはぼく自身との別れの日であり、同時にすべての覚悟を決めた日でもあった。

母と袂を分かつ。しかしそれが簡単なことではないことは、ぼくが誰より知っていた。
母はぼくを後継ぎにするために、心血のなにもかも、ありとあらゆるすべてを尽くしてくれていた。ポケモンに関するあらゆる知識、トレーナーとしての心構えや常識は、今も母親からすべて叩き込まれたものだ。ぼく自身の時間のほとんどはぼくの手中にはなく、座学から実践訓練までを行う母が一秒刻みで管理していた。
母はこのガラル地方有数のトレーナーとして名を馳せている。彼女が培ったものをこれほどまで与えてもらえるぼくは、このトレーナーという職業が強いガラルの中で、なによりも強力な剣となり、ぼくをまもる盾にもなりうるだろう。
しかしそれはぼくにとって何物にも耐えがたい拘束の糸が、喉元で呼吸を縛り付けるものだった。
それはどこまでいっても母だ。ぼくと母の境界線が、まるで雪に埋もれてしまったかのようにみつからない。
母の栄光をなぞり続けるぼくはただの母親のこおりの糸に繋がれた繰り人形だった。
ぼくが独立したいのだと伝えたとして、はいそうですか、と簡単に返事をもらえる相手ではないことも、ぼく自身の細胞という細胞がその身に刻んでいた。
それは経験もあったし、きっと母から別れて生まれた身体だからというのも、少なからず理由として存在していただろう。
シビアで非常に厳格な母だ。まず自分の実力を見せなければ、最低限の説得はかなわない。見せたとして、祝福してくれる可能性はないにも等しい。それはぼく自身の願いとして存在してているもの。
ぼくの細胞の、母とは違う部分のどこかひとかけらにしか存在していない。もっとも母から生まれた身体にそんな場所が今存在するとも思えないが、ぼくがこうして腹を括ったことだけがわずかで力強い希望の破片だった。
だからこそ、ぼくが見つけた新しい出会いは必要不可欠だったのだ。ぼくが選んだそれそのもの。母でもなければぼくでもない、全く新しい外部のいのちの存在。
きみはずっとぼくと共にいた。いてくれた。それだけで何より心強いことか。
きっとこの分厚すぎる親子の癒着に風穴を開けてくれる。
そう、まさに一石を投じてくれるはずのものだった。

だがしかし先ほども言ったように、母に対して実力を見せつけなければいけない。
少なくともきみとぼくの関係が、今まで通りであってはいけなかった。
きみと出会うために……ぼくはきみとお別れをする。ぼくが抱いた憧れに近づくのだ。

その記念すべき日は、ぼくが設定した。そこに至るまでの過程もすべて緻密に計算し、メニューを組んだ。そう、これがぼく自身がトレーナーとして始める第一歩だ。
こんなことは母にだって教えてもらっていない。トレーナーとしての心得も、指示を出すタイミング、動き方のひとつひとつの細やかなものだって、なにもかも受け売りでしかないぼくが。
だからではないが、メニューを作るのは本当に楽しかった(だってポケモンのことを試案するのはたのしかった。これも母の糸の残りかもしれなくともそれでも持ち得て悪くない糸だ)。
だってきみのことを堂々と考えて、しかも実践までしていられるのだ。これほど幸せなことはない。もちろん初めてのことだ、組んだメニューも実際に行ってみれば、やれ詰め込み過ぎだの、今度は運動量として偏りがあっただの、組み直さなくてはいけないこともままあった。
もちろんプレッシャーはあった。必ずこの最初にセッティングした別れの日程だけは絶対だ。
あまりの不甲斐なさに部屋にこもって奥歯をかみしめ続けたときもあった。
ただきみと一緒にいたいからだ。ぼくがきみのことで把握不足があることが悔しかった。きみのことで予想できなかったことがもどかしかった。
それはそれまでのぼくになかった知識だ、当然のことだろう。
ぼくはこおりタイプのポケモンについての知識と経験は他人よりも深いと自負しているが、いわタイプのポケモンに関しては完全に初心者だった。
きみに届かないような、遠い距離があるような、そんな気持ちさえ抱いていたことだってあった。

それでもきみはずっとぼくと一緒にいてくれた。それがなによりぼくの自信になったか、きみはきっと知らないだろう。
だからぼくはきみとの約束は必ず守る。少々強引だが、必ずきみを強くするという盟約だ。
きみは戦い慣れしていない、どちらかといえば和平を望む種族のポケモンだ。それを戦いに繰り出しているのはぼくに他ならない。もちろんポケモンはみな強さを求める生き物でもあるけれど。
ガラルはそんな彼らと強さを臨める環境を整えてくれたひとたちがいるのだ。その良さをきみにも伝えていきたいと思っていた。
きみはそんなぼくたちの世界で共にに生きてくれると肯いてくれた。

峻厳なトレーニングを幾度も乗り越えて、ぼくが指し示す羅針盤の先、その日はやってきた。午前中に野生のポケモンたちから連続で20回ほどもぎ取って、突然変化は現れた。
戦いを終え、去っていくポケモンの背中を見送り、次の場所へ移動しようとした。だがきみの車輪はうまく動かずその場の砂をぐるりと巻き取った。そうしてぎゅっと目をつぶった。まばゆい光が黒い体を包み込んだ。

「……やってきたんですね。予定通り……です」

きみは肯いた。とうとうお別れだ。ぼくはその石炭の頭を撫でた。
ごつごつした感触が手のひらをほのかに温めた。
きみは連れていく。ぼくの迷いも未練も、そして母の影でしかないぼくのことも。

「……さようなら。……そしてようこそ、新しいきみ。ぼくが出会いを待ち望んでいたきみ」

身体を包む光がいっそう強く激しくなり、見つめる目が痛みを発し始めてきたころ、その輝きは突然ぱたりと消え去った。
そのあとには、もうきみではないきみがいた。背に積まれた石炭の山はぼくの背よりうんと高く、辺りの空気を歪ませるほどのほのおを抱いている。ぱちぱちとはじける火の粉は時折岩の埃っぽい香りと焦がした香りを運んだ。
その体はぼくなんかよりもずっとずっと重たくて、ずっしりと落ち着いていて猛々しい。
両手と両足が出来たのがうれしいのか、手のひらを握りしめたり開いたりしたかと思うと、今度は腕を大きく開いて見せた。
黒くて丸い目が弧を描き、ぼくを見下ろした。
『きみ』でなければ、あの母に到底勝てるとは思えない。そしてきっちりポケモンを育て、進化させることが出来る自分は、立派なトレーナーの証左に違いなかった。
実績は、ぼくの胸を輝かせる勲章だ。その裏にある戻れぬ心には目を向けぬよう、青いサングラスを掛けることで閉じ込めた。

「……尖った目、お揃いですね」
「シュポォ!」

俯いたぼくはつるを抑えて、もう一度きみを見た。

「……改めてはじめまして、セキタンザン。ぼくとともに……ガラルでいちばんのトレーナーとポケモンになりましょう」
「ボオー!」
「ありがとう……ぼくの人生の剣のきみ。かならずきみの輝きをたくさんのひとたちに届けます。……だからまずは目前の試合で強さを見せつけましょう」
「シュ ポォー!」

ぼくはもう、勝負のスタジアムの上に立っていた。これがきみと最後に出会った日。
そしてぼく自身との別れと、二度目のきみとのはじめましてを続けた日。
ぼくは今もこの剣とともに、ぼくのいのちの居場所を切り拓き続けていく。
磨かれた赤い輝きと鋭い炭黒が、こおりを溶かしては砕き、勇ましい色を輝かせる。

七夕・カブさんの描写多め

『ジムリーダーになります』
幼いころ、慣れない縦書きの短冊にガタガタの文字で書いた願い事だった。それを見た母も、そしてぼくに教えてくれたカブさんもにこにこ笑っていて、ぼくはとても誇らしい気持ちでその短冊を掲げたことを覚えている。
ガラルからは遠い地、ホウエンやその近辺に残る星祭りの時に行う伝統らしい。星に願い事をささげることは、ガラルではそれほど珍しいことではない。
だからこそこちらでも親しんでもらえるのではないか、とカブさんがジム見学にやってきたぼくに合わせて用意してくれたのが、その短冊と笹の木だった。
ガタガタ文字の短冊は、笹の木のてっぺんに飾られて、そしてぼくの道を祝福し続けてくれたのだった。

ひらりと短冊が宙を舞った。何も書かれていない細い紙は、なぜかぼくのタブレットから現れて、キルクススタジアムのジムリーダーが主を務める部屋の絨毯の上に降りた。
長い間使われてきた部屋だが、こんな大きなタグのようなものを見るのは始めてだろう。
ぼく自身、キルクスで七夕飾りを見ることは初めてだった。

「もしかして……くっついてきてしまいましたか」
「シュポォ?」

部屋の中で一休みしていたセキタンザンも、不思議そうな顔をして紙切れを拾い上げると、ぼくに手渡した。

「ありがとうございます。……これは短冊というものです。先ほどカブさんのところでいただいたものを……ぼくとしたことが、どうやら間違えて持って帰ってきてしまったみたいですね」

数時間前までいたエンジンスタジアムでのことを思い出す。エンジンでのジムリーダー交流会は、会議を兼ねているとはいえ実りが多くていつも密やかに楽しみにしている恒例行事だった。
今日のエンジンスタジアムは、ちょうど星祭りの中でも『七夕』を祝っており、ほかではあまり見かけないホウエンあるいはその近辺の祭事を行っているところだった。
ジムトレーナーたちが率先してカブさんの故郷の慣習を復元し、笹の木を立て、短冊に願い事を書いて飾っているのだという。
正直なところ、カブさんとはありがたいことに、親の縁でとても長い付き合いをさせてもらっている。多分ぼくのあまり知られたくないところや見られたくない姿だってよく知っているだろう。
彼はずっと遠い場所からやってきて、そして長くぼくたちの地方に居続けてくれているひとでもある。どこまでも誠実で強いカブさんは、ぼくの目標のひとりでもある。
そんなカブさんがトレーナーとして尊敬され、めいっぱいカブさんを歓迎しようとしているジムトレーナーたちがいることは、ぼくとしてもうれしいことだった。
会議の休憩時間に七夕について教えてくれて、ぼくにも短冊を一枚渡してくれた。それはその場で書いて飾ってもらったものだが、なぜかここにもう一枚の短冊が残ってしまった。
会議の時にはいつもタブレットを使っている。おそらく知らずにもらってしまった余分な短冊が、その隙間にぴたりとくっついてきたことに気づけぬままここまで戻ってきてしまったのだろう。
スマホロトムを取り出し、カブさんに連絡を取ってみる。七夕飾りの処分の方法を尋ねるのだ。
一応祭事に扱うものだ、粗末にしてしまってはカブさんたちにも悪いことが起きかねない。
電話通信を受け取ったカブさんは笑って、ありがとう、特に気を付けることはないよ、と言った。

「昔は川とかに流していたんだけどね。しかし紙や葉をそのまま流してしまうのは忍びないという意見もあってね。ああ、そうだ、どうしても気になるなら――」

「ありがとう、スマホロトム」
「ロト!」
「せっかくだから……きみもなにか願い事を書いてみますか?」
「シュ ポォー」

ぼくはオフィスチェアに座り、デスクの引き出しからペンを取り出した。セキタンザンは興味深そうに短冊を見下ろしている。

「……きみは……きみの願いごとは……?」
「ボオ」

こうして短冊に向き合ってみて、ぼくは気が付いた。彼をぼくの願いに、やるべきことのすべてにずっと連れまわしてきた。ぼく自身の将来のために、疑うこともなく。この先にある道は、岩壁よりもはるかに険しい。それでも必ず彼にとっても幸福を齎すことだと信じてやってきた。
だがしかし、彼の本当の夢や願いを聞いたことなんてなかったのだ。
すうっと、抜ける冷たい風がある。窓は締め切っていて、エアコンも空調の類もつけてはいない。
小さな短い白い紙が、妙に大きく広がって途方もないほど大きく見えた。まるでキルクスに広がる雪山のようだ。
いつも通り、強い引力を連れて自分の願いを書いてしまおうかとも思った。それは絶対的に正しいことだ。ぼくがトレーナーで、彼がポケモンである以上正義であり続けるだろう。
けれど口の中にたまる唾を飲み込んだ音が大きくて、ぼくの動きを阻害する。

「シュポオ」
「へ」

セキタンザンはいつもの人好きのする笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。それから彼は小さく頭を横に振ると、真っ直ぐぼくの目を見つめる。

「シュ ポォー」

そこにあるのは、セキタンザンの黒い瞳の中で、僕の青い目が彼の背中の光を受けて輝く『あまのがわ』だった。

「……ふふ……きみは……」
「ポォ」
「きみはぼくの夢が叶うことがきみの夢だって……そう言ってくれる……?」
「シュポオ」

大きな石炭の頭は強く首肯する。

「……ごめん……いや、ありがとう。……そうですね。それを信じることがぼくたちです。……けれど本当は……もう少し早く聞いておくべきことでもあったと思います……」
「シュポォ」
「それでは、ぼくたちの願いを書きますね。初めて書いたものは夢などではなくて……こうして叶った今ですが、あの時のぼくが見たら驚くでしょう。ならば今度こそ……」

再び願望を書き記す。やりたいことはたくさんある。すべてが途方もない悲願であり、夢だ。けれどポケモントレーナーとして生まれ、今ここにいるぼくだからこそできることもあるはずだ。
ぼくはあの時の希望通りジムリーダーになったけれど、描いていたものとははるかに違う姿だ。
このガラルという素晴らしい土地を愛し、そして利用して、そしてぼくが捧げられるもの。
ジムリーダーになる夢を超えるもの。

「それではセキタンザン、動かずにいてくださいね」
「ボオ?」

ぼくは短冊をもって立ち上がり、セキタンザンに近づくと、彼の背中の山の石炭の間に差し入れた。乾いた紙切れはあっという間にセキタンザンの温かな熱に包まれて、端っこから火の粉を上げて黒く小さく変わっていく。焦げる香りは心地よい。きっと髪や衣服にも残るだろう。
ぼくたちを刻み付けてゆくものだ。

「ぼくの願いは……きみが持っていてください。ぼくの希望を自分の夢としてくれたきみが。
この夢が叶うそのときまで」
「シュ ポォー!」

セキタンザンは一層背中の熱を上げて、ほのおを強めた。一際ぱちぱちと音が立ち、炭の香りが当たりを包む。
カブさんに教えてもらった『焚き上げ』という方法だった。清らかなほのおにくべて、想いを天に昇らせるもの。けれどぼくにはセキタンザンがいる。ぼくの信頼する切り札は、いつだって隣で笑って、時に猛々しくいてくれた。
もうとっくの昔、彼が進化した時から、セキタンザンという彼自身にぼくの新しい大望を預けていたのだ。
キルクスの空気には静かな煙が溶け込んでゆく。