サンクスデイ

丁寧にラッピングされたクッキーの小袋がある。よく見れば袋はずいぶんと厚みがあって、人の指では使いにくい。けれど石炭の黒い手はそれを手に取り、横に伸びる赤い紐を軽々と引っ張った。
内側からほんのりと甘く、香ばしい香りが零れてくる。もっとも嗅覚の弱いセキタンザンではあまり感じることのできない感覚だった。

「きみたちもぼくの『ファン』ですから……これはお礼です。そうでなければぼくについてきてくれることなどないでしょう?」

そう言い切りながら、マクワはポケモンたち一人ずつに同じ小袋を手渡していった。
最初に渡されたのは手が器用なガメノデス。その次は主張も力も強く、やや我慢の苦手なバンギラス。さらに小さな体のツボツボの前に置き、イシヘンジンの高い位置の手に持たせ、最後はセキタンザンの大きな手の上に乗せられた。

「今日、お菓子作りを教わってきました。その中でも少しだけ『特別』なものです」

袋をひっくり返せば、掌にちょこんと乗る小麦粉がきらきらした飴の周りをぐるりと巡る綺麗なお菓子。
普段食べることのない分、セキタンザンも身体が食べてみたいと欲するのがわかる。
しかし色のついたガラスのような飴細工の部分は、炎に弱いのか表面が揺らいでいるように見えた。少しだけ炎を弱める。

「……けど……ぼくが……ぼくこそがきみたちの一番の『ファン』……でもありますからね。
これからも……一番隣にいさせてもらいますから」

サングラス越しにマクワが微笑んでいる。
セキタンザンはひとつそのクッキーを口の中に放り込んだ。
甘い香りが口を越えて、あっという間に体の中に広がった。
その時なぜか思い出すのは、彼の母親メロンの笑顔だ。
幾度かメロンさんが手作りしたものを、食べさせてもらったことがあった。似ている。
ああ、彼のこのお菓子作りの腕は、その味覚は、あの温かな親に培われたものに違いない。
彼女から教わったわけではないだろうが。
背中の炎が大きく燃えて、思わずマクワに黒い手を伸ばす。
ふわふわした身体が両腕の間に入る不思議な感覚が、違う生き物と触れ合える刹那が、セキタンザンは好きだった。

「こら、近いです……むぐ」

そして小袋に入ったクッキーを一つだけマクワの口の中にも同じように放り込んでみた。がり、と砕ける音がする。

「ぼっ、ぼくは……べつに……。んぐ……おいし……よかった……。……ああ、いや、当たり前ですけど……」

マクワはもごもごと俯きながら、残りのクッキーを咀嚼して飲み込んだ。

「か、勘違いしないでくださいね。ぼくだって……。……きっといつか」

その『いつか』が何を描いたのか、セキタンザンには知り得ない。
けれど彼の目線の先には光が、温かいものが、きっとある。
ここにいる皆でそこにたどり着きたい。
セキタンザンは願いを込めて汽笛のような声を上げるのだった。

壁を砕くデルバータ

『悪いね、急遽試合後に仕事の予定入っちゃった。今日の訓練は18時からやるよ』

届いた母親からのメールを閉じて、最新式のポケッチをポケットにしまい込む。
窓の外は快晴で、雪の多い街キルクスにしては温かい日差しが頬に沁みていた。今日ならあっという間に足場の悪い山道も登れるだろう。
いつもの道具セットは既に決まった鞄にしまってある。帰ったら中身だけ簡単に確認すればすぐに家を出ることが出来るはずだ。

(さみしくしてないかな)

スクール帰りの子どもたちで溢れるバスの中はひどく賑やかだ。家に荷物を置いてすぐに遊ぶ約束をする同級生や、昨日のリーグのチャンピオンの試合を熱弁する上級生たちの白熱した感想、流行りの音楽を口ずさんではくすくすと笑い合う下級生の声が、そして前の椅子に座る子供の雑談が椅子に座ったマクワの耳にも届く。

「タンドンがさ」

まるでわしづかみにされたような心地がして、重くて冷たく突き刺さるものが喉奥を通っていく。こつん、と額と窓ガラスがぶつかる音を聞いた。

「うちのママのポケモンなんだけど、今朝さあ、じーっとしてると思ったら急に俯くから調子でも悪いのかと思って慌てたんだけど……ただ俺のこと見てただけらしくてさあ」
「ポケモンってよくわかんないときあるよなあ」
「あいつは特にわかんねえ。俺がポケモン連れられるようになったら、もっと動ける奴がいいな」
「次のバス停は――」

降りるバス停の名前のアナウンスの声にかき消される。運転席の横の上のモニターにも高らかと表示されていた。
母から誕生日祝いに貰った腕時計は14時をさしている。スタジアムには夕方向かえば十分間に合うだろう。今日の宿題は既に予習していた部分で既に終わっており、他には母との訓練に時間を使うだけだ。滅多に生まれない『何もない』時間は、必ずその場所で過ごすことを決めていた。

長い坂道を登り、裏山の麓の小さな洞窟に辿り着く。まだ前から数えた方が早い背の順のマクワの背丈でも少し低いくらいの入り口を潜って進むと、大人の背丈ギリギリくらいの高さで、自分の部屋と同じくらいの広さ岩穴が広がった。
その奥でうとうとと昼寝をしているタンドンが居た。足音を小さくしようとしたが、気配にはっと気が付いたのか、ぱちぱちと瞬きをしてマクワを見つめた。

「こんにちは……すみません、起こしちゃいましたね」

彼はごろごろと車輪を転がしてマクワの足元まで近づき、目を赤く染めてふるふると身体を震わせた。
ふわりと浮かぶ炭の粉と、なぜか木が燃えるような穏やかな焦げの香りが漂う。
マクワはしゃがむと、彼の表皮に浮いてしまった粉を手のひらでそっと落としながら目を細めた。
母はきっと眉に皺を寄せるだろう。とても子ども想いで、良くないとされるものを遠ざけようとしてくれているのは、マクワの幼心によくわかっていた。
昔一度行ったおいしんボブでも、焦げ付いたものは身体に良くないからといって、焼き過ぎた真っ黒焦げの部分だけは取り除き、母がそれを食べてくれたりもした。

「……うちで使っている固形のフーズを持ってきました。口に合うかな」

マクワは石壁にもたれるようにして座り込むと、ショルダーバッグから銀色の小袋を取り出す。さらに継ぎ目を引っ張り開けてやれば、タンドンの瞳の放つ紅い光が反射してちかちか瞬いた。

「お母さんはいつもたくさん買い過ぎるので……あまりをひとつ貰ったのです。勉強用ということで」

封を開けた部分に手を当てて、横倒しにして軽く振れば、中からまるで焼き菓子にも、栄養剤にも見える茶色の小粒の丸い固形ポケモン用フードが現れた。タンドンは興味深そうに見つめていて、フードを乗せた白い手が車輪の根元に伸びる。しばらく様子を見たのちに、タンドンは車輪をそっと当てて、巻き込むように体内に取り入れてゆく。マクワはそのタイミングに合わせてそうっと手を放す。
がり、がり、ばりばりばり。
砕かれる音が小さな洞窟の中でよく反響した。タンドンは再び身体を小刻みに震わせる。

「よかった、おいしかったのですね」

顔を上げたマクワは、ティッシュを敷き、その上にポケモンフーズをぱらぱらと地面に置くと、鞄から厚みのある本を取り出した。

「図書室で新しく借りた本を持ってきました。読んでいてもよいですか?」

タンドンの紅い目が本を見つめている。ポケモンフーズの味がよかったのだろうか、それを見たときと同じ目の色に見えた。マクワは本を抱きしめてタンドンから遠ざける。

「これは……食べられないですからね」

再びタンドンは白く光る眼を瞬きさせて、マクワの周りをうろうろしながら本に視線を合わせている。

「葉っぱみたいな香りしたかな……? そういえば紙は木が原料なんだっけ……。これはここに書いてある文字を読むものです」

マクワは表紙を開き、ぱらぱらと中のページをめくって見せる。ほとんどは文字だが、時々ポケモンの挿絵が書かれている。

「気になりますか? これはね……きみたちのことが書かれているのですよ」

1ページにいっぱいのタンドンの絵が描かれた場所を開き、タンドンに説明した。タンドンも自分の姿を理解していたのだろうか、それとも今辺鄙な場所に住む彼も過去に仲間がいたのだろうか。
紅の瞳いっぱいが輝いて、彼そっくりのイラストを照らしている。

「きみの……たぶん、遠い遠いご先祖様が……ぼくら人間や生き物を助けてくれた話も載っています。……一緒に読みましょうか」

タンドンは初めてにっこり笑うと、座るマクワに身体を寄せた。

ひんやりとした風が吹き、頬を拭う冷たさにはっと目を覚ました。マクワが外を見れば、ゆっくりと日が傾き、夜が近づいている。家まではそれほど遠くなくても、やはり凸凹の多い不安定な山道であり、しばらく街灯はない。懐中電灯を持ってはいるが、真っ暗になってしまえば帰るのが大変になるし、遅れてしまえば母に理由を言及されてしまいかねない。
母は自分にこおりジムの跡継ぎになってほしいと願っていて、そのために努力をしていることはマクワ自身が一番身をもって知っているのだ。
こおりとは全く関係ないポケモンと仲良くしているなんて口が裂けても言えなかった。
それにしても、気づかぬまま本を読んでいる途中で居眠りをしてしまったらしい。身を寄せてくれているタンドンはぽかぽかしていて温かいせいだろうか。
マクワが目を覚ましたことに気が付いたタンドンはまばたきをする。

「……すみません、ついつい眠ってしまいました……ぼくとしたことが」

ラプラスの描かれた栞を挟み、本を閉じると再び鞄にしまい込む。そして立ち上がった。

「そろそろ戻らなくては。今日も……場所を貸してくれてありがとうございました」

タンドンは再びマクワをじっと動かず見つめた後、視線を外して地面を見下ろした。赤い光が鈍く岩床を映している。
その時、さっきバスの中で耳に入ってしまったタンドンに纏わる話を思い出した。

『じーっとしてると思ったら急に俯くから調子でも悪いのかと思って』

ほどけるような、あたたかいものが胸に流れ込んでくる。それと同時にちいさな穴のような感情がぽつんぽつんと開いていて、マクワは思わずつばを飲み込んだ。
他の人にはわからないはずのものが、なんとなく理解できてしまうような、少しだけ優越に満ちた感覚。
おそらく彼の親のタンドンも、彼が家の外に行ってしまうのがさみしかったのだろう。
自分との別れを惜しんでくれる目の前の小さな生き物の心がここにあり、それは自分の心の色とほとんど変わらぬ色をしているだろう。透き通った輝きの落ちる音が聞こえてくる。
しゃがみ込み、自分の膝丈くらいの高さのタンドンの頭に手をあてた。

「……また来させてくださいね」

タンドンはしばらく動かなかったが、ゆっくりとマクワを見上げて頷いてみせた。
たったそれだけで、これからマクワを待つ厳しく冷たい夜のトレーニングにも負けない温かな炎が湧いてくる。母親の期待だってきっちり背負ってみせられるだろう。
そうすることで、この胸の奥でうっすらと鳴り続ける音を辿っていきたいと思った。
細石はいつか汽笛を上げて、重たい壁を砕く煌めきに繋がっている。

コールタール問答

突然、目の前が真っ暗になった。
アスファルトを煮詰めたような毒々しい臭いが肺一杯に広がり、頭から上半身までぬるぬるしたものが重たく滴り落ちていく感触があった。
慌てて口を開けたせいか、凝縮された苦々しさが口の中に入ってきて、マクワは反射的に咳き込む。

「ゲェッ……ゲホッゲホッ……!! うええッ…!」
「ボオッ~」
「だ、だいじょうぶです……おえッ……ゴホッ」

べったりとタールを受けたサングラスを外し、サコッシュから付近を取り出し拭き取る。それから顔の黒い油も拭い捨てる。
呼吸器官の周りがすっきりして、少しだけ息がしやすくなった。しかし強いコールタールの臭いはまだ上半身に纏わりついていた。
ここはキルクス郊外の山のふもと、なだらかな砂地にぽつぽつと木が生えた天然の広場だった。人に知られていないこの場所は訓練をするには持ってこいで、今日も朝から屋外のトレーニングに利用していた。
早めにノルマが終了し、トレーニング専用のジャージ姿のマクワは労りついでにセキタンザンの背中の山の手入れをした。
組み替えられて酸素の通りがよくなり、急に火力が増したセキタンザンは、自分の身体に溜まっていた古いタールを溜めきれず、まだ真剣に背中の山へと向き合い、前に立つバディに対して思い切り吐き出してしまった。
マクワは衣服を脱ぐと付着したタールを淡々と拭った。

「……今日は量が多かったですね。タールショット自体は昨日使ったばかりですが……ふむ」
「シュボオ」
「気にしないでください。組み方を間違えて……避けきれなかったぼくが悪いので。十分に慣れているので問題はありません」

スマホロトムを呼び出すと、インカメラにして全身の汚れの位置を確認した。再びロトムを戻し、マクワは言う。

「それよりもタールの量でもきみの身体の状態がわかりますし、せっかくですからきみの身体の話をしましょう。タールは乾留液と言って有機物質の熱分解によって生まれる、粘り気のある黒い油のことです。……これですね。油なので当然水には強く、しかし一定以上の高温には弱いです。」

分厚いグローブをした指先に、今身体から取りはがした液体が引っ付いている。それを反対の手で持った布巾でごしごしと拭った。

「その性質を利用し、相手に対して誰であってもほのおによるダメージを上げることが出来るのですね。ではそのタールはどうやってできるのか。
石炭を高温で蒸し焼きにするとコークスと言って乾燥した固体が出来、同時にコールタールやそのほかの物質に分かれます。コークスは燃焼時の発熱量が元の原料の石炭より高くなり、高温を得ることができる……人間がより燃料として効率を求めた結果発見され、名づけられたものなのですが……きみの身体はこのコークスの生成を天然で行うことが出来ます。キョダイマックス時に火力が上がるのはこれを利用しているためですね。コールタールさえ自分の発熱に利用します。
申し訳ないですがぼくはこの量について、ある程度はきちんとタールが溜まり続けるように、そして火力を維持し続けられるよう、試合に向けて管理させてもらっています。もちろんきみにとって無理のない範囲です」

セキタンザンはぱちぱちとまばたきをした。マクワが饒舌になるのは珍しく、そして自分やポケモンに関することだけだった。

「きみは意識していなくても高温でほのおを燃やすと体内にコールタールが発生する、ということですね。今日はそれほど火力を使うようなトレーニングを行っていませんし、おそらく昨日の試合できみの体温が急激に上がった結果で、ぼくの想定を上回ったのです。粘り気や色からして質も悪くない。
ということで……ぼくから見てきみは健康体です。もちろん専門機関で見てもらったわけではありませんが、ひとまずよかったと言えますね」
「シュポー……」

あちこち黒い油で汚しながら言い切るバディに、セキタンザンは少しだけ不服だと鳴いて見せた。

「……ああいや、もちろんちゃんと後ほど洗剤で洗い流しますよ! でも大分取れているでしょう? きみとトレーニングの時には万が一の予防として特殊なワックスを肌に塗るようにしています。このジャージも特別製ですよ」

確かに、顔の大部分は拭って綺麗に見える。そういえば昔一度、思い切りコールタールを掛けてしまったこともあった。その時は本当に全身真っ黒になってしまって、全く取れない汚れに、マクワが、そしてその原因である自分もひどく焦っていたことを覚えている。

「コールタールは発がん性物質があるともいわれていて、人体には良いものではないことがわかっています。しかし大昔には薬用に使っていた時代もありました。
ぼくたちの部屋まではここから近いです。おそらく他の人にも見られずに済みますから……こんな体験、部屋ではそうそうできませんし、少しぐらいじっくり見ても……ごほ、ゲフッ」
「ボオ」

日差しが強い。揮発するタールの香りが二人の間に充満し、再びマクワが噎せ返った。
上着を脱ぎ、半袖のシャツになったマクワの腕には、よく見ると凹凸があって、日の光に照らされていた。
あれはずっとポケモンと一緒に暮らしてきた証拠。セキタンザンも覚えている。何度も火傷を負わせてしまったり、時にぶつけて擦り傷や痣を作ってしまったこともあった。

「……そもそもこれくらいでないと……きみといる意味なんてないでしょう?」
「ゴゴゴ」

そうなのだ。セキタンザンは思い返す。最初の頃、まだそれほど互いの理解が進んでいなかったから、マクワがくれるものがずっとずっと退屈だったり、何かわからないことがたくさんあった。
セキタンザンにとって一番良い温度が、マクワにとっても良い温度であるわけがなかった。
それでも一緒にいることで、その身体を、道具を使って少しずつ対話を進めてきた積み重ねの中でいま、ようやくここに辿り着いているのだ。

「これからも……一緒にいますから。必ずチャンピオンの椅子に……きみを座らせてあげますからね」
「シュォ」
「……うん。だからどうか……隣に居て……きみの目で……確かめてくださ……」

マクワは空気の揺らぎを見た。急に周囲の温度が上がり、セキタンザンの背中の炎がめらめらと燃え盛っていた。ひのこが上空で弾けてぱちぱち音がした。

「熱……セキタンザン、一体……。あ、ぼくがさっきコールタールは熱に弱いと言ったから!?」
「ゴオオ!」
「いや、待って引火する可能性が……あれ」

じゅ、と音がしてマクワの周辺だけ一瞬強くなったかと思うと、再び温度は元に戻った。見ればグローブや衣服からうっすらと蒸気があがっているものの、汚れが目に見える範囲できれいさっぱり消えている。
スマホロトムを呼び出して顔を見ても、黒かった部分が元に戻っていた。
セキタンザンは疲れたように肩を落としながら息を吐いていた。

「……シュー、シュポォ」
「きみ、どういう温度調整をしたのですか!? いや……すごい……ありがとうございます」
「シュ ポォー!」

黒曜の目がにっこりと笑う。それは明るく優しい、いつものセキタンザンの笑顔だ。しかしマクワには伝わる。
長く生きる命のさみしさだ。共に過ごすために急いでしまうマクワとは反対の気持ち。

「……そうですね。せっかくいわタイプの専任になれたのですから……」

マクワは綺麗になったサングラスを再びつけなおす。それから口角を上げて笑った。

「きみにとってもよいトレーニングになりましたか。……それでは帰りましょう」
「シュ ポォー」

汽笛を上げるように返事をする。まだ彼を乗せた旅路は途中で、見るものすべてが新鮮で愉快なものばかりだった。
これからもこの旅は続いていく。ひとよりもずっと長く生きるセキタンザンはどうか一日でも長く続いてほしいと願う。身体を張って戦うのは、擦り傷を作っても血液を流すこともない、頑丈な身体を持つ自分だけでいい。そのためにマクワと一緒にいるのだから。
いつかの終着駅に届くまで、ともにいるきみに安寧が寄り添い続けてくれるように。

いのちを分け合う

それはほんの少しだけ昔のことだった。まだ俺に手も足もなければ車輪も目もひとつしか無かった頃。
俺はひとり、洞窟の中で密かに生きていた。時間にすればたった瞬き程度の過去のことだが、忘れもしないだろう。それなりにひとりの生活も長く、悪くないと思っていた日々。
天気のいい日には近くの葉を食べ、時に軽い石を食べたり、気に入ったものを集めたりしながら、のんびりと過ごしていた。
しかしある日突然小さな人間がやってきた。この洞窟が気に入ったらしく、何度も通ってくるようになった。
とても忙しいと彼は言うが、その割にはほとんど毎日のように顔を出してくれた。
彼の名前はマクワといった。
最初は驚いたが、俺も前に人間といた生活は長かった。再び誰かといられることに安堵していたのは確かだったし、何より彼と一緒にいるのは、不思議なくらい居心地が良かったのだ。
まだ幼い彼は、ひとが作った本をいくつも持ち込んでは、なにやら熱心に読んだり、書き込んだり、時に横でじっと見ている俺に聞かせてくれたりもした。俺が外で食料を集める手伝いをしてくれる時もあった。
その日も俺とともに、洞窟の中を綺麗に整頓したり、埋もれた部分を掘って広げてくれた。
普段、何をしているのかは正直よくわかっていなかった。どうやら母親とたくさん大変なことをしていて、いろいろ考えていることがあるらしい。彼の一生懸命な気持ちはいっぱい伝わってきた。
もっと一緒にいれたらうれしいの気持ちを込め、マクワが座った時に体を寄せて、自分の体の奥にあるものに力を入れてみた。ぐつ、と何かが動き、熱が生まれるのがわかる。

「……タンドン、熱いですね……? 暑……」

マクワはぱちぱちと瞬きをして、俺を見下ろした。
久しく忘れていた、俺たちの中にある気持ちを体現する温度。これをすると、相手のタンドン――トロッゴンの時もあった――も同じように返してくれて、互いに熱を贈りあうのだ。
俺たちにとって、高い熱はいのちにも等しいもの。いのちを分け合う行為。
相手と長く共に居たいと思ったとき、いつもやる行動だった。
だがしかし、人間であるマクワはもちろんただ俺の熱に戸惑うだけだ。いくら頑張ったとしても、俺の持てる温度には届かない。
寂しいような、なんだか途方もない距離があるような、不思議な感覚になったことは覚えている。
帰ってこないというのは、これほどちっぽけな気持ちになるものなのか。
それでも彼なりに、彼の手で頭をなでてくれたその小さな感触だけでも、その時の俺は満足できたのだった。

『セキタンザン。それでは、いいですね』

スピーカーに乗って、バディの声が聞こえてくる。
今、俺の目の前には、頭をすっぽり覆うヘルメットのついた見たこともない衣服に身を包むマクワがいる。いや、そういえば前の人間の家で少しだけ見たことがあるかもしれない。
宇宙という遠い遠い場所に言った人間が着る服。最初はポケモンだと思ったものだ。思い返してみればそっくりだった。
マクワは分厚い特殊な布に包まれた両方の手で、肩から岩が伸びている方の俺の手を握る。まるではがねポケモンの皮膚のような硬さとつるつるした感覚があるのに、伸縮はしているらしく、皺の凸凹がある。
なんとも言い難い不思議なものだ。人間が作ったのなら、本当にすごい。まるで進化だ。
マクワの頭の上にある空気が揺らぎ始める。彼の背負った四角い物体に、煌々とオレンジ色の明りが灯る。高まった空気の温度に、俺の背中の炎が歓喜して、ぱちぱちと火花を上げた。
呼応するように、火炎が自然と昂っていく。なんだかひどく心地がいい。
いつもならひとりで発熱している分を、マクワが直接手助けをしてくれて、さらに劫火として燃やすようだ。

『ぼくにも……ほのおをください』
「シュボオ」
『きみがいつも……知り合いや友人の方々にやってきたように……。だいじょうぶ、このスーツは実験済みです』

そんなことを言われても、やはり人間相手では躊躇してしまうのは当然のことだった。今の俺はあの頃のタンドンとは全く違う。
常に炎を作り上げ、維持し続けられるほどの火力がある。力を入れれば人間がどうなってしまうのか、予想することが出来る。
けれどマクワの灰簾石の瞳が、赤い光を映した丸い硝子越しに、じっと見つめている。
俺は小さく息を吐くと、体内の炎に意識を向ける。少ししゃがみ、体を傾け、ごうごうと燃えるほのおで、マクワに寄り添う。からりと音を立てて、石炭の1つが落ちていった。

『そうです! いけますね、もう少し!」

返事をするかのように、マクワの背中の明りが瞬く。そしてより一層色が濃くなって、どんどん温度が俺の背の山と近くなっているのがわかる。
どくんどくんと、胸の奥が震えるような、温かいような気持ちが沸いている。
そう、これはうれしい。俺のいのちが、マクワのいのちと重なる瞬間。ほどけあって、互いのいのちのなかに混ざりこむ感覚。
そうやっていのちを分け合い、ともに高い高い『セキタンザン』の温度を喜び合える気持ち。
俺のほのおは、今マクワとともに存在していた。分厚い衣服は灼熱の大火を受けても確かに微動だにしない。背中の光が炎を受け止めているようだ。
マクワは火炎のなかにいて、ほのおとひとつになっている。
俺自身も、彼から分け与えられるほのおに支えられて、こうごうと火を高めている。
今ならどこまででも行けそうだった。

『……ふぅ』

大きな息が機械の音となって聞こえてくる。ため息は衣服の中に閉じ込められたままだ。俺は握られていないもう片方の手でマクワの肩を軽く押すと、ゆっくりと自分の温度を下げていく。

『……え、ま、まだ……だいじょうぶですよ』
「シュポォー!」

俺は笑うと、いつも通りの火力に戻した。『温め合い』のお陰で消耗することなく、普段通りのパフォーマンスを保てている。
マクワは不服そうだったが、俺が満足したのを見て取ったのか、背中の照明を消した。それから部屋のボタン――確か換気扇というものらしい――を押し、ヘルメットを外した。

「うわ、まだあっつい……! さすがきみの火力……です」
「シュ ポォー」
「……むむ、かなり完璧な耐熱率のはずですが、すぐに想定を超えますね。また……改良をお願いしてみます」

守られていても、やはり暑かったのだろうか、マクワは汗だくでヘルメットを見下ろしていた。普段通りの、しかしセットした自慢の髪型は潰れてしまった、マクワがすぐそこにいた。
本当にうれしかった。幼いころ、一度失敗したことだ。それを彼は覚えていたのか、いないのかはわからない。だが今度こそ共有をしてくれて、実際に温度を分け合うことが出来た。
ひととポケモンの垣根を超えて、ポケモンのしたいことを出来るようにしてくれた。

「ちょっと! ……お礼なら後にしてくださいね」

けれど。こうしていつものマクワのふわふわの顔を見ることが出来て、直接触れられた瞬間、背中の炎はぱちぱちぱちんと、ひときわ大きくはじけたのだった。

列車に乗って

たんたん、たんたん、一定のテンポで揺れる車体。天井からぶら下がるいくつかの手すりと、4人がけのテーブル席の形になって並ぶ席には、ほとんど人はおらずまばらに座っていた。
開放感あふれる大きな窓枠を流れていく早朝の景色は明るい緑の山並みばかりで、雪の多いキルクスからは遠い場所へ来たのだと思い知る。
車体の連結扉の上の表示板には、よく聞く標語の文字が液晶画面の中を動いている。
視線を戻し、前を向くと2人がけのソファに座りながら、楽しげに窓を覗くセキタンザンの姿がある。黒曜石の瞳が光を受けてキラキラと輝く姿を見て、マクワは胸の中の温かいものと共に柔らかな息をついた。
2人の間を挟むように、中央にはテーブルがあって、食事や作業ができる。まだ新しく、ほんのりとゴムのような香りのする柔らかいクッションに座り、タブレットをそこに置いて、今日これからの予定を確認していた。
がらがらがら、後ろの方から小さなタイヤが転がる音が近づいてきて、女性の声がかかる。
どうやら車内販売をおこなっているらしい。金属製のカートには、よくスーパーなどで見るお菓子や初めて見るもの、お酒を含めた様々な飲み物やお土産などが目一杯詰め込まれていて、見ているだけでも一つのエンターテイメントのようにマクワの瞳を楽しませた。
セキタンザンも同じものを感じたのか、興味深そうにお菓子の袋を見つめている。その視線の先を指さして言う。

「あの、それと……これもください。……他に欲しいものはありますか」
「シュポー!」
「ではこちらのアイスも」
「ありがとうございます!」

マクワは商品の小袋をそのまま手渡しで受け取り、スマホロトムを呼び出すと、電子会計を済ませる。再びがらがらと、小さな地響きを鳴らしてカートを押しながら女性スタッフが去っていく。
机の上に並ぶのは色とりどりの袋たち。タンドンより硬いと書かれた小さなスコーンに、イシヘンジンを模されたクッキー、そして大きなバニラアイスはなんとスプーン付きだった。
微細な氷の粒の中にたっぷり包まれながら、白い煙を立ち上らせるアイスのカップを前にして、セキタンザンの瞳が炎を帯びて煌めく。

「そんなに……アイスが食べたかったのですか?」
「シュポー!!」
「……そういえば、車内販売のアイスは非常に硬いと有名でしたね。……どこで聞いたのですか」
「ボオ!」
「……ぼくの母?」

石炭の黒い顎が頷いた。炎を体内に飼うセキタンザンの体温は高い。極力低く抑えていたとしても、温度に弱い菓子類は、彼が口にする前に全て溶けてしまい、なかなかそれそのものを楽しむことができないのはマクワもよくよく知るところだった。
彼はマクワの疑問に対して、元気よく返事をしたが、その詳細まではバディにも理解はできない。だがなんとなく想像できるのは、やはりこおりのエキスパートであり、そして縁の深い母親以外には考えられなかった。
セキタンザンは片手でカップを抑え、その蓋を反対の手で掴む。少し捻るだけであっという間に開いてしまった。そしてビニールの内蓋までも大きな指先でひらけば、光を受けてチカチカと輝く白いバニラアイスが姿を現した。

「シュポー!」
「いい感じ……ですね」

湯気の量は増えているが、まだ硬いままのように見える。セキタンザンは楽しそうにスプーンをもち、その上から突き刺した。
凍ったバニラアイスを滑らかに掬い上げるスプーンの先と、花びらのようにふんわりと持ち上がるアイス、そしてそれを口に運ぶセキタンザンの笑顔。
どうやら冷たく凍ったままのそれを味わうことができたらしい。
マクワは釣られるようにしてにっこりと笑った。

「美味しいですか」
「シュ ポー!」
「それはよかった。……車内販売はいろんなものが売っているのですね」
「シュウー」

セキタンザンはさらにもう一度スプーンでアイスを掬い、今度はマクワに向けて差し出した。

「ボボ!」
「い、いえ、ぼくはよいですよ。他のお菓子もありますし」
「シュポー」
「わ、わかりました」

黒曜の目が睨むように細められて、マクワは思わず周囲を見渡した後、テーブルの上に身を乗り出して、それを口で受け取った。
優しく柔和で芳醇なバニラの香りが冷たさと共に舌の上にのり、それから時間をかけてゆっくりと、解けるように消えていく。しろいこおりが、身体の中で形をなくしていく。
きっとこの溶けていくスピードも全然違う。そもそも必要な味覚だって、感覚だって何もかもが違うのだ。彼と同じ感覚を共有できているわけではない。それでも。

「……美味しい」
「シュポー!」

共に分け合う感想は同じものだったらしく、セキタンザンは大いに頷いた。
そしてパクパクとアイスを口にしながら、窓の外を見る。
この光景の見え方も、本当は全て違うのだろう。
マクワは彼の見ている世界の見え方を、一生知ることはできない。だが、彼の良い感情を窺い知ることくらいはできる。想像することができる。

「いつもアーマーガアタクシーを使ってしまいますが……たまには電車移動も良いものですね」
「ゴゴゴー」
「今日はジムチャレンジの開会式ですからね。気を緩めてはいけません。……でも」

がたんがたんと一定のテンポで電車は揺れる。今こうして2人は列車に乗って移動をしている。
しかし、マクワは自分が最初から乗っているものを理解していた。
汽笛のように高らかと上がる鳴き声、黒くて勇ましい蒸気機関の持ち主。
彼と向かうのは開会式のもっと先にある、ガラル一番の栄光。耀きチャンピオンとしての座。
そこがマクワひとりで座る場所ではないことを、誰よりも知っている。

「きみのモチベーションになるのであれば、たいしたことではありません」
「ボオ?」
「……その、これからもよろしく、ということです」
「シュポー!」
「ちょ、ぼくは自分で食べれますから……! 無理にアイスをこちらに出さずとも……、んま……」

石炭の汽車が進むテンポは決して常に同じではない。時に緩んだり、止まったり、唐突に猛スピードで走ることもある。
その速さに合わせながら、たまには背中を押したりしながら、いつか届く未来の終着点まで進んでいくのだ。
空っぽになったアイスのカップは、彼らの約束を覚えている。

朝寝ぼけてセキタンザンを呼んじゃったマクワさんの話

冷たい風が足を撫でていった。
たったいまキルクススタジアムの中央で委員長が拍手をしていて、マクワは緊張しながら窓の掃除をしなきゃと掃除用具を探し、廊下を歩いているとショウのトロッゴンがばくばくと嬉しそうに食事をしていて、マクワの頬を赤い熱がぴたりと貼り付くように温めてくれていた。
向かい側ではサイトウが筋トレをしていたので、なんとなくその場を離れた方がよいような気になり、再び長い廊下を歩いていた。けれどもなぜか観葉植物の緑の隣にぽつんとコードレスの掃除機が立てかけてあって、マクワはそれを持ち上げるとスイッチを入れた。
ぎゅうんと大きな音とともに冷たい風が手を、頬を、足先を撫でてゆく。掃除機の回転に呼応するかのように空気はどんどん温度が下がる。
キルクスが寒いのは当たり前だとわかっていても、このままでは凍えてしまう。こおりに対抗する力が必要だ。
先ほどのトロッゴンの姿を思い出し、マクワは自分のモンスターボールを懐のなかで探すが、ボールはいつもホルダーに付けている。服の中にあるはずがない。ふと緩やかな明るさが目に飛び込んできた。体制を整えて、自分の頭上、棚に置いてあるモンスターボールをひとつ掴んだ。それからボールのスイッチを押した。
突然強い光が目に飛び込んだ。温かさを超えた熱さが身体を包み、木が酷く軋む声を上げた。

「……さむい……ん……!?」
「ゴ、オオ……?!」

見上げたマクワの顔に黒い小さな石片が降り注ぐ。じゅうと音を立て、焦げ付くような香りと、よく知った埃に近い石炭の香りが入り混じって鼻孔を擽っていく。
セキタンザンは自分に何が起きたかわからないのか狭いベッドの上で、眼をぱちくりさせていた。マクワだってわかっていなかった。記憶の繋ぎ合わせだった先ほどまでとは違い、はっきりとした細やかな実感がここにある。深夜帰宅してベッドに入り、就寝したことも思い出した。
燻る炎の温かさと冷たいキルクスの水っぽい空気の間に挟まれていた。薄暗い煙と焦げ臭さにようやく頭が覚醒を初めて、現状を理解し始めてきた。どうやら夢を見ていたらしい。
窓の外、カーテンの隙間から明るい光が朝を教えてくれている。マクワは慌てて身体を起こそうとした瞬間、想定重量を思い切りオーバーした木製のベッドが悲鳴を上げ、真ん中からガリと割れた。

「うわあっ」
「ゴオ!」

支えるものを失ったベッドは中央に傾くが、セキタンザンはすぐにマクワへと手を伸ばして引っ張り上げた。バディを腕の中に抱え、ぺたりと床に尻もちをつく。だがまだ難は終わっていない。ちりちり、ばちばちと何かが燃える音が響いている。部屋に充満する焦げた香りはどんどん増えて、部屋中を煙で埋めていく。マクワは原因を探して部屋中を見渡す。
何かが燃えていて火があるとするならば、この部屋に今可能にできるのはセキタンザンしかいないはず。見上げれば、背中の山のてっぺんで掛け布団が炎に包まれていた。
とてもあたたかい。いや、そんな場合ではない。

「ふ、ふとん……! セキタンザン、火事に……え、ええと……! そのまま外へ……いや、床に落とさないよう手で持つことは出来ますか?」
「ボボオ」

セキタンザンは頷くと自分の背中に乗った布団をゆっくりと頭の方へと降ろし、それから手に乗せた。

「両手で擦り合わせてなるべく火を消して……それからこっちに……!」

マクワは扉を開け、寝室から廊下に出てシャワールームへと向かった。湯舟の栓をするとシャワーを向け、水を溜める。セキタンザンもマクワの後に続き、大きな布団を小さく小さく潰した。

「中に布団を入れてください」

セキタンザンは言われた通りに焦げて真っ黒に染まった布団を水の入った湯舟に放り投げた。じゅう、と音を立てて白い煙がもくもく上がった。
さらにシャワーで水を浴びせると、赤い火はみるみるうちに姿を消していった。だがその分だけ家じゅうが煙でいっぱいになり、喉にいがいがするような違和感があった。
マクワは慌ててシャワールームの外へと出ると換気扇のスイッチをつける。それからほかの部屋の換気扇のスイッチも入れて、分厚い窓を全開にした。冷えた空気が籠った家の中を洗っていく。部屋を覆っていた煙が風に乗って外へと流れていくのが目でもはっきりと確認でき、焦げ臭さも一緒に逃げていくようだった。
ゆっくり歩いてリビングへと入ってきたセキタンザンに振り返り、マクワは頭を下げる。

「……とんだ目覚ましになってしまいました。おはようございます……」
「シュポォー」
「……きみは悪くないですよ。……これはぼくが……なぜこんな寝ぼけ方を……」

なんだかよく覚えていないが変な夢を見ていて、とにかく寒さを凌ぎたかったことだけは覚えていた。掛け布団を飛ばしてしまったのだろうか。

「ボオ!」
「……フフ、きみにこんなことで胸を張られてもなあ。……新しいベッドはきみとのっても平気なものにしようかな」
「シュポォ!」
「いつもは寝ません、狭いので。……でもたまにならよいですよ。今日みたいなことがあっては困りますしね」
「シュ ポォー!」
「朝ごはんにしましょうか」

マクワは窓を閉めると、ふと自分頭を振って髪の毛の先や寝間着の臭いを嗅いだ。ポリエステルを燃やしてしまった苦々しい臭いがたっぷり染み付いている。

「……その前に洗濯とシャワーだけはさせてください。……折れたベッドを片付けて……布団も新調しなくちゃいけないし……せっかくのオフなのに忙しくなりそうですね」
「ポオ」
「手伝ってくれる? フフ……それならいいか」

カーテンを開くと、窓の向こうの空はどこまでも青が広がり、温かな日差しに包まれていた。

鏡の中の自分

朝ははがねのように重たくて、こおりのように冷たい。
マクワは温かさがたっぷりと後を引く分厚い布団からなんとか這い出して、つい枕元の棚の上のモンスターボールに手が伸びかけたが、引っ込める。彼がいれば足も軽くなるだろうが、誰より身体が資本だ。まだ極力休めていて貰いたい。ぐうと気持ちを押し込めて、ベッドの横に揃えたスリッパを履き、洗面台へと移動した。
空気は冷え切っていて、室内でも頰にしみた。大きな鏡の中には、眠くて皺くちゃの顔をしたひとがいる。
真っ白でなその男はこおりを背負い、俯くようにじっとこちらを見つめていた。
丁寧に磨かれた鏡面ガラス越しに、重たい虚無が手を伸ばして首を絞めようとしていた。
鏡の横に備えられた棚にはたくさんの整髪剤や化粧品が並んでいる。そこに引っ掛けたヘアアイロンのコンセントを入れ、スイッチをONにする。
マクワは水道のレバーを動かし、陶器製の洗面台に水を開ける。歯を磨いてから、水道口からまっすぐ降りる水を両手で掬う。低過ぎる温度が手のひらいっぱいに乗り、さっと顔にぶつけた。
堅いような鈍い痛みが広がって、眠気が飛沫とともに飛んでいくようだった。
白い男のぱっちりとした丸いフロストブルーの瞳と視線が合う。ここからだ。この儀式が何より必要だった。ひとつずつ、マクワはマクワを倒してゆく。殺してゆく。

まず手始めに、顔の上にジェルを塗り、伸びる毛を髭剃りと共に短く整えて、化粧水を掌に零し、顔全体に広げた。
自信に満ちた顔色は、ぼやけた白い男を刈り取った。鏡越しのスタジアムの上、マクワはマクワのきゅうしょにねらってあてた。
もし自分が母親の跡継ぎとしてこおりタイプの専任ジムリーダーになっていたら、きっとここまで時間を込めて身支度をしようとは思わなかっただろう。
全てはいわポケモンとともにいるため。彼らの無骨なイメージを覆し、より魅力的で目を引く存在でありたい。相応しい自分でありたい。
憧れだけで一緒にいられるとは、最初から思ってはいなかった。
自分でないはずの自分を選ぶことは、怖くもあったが、だからこそ得られる充実も確かにある。何より一介のポケモントレーナーでしかない自分自身の『姿』を求めて写真集を買いたいと、わざわざ自主的にお金を集めてくれたひとたちがいる。
自分がいわタイプのポケモントレーナーとして在り続けるためには、彼らの応援は絶対に必要なことでもあった。ファンの期待も信頼も裏切らない。それが在りたいマクワ自身だった。
乳液と日焼け止め入りの下地を塗って、いわの土台を完成させた。

ヘアアイロンの周囲の空気が揺れ始めていた。手のひらを近づけ、十分に温まったことを確認し、内向きにまとまる髪の毛をすべて外側に向くように、しかし等間隔になるように、巻き付けるようにしてひとつずつ丁寧に癖をつけなおしていく。
寒さの残る朝には長く近づけて置きたくなるが、昔何度も髪の毛から甘く焦げる香りを出してしまったことを思い出して、間隔に気をつける。
下の方にボリュームを持たせることで、山成になる。いわの住まう山そのものも、刺々しさもいわの持つ魅力であり、デカくて強い証左だ。
内側に向く心が温まり、またひとつ白い男の虚無を倒した。

棚から小瓶に入れられたワックスを取り出し、指先ですくって掌に収めたあと、擦りこむように伸ばすと体温が伝わり柔らかくなった。
これが一番の魔法の原動力。ほとんど無臭だが、少しだけ木のような、海のような香りだけが残っている。
少し頭を傾けて髪を集めると、両手で拾い上げる。柔らかい癖のついた白と金のツートンカラーの髪。
ホワイトプラチナの髪は、ユキハミやダルマッカと一緒にいるとよく見分けがつかなくなる、と同じ髪質を持った母親に笑われたことがある。
つまりお前はこおりだろう。本質を隠した所で変わることはない。
母の力を受けた白い誰かの声が聞こえた。氷の色をした瞳が見つめている。
違う。隠すわけではないのだ。マクワは自分の髪を見る。
この色を持つ自分だからこそ、いわに出来ることがきっとある。
自分では一度も同じ白だと思ったことはなかった。確かにとても近い色をしている。ゆきやこおりの色よりも、金の色に馴染む白さだった。
全体にワックスを馴染ませて、前髪から全体をかき上げる。さっき作った髪の棘をしっかりと固めながら、たっぷりの大きな髪束を作って後ろに、左に持っていく。

これがマクワだ。大きくてふとましくて伸びやかで自由で、人気も実力も高い男。
鏡の中にあるのは、見る人が竦むほどに自信に満ちた笑顔。もうぼやけたこおりの男はここにはいなかった。これで今日もまた、一日自分であり続けることが出来るだろう。
母から受け継いだものを精一杯利用して、あるいは自分のものとして、今日もガラルというステージの上に立つのだ。
しかし、完成にはまだ距離があった。このままでは絶対的に足りないものがある。
マクワは着替えを済ませ、寝室に戻ると棚の上のモンスターボールをひとつ投げた。
いわに包まれた炎が揺れて輝き、軽やかに温かさが広がった。

「朝です、食事にしましょう」

 

 

綺麗に

ぴ、と音を立てて、形が捩れた。大きな亀裂が一瞬で走り抜けていき、ふたつに分つ。パキン。
5つの細長い筒状のものがひらぺったい広がりから生えていて、さらにふとくて長いものがまるで石英のように伸びている。ひとが手と呼ぶもの。セキタンザンに進化したばかりの俺は、ようやく似たものを手に入れて、お揃いになったのだと嬉しかったことは今も鮮明に覚えている。
マクワはそいつを持ち上げる。人間にしては大きく丸いが、小さい左手の人差し指と親指で摘み、力をかけると容易く外れる。今の今まで右手の薬指の、上からふたつ目の関節までの部分だ。
抜けるような肌色は姿を失い、光を白で反射するだけの透明な硬く細長い鉱物となった。
訓練中の山の中で見た覚えがあったし、マクワにも教えてもらったことがある。あれは人間が水晶と名付けたものだろう。
つい先程まで薬指が伸びていたはずの場所はぱくりと綺麗な断面のままで、辺りの光を反射しては波を打つように光を放っていた。

「セキタンザン」

その水晶になってしまった指を俺の前に差し出した。サングラスは傾いていて表情は窺えない。
でも俺は想像することができる。その行動の意味を推しはかることが出来る。
俺は口を開け、投げ入れられたそれを受けとめる。
反射的に口内の温度が上がり、長石がコロコロと転がる。すうっと溶けていき、柔らかくて香ばしい香りがいっぱいに広がったかと思うと、奥の方へと抜けていく。
思わずぎゅうと上顎で噛み締めて、それからぐるぐると口の中のでその味を確かめると、あっという間に消えてしまった。
俺はマクワへとにっこり笑いかけ、そのまま近寄り始めた足に力を込めその場でぎゅっと止めた。

「遠慮はせずとも良いですよ。まだありますから」

柔らかい口角がぐんと大きな弧を描く。マクワはまるでトレーニングの準備体操でもするかのように、両腕を上げ、手のひらを上に向けた。今度は1番長い指にグッと力を込め、付け根からぱきりと外してしまった。
スムーズな動きに目を丸くしていたら、たった今まで指だったはずのそれを口に差し込まれてしまい、俺はつい奥に入れてしまいそうになる。なんとか咥えるだけに抑え、小さく首を振った。
熱を受けてほんのり柔らかくなった鉱石から、ふんわりと甘さと苦さの入り混じった香りが立ち上ってくる。口腔の温度が上がって、身体中がまるでキョダイマックスした時のように燃え滾っていくのが分かる。マグマの波が身体の奥でうねり、ぐるんと頭をもたげる。もうひとつ大きな海が満ち溢れて大波に変わった。俺はそれをいなすために、その場で吼えた。ぱらぱらと背中の石炭が落ちていく。

「フレアドライブ。目標は30m先着陸でお願いします」

マクワが一歩下がったのを視界の横で確かめた。いつもなら力を込めて身体中の焔を集める必要があるが、今はまるで焚火の上澄みを集めるようなものだ。
火炎は一瞬で石炭の山を呑み込み、燃える弾丸と化した俺は足を曲げて跳躍する。驚くほど身体が軽い。地上にいるマクワがいつも以上に小さく見えた。勢いを殺さぬよう瞬時に着地点を見定めて、一気に降りる。硬い白い床が俺の身体を受け止めて、少しだけ痛みがあった。

「まだまだ課題はありますが……素晴らしいスピードでした。これを」
「シュポオ」

駆け寄って来たマクワが差し出したのは、切り離されて光に輝く彼の腕の形をした透明な鉱石だった。見ればマクワの右胸から右腕がきれいさっぱり無くなっていた。

「しかしダメージの回復には……あられの鳴き声……この量が必要です。それにまた戻ります」

彼が言う通り、切り離された右腕にはきっかり5本の指の形がある。俺は瞬きをした後、それを口にしてしまう。口にしたくない気持ちは強いのに、どうしても食べなくてはいけない。
マクワは鞄も道具も持っていない。これを食べなければ、傷が癒えない。マクワはまだ残る方の腕で俺の頭を撫でた。
ばきり、今度は左の膝から下の足を割り取った。大きな結晶が透けてマクワの灰簾石の眼を見せていた。俺は首を横に振った。

「ゴオオ……」
「凌駕……です。権威のコナトゥスは褐炭より来る煌めきの……先にある程の」
「シュポォ……!」

何を言っているかわからない。なのに伝わる響きがあった。
俺は一目散に背を向けて走り出す。白い床を蹴り、大切な人から離れる。マクワを守る為だ。このままではマクワは更に自分の身体を差し出して、俺の隣からいなくなってしまうだろう。
なにより避けたいことだ。走る。走る。遠くへ。遠くへ。何処でもいい。
とにかく今はこの場から逃げて、マクワと共にもう一度戦いの場所へと向かうために。
食べてはいけない。食べてはいけない。だけど、食べなければいけない。
気が付けば俺の手はマクワから受け取って、口は大きく開けている。
あっという間に平らげてしまったが、マクワはこちらを見て笑っていた。
さらに腕を、足をぱきぽきと砕いて割って、俺に差し出す。俺は抗えない。なぜだ。なぜなんだ。
どうしてマクワは、この状態で笑っているのか。

「ゴオ」
「いわの輝きが……あるから」
「シュポオ」
「金のランタンはむかしむかし雪山のオニゴオリに……無数のかえんほうしゃ、俗物的な足音白い」

とうとうマクワは頭だけになって俺の手の上に乗っている。色のないうつくしい石の、静けさの始まり。遠くの調べ。コナトゥス。ああ、そうか。今ならわかるのかもしれない。
バディの本当の望み、真っ暗闇の裏側から見降ろす景色。知り得なかった事。知らなければいけなかった事。ようやくその時が来たのか。

「透明、無色、赤に黒……もしぼくが本当に鉱物なら。……一番ふさわしいのは……」

もう灰簾石には映らない。呑み込まれていく。拡大する抽象性。褐炭から来る煌めき。雪山のオニゴオリと金のランタン。俗物的な白い足音。かえんほうしゃ。白白白白白。
俺は口の中に、まるまる大きなその頭を放り込む。喉の奥で音が聞こえる。
ぴ、と音を立てて、形が捩れた。大きな亀裂が一瞬で走り抜けていき、ふたつに分つ。パキン。

 

 

真夜中

黒の中は呼吸がしやすくて、不思議なほど居心地が良かった。
全ての予定も訓練も終えてから拝借したジムの社用車を転がして(当然ガソリンやメンテナンス代は自腹で支払うつもりだ)、しばらく進んだ先の真っ暗な道を進んだ。窓を全て閉めていてもキルクスの街の中とは全く違う香りと雰囲気が、車中を包み込むこの感覚がお気に入りだった。
数メートル先でさえ、車のライトが無ければなにもわからないだろう。時折がさがさと触れてくる木の枝や、踏み越える石たちのごろごろした感触。
路に根を伸ばした雑草や砂を巻き上げた時の雑多な香りは、人里から離れた証拠のようで妙に気持ちを昂らせていた。車一台がようやく通れるような細い道を進んでいき、少しだけ開けた部分に軽自動車を停めた。
片手に懐中電灯を持ち、それからモンスターボールを取り出して投げた。
ぱちぱちと火の粉が弾ける音と、紅い輝きが暗い夜道の中で瞳孔を燃やしていく。周囲の温度がふわりと温かくなって、半分眠そうな顔をしたセキタンザンが姿を現した。
そういえば今日のこの行軍はあまりにも突発的だったので、相棒にすら何も言っていなかった。

「この先に行きたいところがあるのです。付いてきてくれませんか」
「シュポオ」

当然のように石炭のバディは頸を傾げていた。それもそうだろう、こんな真っ暗間な森の中は、通常であれば危険地帯になる。いつポケモンが出てくるかもわからないし、何より道を迷って遭難する危険さえあった。それはぼく自身も良く知っていて、バディにも口酸っぱくして言っていることだ。

「……ちょっとした訓練です。きちんと目印は付けていきますから大丈夫」

そうしてぼくは反射加工のされた紐の入った透明な袋を鞄から出して見せた。懐中電灯を当てるとちかちか光って眼に痛いくらいだった。
早速車のミラーに取り付けて光を当てて見れば、暗闇の中でもはっきりと居場所を主張するようになった。

「それにきみの輝きもありますからね」
「ボオ」

セキタンザンはよくわかっておらず、しかしバディたるぼくに頼られていると理解してくれたのだろうか。少しだけぼくに近づいた。

「この細い道を辿っていけば行き先が出てきます。行きましょう」

照明をあてた先に、小さな看板があり矢印が書かれていた。その先の細い道はひとの手が加わって小さな階段が作られていた。ぼくが歩きだせば、セキタンザンは慌てて前に出てくれた。
光が必要だと悟ってくれたのだろう。本当に賢い相棒だった。

「ありがとう、道はぼくが案内します」

風が吹き、夜行性のポケモンがわななく声が聞こえてきた。むしポケモンや、ゴーストポケモンもいるだろう。セキタンザンは周囲を見回しながらゆっくりと前を歩いていく。ぱきぱきと枝を踏み抜く音が小気味良い。
今日は新月で夜空の灯りが少なく昏いはずなのに、星の姿もほとんど見えなかった。ふわりと開く木の枝の影との境界はない。まるで全てが影のようだ。ぼくは大きく息を吸い込んだ。
今日の昼間、控室でじっと考えていたことを思い出す。結果は芳しくなかった。
それは全てポケモン達のせいではない、ぼくが彼らを上手く導けなかったせいで、砕かせたのはぼくだった。

「シュポォー?」

賑やかで、でも確かに閑静な森の中をセキタンザンの呼び声が響いた。
少しセキタンザンと距離が空いてしまったことを気にして、後ろを振り向いて待っていてくれた。

「ああ、すみません。……ちょっと足場が悪くて」
「シュポォ……」

彼の尖った瞳がぼくをじっと訝しむように見つめた。

「大丈夫。行きましょう、それほどかからないはずです……ああ、ありがとう」

ぼくは近くの木の枝に灯りをあてながら、手を伸ばし、反射紐を括りつける。両手が塞がってしまう分、セキタンザンがぼくが両足の間に挟んで手元を照らしていた懐中電灯を拾い上げて、持ってくれた。気の利く相棒だった。

「……真夜中はいいですね」
「ボオ」
「なんでもありません」

それから何も言う事はなく、十分程だろうか。最初は小さかった水の音がどんどん近づいてきて、湿気の香りが匂いたつようになった。近くに川があるようだ。光を照らしてみても見つからないので、おそらくはあまり大きくはないものだろう。
十分注意をしながら数回紐を括りつけながら歩いていくと、入り口にあった木材で舗装された階段が再びぼくらの前に姿を現した。それを登っていくと、その先にはバラバラになった大きな石があった。
その石屑たちは、よくよく見ると建物の基盤として作られたもので、奥の方にはまだ壁としてなんとか形を残し、窓として切り抜かれたらしき穴も残っていた。
もっとも穴の間には硝子も何もなくなっており、長く伸びた蔦や苔がぐるぐると取り巻いて、今は自分の居場所だと言っている。ここはれっきとした廃墟の跡だった。

「シュポォ」
「はい、ここが……今日ぼくたちが来たかった場所です。野生のポケモンは居なさそうですね、よかった。大昔の……偉い人が立てた家の跡だそうです。風化してもなお残るいわの土台……すばらしいですね」
「ボ~」
「でも真っ暗だ」

ぼくはうっすら笑うと、懐中電灯の光を当てて、割れて削れた岩のひとつに手を伸ばす。しっかりと埋まったまま動く気配はない。とても立派なものだ。
その時、ぼくの手元の懐中電灯の光がちかちかと瞬きを始めた。そしてあっという間に灯りは力を失って、辺りを黒が塗りつぶした。
何度か電源スイッチを押してみたが、びくともしない。ポケットを叩くが、紐以外の重たいものもなかった。鞄の中にも見当たらない。予備の電池は車の中だった。

「シュポォ!」

セキタンザンが、がさがさと音を立てて何かを拾い上げると、その場でふうと炎を吐いた。赤い光が拾った枝で作った即席の松明を照らしていた。
それをぼくに向けて差し出した。あまりにも明るい輝きだ。

「眩しい……。ありがとうございます」

セキタンザンの背中の赤炎が、石炭の岩と岩の間を走って瞬いている。まるで地上の星座のようだ。ぼくはその松明を受け取ると、セキタンザンをまじまじと見つめた。
いつも見ている橙の輝きは、今唯一地上を彩っているものだ。柔らかくて逞しいいのちの灯火。
時折空気を揺るがして、その熱が世界の中へと溶け込んでゆく。

「星のない夜が……好きです。きみの姿が一番映えるから 」
「シュポォー」

ぼくは片手に松明を持ち、その石柱に腰かけた。めらめらと燃えるセキタンザンの一部は、ぼくの頬を照らして温め続ける。
ぱちぱちと火の粉が弾ける音に混ざって、遠くで川のせせらぎの音が聞こえてきた。

「……あーあ、スタジアムの光が全部きみの放つ光だったらいいのに」
「ボオ」
「そうすればいい……? そうですね、ぼくときみなら出来る……。あんなの吹き飛ばすくらい造作もない……でも今日は出来ませんでした。あれだけ訓練しているのに……ぼくは……」

風が吹く。掲げる左手の中の炎が揺らめいて、小さくなる。ここにはスタジアムを照らすスポットライトも何もなかった。

「……もういっそこの黒の中に溶けてしまいたい……。……きみと同じ色になるには……どうしたらいいかな」
「シュポォー」

セキタンザン座が時折小さな赤い星を生み出しながら、ぼくの方へと近づいてくる。真っ赤に燃ゆる星の輝きは確かな温度を持ってぼくを照らし出す。
今のぼくはきっと真っ赤に染まっているに違いない。それはぼくのもともと持っている色素のせいだ。いや、そもそもぼくたちが視認している色は光が放つもので。

「……そうですよね。どこまで行っても結局ぼくはぼくで……。ぼくはぼくだからきみと……同じ夢を分かち合える」
「シュ ポォー!」
「ぼくが独り占めしては……いけませんね。皆さんにこの輝きを知らしめたいのはぼくですから」

セキタンザンは何も言わず、その黒い瞳で弧を描く。

「折角ですからここでキャンプして一晩過ごしていきましょう。たまには……付き合ってくれるでしょう? きみと朝日を見たいから」

ぼくは荷物からキャンプセットを取り出した。野生のポケモン避けだけはしっかり行った。
でもぼくには最強の相棒が隣にいてくれる。温かい闇の中で眠るのだ。
何も見えなかったはずの夜空には、木の枝たちが伸ばす腕の中で、ぽつぽつと細やかな星々が瞬き始めている。

愛を叫ぶ

追い詰める。とうとう、ようやくここまで来た。
歓声でスタジアムが震える。客席のライトが波を打つ。
芝を燃やした焦げた香りと砂の重たい土の香り、そして石炭が生み出す蒸気の香りが、羽ばたきのに乗って舞い上がり渦を巻く。
風を裂いて、オレンジ色の龍の顔がマクワのサングラスに映る自分の姿を見下ろす。幾度も王座を守り抜いてきたチャンピオンそのもの。無敗のダンデのバディだった。
お互いのダイマックスバンドはもうエネルギーを使い果たしていた。
チャンピオンのポケモンはもう残りリザードンしか戦えない。そのリザードンも度重なる技の応酬の中で疲弊し、体力を削られているのが目に見えていた。
必死で涼しい顔をしているが、羽ばたきのペースが落ちている。風に揺れる芝の囁きが弱い。
なら今は。

「ストーンエッジ!!」

バディの声を聴いたセキタンザンが紅い目で即座に怜悧な岩片を生み出し、空飛ぶリザードンに向けて投げつけた。
セキタンザンもこの長い闘いの中で、だいぶくたびれ始めていた。

「お返しだぜ、げんしのちから!」

ダンデのマントが風を帯びて翻る。
先ほどまでの緩い流風が嘘のように重たさを持ってリザードンの身体を押し飛ばす。セキタンザンが投げた幾つもの石剣を躱して大きく吠える。周りにいわのちからが輪を描いて集まる。

「セキタンザン、タールショット!」

周囲を包む蒸気の白い煙が一層強まる。石炭の巨躯が芝の上を走り抜ける。だが特殊なちからを帯びたリザードンのいわはセキタンザンの身体を捕捉した。
石炭の山は黒い油をリザードンに向けて吐き出した。王者の腹に付着した重たい油は、いっそうリザードンの羽の動きを束縛する。

「ストーンエッジ!」
「だいもんじ!」

大火と巨岩がスタジアムの中央でぶつかり合う。破裂するような音が響き、激しい強風がスタジアムを襲った。
タールショットの油はどんな相手でも引火させてしまう強力なものだ。まさかそれを自分の身体に残したまま、ほのお技を使うなんて、マクワの予想外だった。
上がった土煙にお互いの姿が喰われていく。中央は視界の効かない煙の中に包まれた。
だからといってここで攻撃の手を緩めてしまったら、再び相手のペースに巻き込まれる。
マクワは煙の中に弾ける橙色の炎を見た。

「フレアドライブ! 2時方向です!」
「ゴオ!!」
「今だ、げんしのちから!」
「まさか……」

今、ほのおを上げて飛び上がったセキタンザンの懐に、光のいわが飛び込んだ。横からの衝撃を受けた彼は、浮力を失って弾き飛ばされる。

「セキタンザン!」
「もう一発、げんしのちからだ!」

煙の中から姿を現したリザードンは、再びいわの力を、石炭のポケモンに叩き込む。立ち上がろうとしたセキタンザンは再び芝の中に転がった。
空から見下ろすリザードンの眼が光を帯びている。げんしのちからの効果はセキタンザンに向いていただけではなく、リザードンにも及ぼして、彼の持つ力をより覚醒させていた。
より強い力を直に受けたセキタンザンは、倒れたまま起き上がらない。マクワは歯噛みした。
ほのおの力の強いセキタンザンにとって、相手のいわの力は脅威だ。トレーナーが何より理解している。これ以上戦わせれば命の危険さえある。審判ロトムが降りてきた。思わずモンスターボールに手が伸びる。だが、今は。

「……ゴォ……!」

セキタンザンは顔を上げると、紅い瞳で真っ直ぐにリザードンを睨んでいる。そして体を起こし、一気に自分の背中の火炎を上げた。
マクワはサングラスを抑え、冷たい意思の瞳ダンデを強く睨む。
ああ、諦めてたまるか。ぼくは信じる。それがぼくに出来る、ぼくの咆哮だ。
ぼくたちが、セキタンザンがどれほどの訓練を費やしてきたか、傷みを超えてきたか。
ぼくは知っている。ぼくだけが知っている。ここまで来たんだ。ぼくらは負けない。負けられない。
いわの輝きの絶対を焼き付ける。

「ええ、きみは誰にも砕けない……。砕かせない。ぼくらの冠を……頂こうッ! セキタンザン!!」

ぼくが愛を叫べば、相棒も応える。

「シュポォオオ!」
「ストーンエッジ!!」

マクワが技の名前を叫び終えると同時に、セキタンザンの前に岩槍が迸る。それは波を打つようにしてリザードンへ向かう。飛翔して避けようとした彼の前で岩片は割れ、その中から更に太い岩の剣が伸びる。岩の流れは炎竜の翼の付け根を貫き、彼を地に撃ち落とした。

「リザードン……!!」
「……やった……!」
「……いい息だ、最高だぜきみたち! けど安心するのはまだ早いぜ。リザードン、だいもんじ!」

劫火が上がった。風に乗って炎が舞う。それから巨大な形を作り、立ちはだかるセキタンザンの巨躯に牙となって噛み付いた。めらめらと揺れる猛火は石炭の山を喰らい切ると、煙となって姿を消した。黒岩のセキタンザンは、まだじっとその場に立っていた。

「セキタンザン……!」

仁王立ちをしていたセキタンザンの身体が揺れた。ふらりと傾いて、その場にしゃがみこむようにして足をつく。ばらばらと石炭の破片が零れ落ちた。
セキタンザンの巨躯は、モンスターボールの光に包まれて戻っていった。
リザードンが咆哮する。ダンデが合わせてポーズをとる。観客の声がスタジアムを包み込んだ。マクワは眉根を寄せながら瞳を閉じるとサングラスを抑え、それから歯を見せて笑った。

「砕かれてしまうとは情けない。……いえ、おみごと……でした」
「マクワたちも最高だった! 一瞬本当に負けたかと思わされた。楽しいバトルだったぜ!」
「ええ、本当に……彼らはよくやってくれました。いわのすごさ、輝いていたかと。……お疲れ様でした」

マクワが今ポケモンを戻したばかりのモンスターボールに小さく口づけをする。黄色い歓声が一段と大きくなった。

「それいいな! リザードン、ありがとう!」

ダンデが相棒の頭を寄せると、頬に軽くキスをした。再び観客が盛り上がる。
トレーナーは握手を交わすと、互いにスタジアムの観客席へと手を振り続けていた。