『悪いね、急遽試合後に仕事の予定入っちゃった。今日の訓練は18時からやるよ』
届いた母親からのメールを閉じて、最新式のポケッチをポケットにしまい込む。
窓の外は快晴で、雪の多い街キルクスにしては温かい日差しが頬に沁みていた。今日ならあっという間に足場の悪い山道も登れるだろう。
いつもの道具セットは既に決まった鞄にしまってある。帰ったら中身だけ簡単に確認すればすぐに家を出ることが出来るはずだ。
(さみしくしてないかな)
スクール帰りの子どもたちで溢れるバスの中はひどく賑やかだ。家に荷物を置いてすぐに遊ぶ約束をする同級生や、昨日のリーグのチャンピオンの試合を熱弁する上級生たちの白熱した感想、流行りの音楽を口ずさんではくすくすと笑い合う下級生の声が、そして前の椅子に座る子供の雑談が椅子に座ったマクワの耳にも届く。
「タンドンがさ」
まるでわしづかみにされたような心地がして、重くて冷たく突き刺さるものが喉奥を通っていく。こつん、と額と窓ガラスがぶつかる音を聞いた。
「うちのママのポケモンなんだけど、今朝さあ、じーっとしてると思ったら急に俯くから調子でも悪いのかと思って慌てたんだけど……ただ俺のこと見てただけらしくてさあ」
「ポケモンってよくわかんないときあるよなあ」
「あいつは特にわかんねえ。俺がポケモン連れられるようになったら、もっと動ける奴がいいな」
「次のバス停は――」
降りるバス停の名前のアナウンスの声にかき消される。運転席の横の上のモニターにも高らかと表示されていた。
母から誕生日祝いに貰った腕時計は14時をさしている。スタジアムには夕方向かえば十分間に合うだろう。今日の宿題は既に予習していた部分で既に終わっており、他には母との訓練に時間を使うだけだ。滅多に生まれない『何もない』時間は、必ずその場所で過ごすことを決めていた。
◆
長い坂道を登り、裏山の麓の小さな洞窟に辿り着く。まだ前から数えた方が早い背の順のマクワの背丈でも少し低いくらいの入り口を潜って進むと、大人の背丈ギリギリくらいの高さで、自分の部屋と同じくらいの広さ岩穴が広がった。
その奥でうとうとと昼寝をしているタンドンが居た。足音を小さくしようとしたが、気配にはっと気が付いたのか、ぱちぱちと瞬きをしてマクワを見つめた。
「こんにちは……すみません、起こしちゃいましたね」
彼はごろごろと車輪を転がしてマクワの足元まで近づき、目を赤く染めてふるふると身体を震わせた。
ふわりと浮かぶ炭の粉と、なぜか木が燃えるような穏やかな焦げの香りが漂う。
マクワはしゃがむと、彼の表皮に浮いてしまった粉を手のひらでそっと落としながら目を細めた。
母はきっと眉に皺を寄せるだろう。とても子ども想いで、良くないとされるものを遠ざけようとしてくれているのは、マクワの幼心によくわかっていた。
昔一度行ったおいしんボブでも、焦げ付いたものは身体に良くないからといって、焼き過ぎた真っ黒焦げの部分だけは取り除き、母がそれを食べてくれたりもした。
「……うちで使っている固形のフーズを持ってきました。口に合うかな」
マクワは石壁にもたれるようにして座り込むと、ショルダーバッグから銀色の小袋を取り出す。さらに継ぎ目を引っ張り開けてやれば、タンドンの瞳の放つ紅い光が反射してちかちか瞬いた。
「お母さんはいつもたくさん買い過ぎるので……あまりをひとつ貰ったのです。勉強用ということで」
封を開けた部分に手を当てて、横倒しにして軽く振れば、中からまるで焼き菓子にも、栄養剤にも見える茶色の小粒の丸い固形ポケモン用フードが現れた。タンドンは興味深そうに見つめていて、フードを乗せた白い手が車輪の根元に伸びる。しばらく様子を見たのちに、タンドンは車輪をそっと当てて、巻き込むように体内に取り入れてゆく。マクワはそのタイミングに合わせてそうっと手を放す。
がり、がり、ばりばりばり。
砕かれる音が小さな洞窟の中でよく反響した。タンドンは再び身体を小刻みに震わせる。
「よかった、おいしかったのですね」
顔を上げたマクワは、ティッシュを敷き、その上にポケモンフーズをぱらぱらと地面に置くと、鞄から厚みのある本を取り出した。
「図書室で新しく借りた本を持ってきました。読んでいてもよいですか?」
タンドンの紅い目が本を見つめている。ポケモンフーズの味がよかったのだろうか、それを見たときと同じ目の色に見えた。マクワは本を抱きしめてタンドンから遠ざける。
「これは……食べられないですからね」
再びタンドンは白く光る眼を瞬きさせて、マクワの周りをうろうろしながら本に視線を合わせている。
「葉っぱみたいな香りしたかな……? そういえば紙は木が原料なんだっけ……。これはここに書いてある文字を読むものです」
マクワは表紙を開き、ぱらぱらと中のページをめくって見せる。ほとんどは文字だが、時々ポケモンの挿絵が書かれている。
「気になりますか? これはね……きみたちのことが書かれているのですよ」
1ページにいっぱいのタンドンの絵が描かれた場所を開き、タンドンに説明した。タンドンも自分の姿を理解していたのだろうか、それとも今辺鄙な場所に住む彼も過去に仲間がいたのだろうか。
紅の瞳いっぱいが輝いて、彼そっくりのイラストを照らしている。
「きみの……たぶん、遠い遠いご先祖様が……ぼくら人間や生き物を助けてくれた話も載っています。……一緒に読みましょうか」
タンドンは初めてにっこり笑うと、座るマクワに身体を寄せた。
◆
ひんやりとした風が吹き、頬を拭う冷たさにはっと目を覚ました。マクワが外を見れば、ゆっくりと日が傾き、夜が近づいている。家まではそれほど遠くなくても、やはり凸凹の多い不安定な山道であり、しばらく街灯はない。懐中電灯を持ってはいるが、真っ暗になってしまえば帰るのが大変になるし、遅れてしまえば母に理由を言及されてしまいかねない。
母は自分にこおりジムの跡継ぎになってほしいと願っていて、そのために努力をしていることはマクワ自身が一番身をもって知っているのだ。
こおりとは全く関係ないポケモンと仲良くしているなんて口が裂けても言えなかった。
それにしても、気づかぬまま本を読んでいる途中で居眠りをしてしまったらしい。身を寄せてくれているタンドンはぽかぽかしていて温かいせいだろうか。
マクワが目を覚ましたことに気が付いたタンドンはまばたきをする。
「……すみません、ついつい眠ってしまいました……ぼくとしたことが」
ラプラスの描かれた栞を挟み、本を閉じると再び鞄にしまい込む。そして立ち上がった。
「そろそろ戻らなくては。今日も……場所を貸してくれてありがとうございました」
タンドンは再びマクワをじっと動かず見つめた後、視線を外して地面を見下ろした。赤い光が鈍く岩床を映している。
その時、さっきバスの中で耳に入ってしまったタンドンに纏わる話を思い出した。
『じーっとしてると思ったら急に俯くから調子でも悪いのかと思って』
ほどけるような、あたたかいものが胸に流れ込んでくる。それと同時にちいさな穴のような感情がぽつんぽつんと開いていて、マクワは思わずつばを飲み込んだ。
他の人にはわからないはずのものが、なんとなく理解できてしまうような、少しだけ優越に満ちた感覚。
おそらく彼の親のタンドンも、彼が家の外に行ってしまうのがさみしかったのだろう。
自分との別れを惜しんでくれる目の前の小さな生き物の心がここにあり、それは自分の心の色とほとんど変わらぬ色をしているだろう。透き通った輝きの落ちる音が聞こえてくる。
しゃがみ込み、自分の膝丈くらいの高さのタンドンの頭に手をあてた。
「……また来させてくださいね」
タンドンはしばらく動かなかったが、ゆっくりとマクワを見上げて頷いてみせた。
たったそれだけで、これからマクワを待つ厳しく冷たい夜のトレーニングにも負けない温かな炎が湧いてくる。母親の期待だってきっちり背負ってみせられるだろう。
そうすることで、この胸の奥でうっすらと鳴り続ける音を辿っていきたいと思った。
細石はいつか汽笛を上げて、重たい壁を砕く煌めきに繋がっている。