それはほんの少しだけ昔のことだった。まだ俺に手も足もなければ車輪も目もひとつしか無かった頃。
俺はひとり、洞窟の中で密かに生きていた。時間にすればたった瞬き程度の過去のことだが、忘れもしないだろう。それなりにひとりの生活も長く、悪くないと思っていた日々。
天気のいい日には近くの葉を食べ、時に軽い石を食べたり、気に入ったものを集めたりしながら、のんびりと過ごしていた。
しかしある日突然小さな人間がやってきた。この洞窟が気に入ったらしく、何度も通ってくるようになった。
とても忙しいと彼は言うが、その割にはほとんど毎日のように顔を出してくれた。
彼の名前はマクワといった。
最初は驚いたが、俺も前に人間といた生活は長かった。再び誰かといられることに安堵していたのは確かだったし、何より彼と一緒にいるのは、不思議なくらい居心地が良かったのだ。
まだ幼い彼は、ひとが作った本をいくつも持ち込んでは、なにやら熱心に読んだり、書き込んだり、時に横でじっと見ている俺に聞かせてくれたりもした。俺が外で食料を集める手伝いをしてくれる時もあった。
その日も俺とともに、洞窟の中を綺麗に整頓したり、埋もれた部分を掘って広げてくれた。
普段、何をしているのかは正直よくわかっていなかった。どうやら母親とたくさん大変なことをしていて、いろいろ考えていることがあるらしい。彼の一生懸命な気持ちはいっぱい伝わってきた。
もっと一緒にいれたらうれしいの気持ちを込め、マクワが座った時に体を寄せて、自分の体の奥にあるものに力を入れてみた。ぐつ、と何かが動き、熱が生まれるのがわかる。
「……タンドン、熱いですね……? 暑……」
マクワはぱちぱちと瞬きをして、俺を見下ろした。
久しく忘れていた、俺たちの中にある気持ちを体現する温度。これをすると、相手のタンドン――トロッゴンの時もあった――も同じように返してくれて、互いに熱を贈りあうのだ。
俺たちにとって、高い熱はいのちにも等しいもの。いのちを分け合う行為。
相手と長く共に居たいと思ったとき、いつもやる行動だった。
だがしかし、人間であるマクワはもちろんただ俺の熱に戸惑うだけだ。いくら頑張ったとしても、俺の持てる温度には届かない。
寂しいような、なんだか途方もない距離があるような、不思議な感覚になったことは覚えている。
帰ってこないというのは、これほどちっぽけな気持ちになるものなのか。
それでも彼なりに、彼の手で頭をなでてくれたその小さな感触だけでも、その時の俺は満足できたのだった。
◆
『セキタンザン。それでは、いいですね』
スピーカーに乗って、バディの声が聞こえてくる。
今、俺の目の前には、頭をすっぽり覆うヘルメットのついた見たこともない衣服に身を包むマクワがいる。いや、そういえば前の人間の家で少しだけ見たことがあるかもしれない。
宇宙という遠い遠い場所に言った人間が着る服。最初はポケモンだと思ったものだ。思い返してみればそっくりだった。
マクワは分厚い特殊な布に包まれた両方の手で、肩から岩が伸びている方の俺の手を握る。まるではがねポケモンの皮膚のような硬さとつるつるした感覚があるのに、伸縮はしているらしく、皺の凸凹がある。
なんとも言い難い不思議なものだ。人間が作ったのなら、本当にすごい。まるで進化だ。
マクワの頭の上にある空気が揺らぎ始める。彼の背負った四角い物体に、煌々とオレンジ色の明りが灯る。高まった空気の温度に、俺の背中の炎が歓喜して、ぱちぱちと火花を上げた。
呼応するように、火炎が自然と昂っていく。なんだかひどく心地がいい。
いつもならひとりで発熱している分を、マクワが直接手助けをしてくれて、さらに劫火として燃やすようだ。
『ぼくにも……ほのおをください』
「シュボオ」
『きみがいつも……知り合いや友人の方々にやってきたように……。だいじょうぶ、このスーツは実験済みです』
そんなことを言われても、やはり人間相手では躊躇してしまうのは当然のことだった。今の俺はあの頃のタンドンとは全く違う。
常に炎を作り上げ、維持し続けられるほどの火力がある。力を入れれば人間がどうなってしまうのか、予想することが出来る。
けれどマクワの灰簾石の瞳が、赤い光を映した丸い硝子越しに、じっと見つめている。
俺は小さく息を吐くと、体内の炎に意識を向ける。少ししゃがみ、体を傾け、ごうごうと燃えるほのおで、マクワに寄り添う。からりと音を立てて、石炭の1つが落ちていった。
『そうです! いけますね、もう少し!」
返事をするかのように、マクワの背中の明りが瞬く。そしてより一層色が濃くなって、どんどん温度が俺の背の山と近くなっているのがわかる。
どくんどくんと、胸の奥が震えるような、温かいような気持ちが沸いている。
そう、これはうれしい。俺のいのちが、マクワのいのちと重なる瞬間。ほどけあって、互いのいのちのなかに混ざりこむ感覚。
そうやっていのちを分け合い、ともに高い高い『セキタンザン』の温度を喜び合える気持ち。
俺のほのおは、今マクワとともに存在していた。分厚い衣服は灼熱の大火を受けても確かに微動だにしない。背中の光が炎を受け止めているようだ。
マクワは火炎のなかにいて、ほのおとひとつになっている。
俺自身も、彼から分け与えられるほのおに支えられて、こうごうと火を高めている。
今ならどこまででも行けそうだった。
『……ふぅ』
大きな息が機械の音となって聞こえてくる。ため息は衣服の中に閉じ込められたままだ。俺は握られていないもう片方の手でマクワの肩を軽く押すと、ゆっくりと自分の温度を下げていく。
『……え、ま、まだ……だいじょうぶですよ』
「シュポォー!」
俺は笑うと、いつも通りの火力に戻した。『温め合い』のお陰で消耗することなく、普段通りのパフォーマンスを保てている。
マクワは不服そうだったが、俺が満足したのを見て取ったのか、背中の照明を消した。それから部屋のボタン――確か換気扇というものらしい――を押し、ヘルメットを外した。
「うわ、まだあっつい……! さすがきみの火力……です」
「シュ ポォー」
「……むむ、かなり完璧な耐熱率のはずですが、すぐに想定を超えますね。また……改良をお願いしてみます」
守られていても、やはり暑かったのだろうか、マクワは汗だくでヘルメットを見下ろしていた。普段通りの、しかしセットした自慢の髪型は潰れてしまった、マクワがすぐそこにいた。
本当にうれしかった。幼いころ、一度失敗したことだ。それを彼は覚えていたのか、いないのかはわからない。だが今度こそ共有をしてくれて、実際に温度を分け合うことが出来た。
ひととポケモンの垣根を超えて、ポケモンのしたいことを出来るようにしてくれた。
「ちょっと! ……お礼なら後にしてくださいね」
けれど。こうしていつものマクワのふわふわの顔を見ることが出来て、直接触れられた瞬間、背中の炎はぱちぱちぱちんと、ひときわ大きくはじけたのだった。