突然、目の前が真っ暗になった。
アスファルトを煮詰めたような毒々しい臭いが肺一杯に広がり、頭から上半身までぬるぬるしたものが重たく滴り落ちていく感触があった。
慌てて口を開けたせいか、凝縮された苦々しさが口の中に入ってきて、マクワは反射的に咳き込む。
「ゲェッ……ゲホッゲホッ……!! うええッ…!」
「ボオッ~」
「だ、だいじょうぶです……おえッ……ゴホッ」
べったりとタールを受けたサングラスを外し、サコッシュから付近を取り出し拭き取る。それから顔の黒い油も拭い捨てる。
呼吸器官の周りがすっきりして、少しだけ息がしやすくなった。しかし強いコールタールの臭いはまだ上半身に纏わりついていた。
ここはキルクス郊外の山のふもと、なだらかな砂地にぽつぽつと木が生えた天然の広場だった。人に知られていないこの場所は訓練をするには持ってこいで、今日も朝から屋外のトレーニングに利用していた。
早めにノルマが終了し、トレーニング専用のジャージ姿のマクワは労りついでにセキタンザンの背中の山の手入れをした。
組み替えられて酸素の通りがよくなり、急に火力が増したセキタンザンは、自分の身体に溜まっていた古いタールを溜めきれず、まだ真剣に背中の山へと向き合い、前に立つバディに対して思い切り吐き出してしまった。
マクワは衣服を脱ぐと付着したタールを淡々と拭った。
「……今日は量が多かったですね。タールショット自体は昨日使ったばかりですが……ふむ」
「シュボオ」
「気にしないでください。組み方を間違えて……避けきれなかったぼくが悪いので。十分に慣れているので問題はありません」
スマホロトムを呼び出すと、インカメラにして全身の汚れの位置を確認した。再びロトムを戻し、マクワは言う。
「それよりもタールの量でもきみの身体の状態がわかりますし、せっかくですからきみの身体の話をしましょう。タールは乾留液と言って有機物質の熱分解によって生まれる、粘り気のある黒い油のことです。……これですね。油なので当然水には強く、しかし一定以上の高温には弱いです。」
分厚いグローブをした指先に、今身体から取りはがした液体が引っ付いている。それを反対の手で持った布巾でごしごしと拭った。
「その性質を利用し、相手に対して誰であってもほのおによるダメージを上げることが出来るのですね。ではそのタールはどうやってできるのか。
石炭を高温で蒸し焼きにするとコークスと言って乾燥した固体が出来、同時にコールタールやそのほかの物質に分かれます。コークスは燃焼時の発熱量が元の原料の石炭より高くなり、高温を得ることができる……人間がより燃料として効率を求めた結果発見され、名づけられたものなのですが……きみの身体はこのコークスの生成を天然で行うことが出来ます。キョダイマックス時に火力が上がるのはこれを利用しているためですね。コールタールさえ自分の発熱に利用します。
申し訳ないですがぼくはこの量について、ある程度はきちんとタールが溜まり続けるように、そして火力を維持し続けられるよう、試合に向けて管理させてもらっています。もちろんきみにとって無理のない範囲です」
セキタンザンはぱちぱちとまばたきをした。マクワが饒舌になるのは珍しく、そして自分やポケモンに関することだけだった。
「きみは意識していなくても高温でほのおを燃やすと体内にコールタールが発生する、ということですね。今日はそれほど火力を使うようなトレーニングを行っていませんし、おそらく昨日の試合できみの体温が急激に上がった結果で、ぼくの想定を上回ったのです。粘り気や色からして質も悪くない。
ということで……ぼくから見てきみは健康体です。もちろん専門機関で見てもらったわけではありませんが、ひとまずよかったと言えますね」
「シュポー……」
あちこち黒い油で汚しながら言い切るバディに、セキタンザンは少しだけ不服だと鳴いて見せた。
「……ああいや、もちろんちゃんと後ほど洗剤で洗い流しますよ! でも大分取れているでしょう? きみとトレーニングの時には万が一の予防として特殊なワックスを肌に塗るようにしています。このジャージも特別製ですよ」
確かに、顔の大部分は拭って綺麗に見える。そういえば昔一度、思い切りコールタールを掛けてしまったこともあった。その時は本当に全身真っ黒になってしまって、全く取れない汚れに、マクワが、そしてその原因である自分もひどく焦っていたことを覚えている。
「コールタールは発がん性物質があるともいわれていて、人体には良いものではないことがわかっています。しかし大昔には薬用に使っていた時代もありました。
ぼくたちの部屋まではここから近いです。おそらく他の人にも見られずに済みますから……こんな体験、部屋ではそうそうできませんし、少しぐらいじっくり見ても……ごほ、ゲフッ」
「ボオ」
日差しが強い。揮発するタールの香りが二人の間に充満し、再びマクワが噎せ返った。
上着を脱ぎ、半袖のシャツになったマクワの腕には、よく見ると凹凸があって、日の光に照らされていた。
あれはずっとポケモンと一緒に暮らしてきた証拠。セキタンザンも覚えている。何度も火傷を負わせてしまったり、時にぶつけて擦り傷や痣を作ってしまったこともあった。
「……そもそもこれくらいでないと……きみといる意味なんてないでしょう?」
「ゴゴゴ」
そうなのだ。セキタンザンは思い返す。最初の頃、まだそれほど互いの理解が進んでいなかったから、マクワがくれるものがずっとずっと退屈だったり、何かわからないことがたくさんあった。
セキタンザンにとって一番良い温度が、マクワにとっても良い温度であるわけがなかった。
それでも一緒にいることで、その身体を、道具を使って少しずつ対話を進めてきた積み重ねの中でいま、ようやくここに辿り着いているのだ。
「これからも……一緒にいますから。必ずチャンピオンの椅子に……きみを座らせてあげますからね」
「シュォ」
「……うん。だからどうか……隣に居て……きみの目で……確かめてくださ……」
マクワは空気の揺らぎを見た。急に周囲の温度が上がり、セキタンザンの背中の炎がめらめらと燃え盛っていた。ひのこが上空で弾けてぱちぱち音がした。
「熱……セキタンザン、一体……。あ、ぼくがさっきコールタールは熱に弱いと言ったから!?」
「ゴオオ!」
「いや、待って引火する可能性が……あれ」
じゅ、と音がしてマクワの周辺だけ一瞬強くなったかと思うと、再び温度は元に戻った。見ればグローブや衣服からうっすらと蒸気があがっているものの、汚れが目に見える範囲できれいさっぱり消えている。
スマホロトムを呼び出して顔を見ても、黒かった部分が元に戻っていた。
セキタンザンは疲れたように肩を落としながら息を吐いていた。
「……シュー、シュポォ」
「きみ、どういう温度調整をしたのですか!? いや……すごい……ありがとうございます」
「シュ ポォー!」
黒曜の目がにっこりと笑う。それは明るく優しい、いつものセキタンザンの笑顔だ。しかしマクワには伝わる。
長く生きる命のさみしさだ。共に過ごすために急いでしまうマクワとは反対の気持ち。
「……そうですね。せっかくいわタイプの専任になれたのですから……」
マクワは綺麗になったサングラスを再びつけなおす。それから口角を上げて笑った。
「きみにとってもよいトレーニングになりましたか。……それでは帰りましょう」
「シュ ポォー」
汽笛を上げるように返事をする。まだ彼を乗せた旅路は途中で、見るものすべてが新鮮で愉快なものばかりだった。
これからもこの旅は続いていく。ひとよりもずっと長く生きるセキタンザンはどうか一日でも長く続いてほしいと願う。身体を張って戦うのは、擦り傷を作っても血液を流すこともない、頑丈な身体を持つ自分だけでいい。そのためにマクワと一緒にいるのだから。
いつかの終着駅に届くまで、ともにいるきみに安寧が寄り添い続けてくれるように。