『ジムリーダーになります』
幼いころ、慣れない縦書きの短冊にガタガタの文字で書いた願い事だった。それを見た母も、そしてぼくに教えてくれたカブさんもにこにこ笑っていて、ぼくはとても誇らしい気持ちでその短冊を掲げたことを覚えている。
ガラルからは遠い地、ホウエンやその近辺に残る星祭りの時に行う伝統らしい。星に願い事をささげることは、ガラルではそれほど珍しいことではない。
だからこそこちらでも親しんでもらえるのではないか、とカブさんがジム見学にやってきたぼくに合わせて用意してくれたのが、その短冊と笹の木だった。
ガタガタ文字の短冊は、笹の木のてっぺんに飾られて、そしてぼくの道を祝福し続けてくれたのだった。
◆
ひらりと短冊が宙を舞った。何も書かれていない細い紙は、なぜかぼくのタブレットから現れて、キルクススタジアムのジムリーダーが主を務める部屋の絨毯の上に降りた。
長い間使われてきた部屋だが、こんな大きなタグのようなものを見るのは始めてだろう。
ぼく自身、キルクスで七夕飾りを見ることは初めてだった。
「もしかして……くっついてきてしまいましたか」
「シュポォ?」
部屋の中で一休みしていたセキタンザンも、不思議そうな顔をして紙切れを拾い上げると、ぼくに手渡した。
「ありがとうございます。……これは短冊というものです。先ほどカブさんのところでいただいたものを……ぼくとしたことが、どうやら間違えて持って帰ってきてしまったみたいですね」
数時間前までいたエンジンスタジアムでのことを思い出す。エンジンでのジムリーダー交流会は、会議を兼ねているとはいえ実りが多くていつも密やかに楽しみにしている恒例行事だった。
今日のエンジンスタジアムは、ちょうど星祭りの中でも『七夕』を祝っており、ほかではあまり見かけないホウエンあるいはその近辺の祭事を行っているところだった。
ジムトレーナーたちが率先してカブさんの故郷の慣習を復元し、笹の木を立て、短冊に願い事を書いて飾っているのだという。
正直なところ、カブさんとはありがたいことに、親の縁でとても長い付き合いをさせてもらっている。多分ぼくのあまり知られたくないところや見られたくない姿だってよく知っているだろう。
彼はずっと遠い場所からやってきて、そして長くぼくたちの地方に居続けてくれているひとでもある。どこまでも誠実で強いカブさんは、ぼくの目標のひとりでもある。
そんなカブさんがトレーナーとして尊敬され、めいっぱいカブさんを歓迎しようとしているジムトレーナーたちがいることは、ぼくとしてもうれしいことだった。
会議の休憩時間に七夕について教えてくれて、ぼくにも短冊を一枚渡してくれた。それはその場で書いて飾ってもらったものだが、なぜかここにもう一枚の短冊が残ってしまった。
会議の時にはいつもタブレットを使っている。おそらく知らずにもらってしまった余分な短冊が、その隙間にぴたりとくっついてきたことに気づけぬままここまで戻ってきてしまったのだろう。
スマホロトムを取り出し、カブさんに連絡を取ってみる。七夕飾りの処分の方法を尋ねるのだ。
一応祭事に扱うものだ、粗末にしてしまってはカブさんたちにも悪いことが起きかねない。
電話通信を受け取ったカブさんは笑って、ありがとう、特に気を付けることはないよ、と言った。
「昔は川とかに流していたんだけどね。しかし紙や葉をそのまま流してしまうのは忍びないという意見もあってね。ああ、そうだ、どうしても気になるなら――」
◆
「ありがとう、スマホロトム」
「ロト!」
「せっかくだから……きみもなにか願い事を書いてみますか?」
「シュ ポォー」
ぼくはオフィスチェアに座り、デスクの引き出しからペンを取り出した。セキタンザンは興味深そうに短冊を見下ろしている。
「……きみは……きみの願いごとは……?」
「ボオ」
こうして短冊に向き合ってみて、ぼくは気が付いた。彼をぼくの願いに、やるべきことのすべてにずっと連れまわしてきた。ぼく自身の将来のために、疑うこともなく。この先にある道は、岩壁よりもはるかに険しい。それでも必ず彼にとっても幸福を齎すことだと信じてやってきた。
だがしかし、彼の本当の夢や願いを聞いたことなんてなかったのだ。
すうっと、抜ける冷たい風がある。窓は締め切っていて、エアコンも空調の類もつけてはいない。
小さな短い白い紙が、妙に大きく広がって途方もないほど大きく見えた。まるでキルクスに広がる雪山のようだ。
いつも通り、強い引力を連れて自分の願いを書いてしまおうかとも思った。それは絶対的に正しいことだ。ぼくがトレーナーで、彼がポケモンである以上正義であり続けるだろう。
けれど口の中にたまる唾を飲み込んだ音が大きくて、ぼくの動きを阻害する。
「シュポオ」
「へ」
セキタンザンはいつもの人好きのする笑顔でぼくの顔を覗き込んだ。それから彼は小さく頭を横に振ると、真っ直ぐぼくの目を見つめる。
「シュ ポォー」
そこにあるのは、セキタンザンの黒い瞳の中で、僕の青い目が彼の背中の光を受けて輝く『あまのがわ』だった。
「……ふふ……きみは……」
「ポォ」
「きみはぼくの夢が叶うことがきみの夢だって……そう言ってくれる……?」
「シュポオ」
大きな石炭の頭は強く首肯する。
「……ごめん……いや、ありがとう。……そうですね。それを信じることがぼくたちです。……けれど本当は……もう少し早く聞いておくべきことでもあったと思います……」
「シュポォ」
「それでは、ぼくたちの願いを書きますね。初めて書いたものは夢などではなくて……こうして叶った今ですが、あの時のぼくが見たら驚くでしょう。ならば今度こそ……」
再び願望を書き記す。やりたいことはたくさんある。すべてが途方もない悲願であり、夢だ。けれどポケモントレーナーとして生まれ、今ここにいるぼくだからこそできることもあるはずだ。
ぼくはあの時の希望通りジムリーダーになったけれど、描いていたものとははるかに違う姿だ。
このガラルという素晴らしい土地を愛し、そして利用して、そしてぼくが捧げられるもの。
ジムリーダーになる夢を超えるもの。
「それではセキタンザン、動かずにいてくださいね」
「ボオ?」
ぼくは短冊をもって立ち上がり、セキタンザンに近づくと、彼の背中の山の石炭の間に差し入れた。乾いた紙切れはあっという間にセキタンザンの温かな熱に包まれて、端っこから火の粉を上げて黒く小さく変わっていく。焦げる香りは心地よい。きっと髪や衣服にも残るだろう。
ぼくたちを刻み付けてゆくものだ。
「ぼくの願いは……きみが持っていてください。ぼくの希望を自分の夢としてくれたきみが。
この夢が叶うそのときまで」
「シュ ポォー!」
セキタンザンは一層背中の熱を上げて、ほのおを強めた。一際ぱちぱちと音が立ち、炭の香りが当たりを包む。
カブさんに教えてもらった『焚き上げ』という方法だった。清らかなほのおにくべて、想いを天に昇らせるもの。けれどぼくにはセキタンザンがいる。ぼくの信頼する切り札は、いつだって隣で笑って、時に猛々しくいてくれた。
もうとっくの昔、彼が進化した時から、セキタンザンという彼自身にぼくの新しい大望を預けていたのだ。
キルクスの空気には静かな煙が溶け込んでゆく。