それは雪山の奥のことでした。
真っ黒な夜の帳には、無数の星々が呼吸をしながら輝きを映しています。あまりに星の数が多いので、むかし教えてもらった星座さえもが光の海に呑み込まれていましたが、辛うじてまだ新しい星の物語がわかります。
大きく息をすうと、マクワの頭の中に古い記憶が浮かんできました。
『あれはリングマ座って言うんだよ。あの星がお尻で、リングマの頭になるのがあっちの星。ようく見てごらん』
そう教えながら星を映した大きな眼は、ぴかぴかに磨かれた眩いものでした。幼いマクワは一生懸命に星座盤と睨めっこをしていましたが、それはどうみてもリングマには見えません。
『リングマにはね、こどものヒメグマ座も近くにあるんだよ。あの木の上にある星……見えるかい?』
『ええと……これですか』
『そうそう。一番良く見える黄色い星があるだろう?』
今のマクワは星座盤がなくても星の上でリングマの姿も、ヒメグマの姿も描けます。ちかちかと輝きながら、リングマの親子はマクワのことを見下ろしていました。
『でも……星というのは、もとは鉱物で出来たおおきな物体なんですよね』
『おや、もうそんなところまで習ったのかい。そうだよ、ここからは見えないけど、この星の地面とおんなじだったり、ガスや爆発の輝きだったりするよ』
『ばくはつのかがやき?』
『そう、大きな星はとっくの昔に亡くなっていて、命が尽きる時に大きく爆発する、その光だけがここに届いてるのさ』
氷雪だらけの山道を、マクワは難なく歩いていきます。
きらきらした空を吸い込むように、雪で覆われた地面はずっと静かに佇んでいました。湿った重たい香りはいつもと何も変わりません。
林を越えて、石の階段を上ると、冷たい風が吹き抜けました。天辺では広い湖が顔を見せました。
その中央に、白くて長い髪の女性が座っています。湖は分厚い氷におおわれて、重量のあるマクワが脚を降ろしてもびくりともしません。
無数の星を携えるように、大きな満月がぽっかりと浮かんでいました。
マクワが女性に近寄っても、彼女はずっと下を見ていました。よく見ると湖の氷の中に、誰かが居ます。まるで眠っているかのように、目を瞑った少年が氷の狭間に浮かんでいました。
それはその女性とそっくりで、そしてマクワにとってもよく知っている男の子でした。
ようやく女性がマクワに気が付いて、顔を上げるとにっこりと笑いました。
それが余りにも綺麗でしたので、マクワはふらりと近寄ると、彼女の細い首に両手を回しました。
一瞬、驚いた顔はあっという間に歪み、苦しさに染まっていきます。
ぎり、と鈍い音がして、皮膚が捩れて、血管が、骨が軋んで悲鳴を上げています。細い、細い首でした。白い肌も、驚くほどに薄い感触です。ゆうに両手で一周してしまえるものでした。
反射でマクワの手に震える両手を掛けますが、力はほとんど入っていません。入っていたとしても、おそらく彼女の力では何の抵抗にもならないことがわかりました。手の中でひとつずつ器官が、細胞が壊れていきます。自分と同じ物。自分を作り上げたもの。
繋がりを握りしめて、そうして失ってゆくのでした。
「ぁ゛、マ……クワ……」
彼女は口角を上げてマクワの名前を呼びました。汚れた口端から泡のような唾液が零れていきます。顔がどんどんと鈍い色に変わっていきます。眼の端から艶やかな涙が零れました。
ぽかりと口を開けたまま、動かなくなっていきます。
大きな青い眼の中に、まんまるの月が映っていて、見たこともない程とてもとても美しいものでした。マクワが手を放すと女性は氷の上に寝転がります。
ひとには爆発の輝きはありませんが、それよりももっと重たくてずっしりとしていて、悍ましい光を写し取る事ができました。
その足の下で眠る、凍り付いた少年の周りにはたくさんの化石が一緒になって凍り付いているのが目に入りました。少年は、疑問を投げかけました。
『なぜリングマとヒメグマなのでしょうか』
『それはアルセウスのせいさ。リングマ座とヒメグマ座は親子で……リングマがお母さんで、ヒメグマが息子なの。
リングマは元々は人間の女性だったんだけど、罰を受けてリングマにされて森にすむことになったんだとさ。でも彼女には人間の息子がいたんだ。
リングマに変えられたお母さんのことを知らない人間の息子が森に入っちまって、そこに突然リングマがやってきてね。お母さんは息子に会えて大喜びで駆け寄ったんだ。
でも息子にとってはただの狂暴なリングマさ。息子は慌ててリングマを殺そうとしたんだ。でもそれを不憫に思ったアルセウスが、2人をこうして星座にしたんだとさ』
『ぼくはお母さんのこと……わからなくなりません……!』
『アハハ、それは嬉しいねえ』
◆
真夜中、星の美しい空の下。マクワは自分のベッドの中で眼を覚ました。今でも絞めた首の感触が、徐々に息絶えていく命の感覚が、生々しく手の内に残っていた。
あの女性は間違いなくメロンだった。自分は夢の中で母親に手を掛けたのだ。
震える両手に思わず体を起こす。そして両手で自分の顔を覆った。