部屋は生ぬるくて薄暗い斜陽が当たり、数日前の朝に掛けたままの上着が椅子の上で影を作っていた。ぶっ通しのイベントと撮影をし、片付けを終えたら一日はもうあっという間に、夜が近くなっていた。数週間前の空気が化石のまま復元されて、いまマクワの前で無秩序に転がっていた。
元々この週は、試合の予定が普段よりも多いことはわかっていた。そこにファンイベントを重ねていたら、契約しているスポンサーからの広告商材用写真撮影の仕事が転がり込んできた。
まだまだ走り出したばかりの新進の身、メディアでの露出スピードや回数だって多い方が自分のためでもあり、何より大切なポケモンたちのためにだってなる。
しっかりトレーナーとして調整やトレーニングの本業を疎かにしないようにスケジュールを管理しながら、なんとか撮影も上手く、楽しく乗り切った。
意外なことに、自分の中での撮影とトレーナーとしての振る舞いは、ありたい姿を自分で作るという面で似通っていた。もちろんそれだけでなく、クライアントの要望や商品を購入するお客さんを想像することも必要で、いつも行っていることそのままなのだ。
カメラマンさんや現場にいるスタッフそれぞれいろんな人とのコミュニケーションが必要であることもまた、トレーナーとしてのスキルを高める良い経験になるに違いない。
だがしかし、どれだけやりくりしたとしても一日の時間が増える事はない。とにかく休む間もなく移動にトレーニングに、試合に撮影、ファンイベントと動きっぱなしの過密スケジュール。
この部屋に戻る事もなく、ずっとスタジアムや現場近隣のホテルに泊まりっぱなしだった。
そしていま、マクワはようやく解放されてしばらくは自由の身となる。今まで分刻みどころか秒刻みにも片足を踏み入れていた所から、突然解放された脳味噌はこんらん状態に陥って、まだまだフルスロットルで駆け抜けようとさえして、目を閉じてもばちばちと光が駆け抜けているのが分かる。
だけれど身体は重力が引っ張る力に抗えず、どんよりと鋼よりも重たくて、いまも一刻も早く寝て欲しいのだと訴えている。疲れ切ってかなりちぐはぐあべこべだ。
電気もつけず、そのまま革張りの大きなソファに大きな身体をどんと乗せた。窓から入る一本のやわい陽ざしのなかで、光を受けた埃がちらちらと舞い上がるのが見えた。
つかれた。ほんとうにつかれた。
なんだか何もかもどうでもよくなりそうなぐらいに疲れ切っている。
よかったことをもう一度思い出そう。
今のところ、試合結果は上々。悪くないものだ。でもまだまだ内容を充実させていきたいし、僅かな油断さえ足を取られかねないのだ。もっといわポケモンと試していきたいことがある。そう、もっとセキタンザンと、クレバーな……。
すう、とゆっくり息を吐き、マクワは懐からひとつモンスターボールを取り出した。ボタンを押すと、ちかちかと赤い光が目の前で輝いた。
優しい木のような、ちょっと埃にも似たどこか懐かしい香りと、温かな焔が揺らめいてマクワの丸くて白い肉付きの良い頬を、高熱の小さな風が撫でていく。
「……ひさしぶりですね」
マクワは目を細めると、ほんの少しだけ口許を緩めて言った。セキタンザンは思わず目をぱちくりとさせた。試合やその前の調整の時には必ず会っているし、ファンイベントの時も大抵顔を合わせている。もちろん食事や手入などの時もだ。
少しだけセキタンザンは考えたが、すぐに意味を理解して手を伸ばした。ぐったりと力を抜いたままのマクワの背に腕を回し、抱きしめる。
正解だったようで彼は何も言わず、同じようにセキタンザンをハグし返してきた。しばらくしてから顔を放すと大きく息を吐いた。
「よい硬さ……です」
「シュポォ」
セキタンザンはいつも一緒に訓練しているからだと自慢気に返事をした。
「……それに……優しくて……良い温度で……温かくて……うん」
マクワはじっとセキタンザンの顔を見て、そっと頬を撫でた。石炭の頭が嬉しそうに擦り寄った。
「……よし。ヨロイ島に行きましょう。撮影のお礼にクライアントからチケットを追加報酬で頂きました。そこでは普段とは違う環境でのトレーニングが出来るそうです。きっとまた全然違うきみの魅力を引き出せると思います!」
「ボオ」
「ふふ、賛同してくれますか? 楽しみですね。きみの動きで……試してみたいことがあるのですよ。……きみのほのおが猛々しく燃え盛る姿! 誰も逃れられないいわの檻を操る姿! きっとかっこいい……たくさんの人が驚き魅了されます。……でも誰より一番ぼくが見たいから……。うん?」
「シュポォ」
石炭の黒い大きな手が、どんどん起き上がるバディの身体を、ぎゅっと両手で抑えつける。それから片手で背中を優しく撫で擦り始めた。
脳味噌の興奮に負けようとしていた身体の眠気が、セキタンザンがその手で働きかけたおかげで復活していた。いま最優先でとらなければいけないのは、そしてとろうとしていたのは、まぎれもなく休息の時間だったのだから。
「……ああ、うん……そうですね。大丈夫です、今日は……もう寝ますから……。きみのおかげで、やっとゆっくり眠れそう……。だってここで眠っても、風邪はひかずにすみますし、きちんとベッドに運んでくれるでしょう?」
マクワはにっこり笑う。
「……ぼくが元気になれたのだって、きみのおかげですから……。……おやすみなさい、ありがとう……」
「シュポォー!」
セキタンザンは喜んでマクワの頭を抱き止めて返事にした。それから改めてそっと何度も抱き寄せて感触を確かめては顔を見ているのが、眠りに落ちる前のマクワにも伝わって来た。
セキタンザンには、マクワが何故ここまで疲弊しているのかは理解しきれない。だからマクワにはちょっと悔しいことだけれど、わからないけど勝手に弱る脆い生き物だと思われているに違いない。庇護しよう。そんな慈愛に満ちたセキタンザンの笑顔を最後に、すっと優しい眠りの中に蕩けていくのだった。