おわかれ

それは最初、ほんの些細な違和感だった。例えばいつもよりうまく食べられなくて妙に時間がかかるとか、技を出そうとするときの頭の中が、なんとなくぼんやりと霞掛かったようになるとか、トレーニング用の器具がやたらと重く感じたりとか。
そんな小さな変化がつみ重なって、険しい顔をしたマクワにポケモンセンターへと連れていかれ、しばらくそこで過ごした。精密検査、というものが必要で、背中の石炭だけではなく、敢えて身体の一部分を僅かにやすりで削られて、その粉が透明な瓶に入り、どこかへ運ばれていくのを、俺はぼんやりと見つめていた。
その日は一日中マクワと離れて、ひとり病院の中で過ごすことになった。きっと少し前ならば、昼夜を越えて離れ離れになるなんて、考えられなかっただろう。
マクワはそうならぬよう絶対の配慮を払い続けていたし、毎日の訓練や試合は必ずバディでこなさなければならなかった。
1か月ほど前マクワが引退発表を行い、華々しい引退試合を終えたのは、まだほんの数日前の事だった。誰もがみんなマクワの最後の公式試合を目に焼き付けようと、スタジアムの席は応援で、カメラでいっぱいになった。試合に慣れていても、たくさんの心が集まったこんなスタジアムは、おそらくマクワが独立するとメロンさんと勝負をした時以来だろう。
想いの強いファンたちの気持ちが溢れかえってしまい、厄介なことも起きたらしいが、俺には全く知らされず仕舞いであった。
昔、マクワがぼそりとファンは激しいときがあると零しているのを聞いていたから、おそらく変わらないファンたちがいるのだろう。
その良し悪しはともかく、マクワのことを心の底から応援し続けて、大切にしてくれていることくらいは、俺にもなんとなくだが理解することは出来た。
これからこの先も、その気持ちだけは変わらないままであればいいと思う。硬い意志はマクワがよく口にする好きな言葉だから俺もよく覚えていた。
そんな特別な舞台だからだろうか、なんとなく上手く身体が動かないような時もあって、俺自身焦り掛けてしまった。だがこれほど豪奢な舞台で、誰より俺が、引退するマクワのバディである俺が、無様な姿は見せられない。いわの輝きを、見るものすべてに焼き付ける。
その気持ちは見事に磨き上げられて、見事主役の座に相応しい結果を残すことが出来た。
しかし俺の動きの悪さは厳格なマクワの眼にとまり、俺は検査入院することになったのだった。
結果は思わしくないもので、どうやら俺の身体は前から病理に蝕まれていたらしい。それが引退して力が抜けてしまったのか、急速に進行しはじめた。もうそれほど長い命ではないという。
まさか、という気持ちと、少しだけ嬉しいような気持ちがないまぜになった。
俺の、俺たちの頑丈な体はそれほど簡単に崩れてしまうものじゃないはずだった。しかし、まさか、長寿であるはずの俺が、もしかするとマクワより先に終わりが来るかもしれない。
マクワの元で命を終われることと、同時に俺がいない世界を生きることになるマクワという存在に、ほんの少しばかり楽しみを感じたのも事実だった。本来どこまでも行ける男が、俺とばかりいるなんてつまらないだろうから。ここまでずっとバディをしてきたというゆるぎない自負もあった。それはこれからどこへどういっても変わらない事実として、たくさんのひとの眼に、心に、硬いものを残している。十分すぎる程幸福だった。
それからも、マクワは変わることなく、だが確実に、急速に変わっていく俺に合わせて、一生懸命付き合ってくれた。
前がほとんど見えなくなっても、うまく食事がとれなくなっても、いつだって誘導してくれたし、俺の身体に合わせて硬さを調整して、栄養を摂れるようにしてくれた。そう、されていることは何一つ変わっていないのだ。
さらに、手足が動かなくなってきて、うまく空気が吸えなくて、部屋中が黒い煙と煤でいっぱいになった。もうどれぐらい経ったのだろうか、時間の間隔はとうに失ってしまいわからない。それでもきっと短くはない間、俺はずっとここに座り込んでいる。
マクワは酸素が入るようにと、一生懸命崩れた山を鉄の棒で支えてくれる。
ほのおが維持できるように、石炭よりもさらに燃えやすいものをくれている。

「だいじょうぶ……ですよ。だいじょうぶ……」
「ゴ、ゴゴ、ォ」
「……なぜ、きみまで……」

本当に僅かな衝撃とさらさらとしたもの。背中に何かを軽くぶつけたことはわかった。

「……せめて、せめて見せてやりたかった……。もっともっと立派になったきみのすがた……」
「ゴオ……」
「フフ、どこからって? ……どこからでも見てますよ、あのひとは。ファンクラブ会員No1ですよ?」

そうだ。マクワが引退を決めたのは。もう二度と変わらない関係は。
マクワの前にずっと聳え続けたひとりの壁は。時代は。

「くやしい……本当に、くやしいなあ……。セキタンザン、ぼく……どうして……」

マクワはゆるゆると頭を振る。色素の薄い髪が光に揺れて綺麗だった。

「……いえ……。だいじょうぶです。きみにばかり頼っているようでは……トレーナー失格、ですね……」

何を言ってるのだろう。よくわからないけれど、何か言ってほしくないことを言っている気がする。それにしても本当にマクワはきれいだ。俺とは違うやわらかい色をつくる光。でもそれを何倍にも何十倍にも輝かせることができて、ああ、やっぱりずっと見ていたい光。

「セキタンザン……? セキタンザン……!」

ほのかに触れる柔い感覚がとても遠い。揺れている。揺れているのはわかる。ああまだずっと一緒にいたい。遠ざかっていく。いかないで。おいていかないで。
はなれたくない。大好きなひかり。はなれたくないな。
いつもだきしめてもちあげてもらって。ふわふわして、ひんやりして、さりげなく、ぜんぶ。あのひかり。あのひかりのところへ。

「……ぁあ……ッ、せきたんざ、セキタンザン……! ぼくはここ、ここだよ、セキタンザン……! きみにまだ謝りたいことがたくさん——」

ひかりがぼんやりとする。しゅう、というおと。しろいもや。ふわふわのぼっていく。ほんのりとしたつめたさ。
からだがぽかぽかしてあたたかいような、ああ、ここはなんてやさしい。