目の前が砕け散った。
今でもあの時吹きあがった石炭の香りや降り注ぐ黒い粉の色は、もくもくと昇り続ける煙は、全部身体に焼き付いて僅か数ミリたりとも離せやしない。悪いのはあの時、回避の選択を出来なかったぼく自身だった。
それは不運な事故だ。山道での登山訓練は、基礎的な体力づくりに加え、長期的な計画性や事故判断力を鍛えられることと、いわポケモンであるセキタンザンが喜びやすいことで、時間を見つけては定期的に行っていた。いつも通り緑に包まれた斜面をゆっくりと昇る道、セキタンザンは大きな足と重たい身体を木々の作る細い獣道の中でもうまく進んでいかなくてはならない。
そうして落ちて土を覆う葉をじっと見つめていた時だった。突然激しい地鳴りがして、ぶんぶん、と枝葉が揺れた。木の枝や、木の実、木の葉がばらばらと顔にぶつかり、松脂と土の匂いが一気に強くなる。
ぼくは慌ててセキタンザンの元に戻ろうとしたが、その場に聳える高い木にしがみつくので精いっぱいだった。まだ少し後ろにいたセキタンザンの上に、巨石がどどど、と降り注いだ。
ああ、この時とっさにでも、モンスターボールのほうへと手が回っていれば、きっとこのようなことにはならなかっただろう。ぼくは何度も繰り返し想像していた。
黒い身体は大きな白い巨石に撃ち抜かれ、茶色の土砂が覆いかぶさっていた。土の匂いに、嗅ぎなれた石炭の香りが混ざり、黒い粉が舞う。煙は上がり、暗雲が霧となって森の中に立ち込めた。
慌てて駆けよれば、既に意識はなく、倒れ伏した巨躯がそこにあった。頭と背中の山は、彼の身体と同じぐらいの大きさの白石に潰されているように見えた。
ようやくモンスターボールを思い出し、ぼくは慌てて彼を戻した。支えを失った岩ががしゃんと落ちて、ぼくのほうへと傾いたが、跳躍で木と木の間に逃げ込むことで事なきを得た。
すぐにスマホロトムと連携してふもとのポケモンセンターへと連れて行った。そして緊急的に治療を施し、なんとか一命をとりとめたものの、彼の顔の上部左半分は見事に形を失って、大きな凹みとなってしまった。
それでも、彼の命が繋がったと聞いたとき、吐いたため息の大きさは、おそらくぼくが無事いわジムに入れたときよりも大きく、人生の中で一番と言っても過言ではないだろう。
本当に、本当に安心した。大型ポケモン用の特別な病室で、座り込むようにして眠っていたセキタンザンの、無事に開いた右の眼はぼくの顔を映してくれていた。
だがしかしもうひとつ、ぼくはそうした彼に向き合うことが怖くて仕方がなかった。こんな目に遭わせたのは、他でもないぼく自身だ。ぼく自身の責任だ。
もし彼がぼくを見限ることがあったら――それはぼくのいわジムリーダーとしての威信や沽券に関わるあまりにも重要事項だ。
ようやく手にしたいわ専任タイプとしての自分の席が、作り続けた、そして今後も背負っていきたいキャリアが、彼の不在で揺らいでしまったら。
ぼくが彼に賭けているものは、何よりも大きいものだった。
その次に、ぼくを映した黒曜石の瞳が弧を描き、微笑んでくれた瞬間さえ、まるで天にも昇るような気持ちだった。
まだ彼は、彼の気持ちはぼくから離れていない。ぼくが賭けていたものが証明された瞬間。だがそれも当然のこととしてのみこんで、ぼくはただ静謐に謝った。
「すみませんでした。……ぼくがいたというのに、きみをこんな目にあわせるなんて」
「シュ ポー」
これほどひどい目にあったというのに、彼の眼の色は何一つ変わっていなかった。優しい、けれども猛々しさを秘めた温かくて強い、愛嬌のある眼差し。
戦うことをあきらめていない姿に、あまりにも変わることのないそのほのおに、ぼくの心にその温度が灯されるような、押されるような心地になる。なってしまう。
誰より彼の事を思うのであれば、ぼくが抱いた恐怖心こそを選ぶべきだった。
「……万全ではないきみを前線で戦わせるなんて……トレーナーとしては絶対にあってはならないことです」
「ボオ」
「……でも」
言うつもりのなかった言葉が、感情が、まろびでる。理論で抑えつけたはずの、幼いぼくの心がどうしても言わなければならないと叫んでいる。
「……でも、でも正直……ぼくは……きみだからここまで来れたのです。きみがぼくと一緒にいてくれるから……ぼくはこのガラルでいわタイプ専任のジムリーダーとしてやれている……。……だからこそ、きみに……誰よりも……誰でもないきみにこそ、チャンピオンの座をあげたいと……思って、います」
背筋や指先が冷えて、小さく震える。俯いた視線は、灰色の床の傷を見つめている。
「シュ ポォー」
「……この先は……行ってはいけないと……。ぼくが……ううん、『ぼくの中の母が』冷たく告げています。……でもぼくは……母と同じスタイルは選びたくない……。でも……でもきみを……無理を押してセキタンザンを戦わせるのも……ダメ……です」
「ボオ」
「……それでもきみは……きみは変わらずぼくの背中を押し続けてくれるのですね……」
彼の寄り添いは本当に温かい。いつだってぼくの懐の中に優しく温度を灯してくれる。セキタンザンは、出会ったときから今までずっと、ぼくの『勇気』そのもので在り続けた。
歪になってしまったその顔で、茶目っ気たっぷりに、得意げな笑みを浮かべる。
「シュボオ」
「……ぼくに付き合えるのはきみぐらいだと言いましたか? ……フ、誰に似て……」
「ボオ」
「……そう、ですね……。……ぼくたちは……ずっと誰も通らないような険しい道を……岩壁のような道を行くと……決めていたのはぼく自身です」
当然それとこれが違うということは理解しているつもりだった。だがぼくもセキタンザンも、駆動した蒸気機関の音は、鳴りやんではいなかった。
単純な能力的な問題としても、ぼくたちが掲げるいわタイプのイメージチェンジのことにしても、彼がケガを負った、視界を半分失ったというのは大きなハンデとなる。これまで以上に厳しい道のりになるに違いない。
ジムトレーナーとして師匠の母は同じリーグで競い合う相手だ。ぼくを見てどういうか、どう行動に出るかぼくなら予想が出来てしまう。
さらに見目に対しても、今まで以上に厳しい言葉を浴びせかけられる覚悟は必要だ。
それでも。それでもぼくは、ぼくたちはこのみちを進んでいく。
まだここは終着点なんかじゃない。ぼくたちは未来に向けて、進んでいく。