朝ははがねのように重たくて、こおりのように冷たい。
マクワは温かさがたっぷりと後を引く分厚い布団からなんとか這い出して、つい枕元の棚の上のモンスターボールに手が伸びかけたが、引っ込める。彼がいれば足も軽くなるだろうが、誰より身体が資本だ。まだ極力休めていて貰いたい。ぐうと気持ちを押し込めて、ベッドの横に揃えたスリッパを履き、洗面台へと移動した。
空気は冷え切っていて、室内でも頰にしみた。大きな鏡の中には、眠くて皺くちゃの顔をしたひとがいる。
真っ白でなその男はこおりを背負い、俯くようにじっとこちらを見つめていた。
丁寧に磨かれた鏡面ガラス越しに、重たい虚無が手を伸ばして首を絞めようとしていた。
鏡の横に備えられた棚にはたくさんの整髪剤や化粧品が並んでいる。そこに引っ掛けたヘアアイロンのコンセントを入れ、スイッチをONにする。
マクワは水道のレバーを動かし、陶器製の洗面台に水を開ける。歯を磨いてから、水道口からまっすぐ降りる水を両手で掬う。低過ぎる温度が手のひらいっぱいに乗り、さっと顔にぶつけた。
堅いような鈍い痛みが広がって、眠気が飛沫とともに飛んでいくようだった。
白い男のぱっちりとした丸いフロストブルーの瞳と視線が合う。ここからだ。この儀式が何より必要だった。ひとつずつ、マクワはマクワを倒してゆく。殺してゆく。
まず手始めに、顔の上にジェルを塗り、伸びる毛を髭剃りと共に短く整えて、化粧水を掌に零し、顔全体に広げた。
自信に満ちた顔色は、ぼやけた白い男を刈り取った。鏡越しのスタジアムの上、マクワはマクワのきゅうしょにねらってあてた。
もし自分が母親の跡継ぎとしてこおりタイプの専任ジムリーダーになっていたら、きっとここまで時間を込めて身支度をしようとは思わなかっただろう。
全てはいわポケモンとともにいるため。彼らの無骨なイメージを覆し、より魅力的で目を引く存在でありたい。相応しい自分でありたい。
憧れだけで一緒にいられるとは、最初から思ってはいなかった。
自分でないはずの自分を選ぶことは、怖くもあったが、だからこそ得られる充実も確かにある。何より一介のポケモントレーナーでしかない自分自身の『姿』を求めて写真集を買いたいと、わざわざ自主的にお金を集めてくれたひとたちがいる。
自分がいわタイプのポケモントレーナーとして在り続けるためには、彼らの応援は絶対に必要なことでもあった。ファンの期待も信頼も裏切らない。それが在りたいマクワ自身だった。
乳液と日焼け止め入りの下地を塗って、いわの土台を完成させた。
ヘアアイロンの周囲の空気が揺れ始めていた。手のひらを近づけ、十分に温まったことを確認し、内向きにまとまる髪の毛をすべて外側に向くように、しかし等間隔になるように、巻き付けるようにしてひとつずつ丁寧に癖をつけなおしていく。
寒さの残る朝には長く近づけて置きたくなるが、昔何度も髪の毛から甘く焦げる香りを出してしまったことを思い出して、間隔に気をつける。
下の方にボリュームを持たせることで、山成になる。いわの住まう山そのものも、刺々しさもいわの持つ魅力であり、デカくて強い証左だ。
内側に向く心が温まり、またひとつ白い男の虚無を倒した。
棚から小瓶に入れられたワックスを取り出し、指先ですくって掌に収めたあと、擦りこむように伸ばすと体温が伝わり柔らかくなった。
これが一番の魔法の原動力。ほとんど無臭だが、少しだけ木のような、海のような香りだけが残っている。
少し頭を傾けて髪を集めると、両手で拾い上げる。柔らかい癖のついた白と金のツートンカラーの髪。
ホワイトプラチナの髪は、ユキハミやダルマッカと一緒にいるとよく見分けがつかなくなる、と同じ髪質を持った母親に笑われたことがある。
つまりお前はこおりだろう。本質を隠した所で変わることはない。
母の力を受けた白い誰かの声が聞こえた。氷の色をした瞳が見つめている。
違う。隠すわけではないのだ。マクワは自分の髪を見る。
この色を持つ自分だからこそ、いわに出来ることがきっとある。
自分では一度も同じ白だと思ったことはなかった。確かにとても近い色をしている。ゆきやこおりの色よりも、金の色に馴染む白さだった。
全体にワックスを馴染ませて、前髪から全体をかき上げる。さっき作った髪の棘をしっかりと固めながら、たっぷりの大きな髪束を作って後ろに、左に持っていく。
これがマクワだ。大きくてふとましくて伸びやかで自由で、人気も実力も高い男。
鏡の中にあるのは、見る人が竦むほどに自信に満ちた笑顔。もうぼやけたこおりの男はここにはいなかった。これで今日もまた、一日自分であり続けることが出来るだろう。
母から受け継いだものを精一杯利用して、あるいは自分のものとして、今日もガラルというステージの上に立つのだ。
しかし、完成にはまだ距離があった。このままでは絶対的に足りないものがある。
マクワは着替えを済ませ、寝室に戻ると棚の上のモンスターボールをひとつ投げた。
いわに包まれた炎が揺れて輝き、軽やかに温かさが広がった。
「朝です、食事にしましょう」