黒の中は呼吸がしやすくて、不思議なほど居心地が良かった。
全ての予定も訓練も終えてから拝借したジムの社用車を転がして(当然ガソリンやメンテナンス代は自腹で支払うつもりだ)、しばらく進んだ先の真っ暗な道を進んだ。窓を全て閉めていてもキルクスの街の中とは全く違う香りと雰囲気が、車中を包み込むこの感覚がお気に入りだった。
数メートル先でさえ、車のライトが無ければなにもわからないだろう。時折がさがさと触れてくる木の枝や、踏み越える石たちのごろごろした感触。
路に根を伸ばした雑草や砂を巻き上げた時の雑多な香りは、人里から離れた証拠のようで妙に気持ちを昂らせていた。車一台がようやく通れるような細い道を進んでいき、少しだけ開けた部分に軽自動車を停めた。
片手に懐中電灯を持ち、それからモンスターボールを取り出して投げた。
ぱちぱちと火の粉が弾ける音と、紅い輝きが暗い夜道の中で瞳孔を燃やしていく。周囲の温度がふわりと温かくなって、半分眠そうな顔をしたセキタンザンが姿を現した。
そういえば今日のこの行軍はあまりにも突発的だったので、相棒にすら何も言っていなかった。
「この先に行きたいところがあるのです。付いてきてくれませんか」
「シュポオ」
当然のように石炭のバディは頸を傾げていた。それもそうだろう、こんな真っ暗間な森の中は、通常であれば危険地帯になる。いつポケモンが出てくるかもわからないし、何より道を迷って遭難する危険さえあった。それはぼく自身も良く知っていて、バディにも口酸っぱくして言っていることだ。
「……ちょっとした訓練です。きちんと目印は付けていきますから大丈夫」
そうしてぼくは反射加工のされた紐の入った透明な袋を鞄から出して見せた。懐中電灯を当てるとちかちか光って眼に痛いくらいだった。
早速車のミラーに取り付けて光を当てて見れば、暗闇の中でもはっきりと居場所を主張するようになった。
「それにきみの輝きもありますからね」
「ボオ」
セキタンザンはよくわかっておらず、しかしバディたるぼくに頼られていると理解してくれたのだろうか。少しだけぼくに近づいた。
「この細い道を辿っていけば行き先が出てきます。行きましょう」
照明をあてた先に、小さな看板があり矢印が書かれていた。その先の細い道はひとの手が加わって小さな階段が作られていた。ぼくが歩きだせば、セキタンザンは慌てて前に出てくれた。
光が必要だと悟ってくれたのだろう。本当に賢い相棒だった。
「ありがとう、道はぼくが案内します」
風が吹き、夜行性のポケモンがわななく声が聞こえてきた。むしポケモンや、ゴーストポケモンもいるだろう。セキタンザンは周囲を見回しながらゆっくりと前を歩いていく。ぱきぱきと枝を踏み抜く音が小気味良い。
今日は新月で夜空の灯りが少なく昏いはずなのに、星の姿もほとんど見えなかった。ふわりと開く木の枝の影との境界はない。まるで全てが影のようだ。ぼくは大きく息を吸い込んだ。
今日の昼間、控室でじっと考えていたことを思い出す。結果は芳しくなかった。
それは全てポケモン達のせいではない、ぼくが彼らを上手く導けなかったせいで、砕かせたのはぼくだった。
「シュポォー?」
賑やかで、でも確かに閑静な森の中をセキタンザンの呼び声が響いた。
少しセキタンザンと距離が空いてしまったことを気にして、後ろを振り向いて待っていてくれた。
「ああ、すみません。……ちょっと足場が悪くて」
「シュポォ……」
彼の尖った瞳がぼくをじっと訝しむように見つめた。
「大丈夫。行きましょう、それほどかからないはずです……ああ、ありがとう」
ぼくは近くの木の枝に灯りをあてながら、手を伸ばし、反射紐を括りつける。両手が塞がってしまう分、セキタンザンがぼくが両足の間に挟んで手元を照らしていた懐中電灯を拾い上げて、持ってくれた。気の利く相棒だった。
「……真夜中はいいですね」
「ボオ」
「なんでもありません」
それから何も言う事はなく、十分程だろうか。最初は小さかった水の音がどんどん近づいてきて、湿気の香りが匂いたつようになった。近くに川があるようだ。光を照らしてみても見つからないので、おそらくはあまり大きくはないものだろう。
十分注意をしながら数回紐を括りつけながら歩いていくと、入り口にあった木材で舗装された階段が再びぼくらの前に姿を現した。それを登っていくと、その先にはバラバラになった大きな石があった。
その石屑たちは、よくよく見ると建物の基盤として作られたもので、奥の方にはまだ壁としてなんとか形を残し、窓として切り抜かれたらしき穴も残っていた。
もっとも穴の間には硝子も何もなくなっており、長く伸びた蔦や苔がぐるぐると取り巻いて、今は自分の居場所だと言っている。ここはれっきとした廃墟の跡だった。
「シュポォ」
「はい、ここが……今日ぼくたちが来たかった場所です。野生のポケモンは居なさそうですね、よかった。大昔の……偉い人が立てた家の跡だそうです。風化してもなお残るいわの土台……すばらしいですね」
「ボ~」
「でも真っ暗だ」
ぼくはうっすら笑うと、懐中電灯の光を当てて、割れて削れた岩のひとつに手を伸ばす。しっかりと埋まったまま動く気配はない。とても立派なものだ。
その時、ぼくの手元の懐中電灯の光がちかちかと瞬きを始めた。そしてあっという間に灯りは力を失って、辺りを黒が塗りつぶした。
何度か電源スイッチを押してみたが、びくともしない。ポケットを叩くが、紐以外の重たいものもなかった。鞄の中にも見当たらない。予備の電池は車の中だった。
「シュポォ!」
セキタンザンが、がさがさと音を立てて何かを拾い上げると、その場でふうと炎を吐いた。赤い光が拾った枝で作った即席の松明を照らしていた。
それをぼくに向けて差し出した。あまりにも明るい輝きだ。
「眩しい……。ありがとうございます」
セキタンザンの背中の赤炎が、石炭の岩と岩の間を走って瞬いている。まるで地上の星座のようだ。ぼくはその松明を受け取ると、セキタンザンをまじまじと見つめた。
いつも見ている橙の輝きは、今唯一地上を彩っているものだ。柔らかくて逞しいいのちの灯火。
時折空気を揺るがして、その熱が世界の中へと溶け込んでゆく。
「星のない夜が……好きです。きみの姿が一番映えるから 」
「シュポォー」
ぼくは片手に松明を持ち、その石柱に腰かけた。めらめらと燃えるセキタンザンの一部は、ぼくの頬を照らして温め続ける。
ぱちぱちと火の粉が弾ける音に混ざって、遠くで川のせせらぎの音が聞こえてきた。
「……あーあ、スタジアムの光が全部きみの放つ光だったらいいのに」
「ボオ」
「そうすればいい……? そうですね、ぼくときみなら出来る……。あんなの吹き飛ばすくらい造作もない……でも今日は出来ませんでした。あれだけ訓練しているのに……ぼくは……」
風が吹く。掲げる左手の中の炎が揺らめいて、小さくなる。ここにはスタジアムを照らすスポットライトも何もなかった。
「……もういっそこの黒の中に溶けてしまいたい……。……きみと同じ色になるには……どうしたらいいかな」
「シュポォー」
セキタンザン座が時折小さな赤い星を生み出しながら、ぼくの方へと近づいてくる。真っ赤に燃ゆる星の輝きは確かな温度を持ってぼくを照らし出す。
今のぼくはきっと真っ赤に染まっているに違いない。それはぼくのもともと持っている色素のせいだ。いや、そもそもぼくたちが視認している色は光が放つもので。
「……そうですよね。どこまで行っても結局ぼくはぼくで……。ぼくはぼくだからきみと……同じ夢を分かち合える」
「シュ ポォー!」
「ぼくが独り占めしては……いけませんね。皆さんにこの輝きを知らしめたいのはぼくですから」
セキタンザンは何も言わず、その黒い瞳で弧を描く。
「折角ですからここでキャンプして一晩過ごしていきましょう。たまには……付き合ってくれるでしょう? きみと朝日を見たいから」
ぼくは荷物からキャンプセットを取り出した。野生のポケモン避けだけはしっかり行った。
でもぼくには最強の相棒が隣にいてくれる。温かい闇の中で眠るのだ。
何も見えなかったはずの夜空には、木の枝たちが伸ばす腕の中で、ぽつぽつと細やかな星々が瞬き始めている。