子供のままで

俺のこころの玩具箱の中に、しまってある景色があった。

くちゅん。狭い洞窟に、ひとの発した息の音が響き渡って、白い息が煙となって立ち昇った。
緩い青色の光が零れる外の景色は、はらはらと雪が降りはじめており、辺りは急に温度を失い始めていた。
幼いマクワは分厚いハンカチを取り出して、顔を拭う。

「……今日は一緒に外へ行こうと思ってました。……でもこの天気では危険だから……やめておきましょう。ぼくも勉強のつづきをすることにします」

ため息交じりの言葉は、その優しい色をしたタオルハンカチに半分ほど吸われていた。
ああいうもこもこした素材はタオルというものらしい。
マクワはよく母親の話をする。彼女から譲られたものかもしれないと、なんとなしに思った。
俺は車輪を動かして、マクワに近寄った。少しだけ頭を傾けると、しっかりしたズボンの布地に触れた。身体の奥の方に力を入れてやると、ほんのりと湯気が上がった。
丸くて青い、澄んだ硝子のような目がぱちぱちと瞬きしながら俺を見下ろす。それからその場にしゃがみ込むと、俺の上に手を乗せた。

「……温かい」

ほんの少しだけ和らいだ表情を、もう少しだけ、発熱する力に変えてみせたのだった。

ぱち、と音が響き、それから少しの時間差で蛍光灯の光が瞬いた。年季の入った電灯は、しばらくその灯りを揺らがせながら、埃の被った棚や機材を照らし出した。
俺にはよくわからないが、よく人間が家の中に入れているはずのものだ。しかししばらく使われていないことは、積もったものの分厚さでよくよくわかった。
マクワは持ち上げた髪を震わせながら小さく咳き込んでいた。

「……当たり前ですが埃が凄いですね、この倉庫の中……。早く用事を済ませてしまいますね」
「シュポー」

殆ど隙間みたいな家具と家具の間をマクワは歩いていく。ここはキルクスにある、メロンさんの家の庭に建てられた物置小屋の中だった。
マクワが半分飛び出すようにしてこの家を出て来てしまった矢先、いくつか忘れ物があるのだという。
メロンさんが仕事で顔を合わせない内に、探したいものが何やらあるらしい。
マクワは俺が通れるように道を作りながら隅まで進むと、天井まで積まれたプラスチックの箱の前に立った。

「セキタンザン、申し訳ないですがぼくの足場になってくれませんか」
「ボオ!」

俺はすぐに両手を差し出した。その為に呼ばれたのかと思うとちょっとだけつまらないような気もしたが、それよりもマクワの探し物の方が気になった。
彼は礼を告げると俺の両腕に足を掛け、両足で立つ。俺はゆっくりとマクワを持ち上げて、その高い箱に手が届く様にしてやった。

「……ああ、この一番上の箱です、間違いありません」

マクワがプラスチックボックスを両手で抱えるのを確認すると、再び彼を床の上に降ろしてやる。分厚くて大きな埃がぱらぱらと舞っていた。
箱を近くの棚の上に降ろし、白い手が両脇の留め具を外し、中を開いた。そこにはたっぷりの紙を挟み込んだ冊子がぎっちり詰まっていた。かつて使っていた勉強の道具だろうか。
マクワは更にその本の山を取り出して箱の横に並べていく。

「……あった。ジムリーダーになった今……改めて読みたいと思っていたのです。母が書いて発行した本をぼくにくれたものと……リーグの記録本です」

しっかりした表紙が美しい本と、もう一つはずいぶんと太くて大きな本だった。

「それと……これ」

本たちの山の奥に、ひっそりと隠れていたのは、ヨクバリスが描かれた小さな玩具の缶のケースだった。見た目よりも重たそうで、しかし時折中の物がぶつかるのか、小気味のいい音が聞こえてくる。
マクワが爪を引っかけて力を入れると、擦れるような音を立てて開いた。土のような香りが漂う。缶を傾けると、中に入っているのはたくさんの石だった。
全て黒だったり、昏くて重たい色をしたものばかりだ。

「……きみが喜びそうだと思って拾ったのですが、よく調べてみたらあまり使われない成分のものばかりで……でも捨てるに捨てられず、ぼくのコレクションになってしまった石ころたちです」
「シュポォ」
「……どうですか、ぼくにも一応……ずっといわタイプでありたい気持ちがあったのですよ」

それは俺が誰より身をもって知っていると思っている。他のポケモンを育てている癖に、俺をボールの中に入れたのはマクワだった。

「幼い子供の……密かな抵抗でしょうか。……でももうこれは不要になりましたので、捨ててしまおうかと」

マクワは再び缶に蓋を付けた。そして目当てのもの以外を全て箱の中に仕舞うと、同じように元の位置に戻してしまった。もちろん手伝ったのは俺だった。
荷物を抱えて倉庫の外に出ると、ガラガラとシャッターを下ろした。
キルクスの柔らかい陽射しが降りてきて、マクワはサングラスを付け、光を反射させた。ちかちかした明かりが直接目に入って、思わず瞬きをした。

「子供のままだったら……きみとはこうして一緒に居られなかったでしょうね。ひょっとしたらタンドンのままだったかも……」
「シュポオー」
「……ぼくはずっと大人になりました」

サングラスを抑えて、マクワは家の裏へと歩いていく。そして敷地から出ると、林の中に入り、砂利の多い場所に立った。そして缶の中の石をばらばらと撒いてしまった。
一か所に固まらないようにという配慮なのか、ひとの白い足で散らしてゆく。

「……シュポォ」
「これでよし。……それではこのまま退散しましょう、いつ帰って来るかわからな……くちゅん!」

マクワが盛大にくしゃみをした。埃っぽい所にいたせいなのか、それとも。

「……なんですかその眼」
「シュ ポォー!」

俺は笑って鳴き声を上げた。俺のこころの箱の中から取り出したのはあの洞窟で見せた、くしゃみの仕方だけではない。
何かあると母親を避けてしまう所も、ずっとずっと変わっていない。
俺だけが知っている、バディの変わらない姿だ。気が付けば、もうあの捨てた石たちに対する気持ちは遠ざかっていた。
俺のバディはたくさん戦う術を身に着けて、誰より早く大人になってしまった。なろうとした。だけれど、だからこそ。まだ子供のままであり続けているもの。
俺のこころの玩具箱の中に、そうっとしまい込んでいく。