目の前にぼくが立っていた。
ここは家の中でもなければ、鏡面が立っているわけでもない。向こう側には青い海が広がっていて、足元には短い草が生えそろい、雄大なヨロイ島の上だということがわかる。
今の今まで野生のポケモンたちと戦う訓練をしていて、日も高くなったので一度休憩をしようと場所を探していたところだった。
今まで近かった磯の香が遠ざかり、焦げた石炭の香のようなものがずっと貼り付いているような感覚になっている。しかし音に関しては割と敏感なのか、ひとつひとつの草が風で揺れる音の違いがここまで届いた。
それとうまく言い表せようもない、微弱な振動のようなものが両足のずっと奥、脹脛のあたりで揺れているような感覚がある。全く持って慣れないので気持ち悪いのに、それを感じているとなぜか落ち着くような気持ちになるという不思議な状態だった。
何より驚いたのは唐突に変化した自分の視野の広さだ。まるで顔の横、肩にも目が付いているようで、目を動かせば丘の上にある森から広い海までを一望することができた。
そしてぼく背丈格好すべてそっくりで、ぼくの顔と同じはずのものがにこにこしながらぽかんと口を開けて笑っているのも、顔を動かすことなく見えるのだ。
気が付いた時、いきなり同一人物が目の前にいるなんてひどいホラーだ。自分でいうのもなんだが、簡単にはひとと被らないような恰好をしているつもりだ。真似される以外では
ぼくにしか見えないこのぼくの笑い方は写真の中や動画、鏡の中では見たことがない。けれど何故かいつも見ているような気がする、よく知っている笑顔。ふと自分の腕を持ち上げて見下ろせば、そこには真っ黒なセキタンザンの腕と手があり、自分の身体にくっついていた。
それが意味することは、つまり。
「……ぼくは……セキタンザンになっている……?」
「シュポォー!」
「どこから声が出ているのですか!?」
目の前の『ぼく』がセキタンザンの鳴き声を発した。それと同時にセキタンザンの身体になっているぼくは、普通にひとのこえと音を発している。セキタンザンは人間ほど精密な発音器官をもたないし、同時に人間もセキタンザンと同様の発音ができるはずがない。
詳細は省くが、呼吸器官がサイズから根本的に全く違うためだ。多量のほのおを燃やしていのちを働かせるセキタンザンはより酸素を取り込みやすいようにできている。
原因は先ほどキョダイイオルブと戦ったせいだろうか。能力入れ替えのエスパー技である、マジックスワップを使っていたことも覚えている。制御しきれなかったエスパーパワーが残っていて、変な方向に作用したとしていてもおかしくはない。
ぼくらの身体と精神といわれるもの(ゴースト使いなら魂というのだろうか)が綺麗に分離されたうえで入れ替わってしまったのか。なんとも都合のいいことだが、ポケモンのせいならしょうがないとあきらめもつく。
「いや……ええと……セキタンザンが……ぼくということですよね……?」
「ボオ!」
ぼくが――いや、セキタンザンの精神はぼくの身体でにこにこ笑って頷いていた。言いたいことはあったが、それよりも今、ぼくが動かせるセキタンザンの身体がある。
大きな両手を持ち上げてこぶしを作り、握ったり閉めたりしてみる。それから両足を上げて、歩いてみる。人よりも可動域が少ないセキタンザンの足は、重たくて歩きづらいものだった。
足を動かしたときに、さっきの振動のような感覚がゆらゆらと変化するのがわかる。なるほど、これは人にはない感覚器官なのだ。地の動きか、あるいは磁場か、それ以外なのかはっきりと知ることは出来ないが、とにかく人間には知ることのできない感覚を享受している。
そして今の状態であれば、身体は安心ができると判断しているらしい。
見守る『ぼく』に背を向けながら、ずるずると引きづるようにして、一歩、二歩とようやく進むことができた。
「……きみは……いつもこんなふうに動いていて、こんな光景を見ているのですね……!」
そう、ポケモントレーナーとしてのネックは、自分が人間である限りパートナーの心身についてはひたすら学び、そしてそこから想像するしかないことだ。もちろん近づくことはできる。
でも実際に見たり体感することはできないのだ。それがまさかこんな風にセキタンザン自身となって、その心身を理解することができるなんて。
「フフ……デカい……! 鍛えてるのに体が重たくて……ううんやっぱり筋肉ないからジャンプしづらいんだな……」
それから思いきり息を吸ってみれば、びっくりするほど身体の熱があがった。背中だけではなく、奥底からほのおが燃えているのがわかる。そしてぱちぱちとひのこが弾けて、海風に舞い上がった。
近くに木がなくてよかった。燃え移っていたかもしれない。
セキタンザンはいつもこういったことを理解して、きちんと制御しているのだ。ああ、本当にすごい生き物だ。
今みずを浴びたりほのおを浴びることができれば、きっと蒸気機関の働きがわかるに違いない。試してみたくてたまらない。
ふと見下ろせば、ぼくが……セキタンザンが座って見上げていた。なんだか足を広げているのに広げ切れていないような、変な体制だが、セキタンザンが地面に尻をつけるとき、両足を広げることはよく知っている。
彼も人間の関節の可動域がよくわからなかったのだろう。
「……って、いやはしゃいでいる場合ではなくて……」
いつ戻るか、本当に戻るのかもわからない。大抵は時間経過で元に戻ることが多いことは知識として持っている。一時的にエスパーパワーが残ってしまっているだけに過ぎないからだ。
だがそれにしても、ただぼくのことをにこにこ笑ってみているセキタンザンだった。
「……きみは……あんまり……。いや……なんでもありません。それでこそきみ、ですから……」
「シュポ?」
セキタンザンはぼくの顔で首を傾げて、ゆっくりと瞬きをした。
自分の姿なのにずいぶんとポケモンっぽい仕草で、妙な事だがかわいらしく見えてしまった。それからじっと前に視線を移したかと思うと、丘を少し下ったところで急にしゃがみだし、その場で後ろに跳躍した。ぼくが行うバク宙の再現だ。
筋肉の使い方がわからなかったのだろう、両足の膝の変な場所に力が入っていて、高い跳躍ではあったが、すぐにバランスを崩し、着地を失敗することは見て取れた。
ぼくは慌てて彼の後ろに入り込み、地面に落ちる前の自分の身体を両手で受け止める。
「だ、大丈夫ですか?」
「ボオ!」
ぼくの顔をしたセキタンザンは嬉しそうに、ちょっぴり照れたように笑いながらぼくの顔にすり寄った。加減がわからないのか、背中の炎に近づきそうだったので、少しだけ場所をずらして受け止めた。
今の彼は人間なのだ、ほのおはセキタンザンごと燃やしてしまうだろう。
「きみもバク宙に……興味ある?」
「シュポォー!」
「そうか……。フフ、そっか……」
なんだか心に蔓延っていたつまらなくて冷たいものが溶かされていくような気がした。
彼はたとえ姿が違ったとしても、ほのおタイプを宿すセキタンザンに違いなかった。
ぼくはぼくの姿をしたセキタンザンを降ろし、今度はぼくが両足に力を入れて見せた。
「……もう少しだけきみの身体を理解してみてもいいですか? 技はどうやって出すのかな」
「シュポー」
「ええ、それじゃわかりませんよ……。ううん……力を……うわっ!?」
身体の中になにかぬるりとしたものが動いた気配を感じたと思った瞬間、口の中からどろりとした黒い液体が飛び出てきた。タールだと理解したが、それはすぐにぼくの――今はセキタンザンのである顔を真っ黒に濡らしてしまった。
「ゴオ、ゴオ、ゴホオ!」
「ああ、すみません。いま拭きますから……」
思い切り顔を覆ったそれは、口と鼻をふさいでしまったらしく、セキタンザンはぼくの顔を大きく振って、振り払おうと咳き込んだ。
ぼくが下げているかばんのジッパーを分厚い石炭の指でなんとか挟み、かばんを開くと細やかな道具が綺麗に揃えられて入っている。人間の指ならばすぐに出せるが、この大きな指では目当てのタオルですら他の物が引っ付いてくる。
苦労しながらタオルを取り出すと、一生懸命両手でタールをとろうとするぼくの顔をごしごしと拭った。粘着性の高い液体だ、どうしてもすべては取れず残ってしまうが、それでも気持ち悪くないだろうと想像できるぐらいにはきれいにすることができた。
しかしせっかく朝長い時間をかけてセットした髪も、どろどろになってしまった。
「シュボ!」
セキタンザンはぼくの顔で心の底からうれしそうに笑った。ぼくがどうのというよりも、世話をしてもらえたことがうれしいように見えた。
「きみは……いつも通りですね」
「ボオ」
「それがよいところ……です。でもおかげでタールショットについてはわかりましたよ。ほのおを吐いたり、あとはストーンエッジをだしたり……試してみたいことはたくさんあります」
「シュポー」
ぼくは再び大きな指でタオルをカバンの中に戻す。
「このまま……戻らなかったらどうしますか?」
「シュポォー」
「……そうですね。……ぼくはいっそこのまま……。……ああでも……きみの顔が見えないのは……少しさみしい……かな……」
ふと目に留まったのはボールホルダーだった。
「そうだ、モンスターボールに……戻ってみたいです。中はどうなっているのでしょうか」
「シュポ?」
黒い指で今は空っぽの、セキタンザンのモンスターボールを選んで取り上げると、首をかしげているぼくの手に乗せた。
「真ん中のボタンを押してみてください」
「ポー!」
ぼくの顔をしたセキタンザンは頷くと、言われた通りに手の中のボールのスイッチを押し込んだ。間から光が放たれ、セキタンザンであるぼくのもとにまぶしい光が集まった。
目の前が光でいっぱいになり、あまりのまぶしさで思わず目を閉じた。説明は聞いているが、実際セキタンザンの身体からして、狭いのだろうか、それともずっと広いのだろうか。
温度は体感安定しているのだろうか。新しい体験と期待にわくわくした気持ちでいっぱいになる。ひょっとしたら改良が必要だと思うことが見つかるかもしれない。
ポケモンを身近に感じられることは、トレーナー冥利に尽きる。
そして再び目を開くと、そこは海を一望する丘の上だった。どうやらセキタンザンがボールに戻ったことで、ワザの効果が終わってしまったらしい。
目の高さはあまり変わらないが、馴染みのある大きさの中で広がる海をどこまでもまっすぐ見据えていた。その中に森が入ってくることはなく、さっきよりもくっきりと世界が見えているような気がした。意外とセキタンザンは近眼なのかもしれない。
確かに洞窟や山の中で生活するのであれば、それほど遠くを見渡す必要はないのだろう。
あっという間に状態変化が終わってしまったことは残念だったが、その代わりにまたひとつ気が付いた新たな収穫だった。
ポケモンにまつわる不思議な出来事は、いつも唐突に始まって唐突に終わるのだ。ひととは全く違う生き物とずっと隣に居続けるためには、不思議に対して寛容でいなければならない。
これもきっと、誰かから教わったことに違いなかった。
ぼくは白い掌の中に収まった紅白のボールをそうっと両手で抱きしめて、ボールに詳しいひとからもう一度中について話を聞こうと決めたあと、次は真ん中のボタンを押した。
あの人好きする、ぼくの顔ではない本物の笑顔に会うために。