きみと最後に会った日

ちょうど一年前の今日、きみと最後に会った日。
それはぼく自身との別れの日であり、同時にすべての覚悟を決めた日でもあった。

母と袂を分かつ。しかしそれが簡単なことではないことは、ぼくが誰より知っていた。
母はぼくを後継ぎにするために、心血のなにもかも、ありとあらゆるすべてを尽くしてくれていた。ポケモンに関するあらゆる知識、トレーナーとしての心構えや常識は、今も母親からすべて叩き込まれたものだ。ぼく自身の時間のほとんどはぼくの手中にはなく、座学から実践訓練までを行う母が一秒刻みで管理していた。
母はこのガラル地方有数のトレーナーとして名を馳せている。彼女が培ったものをこれほどまで与えてもらえるぼくは、このトレーナーという職業が強いガラルの中で、なによりも強力な剣となり、ぼくをまもる盾にもなりうるだろう。
しかしそれはぼくにとって何物にも耐えがたい拘束の糸が、喉元で呼吸を縛り付けるものだった。
それはどこまでいっても母だ。ぼくと母の境界線が、まるで雪に埋もれてしまったかのようにみつからない。
母の栄光をなぞり続けるぼくはただの母親のこおりの糸に繋がれた繰り人形だった。
ぼくが独立したいのだと伝えたとして、はいそうですか、と簡単に返事をもらえる相手ではないことも、ぼく自身の細胞という細胞がその身に刻んでいた。
それは経験もあったし、きっと母から別れて生まれた身体だからというのも、少なからず理由として存在していただろう。
シビアで非常に厳格な母だ。まず自分の実力を見せなければ、最低限の説得はかなわない。見せたとして、祝福してくれる可能性はないにも等しい。それはぼく自身の願いとして存在してているもの。
ぼくの細胞の、母とは違う部分のどこかひとかけらにしか存在していない。もっとも母から生まれた身体にそんな場所が今存在するとも思えないが、ぼくがこうして腹を括ったことだけがわずかで力強い希望の破片だった。
だからこそ、ぼくが見つけた新しい出会いは必要不可欠だったのだ。ぼくが選んだそれそのもの。母でもなければぼくでもない、全く新しい外部のいのちの存在。
きみはずっとぼくと共にいた。いてくれた。それだけで何より心強いことか。
きっとこの分厚すぎる親子の癒着に風穴を開けてくれる。
そう、まさに一石を投じてくれるはずのものだった。

だがしかし先ほども言ったように、母に対して実力を見せつけなければいけない。
少なくともきみとぼくの関係が、今まで通りであってはいけなかった。
きみと出会うために……ぼくはきみとお別れをする。ぼくが抱いた憧れに近づくのだ。

その記念すべき日は、ぼくが設定した。そこに至るまでの過程もすべて緻密に計算し、メニューを組んだ。そう、これがぼく自身がトレーナーとして始める第一歩だ。
こんなことは母にだって教えてもらっていない。トレーナーとしての心得も、指示を出すタイミング、動き方のひとつひとつの細やかなものだって、なにもかも受け売りでしかないぼくが。
だからではないが、メニューを作るのは本当に楽しかった(だってポケモンのことを試案するのはたのしかった。これも母の糸の残りかもしれなくともそれでも持ち得て悪くない糸だ)。
だってきみのことを堂々と考えて、しかも実践までしていられるのだ。これほど幸せなことはない。もちろん初めてのことだ、組んだメニューも実際に行ってみれば、やれ詰め込み過ぎだの、今度は運動量として偏りがあっただの、組み直さなくてはいけないこともままあった。
もちろんプレッシャーはあった。必ずこの最初にセッティングした別れの日程だけは絶対だ。
あまりの不甲斐なさに部屋にこもって奥歯をかみしめ続けたときもあった。
ただきみと一緒にいたいからだ。ぼくがきみのことで把握不足があることが悔しかった。きみのことで予想できなかったことがもどかしかった。
それはそれまでのぼくになかった知識だ、当然のことだろう。
ぼくはこおりタイプのポケモンについての知識と経験は他人よりも深いと自負しているが、いわタイプのポケモンに関しては完全に初心者だった。
きみに届かないような、遠い距離があるような、そんな気持ちさえ抱いていたことだってあった。

それでもきみはずっとぼくと一緒にいてくれた。それがなによりぼくの自信になったか、きみはきっと知らないだろう。
だからぼくはきみとの約束は必ず守る。少々強引だが、必ずきみを強くするという盟約だ。
きみは戦い慣れしていない、どちらかといえば和平を望む種族のポケモンだ。それを戦いに繰り出しているのはぼくに他ならない。もちろんポケモンはみな強さを求める生き物でもあるけれど。
ガラルはそんな彼らと強さを臨める環境を整えてくれたひとたちがいるのだ。その良さをきみにも伝えていきたいと思っていた。
きみはそんなぼくたちの世界で共にに生きてくれると肯いてくれた。

峻厳なトレーニングを幾度も乗り越えて、ぼくが指し示す羅針盤の先、その日はやってきた。午前中に野生のポケモンたちから連続で20回ほどもぎ取って、突然変化は現れた。
戦いを終え、去っていくポケモンの背中を見送り、次の場所へ移動しようとした。だがきみの車輪はうまく動かずその場の砂をぐるりと巻き取った。そうしてぎゅっと目をつぶった。まばゆい光が黒い体を包み込んだ。

「……やってきたんですね。予定通り……です」

きみは肯いた。とうとうお別れだ。ぼくはその石炭の頭を撫でた。
ごつごつした感触が手のひらをほのかに温めた。
きみは連れていく。ぼくの迷いも未練も、そして母の影でしかないぼくのことも。

「……さようなら。……そしてようこそ、新しいきみ。ぼくが出会いを待ち望んでいたきみ」

身体を包む光がいっそう強く激しくなり、見つめる目が痛みを発し始めてきたころ、その輝きは突然ぱたりと消え去った。
そのあとには、もうきみではないきみがいた。背に積まれた石炭の山はぼくの背よりうんと高く、辺りの空気を歪ませるほどのほのおを抱いている。ぱちぱちとはじける火の粉は時折岩の埃っぽい香りと焦がした香りを運んだ。
その体はぼくなんかよりもずっとずっと重たくて、ずっしりと落ち着いていて猛々しい。
両手と両足が出来たのがうれしいのか、手のひらを握りしめたり開いたりしたかと思うと、今度は腕を大きく開いて見せた。
黒くて丸い目が弧を描き、ぼくを見下ろした。
『きみ』でなければ、あの母に到底勝てるとは思えない。そしてきっちりポケモンを育て、進化させることが出来る自分は、立派なトレーナーの証左に違いなかった。
実績は、ぼくの胸を輝かせる勲章だ。その裏にある戻れぬ心には目を向けぬよう、青いサングラスを掛けることで閉じ込めた。

「……尖った目、お揃いですね」
「シュポォ!」

俯いたぼくはつるを抑えて、もう一度きみを見た。

「……改めてはじめまして、セキタンザン。ぼくとともに……ガラルでいちばんのトレーナーとポケモンになりましょう」
「ボオー!」
「ありがとう……ぼくの人生の剣のきみ。かならずきみの輝きをたくさんのひとたちに届けます。……だからまずは目前の試合で強さを見せつけましょう」
「シュ ポォー!」

ぼくはもう、勝負のスタジアムの上に立っていた。これがきみと最後に出会った日。
そしてぼく自身との別れと、二度目のきみとのはじめましてを続けた日。
ぼくは今もこの剣とともに、ぼくのいのちの居場所を切り拓き続けていく。
磨かれた赤い輝きと鋭い炭黒が、こおりを溶かしては砕き、勇ましい色を輝かせる。