快晴

土砂降りの雨を初めて見た。
大きな邸宅の一室、閑静な母の部屋の中。音も立てないその雨は、普段凪のように青く澄み切った母親の瞳に暗雲をもたらし、頬を濡らしていた。
ぼくは逃げるようにその場を後にした。もちろん、音を立てないよう細心の注意は払った。
いつだって勇ましく、試合中、たとえ最後の一体となり追い詰められてもその大きな瞳を輝かせるあの母が、まさか泣いているなんて思いもよらなかったのだ。
原因がぼくにあることはわかっている。朝、ぼくは母に自分の本当の意思を告げた。
いわポケモンに憧れていて、いわ使いになりたいのだと言い、そして既にその第一段階として、タンドンを連れていることも伝えた。これからいわジムの門戸を叩くことも。
あわよくば、笑って背中を押してくれるというのは、ほんの僅かばかりぼくが抱いた小さな希望的観測だった。だがしかし母が相当自分の跡継ぎに関して入れ込んでいることはぼく自身が何より、おそらく世界で一番身をもって知っている。
ぼくはこの世に生を受けた瞬間から、その祝福は全て立派に母の座を継ぐためという理由を紐づけられた条件付きのものだった。
その代わりガラルでトレーナーを志す同級生や、上級生に後ろ指を刺されたことは数えきれないし、羨望を向けられることも少なくはなかった。
一流選手である母のことは、当然誰もが知っている。その長男がぼくであることも。
魂を切り売りするような曖昧な環境の中、母がその身で蓄えた知識と経験全てを直接その身で学ぶことが許されていたし、だからこそぼくは将来こおりタイプのジムリーダーになることが決まっていた。
ジムリーダーという職業に就ける保証は、ガラルのトレーナーであればのどから手が出る程欲しいものに違いない。地位も名声も約束された、人々のまなざしを集める立派な職務がジムリーダーには課される。
もちろん母は身内だからといって容赦をすることはない。ガラルリーグは実力主義の厳格な場所だ。もとより自分のジムのトレーナーにさえ厳しいと評判のひとだ、跡継ぎと決定している相手に手を抜くことはしなかった。
今思えば幼い子供にさせることだったろうかと首をかしげたくなるようなものもあった。とにかく、凍えるような冷たさはぼくにとって母の代名詞となった。
そう思っているのも、おそらくこの世界でぼくひとりだろう。いや、こおりタイプのジムトレーナーであれば多少は理解してくれただろうか。
しかし母は、時に恐ろしい程の甘やかさを押し付けることで、ぼくから何もかもを奪おうとした。
自分の連れているバディを、ぼくのバディにしようとしたのだ。
母は自分の思うがままだったが、ぼくはなんとかそれにしがみ付いていた。そうしなければ失望されて何もかもを失うと、本気で思っていたこともある。
幼い子供だ、母親に見捨てられて、しかもポケモンさえ連れていないとなればどこにも行き場は失う。寒いキルクスの中でひとりで生きられるはずがない。
けれど初めて母がラプラスをぼくに譲るのだと言った時、ぼくの脳裏に浮かんだのは、初めてのポケモンを自分で選ぶこと、あるいは捕まえること、ずっと楽しみにしていたはずの経験が奪われてしまうことだった。
ぼくはぼく自身の新しい経験をしっかりとこの身に刻み、そして絆を深めた相手と一緒に居たかった。
きっと母のラプラスをぼくがバディにしてしまえば、また母はラプラスに対してもっと良い方法があるなどと言って強く口出しをしてくるだろうことは、手に取るように想像が出来た。
母が自分の育てたラプラスを譲られてしまえば、何もかもを失ってしまうと思った。それはもはや、スタイルの押し付けに違いなかった。
ポケモンが嫌いなわけではない。こおりポケモンのことも、繊細で美しく、そして特有の強さをもった彼らを尊敬していた。
リーグを席巻するようなポケモントレーナーにはなりたかった。ぼくであれば必ずなれるだろうという自信も少なからずあったのだ。
だが、とにかく母のやり方に「No」を突きつける必要があると思った。それも早急に。
でなければぼくがぼくでなくなる。枷付きのぼくに、呼吸が出来るとは思えなかった。今でさえ、母のやり方についていくことは簡単ではなかったのだから。
それからぼくが行動に移したのはあっという間の事だった。こおりに強いポケモンをぼく自身の力で手に入れた。
そして、ぼくはとうとう母の元から離れたい、いわタイプを極めたいのだと母に告げることが出来たのだった。
当然のように母は絶対零度で怒ったし、ぼくもそれに対抗した。絶対に譲らない硬い意志を示した。母は自分の部屋に戻っていった。その向こう、廊下の先にぼくの部屋があったので、半分だけ開いたままの母の部屋の扉を覗いた。
そこで見たのが、母の降らせた雨……もとい、涙の姿だった。
気丈で強く気高い母が、明るくて優しく頼もしいあの母が、まさか泣いてしまうだなんて。そしてその原因がぼくだなんて、信じられなかった。
口の中が乾き、それから胸の奥の方に震える熱くて重たい塊のような何かがあった。それが何なのかはわからなかった。ただ、暗雲はぼくの心にも分厚く鈍く立ち込めていることだけは理解した。
ぎゅっと口を結び、母の部屋を後にした。それから荷造りの仕上げをして、いわジムの下へと飛び込むつもりだった。
ばたんと部屋の扉を閉ざし、既に衣服や荷物が詰められた鞄を見ようとした。何かの角を思いきり踏みつけてしまい、痛みに呻きながらベッドの中に顔を押し付けた。
普段なら綺麗に整理しているはずの部屋の床の上に、無造作にものを置いて捨てていたぼくの自業自得だ。大きなテレビの電源が入り、画面はトレーナーの試合を映し出している。
スタジアムの中、キョダイセキタンザンが大きく吠えると無数の岩が現れて、相手の周囲を囲っていく。
もくもくと上がる煙はキョダイマックス・エネルギーを受けた赤い色とともに、彼自身の黒雲の色を保っている。
ぼくは思わずじっと見てしまう。キョダイセキタンザンはその大きな身体で苦手な水さえ受け止めて、たちまちスピードを自分のものにしてしまった。その鮮やかさと猛々しさが、きらきらと輝いて映る。こおりタイプのポケモンでは持ちえない耐久の力と、熱が生み出す力強さ。
あまりにもカッコよすぎて、ぼくの目は虜だった。
ぼくがテレビを見ていたことに気が付いたのか、ボールからタンドンが現れて、彼もいっしょになって画面の釘付けになる。いつもだったら叱るところだが、ぼくにはそんな余裕すらもなかった。
ただただセキタンザンのすごさに圧倒されていたのだ。

「……タンドン。ぼく……きみとこういう風になりたい……。どうかな……?」

ぼくが見下ろしたタンドンの赤い瞳は、ごうごうと燃えていて、画面の中で岩を生み出した時のセキタンザンの色そっくりだった。ぼくは同じ気持ちを抱いてくれていると確信した。
ぼくは反発する。ぼくは彼を利用する。母の檻から逃げるための、硬くて小さな鍵として。
そして氷を打ち砕く立派な岩石として。

「……うん……。ぼくはまだ……その……何て言っていいかわかりません。うまく言葉に出来なくて……。でもいつかぼくの心が……きみともう一度ちゃんと話せる時……。
必ずきみに伝えてみせるから……だからぼくの隣で……今一度バディになってくれますか」

タンドンはその小さな体で頷いてみせてくれた。もう十分すぎる程で、ぼくの胸の奥に溜まっていた温度がごうごうと溢れんばかりだった。
でも零してはいけない。ぼくはさっき見た母の降らせた雨を思い出して、目を瞑った。
瞼の裏に描くのは、真っ蒼に広がる空と吹き抜ける白い雲の下にいるぼくと、セキタンザンだ。天気晴朗の日、ぼくとセキタンザンは一緒にトレーニングをする。
バディはセキタンザンだ。きっとどんよりとした曇天みたいな煙がぷかぷか浮かんでしまう時もあるだろう。それでも、ぼくは描く。強く強く思い描く。
晴天の強い日差しの下、蒸し暑くてすぐバテてしまうような場所で、セキタンザンの熱がさらにぼくの居心地を悪くしてしまうような島の上で、ぼくたちは訓練をしたり、時にはポケモン勝負をするのだ。そんな毎日が当たり前の日が、必ずやって来るのだ。
その時にはきっといわジムの立派なジムリーダーを務めて、メジャーリーグの中心選手になっている。大丈夫。
ぼくの、ぼくたちの夢は、怒られるようなものでもなければ、哀しいものにもさせやしない。
母の双眸にも再び気持ちのいい輝く蒼穹がやってくる。いや、呼んでみせる。
それはいわタイプの魅力をもっとぼくの言葉で、身体全てで伝えられるようになった時だ。
それこそが母の夢を捨てて雨を降らせたぼくに出来る、最上級の親孝行だから。