その日はもともと調子が良くなかったのだ。普段ならまるまる大皿を食べる朝食も残してしまっていたし、慣れたはずのヘアセットにも時間が掛かっていた。
けれどもあまりに些細な変化を気にするよりも、相棒との日課のトレーニングに心を向けていたかった。
それも本土から離れた場所にあるヨロイ島へ向かうのだから、マクワは1秒たりとも無駄にしたくなかったのである。
ここでセキタンザンとトレーニングすることにも慣れてきた。
マクワの指示には素直に応えてランニングするのは当然で、野生のポケモン達との連戦も悠々とこなしてみせる。
強い日差しもセキタンザンのほのおの味方だった。
20戦程勝ちをもぎ取って、ふとセキタンザンが振り向いた時、バディの白い顔が真っ赤に染まり、滝のような汗が流れていることに気が付いた。息使いも浅く荒く見える。サングラスに隠れた目が時折明後日の方を見ていた。
「シュポォー!」
「頑張り……ましたね、セキタンザン……一度休憩に……」
まるで立っているのがやっとのように足元がおぼつかない。足がもつれて傾いた身体を、セキタンザンが慌ててキャッチした。
「ボオ!」
マクワのサングラスを外してやれば、すでに両目を閉じてしまっていた。呼びかけても応えない。ただ荒い心臓の動きだけが肉体の中側で見て取れる。
セキタンザンは皮膚感覚が人間よりずっと鈍いから感じることは出来ないが、普段のマクワの身体の動きのことであれば誰よりずっと知っていた。
マクワが肩から下げている鞄を探り、スマホロトムを引っ張り出した。
非常時にどうすればいいかなんて、セキタンザンにはわからなかった。
ロトムは目を覚まし、頭上を飛び交うとマクワの状態をカメラを使って覗き込み、オンラインから情報を掻き集める。
「ロト……これはおそらく日射病……いや熱中症かもしれないロト!
急がないと命にも関わりかねないロト」
「シュポォ」
「とにかくまずは安全で冷やせる日陰に運ぶロト。こっちロト。案内するロト」
スマホロトムは高く飛行すると、するすると岩山の方へ向かっていく。
向こうに深い洞窟があることは、セキタンザンも経験上知っていた。セキタンザンは背中の火力を小さく弱め、マクワを持ち上げ抱えると、そのオレンジ色の閃光の元へ追いかけていった。
◆
時々向かい来る熱気盛んな野生のポケモンを退けて、静かな池のほとりに辿り着いた。石床はひんやりと湿っていて、確かにここならマクワを休ませることが出来るだろう。
セキタンザンはまだ汗だくのマクワの額にくっつく髪を大きな指先でぴっぴと払いながら下ろした。
「取り急ぎ緊急連絡はしたロト! 急いで身体を冷やさないといけないロト。まず服を脱がせるロト。……マクワはタオルを荷物に入れてないロトか?」
「ボ!」
セキタンザンは言われた通りにマクワを下着姿にした。いつもなら嫌がるだろうが緊急事態なのだ、背に腹はかえられない。
それから荷物を探ると薄い汗拭き用のタオルが出てきた。汗でべたべたに濡れた顔と身体を拭いてやる。
「そしたら次はそこの池でタオルだけ水に浸して首周りに巻くロト。
あとそうだ、ボトルはないロトか? 水を汲んでマクワに飲ませたり、身体に掛けて冷やせるロト」
「ボオ……」
石炭の頭は横に振られた。きれいに整頓されたカバンの中に、いつも入っているはずの大きな飲料水のボトルが見当たらない。忘れてしまった場合、道中でよく購入しているおいしいみずだとか、サイコソーダの瓶さえも姿がなかった。セキタンザンが用途を知っているのは、ポケモン用の簡易フーズの袋だった。
「珍しいロトね。そんな大事なものを忘れるくらい……体調悪かったのかもしれないロト。とにかくタオルを水にロト」
「シュポォ」
セキタンザンはタオルを腕の関節に引っ掛けると、静かな水面が揺れる池の前に立った。
暗いはずの洞窟で、水底は蒼い光を帯びていた。流れは速くないが、全くないわけではない。この青さはおそらくどこか海に抜けているのだろう。
石炭の首を少し後ろに向ける。まだ真っ赤な顔のマクワのタンザナイトのつぶらな目が薄っすらと開かれ、菫色に染まって苦しそうに滲んでいた。
セキタンザンはまっすぐ池の中へと歩みを進めていった。
冷たい水は伶俐に体の温度を奪い、突き刺さる。痛みがべったりと貼り付いていく嫌な感覚。
「ロト! セキタンザン?!」
「……ダメ……ろとむ……とめて……くださ……!」
「ロトロト! あぶないロトー!」
たどたどしく声を上げるバディと騒ぎ立てるスマホロトムを背に、セキタンザンはどんどんと深い水の中に身体を進めていく。足場は細かい石が敷き詰められていて、まるで穴でも開いているように足を取られる場所があった。
そして足の深さになった所でしゃがみ込み、タオルを水に浸し再び腕に引っ掛けた。そして両の手を繋げた器で水を掬い取っていく。水を入れた二つの手のひらを腰の高さまで持ち上げれば、じりじりと削られるような感覚がくっついて痛みを伴う。
ぽたりぽたりと隙間から零れ落ちる水滴に、少なからず身体は安堵しているが、絶対に取りこぼさないようにしっかりと手と手の隙間を埋めた。
「……おねが……。……ぼ、ぼくは……だいじょうぶ……これはぼくの……じごうじとくで……」
マクワは何とか身体を横たえ、這いつくばってセキタンザンの元へ手を伸ばすが、滲む視界も茹った肉体もいうことをきかなかった。
その時、セキタンザンの巨体がごろ、と音を立てて突然傾く。小さな悲鳴が高い岩の天井に反響する。
「ゴオッ!」
「セ……キタンザン……ッ!!」
片方の足を下ろした場所の大きな石が傾いて、セキタンザンの足を深い水の中に引っ張りこむ。石炭の巨大な自重が掛かった分だけ沈み込み、透き通った水流が、腹の高さまで飲み込んだ。
じゅう、と高く上がる煙の濃さが深まった。身体の奥がぐるぐると動き出す気配がある。それと同時に、冷たさが、濡れた感触が、痛みを伴いながら体力を奪ってゆく。
特性のじょうききかんが発動しているのが自分でもわかった。この力を使って一刻も早くマクワのもとへ向かいたい。だがしかし、その際にこの水を落としてしまっては本末転倒だ。
これはマクワのいのちそのものだ。何としてでも運ばなければならない。セキタンザンは深みに取られた大きな足を、慣れない水中で引っ張り上げる。今度は自分の体重を支えられそうな足場を探り、少しずつその歩みを進めていく。
ばしゃばしゃと水を搔き分けて、セキタンザンはようやく水場から体を引き上げた。外は暖かく、心地よい。まだ身体中を覆い、石炭と石炭の間をぼたぼた流れる水滴を飛ばすために、一瞬自分の炎の火力を上げた。マクワの白色が、火炎を映してオレンジに輝くのが見えた。
セキタンザンはもくもくと濃い白い湯気をあげながら、いそぎながら、しかしゆっくりゆっくりとマクワの元へと戻って来た。
そして腰を下ろすとマクワの少しだけ開かれた口元に手のひらを傾ける。形のない水は石炭の大きな手の先を伝って、ひとの赤い口腔の中に吸い込まれていった。それと同時に、少しずつ手のひらが訴える痛苦も消えていき、セキタンザンは静かに息を吐いた。
大きな器からもたらされたたっぷりの冷たい水は、喉を通ってマクワの身体を冷ましてゆく。
「……は、げほッ……ぐ……う……」
「シュポォ」
「……はぁ……うう……セキタンザン……ほんとに……きみは……」
その大きな足に白い頭を擦り付けた。キルクスの入り江とは違う、真水に住むポケモンのような香りがした。ぺしゃりと音がして、冷たいタオルが首に掛けられた。背筋を進む寒気が、今はひどく心地よかった。
「おねがい無茶……しないで。きみのいのちが……寿命が、けずれたら……ぼく……」
セキタンザンはその相棒の震える赤い背をそっと撫でた。そう思ってくれているのなら、きっとこれからもマクワのために無理をすることが出来るだろうと確信を込めた。
全ておたがいさまだった。常に炎を燃やす石炭のバディは、寒冷地で生まれ育った相棒を知っている。同じ気持ちがいま同じところにある。
ひとびとの足音が岩窟に反響する音を聞きながら、セキタンザンは自分の白い煙が登る所を誇らしく見上げていた。