沈む夕日

まだ本当に幼かった頃、マクワは遠い地方からやってきたトレーナー・カブにこんな話を聞いたことがあった。
夕方は、逢魔が時と言って何か災禍を齎す危ない時間だと。だからあまり遅くまで家に帰らず、家族を心配させてはいけないよ、と。
立派に独立した今、それは冷たさと温かさの境界線を描く時間に移り変わっていた。

最近、マクワの気に入っているトレーニング場所がある。
広大な私有地でありながら、野生のポケモン達が活き活きと暮らしている温帯の島だった。ヨロイ島と呼ばれるそこは、どこもかしこも手入されているガラルの中でもほとんど人の住まない、ポケモンの楽園だ。
故に他の土地では見られないポケモンがたくさんいて、しかも熾烈な環境で育つためか、とても強い。絶好のトレーニング場所だ。
湿度と温度が高く、もともと寒冷地で生まれ育ったマクワはこの島にいると、ただそれだけでも忍耐の鍛錬になった。さらにセキタンザンの炎の温度が加われば、より負荷の高いものになるのは当然の事だった。
自然も多く、手入れのされていない広い洞窟なんかもあり、セキタンザンは通る度に心地よさそうにしていた。
相棒には秘密だが、敢えてその石窟を訓練場所に選ぶ回数を増やしている。セキタンザンの嬉しそうな顔を見ていると、マクワも同じように気持ちが明るくなった。
しかしこの日は互いの足腰を鍛えるために、長い階段の上り下りを繰り返すトレーニングを選んでいた。段数は数えていないが、一往復で一山を上り下りしてしまう程、急なもの。
これを行うと必ず筋肉痛になってしまうものの、効果は覿面だとわかっている。そもそもセキタンザンは余り機動の力に長けてはいない。試合で思い通りの動きを見せるためにも、苦手な部分をしっかり補うことは大切だった。
固めた砂と木で出来た階段を全て登ると、背の高い黒い塔があった。その先に、水平線の向こうへと隠れていく真っ赤な太陽の顔が見えている。
後ろの空ではいくつか星が瞬き始め、現在がちょうど昼と夜の境目に立っていることは明瞭だった。
湿り気特有の重たい水の匂いが漂っている。空気中の水分が、まるでくっついて溜まるように、額から汗となって流れていくのが分かる。巨躯の青年は荷物からハンカチを取り出して拭った後、次は水筒を見つけて蓋を開け、中身を口に含んだ。
冷たいおいしいみずが喉を通り、全身の筋肉が上げ続ける熱の冷めていく感覚があった。清涼な風が抜けるようで心地いい。
一生懸命酸素を取り込もうとして息を切らす肺のために、大きく息を吸った。

「……はぁ……はぁ、……到着です……ごくろうさまでした」
「シュポォー!」

マクワより遅れて、ちょうど今昇りきったバディが、目標地点への到着に喜びの声をあげた。その息は自分と同じぐらい荒く、普段よりもさらに高い熱気を帯びている。セキタンザンへと水筒を差し出せば、あっという間に軽くなって戻って来た。
少しだけ周囲の温度も下がったように感じた。

「どこかの地方では、これくらいの頃を逢魔が時というそうです。昼が夜に変わっていくこの時間は『悪いもの』が闊歩する時間なのだとか」

塔の向こうを見遣れば、半分ほどまだ顔を覗かせる巨大な太陽が、海の表面をごうごうと真っ赤に燃やしていた。めらめらと燃える光を受けて、マクワの眼が重たい紫苑の色に染まっている。

「ひんやりとした夜が……もうすぐやってきますね」
「シュボオ」

セキタンザンの頭の中に、夜になると母の事を思い出す、とマクワがパシオのトレーナーの前で話していた記憶がよみがえった。

「夕日が沈みますので、今日の訓練はここまで。これからはぼくたちの……いえきみの時間です」

マクワは水筒を鞄に戻しながら、塔の横にあるなだらかな下り坂を指さした。

「この道を下っていくと、ぼくたちが今まで行ったことのない、とても広い洞窟に繋がっているそうです。せっかくなので覗いてから帰りませんか」
「ボオ?」

自分の相方は少しでも危険の伴うリスクの多い行動は選びたがらない事を、良く知っていた。人間にとって視野が狭くなる夜の洞窟に行けるなんて思わなかったのだ。
セキタンザンは尋ねるような鳴き方をした。

「きみの炎のお陰で薄暗い洞窟も……ほとんど照明のない島の中でも迷わず行くことが出来ます。『逢魔』さえ退けるでしょう。……今からきみが太陽になるのです」

今まで孤島を照らしていた紅い日光は、頭のように見えていた尾びれの先っぽまで、水平線の中にもうすっぽりと隠されてしまった。町では見えない程、たくさんの星々が煌めき始めていた。
その地平に登った紅い光。地上を照らして路を作る、逞しくて美しい輝き。

「きみはいつだって……その……ぼくの太陽……です。きみのその光をさらに輝かせて……たくさんのひとに届けてみせますから」
「シュ ポォー!」

セキタンザンは一鳴きすると、水平線に背を向けて下り坂へと足を進めた。
沈む夕日のその先。留まり始めた暗がりは避けていき、2人の進む未来が紡がれている。