セキタンザンはチャンピオンだった。
スタジアムに立てばたくさんの人が歓声を上げる。名前を呼んで応援する。勝つのは当たり前だけれど、倍率の高い席を高いお金を出して何とかもぎ取ったのだ、やっぱりカッコよく決めてもらいたい。
そんな有象無象の観客の期待を背負っていることを、セキタンザンはきちんと知っていた。
子どもたちは一番最初のポケモンにタンドンを選ぶ子が多いのだと、リーグスタッフたちは誇らしげに言っていたし、青いサングラスはしょっちゅう売り切れてしまうらしい。
おまけにあのバディが繰り出す宙返りを真似しようとして怪我する子の多さは一時期社会現象になり、子供でも真似しやすく、見栄えの良いアクロバット投法を新しく編み出し、瞬く間に広まった。
チャンピオンというものは、マクワと共にずっと目指していたものだけれど、これほどまでに世界に影響を与えてしまうのだということを知らなかった。
計り知れないその大きさは、今でも自分事のようには思えない。きっかいな気持ちだった。
控室にまで掲げられている立派にポーズを決めたマクワと自分を映した姿見の横断幕をぼんやりと見上げてセキタンザンは思い返していた。
そう、自分はチャンピオンだ。チャンピオンと、チャンピオンのポケモンなのだ。それはわかる。
だけれど不思議なことに、自分がいつからこうしてチャンピオンとして名を馳せていたのか、その道程がハッキリと思い出せない。リーグのトップに立ったというからには、必ず前リーグチャンピオンを打ち倒した経験があるはず。
それなのにセキタンザンの頭の中には、人の顔さえ思い出せないまま、まるで霞掛かったような記憶だけが漠然と転がっていて、通り過ぎる事も、踏み越える事も出来ず、もやもやとした感覚が残っていた。
マクワも同じだろうか。一度聞きに行った事がある。しかしその時は上手く取り繕われてしまった。今度こそ聞き出そう、そう決めたその瞬間だった。
がたがたと、大きな物音がして、奥の扉が開いた。控室の向こうは物置に続いていたはずで、今は誰もいないと思っていた。今はイベントの真っただ中で、全ての人がスタジアムの中へ出払っているはずだ。
扉を開けて部屋に入って来たのは、マクワだった。しかしセキタンザンにはすぐに分かったが、明らかにいつも見知っているバディとは様子が違っている。
今にも閉じそうな丸い目、閉じて重たい口許、ふらつく足、あれほど普段身だしなみに気を使っていた髪は一切セットされていないし、衣服もボロボロだ。
ふらふらと彷徨う視線がセキタンザンを捉えた瞬間、まるでセキタンザンを生まれて初めて見つけたかのように灰簾石の眼に青い輝きが灯った。
セキタンザンが急いで近寄ると、倒れかけのマクワは太い腕にしがみ付いた。ばらりと、砂が落ちた。
「……せき……タンザ……ン……よかった……。きみは……ここでは、ちゃんぴおん、ですね……?」
「シュポォ」
今輝いたばかりの瞳が、すぐさま虚ろに堕ちていく。それでも後ろのタペストリーのセキタンザンを見つけたのだろう。今見せた近しい色の輝きが少しだけマクワの時間を取り戻した。
かすれた唇は時折噎せ返りながら、たどたどしく言葉を作っていた。
「ぼく……。ぼく、は……こんなこと……しんじて、もらえない、とおもいますが……。きみを、ちゃんぴおんに、するために……ほかの、せかい……で、……がんばった……ぼく、です……。いろんな、せかいで…………いろいろ……しました。……中には、許されないことも……、ありました……。……でも……きみが、ちゃんと……チャン……ぴおン……になって……いたから……」
「シュ ポォー!」
「どうか、ここでのぼくと……なんど、でも……優勝してあげて……ください」
マクワの手から力が抜ける。ずるりとセキタンザンからも滑り落ちた身体は、ボロボロと崩れてすべて透明な石屑になり、冷たいリノリウムの床の上に転がってしまった。あれだけ大きかったマクワの体積には満たない、僅かばかりのケイ砂の塊。
しかしセキタンザンはその礫(中には砂粒ほどになってしまったものもある)を両手いっぱいに搔き集めた。床と床の隙間に入ってしまうほんの僅かな粉さえも、残したくなかったが、セキタンザンの大きな指で掬い取ることは難しかった。削れてしまった石炭の黒い粉が混じった。
控室の外、廊下に繋がる扉からとんとん、とノックの音が聞こえた。
「セキタンザン? ……今誰か居ましたか」
「ボオ……!」
チャンピオンのマクワが、控室に入って来た。蹲るセキタンザンの背中をバディの青いサングラスが見下ろしていた。
「セキタンザン、時間です。行きますよ。……セキタンザン?」
セキタンザンは白く濁った透明な砂石を、ただただ搔き集め続けていた。