あの日見た母の姿を誰に語ることは出来ないが、とても眩しかった。
さむいさむい雪山の中。ざくり、ざくりと白い雪を踏み歩き、母さんの丸い足跡の上を辿っていく。真っ直ぐ聳える白樺の樹木と樹木の間を抜けて、いつの間にか草木も生えない山の天辺にたどり着く。凍てついた空気は鼻も耳も、頬っぺたでさえ全部持っていきたがるのだ。
まるで星の海を歩くように、山裾を渡る。大きなキルクスの町でさえ、今は星屑の一員だった。
『あんたくらいの年では、こんな景色誰も知らないだろうね』
人の手の届かない銀と氷の道は最低限の光を受け止めて、静かに輝いていた。
既に夜はとっぷりと更けている。ぼくが一生懸命眠気と戦っていた頃、下り道の先に谷間を見つけた。巨大な岩と氷の間に、母さんはテントを張り、ビバークの準備を進めた。
ぼくも暗がりにランタンをつけて、シュラフを用意する。それからコッヘルにざっと雪を掬って火にかける。
岩の上に置いた炎が雪を溶かし、喉を潤す水を作り、そしてお湯になっていくのを見た。
母さんの分もレトルトの食事の袋をコッヘルのお湯に入れて、温めた。
これは他の人には絶対にできないジムチャレンジの特訓だと母はいう。ぼくも理解している。
ワイルドエリアでのキャンプよりさらに難しいことを、今ぼくと母さんは2人で進めている。
母さんとぼくが行うことの貴重な時間は、大抵すごい訓練や勉強に費やされていて、そこに季節もイベントも、関係なんてなかった。
『ほら、見てごらん』
母さんが山の向こうを指差した。今まで寒さに凍えていたと思ったのに、なぜだか急にどっと暑くなって、ぼくは立ち上がる。まるで陽炎のように、視界にもやが掛かって母さんの姿がうまく見えなくなる。じわじわと身体から汗が出てくる。喉が渇いて、口から唾液がなくなっていく。
真っ赤に燃える炎。黒い岩の隙間から漏れ出るチカチカとした光。
ああ、そうか、そうだ、あれがーー
「初日の出……」
「シュポォ?」
ぼくは相棒がそっと掛けてくれたブランケットの感触で目を覚ました。もぎられそうな頬の冷たさは姿を変えて、ポカポカと温かい炎の揺らぎがぼくを照らしていた。
喉の渇きや汗ばんでいたのも、夢の中でぼくが暖かさを何倍にも誇張してしまっただけのようだ。
うたた寝をしていたのがとても短い時間だというのは、山小屋の中に掛けられた埃の被った時計の針が教えてくれていて、ぼくは自分の状況をようやく把握した。ちょうど年が明けた所だ。
ぼくは今登山の最中で、道中にある山小屋を借りて一時的に仮眠をしていた。最もこの所ウィンターホリデーに合わせたファンイベント続きだったため、ベッドで最後に寝た日を思い出すことができない。
心配そうに揺れる黒曜石の丸い目が、居心地が悪くなってつい呟く。
「な、なんでもありません。それより……良い時間ですね」
自分が寝ぼけてしまっていたことはとても恥ずかしいが、セキタンザン相手で、なんとか胸の支えが解けていく。
改めて自分の前で輝く火の熱さをじっと見つめる。今しがた夢の中で急に発生した温度差が、胸の奥に見つけた氷のかけらが、温められて溶けていくような心地だ。
ぼくが見たガラルで1番最初の初日の出の明かりはいつだって熱く燃え続ける。熱は指の先まで迸っていき、このまま噛み締め飲み込んでしまいたかった。
ぼくのこの旅は、ここで終わってしまっても良い。それほどの高揚感。でもわかっている。
どうしても今日、彼と共にこの山を登って、一緒に見たい景色がある。
「シュポォ」
「きみに……見せたいものがあります」
◆
橙色のほのおのたまが、山岸からいっぱいの淡いかえんほうしゃを放ちながらのびのびと燃えている。
ぼくは思わずサングラス越しの目を細め、それから外した。キルクスの裏の山に今年初めて登る太陽を、直接この瞳でも拝みたかった。
雪もこおりも、きらきらとその腕で色づいている。青影はそっと伸びて、頬を冷たく刺した。湿った雪と土の混ざった香りが鼻腔の奥を擽り、朝霧が風に乗って流れていく。
力強い橙色のほのおが木々の隙間から高らかにもえる。地は日光の灯りを受け、どこまでも燃え盛る。
「ゴオオ」
「見事ですね」
隣で見ていたセキタンザンの火の粉がパチンと弾けた。辺りは雪だらけ、草木も生えぬ高い場所だが、彼のおかげでシュラフから出て太陽をじっと観察し続けることができた。
荷物は背の高い石灰岩と氷の間に、別途のテントを作成して荷物置き場を作ってそこに保管した。
『こういう石は支柱を作るときに使いやすいよ』
テントを組み立てようとした時、大昔の母の言葉がリフレインした。そしてあの時ついた傷と寸分変わらない跡が残っていた。ぼくは同じ岩を使い、テントを組み立て、セキタンザンといる。
セキタンザンと、今年初めて登った太陽の光を見る。
「シュ ポォー!」
振り返れば、セキタンザンが太陽を背にしていた。ぼくはセキタンザンの背中の山に降りる陽光の眩しさに瞬きをする。
『ああ初日の出だ。明けましておめでとう、マクワ!』
煙水晶の中で薄墨に浸っていた木々が、濃い輪郭を取り戻し、昏い夜山に沈んでいた木々を一つずつ知らせるように、空が色を得た。
柔い灯りは黒の山波の中を裂くように、あるいは照らし出すように、あわいを生み出してゆく。
「あけましておめでとうございます」
「シュポォ!」
「……きみにこの景色を……いや、違いますね、見たかったのは……本当はぼくの方で……」
ぼくは大きく深呼吸をした。薄く冷たい酸素が胸いっぱいに張り付いていく。その分だけ、ぼくは冷静を取り戻す。
母さんとぼくが行うことの貴重な時間は、大抵すごい訓練や勉強に費やされていて、そこに季節もイベントも、関係なんてなかった。
そのはずだった。でもあの時の母は、今ここにいるセキタンザンと同じように陽光の色に染まっていた。
「……今年もよろしくお願いします。もちろん来年も……再来年も」
「ポォー!」
「今年は表彰台からこれくらいの高さで見下ろします。良いですね」
「シュ ポォー!」
さんざめく金色の明かりが、青い空を連れてガラルに登っていく。ぼくはその輝きに声を上げるセキタンザンをいつまでも見つめていた。